第6話「その笑顔の下に」

今日は“お客さん”の立場。

……そのはずなのに、肩の力が抜ける瞬間が一度も来ない。


私はリングサイドの一角に座って、黙ってエリカを見ていた。


前の控室では、エリカとミクがなにやら楽しげに談笑していた。


「お前キャラ付けじゃなくて、本当に人妻なんだな。で、どうやって旦那見つけたんだ?」


エリカがいつもの軍人口調で聞いたとき、ミクの表情がぱっと華やいだ。


「お見合いですのよ!彼、年下でしてよ?お坊ちゃんでして、お育ちも良くて、でもお実家での扱いがあまりにも悪うございましたから、わたくし、どうしても放っておけなくて……わたくし、尽くすタイプですの!」


そこからがすごかった。

ミクの口からは夫の実家の格式やら、婚前交渉の是非やら、初夜の感想未遂やらが雪崩のように飛び出し、エリカの顔からは段々と“恫喝中隊長”の威圧感が削げていった。


「……なんかすげーな、アンタ」


さすがのエリカも、ちょっと引いてた。珍しく、口調が揺れてたのを私は見逃さなかった。


けど――笑ってもいられない。


私はルミから告げられた一言が、耳から離れなかった。


> 「エリカさんは、今はギリギリで踏みとどまってます。でも……性の境界があいまいな人です。運悪く誰かを傷つける前に、止めなきゃいけない」


そして今日のマッチアップだ。

エリカの相手は、やたらマッチョな学生風の男。明らかに身体能力では差があった。けど、エリカはまるで倒されることが計算のうちであるかのように、ノーガードで殴られ続けた。


血が出るほどの顔面パンチを喰らっても笑っている彼女を見て、私はなんともいえない嫌な寒気を覚えた。


それでも、最終ラウンドで逆転し――エリカはいつものように、リングに仰向けに寝転んで言った。


「さぁ、報酬の時間だ。来い、兵士。上から貫け、指示を待つな」


観客席の一部が沸いた。だが、私は見てるだけじゃない。


私は走った。ルミの指導で身につけた“邪魔の技術”をフルに使う番だ。


私はリングに駆け込み、マイクを奪った。


「――ストーップ!その兵士、既婚女性にお仕置きされる可能性あり!」


ミクを見た。彼女は何のことか分かってない顔をしていたけど、「男性が指示を待たずに勝手な行動をすることの危うさ」について演説を始めさせた。しかも“夜のふるまい”を含めた例を山ほど。


エリカは完全にペースを乱され、リングの上で赤面して立ち上がった。


試合は中断。“敗者”の男子は保護され、何とか事なきを得た。


楽屋裏に戻る途中――またエリカは、一瞬だけ怯えた顔をした。私は、それを見逃さなかった。


(ルミの言葉……思い出す)


> 「彼女は元・軍の士官です。しかも、かなり優秀だった。でも、男性ゲリラへの性的加害で除隊処分になった疑いがあります」


> 「もし本当に彼女が暴走すれば、私――警察庁最強とされるこの身でも、抑えきれるかはわかりません」


本当にそんなことが――あるのか?

今の彼女が“モンスター”には見えない。むしろ、どこか哀れにさえ見える。

だが、その素顔が何であれ、私は……このまま放っておけない。


そんなことを考えているうちに、照明が落ち、今夜の“メインイベント”が終わった。


---


視点はルミへ。


リング裏、シャワールームから戻ったルミは、髪をタオルで拭きながら歩いていた。


背後に気配――そして、しなやかな布の音。


現れたのは、黒いドレスに黒い手袋、黒いフードをつけた“支配人”。


「ご活躍、拝見しました。あの方もご満悦です。つきましては――あなたを謁見にお招きしたいと」


ルミの背筋が、冷たく硬直した。

それでも、女王様キャラの面は崩さない。


「……光栄ね。けれど、相手が仮面舞踏会の主催者となると、靴くらいは磨いてから伺いたいわ」


黒衣の女は、くすりと笑った。


「では、お待ちしております。仮面の下の貴女を――あの方も、きっと楽しみにしていますよ」


照明の残光の中、黒衣の女は音もなく消えていった。


ルミはその場でしばらく立ち尽くし、そして――低く息を吐いた。


「……始まる、わね。ここからが本当の地獄」


(つづく)

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