第16話「最強の下僕」

 血の匂いと鉄の味がまだ残るフロアの上に、俺は立っていた。


 震える膝を無理やり踏ん張り、ゆっくりと拳を構える。


 ――マヤの真似だった。

 構えも、重心のかけ方も、息の吐き方すら、彼女の動きを記憶からなぞった。


「……へえ、やる気だ」


 クロウがニヤリと笑った。


「だったら相手をしてやらなきゃね……“お前ら”、出番だよ」


 扉が開き、重い足音が三つ。

 現れたのは、ゴリラのような筋肉を持つ巨躯の格闘家たちだった。

 さっきまで“罰ゲーム”でミクたちをいたぶっていた、クロウの最強の私兵だ。


「ふふ、プロの中のプロ、精鋭中の精鋭! ボタンのために鍛え上げられた完璧な部下たちだよ。素人の小僧なんか、秒でひねられるさ」


 俺は……怖くなかった。むしろ、妙に静かだった。


戦闘が始まる。


正直、何が起きたか全部はわからない。

でも、俺の拳が一つ当たるたびに、男たちは確実にひるんでいた。


(なぜ……? こんな素人の俺に……)


彼らの呼吸は荒く、汗で身体が鈍っていた。

それもそのはず――ミク、ルミ、エリカたち数十人と連戦を重ね、すでに限界ギリギリだったのだ。


しかもその目に――迷いがあった。


(ああ、そうか……)


俺は、心の奥で理解した。


この人たちは、もう戦いたくないんだ。

戦いの中で、 “何か”を取り戻してしまったんだ。


「ッ……ガッ!」


「うぐっ……なんで、こんな……」


 一人、また一人と崩れ落ちていく男たち。


 その様子に、クロウの笑顔が徐々に凍っていく。


「お、おい……どうなってる!? 君たち、彼はただの素人だろう!?」


「……あんたのせいだよ」


 その一人が、低く呻いた。


「ここ何年か、ボタン様のスパーリングの相手ばっかやらされて……骨も折れて、歯も抜けて……こっちは、戦いがしたくて格闘家になったんだ」


「今日、あんたの命令で女子選手たち相手に戦わされて……久しぶりに“格闘”した気がした。殴られても、ぶっ倒れても……あいつらは本気だった」


「……こんなもんだよ、俺たちの“忠誠”なんて。最初から、あんたに心はねえ」


 彼らの顔には、疲労と皮肉と、そしてどこか……清々しさすら浮かんでいた。


「嘘だ、嘘だ嘘だッ!! じゃあ、じゃあ次!! 控えの奴ら! 来いッ!!」


 クロウが叫ぶと、控室のドアが開いた。


 ――だが、立ちふさがったのは、別の影だった。


 立ち上がったミクが、青タンのまま拳を構え。


 ルミが、痛む体を押さえながらも前に出て。


 そしてエリカが、軍人らしく背筋を伸ばして立った。


「集団対集団なら、これは戦争だ。戦術は“局地制圧”。要注意戦力は制圧済。残敵掃討に移行する」


 軍人口調のエリカが鋭く言い放つ。


「ルミ、右から挟撃。ミク、中央突破。私は左を制圧する」


「りょ、了解……です……!」


「わかりましたわ♡ お任せあれ、エリカ司令!」


 嵐のような殴打が走り抜け、控えの兵は瞬く間に崩れ落ちていく。


 ――そして、この場には俺とクロウ、二人だけが残った。


「ど、どうして……僕は、お前の父親だぞ? 偉大な父を、殴るつもりかい?」


 俺は静かに、拳を握った。


「……まず、母さんの職場を潰したのは、お前だな」


 パンッ!


 クロウの頬に拳が食い込む。


「貧しい母子家庭に育てば、強い女に奉仕するようになる? ふざけんな」


 バキッ!


「病院ですり替えた? 自分の息子を、“調教”のために?」


 ゴッ!


「ミクさんを、ルミさんを、エリカさんを……あんな目に遭わせたのは誰だ!?」


 ドガッ!


 クロウの体が揺れた。マヤ譲りの、鋭く、まっすぐな拳だった。


「や、やめてくれ……僕は……全部、愛のために……妻のために……っ!」


 そこへ、三人の女性たちがゆっくりと歩み寄ってきた。


「“愛”……ですって?」

 ミクが、ニッコリと笑った。


「“真実の愛”を知るラブラブな息子夫婦と比べて、お義父様の愛は――“紛い物”ですわ♡」


「強姦教唆罪って……確か、重罪ですね」

 ルミが恥ずかしそうに頬を赤らめつつも、冷ややかに言い放つ。


「司令官が兵士に見捨てられたら、背後から撃たれるのみ」

 エリカが軍人口調で、残酷な現実を突きつける。


「う、うぅ……ボ、ボタン……ボタン……っ!!」


 崩れ落ちたクロウが、床に手をついて叫んだ。


「助けてくれぇ……ボタン……君しかいない……!! 僕は……君のためじゃなきゃ、生きられないんだ……っ!!」


 その声は、王のものでも、支配者のものでもなかった。


 ただの――哀れな男の懇願だった。


(つづく)

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