第4話「ちょっとだけ、好きにさせて」

ひんやりした床の感触が、じわりと背中を冷やす。


 俺は目を閉じたまま、ただ息を整えていた。


 あの人の拳は、優しいようでいて、芯が鋼だった。


 ……やっぱり、まだ、全然かなわないや。



 どうして俺がここにいるのか、よく考える。


 別に格闘技が好きだったわけじゃない。

 そもそも、殴り合いなんて俺の人生には無縁だった。


 小さい頃から、ずっと母と二人きりだった。

 父のことは聞いても教えてくれなかったし、俺も深く知ろうとは思わなかった。

 母は昼も夜も働き詰めで、いつも目の下にクマを作ってた。


 俺には特技もなかったし、友達もいなかった。恋人なんて、もっと縁がなかった。

 勉強だけはなんとか頑張って、地方の大学に通えるようになった。


 だけど、その頃——母の勤める中小企業が、いきなり潰れた。


 ニュースにもならないレベルの倒産だったけど、俺には世界の終わりみたいに感じた。

 母が言葉に詰まるのを初めて見た。


 それからしばらくして、“あの人たち”が現れた。


 スーツ姿の男が家まで来て、俺に言ったんだ。

「割のいいバイトがある。お金に困ってるんだろう?」


 あまりに胡散臭かった。でも、断る理由も、なかった。



 そして今、俺はまたあのリングにいる。


 真正面にはマヤさんがいた。リングライトに照らされたシルエットが、眩しいくらい綺麗だった。


「今日は俺が勝って、貴女を好きにします」


 言った瞬間、自分でも顔が熱くなった。


 あの人はきょとんとした後、ふっと笑って——すぐに構え直した。


 ああ、これが本物なんだって思った。


 前より強くなった気がした。実際、いくつかパンチは届いたし、マヤさんもちょっと驚いた顔をした。


 でも。


 マヤさんの左ジャブが一閃して、俺の視界が一瞬で白くなった。


 痛みもなく、ただゆっくりと床が近づいてきた。



 気づくと、マヤさんが俺のそばにしゃがみこんでいた。


 リングの歓声が、遠くに聞こえる。


 そして——頬に、柔らかくて温かい感触。


「……今日は、ここまでね」


 小さな声でそう言って、マヤさんは立ち上がった。


 俺はその背中を、眩しさと、ちょっとの悔しさと……たぶん、恋しさで見送った。


 また負けたけど、でも。


 次こそはきっと——“本当に好きにする”。


(つづく)

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