第2話 筑前勤王党 加藤司書 天国への階段
加藤家の初代の加藤又左衛門重徳は有岡城城主荒木村重の家臣でした。主君の村重が織田信長を裏切り、黒田官兵衛が今のJR伊丹駅付近の有岡城に村重を説得に行きましたが、土牢に幽閉されました。
官兵衛が幽囚されてる間に何くれと世話をしたのが初代の加藤重徳です。有岡城落城の折には官兵衛をその家臣と共に協力して救出しました。この初代の加藤重徳の11代目が加藤司書(加藤又左衛門徳成)になります。また加藤重徳の次男は、官兵衛の養子となった黒田一成の家系が1万6千石の三奈木黒田家となります。
幕末に福岡藩は藩主の黒田長博は開明的な知識を持っていながら佐幕寄りの思想から抜け出せず、勤皇派の家臣を弾圧しましたが、長州征伐が始まり一時的に、黒田長博の内戦を避けたい思いと、勤王党の長州の同士を助けたい思いが一致して征長軍解兵に向けて
福岡藩あげて走り出しました。
加藤司書はこの内戦阻止に重要な役割を果たしました。長州三家老の切腹や五卿の太宰府動座で幕を下ろしたかに見えた第一次長州征伐は高杉晋作を初めとして長州正義派が藩論をひっくり返しました。
幕府から福岡藩は長州同気を疑われて、五卿の江戸送付や勤皇派の処分を迫られます。また勤王党による牧市内、喜多岡勇平の暗殺は藩を震撼させます。加藤司書は犬鳴別館の建造の件で密告されてついには自宅謹慎から切腹に至ります。時系列で言えば、
①加藤邸で自宅謹慎②隅田邸で幽閉③天福寺で処刑④節信院に埋葬される。
加藤司書邸は福岡城の上之橋の道向の西側にあり、古地図を見ると加藤邸の道を挟んで東側に修猷館がありました。今そこに行くと、福岡マラソンでよく見る九州製氷のゲートの西側に工事中のビルが建っています。
①慶応元年(1865年)7月21日
加藤司書に自宅にて謹慎の命あり。司書助命、奪還に対する警備有り。
掘の東側は現在は埋め立てられて商業地になっています。今ではわかりにくいのですが大正通りの手前までが堀でした。また堀に隣接してある隅田邸の南側は紺屋町堀に続いていました。隅田邸の南側には堀のカーブがあり、現在はそのカーブに合わせて道路があります。隅田邸がかってあった場所は現在は明治通りに面した地下鉄赤坂へ降りる階段のあるビルになっています。
②慶応元年(1865年)10月23日
中老隅田(すだ)清左衛門邸に移るよう(お預け)命あり。罪人を護送する四人舁きの網乗物(駕籠)にて移送され。隅田家の座敷牢にて25日夜まで過ごす。図らずも獄中にある加藤司書を慮り隅田家では厚遇されました。 当時中老以上の屋敷には座敷牢がすぐ組み立てられるように部屋、部材が用意されていました。
当時存在した天福寺は聖福寺の門外塔頭寺院で昭和58年に油山に移転しました。さて地図を使わず説明するのは困難ですがお付き合いください。
大博通の櫛田神社表参道の入り口付近に加藤司書の石碑があります。櫛田神社楼門より表参道を歩き、鳥居を抜けてすぐ左側のビルの敷地内にあります。博多のガイドの方ですらよく知りません。
③慶応元年(1865年)10月25日夜
地下鉄赤坂駅の入り口がある場所にかっては隅田邸があり、加藤司書が座敷牢に3日間幽閉されました。最後の日の夕食には特別の酒肴が用意されていて、司書はこれで切腹を賜る事を察知しました。隅田邸に大目付河村五太夫が来て、司書へ天福寺での切腹を申付ける。大名町→万町→薬院門→薬院堀端→竜華院土手(零時頃)→春吉松茸屋橋→水車橋→瓦町→左へ折れ天福寺(翌午前1時過ぎ)
節信院はこの古地図では、聖福寺子院の一つとして文字のみで表しています。
聖福寺の裏手にある比較的小さな寺院です。なかなか入りづらい雰囲気ですが御朱印も書いてくれます。加藤家の墓は裏手にあり自由にお詣りできるようになっています。わからない場合はお寺の方に聞きましょう。
加藤重徳から数えて11代加藤司書の墓、敷地内には福岡の変で亡くなった長男の堅武(かたむ)や13代の大四郎さん(司書の次男)の墓もあります。この大四郎さんの子孫が節信院の住職を継いでいます。また加藤家12代大三郎さんの墓もありますが、こちらは加藤司書の次女の婿さんです。なお墓は改葬されたようでこれは調査中です。
④慶応元年(1865年)10月26日
埋葬先の聖福寺の塔頭節信院に到着。天福寺から節信院までのルートはわかりませんが、勅使門もある聖福寺の御供所通りは避けて裏側から回ったのではないでしょうか。
加藤司書は征長解兵の際に今様を歌いました。
「皇御国の武士はいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心を君と親とに盡くすまで」
余談ですが大正三年に書かれた、「九州勤王の花 加藤司書」より、当時佐幕派が市中に貼り出した書を紹介します。
「四書五経を読みて国に易経なし」
大意は「加藤司書が太宰府に五卿を呼び入れて筑前藩に利益は無い」
加藤司書の五卿太宰府転座の偉業を佐幕派はこのように考えていました。佐幕派と勤皇派はこれほどの思想の乖離がありました。
※ 林元武(はやしもとむ)備忘録より
加藤司書を始め重臣が切腹の前に士遇を受け二汁五菜の食事を供されたのを、桝小屋で幽囚されている林元武らが警備の足軽から聞きました。
ある日身辺を整える令があり、いつになく良い食事が出されたので死出の準備をせよと捉えて食事も喉を通らないのを皆で励まして食べました。刑が執行されると思いましたが、桝小屋の獄から出されて福岡城の追廻し門より桐の木坂から城内に入り南丸の新築獄舎(多聞櫓の事か?)に移されました。
これは野村望東尼が姫島より奪還されて、林元武等の流島の予定を変更して城内で禁固するようになりました。場所は不明ですが南丸や水の手、いくつかの櫓等に分けて幽囚されました。
南丸の多聞櫓は何度か改修はされていますが、今も同じ位置にあります。1853~1854年に大幅に改築されていますので新築獄舎として使われたのかもしれません。16の部屋に分かれていたのもその為かもしれません。信じるか信じないかはあなたしだいです。
林元武は流罪の予定が、桝小屋の獄から2度獄舎を変えられています。その場所を後の章で考察したいと思います。
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