第14話「腑抜けた女」

リング中央に立つマヤの心臓は、不気味な静寂の中でじりじりと鼓動を早めていた。

この継承トーナメント最大の謎――決勝戦の“シークレットシード”――その正体が、誰なのかすら告げられていない。

不意に、スポットライトが反対側の選手入場口を照らした。


そして――現れたのは。


「……え……エリカ……?」


軍服に似たトレーニングウェア。無表情な仮面を貼り付けたまま、ただ静かに歩いてくるその姿。

マヤは一瞬、自分の目を疑った。帰国したはずのエリカが、なぜ。


「どういう、つもりなの。どうして……帰ったはずじゃ……!」


問い詰めるマヤに、エリカはまるで事務的に答えた。


「命令だからだ。全員……強制参加だと、言われたろう。」


「……は?」


エリカの声には、かつてのような鋼鉄の意志も、咆哮もなかった。中身のない器がただ喋っている――そんな印象だった。


開始のゴングが鳴る。

マヤは拳を構えたが、エリカはノーガードのまま立っている。いつもの調子とは違う。まるで、打たれるためだけにここへ来たかのように。


「アンタらしくないよ。あの時、あんなに……!」


マヤの拳が頬を打ちぬいても、エリカは一切反応を見せなかった。

唇を切って、歯を鳴らして、ただ、立ち続ける。


「答えてよ! 何があったの! エリカ!」


――沈黙の中で、ようやくエリカの唇が、わずかに動いた。


◇ ◇ ◇


あの日、空港へ向かう車を降りたその足で、彼女は“それ”と対峙した。

黒衣の女。その足元に、引きずられるようにして倒れていたのは――顔を腫らしたエレンだった。


『地下リングに戻りなさい、エリカ』


刹那で、エリカの瞳が戦闘色に染まる。しかし、女は一歩も退かなかった。むしろ、冷たく通告した。


『アングラ卿の“人道支援”が、貴女の祖国に行われています。貴女が帰国を強行するなら、それを止めます。』


人道支援。それは、飢えた国にとっての最後の命綱だった。


「……卑怯者が……」


エリカの奥歯が砕けそうなほど噛み締められる。エレンの苦しそうな目が、泣いていた。


『……わかった。戻れば、いいんだろう……』


エリカはそうして、地獄へ戻った。


◇ ◇ ◇


「……アタシは……祖国のために、自分の汚れた身体が役に立つなら、それでいい」


「……!」


「この地下リングは、お前に託す。マヤ……お前なら、やれる」


「違うよ……それ、エリカの言い方じゃない……!」


怒りが、全身に満ちる。

この女は確かにエリカだ。だけど、同時に“あのエリカ”じゃない。


「部下を傷つけられても、祖国を侮辱されても怒れないような、腑抜けた女になったの?」


一拍、間が空いた。


次の瞬間、マヤの拳がエリカの鳩尾へ突き刺さる。


「……ッ!」


崩れ落ちるように、エリカが膝をついた。

かつてなら、その程度のボディなど痛みもしなかったはずの彼女が――沈黙のまま、倒れる。


カウントアウト。


勝者、マヤ。


リングが、静まり返る。


マヤは膝をついたままのエリカを見下ろして、震える声で言った。


「私、手加減できなかったよ。弱い者イジメはニガテだから。」


言い終えると、そっと目を伏せて立ち去った。振り返らない。その背に、影のようにエリカが遠ざかっていった。


◇ ◇ ◇


決勝の勝者、マヤ。

継承トーナメント女王として、ベルトが巻かれる。


だが、それは――マヤの知るそれとは似ても似つかぬ代物だった。


黒革にピンク色の飾りが施され、中央には“征服”の二文字。

勝者の誇りではなく、見世物の道具。女の欲望と男の恥辱の象徴。


マヤのこめかみが震える。拳が、また握られる。


《このリングごと、ぶっ壊す……!》


彼女の瞳に、今や恐れも迷いもなかった。


(つづく)

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