第5話「一線の向こう側」

 控室の椅子に座った瞬間、脚から腰にかけて鈍い疲労感がじんわり湧いてくる。


 やばい、これは明日、立てないやつ……。


「なにやってんだろ、私……」


 自分でもわかってる。今のは、明らかにキャラじゃなかった。


 ソウタの頬に口付けたときの、自分の声とか、顔とか、立ち居振る舞いとか。


 ぜんぶ“イイ女”ぶってた。


 照れと後悔と自己嫌悪で、顔が勝手に赤くなってゆく。耳の先まで熱い。


「やだ、ほんと……やだ……」


 壁に額を押しつけて悶えていたら、場内アナウンスが不意に鳴った。


『次のシークレットマッチ、エントリーはルミ選手!』


「え、誰?」


 控室がざわつく。


 リングサイドに向かうと、場の空気が一変していた。豪奢なマントを纏い、髪を高く結い上げた女性がリング中央に仁王立ちしている。


「さぁ、今宵の“豚”は誰かしらぁ?」


 その佇まいはまるで“女王様”。


「……うわ、やべぇの来た」


 マヤが小声でつぶやく隣で、ミクがぷんすかしていた。


「不純ですわ! いくら地下とはいえ、節度というものが──」


 でも、よく見るとルミは奇妙な選手だった。


 観客を煽るようなセリフ、男をマットに押し倒すムーブ。

 でも……どこかで“寸止め”しているのが、わかる。


 誘ってるようで誘ってない。乱れてるようで寸前で引いてる。


(……あれ、やってることは私と変わんなくない?)


 メインイベント後、マヤとミクは控室で談笑していた。


「でもあの人、なんだか妙に演技が上手すぎませんこと?」


「だよね。プロじゃん、あれ……」


 そこへ扉がノックもなく開かれた。


 現れたのはルミ本人。


 さっきとは打って変わって、真っ赤になって俯いたまま、小声で喋る。


「あ、あの……。さっきはすみません……本当の私は……」


 マヤとミクは顔を見合わせた。


 ルミは深呼吸をひとつしてから、まっすぐマヤを見つめる。


「私、ルミ。地下リングを摘発するために送り込まれた、警察庁の潜入捜査官です」


 ミクが「まあっ」と声を上げる。


「あなた方にお願いがあります。協力していただけませんか?」


 ルミが語ったのは、地下リングのオーナー、通称“アングラ卿”の実態と、その摘発がどれほど困難を極めているかということ。


「このリングでは、一部の女子選手が男性を性的に加害しています。……上層部は、そうした選手たちを明確に罪に問う方針を固めています」


 ルミの口調は、慎重かつ真摯だった。


「ただし。一線を越えていない選手については、“騙されていた”という扱いにするとのことです」


 マヤは思わず溜め息を漏らす。


「つまり、私らはセーフってこと……?」


 ルミはうなずいた。


「そうです。そして、なぜ男性への性的加害も、女性への事案と同様に犯罪として扱われるか──その理由は、加害者・被害者の性別とは関係なく、行為そのものの暴力性と被害者の尊厳の問題だからです」


 ルミの声には、強い信念が込められていた。


 ミクが頷きながら、補足するように言う。


「特にわたくしたち女子格闘家の身体は……刺激的すぎますもの。殿方の性癖が一生歪みますわ。ちなみに、わたくしの夫など──」


「はいストップ!」


 マヤが慌てて制止する。その横で、ルミも顔を覆って赤面していた。


 ミクはくすくす笑ってから、言葉を継ぐ。


「……いずれにしても、力は正しく使いませんとね」


 マヤは立ち上がる。


「ごめん、私は金目当てで来てる身だから、地下リングそのものを潰すのには加担できない」


 ルミが寂しそうに俯く。


「でも。一線は超えない。超えさせない。私が全部、止めてみせる」


 そう言ったときのマヤの声は、どこか誇らしげだった。


(つづく)

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