第4話「ちょっとだけ、好きにさせて」
ひんやりした床の感触が、じわりと背中を冷やす。
俺は目を閉じたまま、ただ息を整えていた。
あの人の拳は、優しいようでいて、芯が鋼だった。
……やっぱり、まだ、全然かなわないや。
◆
どうして俺がここにいるのか、よく考える。
別に格闘技が好きだったわけじゃない。
そもそも、殴り合いなんて俺の人生には無縁だった。
小さい頃から、ずっと母と二人きりだった。
父のことは聞いても教えてくれなかったし、俺も深く知ろうとは思わなかった。
母は昼も夜も働き詰めで、いつも目の下にクマを作ってた。
俺には特技もなかったし、友達もいなかった。恋人なんて、もっと縁がなかった。
勉強だけはなんとか頑張って、地方の大学に通えるようになった。
だけど、その頃——母の勤める中小企業が、いきなり潰れた。
ニュースにもならないレベルの倒産だったけど、俺には世界の終わりみたいに感じた。
母が言葉に詰まるのを初めて見た。
それからしばらくして、“あの人たち”が現れた。
スーツ姿の男が家まで来て、俺に言ったんだ。
「割のいいバイトがある。お金に困ってるんだろう?」
あまりに胡散臭かった。でも、断る理由も、なかった。
◆
そして今、俺はまたあのリングにいる。
真正面にはマヤさんがいた。リングライトに照らされたシルエットが、眩しいくらい綺麗だった。
「今日は俺が勝って、貴女を好きにします」
言った瞬間、自分でも顔が熱くなった。
あの人はきょとんとした後、ふっと笑って——すぐに構え直した。
ああ、これが本物なんだって思った。
前より強くなった気がした。実際、いくつかパンチは届いたし、マヤさんもちょっと驚いた顔をした。
でも。
マヤさんの左ジャブが一閃して、俺の視界が一瞬で白くなった。
痛みもなく、ただゆっくりと床が近づいてきた。
◆
気づくと、マヤさんが俺のそばにしゃがみこんでいた。
リングの歓声が、遠くに聞こえる。
そして——頬に、柔らかくて温かい感触。
「……今日は、ここまでね」
小さな声でそう言って、マヤさんは立ち上がった。
俺はその背中を、眩しさと、ちょっとの悔しさと……たぶん、恋しさで見送った。
また負けたけど、でも。
次こそはきっと——“本当に好きにする”。
(つづく)
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