第17話 前編「空っぽの女」

【ボタン視点】


 ――まだ立つのか。


 ボタンは、己の視界の中で何度目かになる光景に、知らず眉を寄せた。


 マヤがまた拳を握る。

 唇が切れ、額に汗が滲んでいる。腕は震え、目の下には濃い痣ができている。

 ――それでも、立つ。


 「……どうして?」


 思わず、声が漏れた。

 誰に問うでもない、自分自身への問いだった。


 この女はなぜ、そんなに真っ直ぐなのか。

 どれほど痛めつけられても、どれほど血を流しても――拳を、信念を、捨てようとしない。


 「……お前みたいな女、わたしは知っている。金もなく、頼れる家族もなく、暴力しか身につけられなかった哀れな雑草……」


 でも違った。


 マヤの拳は、どこまでも澄んでいた。


 憎しみも、諦めも、打算すらない。

 そこにあったのは、“守るための意思”だけだった。


 ――まるで、昔の私みたい。


 いや、そう思おうとしたのは、ただの錯覚だった。


 昔の自分は、こんなふうに誰かを守るために拳を振ったことなど、一度もない。


 「……私は、男からのプレゼントを受け取っていただけの、“普通の女”なのよ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 欲しいものは、言えば与えられた。

 金も、地位も、美容も、栄養も……クロウは全部持ってきた。

 つまらない夫だったけれど、プレゼントのセンスは良かった。

 おねだりすれば、彼は笑って差し出した。


 ――代わりに、求められたのは“強さ”。


 それが、唯一ボタンの空っぽな心を埋める“役割”だった。

 殴って、蹴って、勝ち続けていれば、それで愛されるのだと思っていた。


 クロウは、自分にとって――


 忠実な子犬だった。


 可愛い、賢い、そして都合のいい。

 ボタンのためなら誰かを地獄に落とすことすら、悦んでやってのける。


 けれど。


 「なぜ……あなたは腐らなかったの?」


 マヤの拳には、地下リングに囚われながらも折れずに戦った多くの女たちの魂が、宿っていた。



 「……まぶしいわね」


 それは、昔の自分が手放してしまった輝きだった。


 * * *


 ふと、記憶が甦る。

 少女の頃。

 

 金はない。家族は離散した。唯一残された”強さ”を食い扶持に変える手段すら失った。


 けれど、目の前のマヤは――


 あの境遇から立ち上がり、誰にも媚びず、誰にも従わず、自分の信じたものだけを守っている。


 自分にはできなかったことを、やってのけていた。


 * * *


 「ミク……」


 夫と向き合い、心から愛し合うその姿は……

 どれほど美しいプレゼントを貰っても、ボタンが手に入れられなかった“なにか”だった。


 「ルミ……」


 地下リングでは唾棄される、法や倫理とまっすぐに向き合う姿は……

 自分が永遠に避けていた現実だった。


 「エリカ……」


 歯を食いしばりながら、すべてを背負って“赦される”ために闘うその姿は……

 自分がずっと逃げていた“責任”そのものだった。


 みんな、私が捨てたものを、拾って歩いている。


 どうして……。


 どうして、こんなにも。


 「……クロウに、謝りたい……」


 ふと、そんな言葉が胸からこぼれた。


 (つづく)

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