第3話「お嬢様とスリルと苦労人」
試合前のストレッチ中、シャドーの動きがいつもより鈍い。
(はぁ……ダル。昨日の公式戦、思ったより消耗してたっぽいな)
控室の硬いベンチに腰掛けて、私はため息をついた。
あの試合でKO勝ちはしたけど、最終ラウンドまで粘られたし。で、翌日に地下リングのバイトとか、どんだけブラックなんだか。
──けど、文句言ってらんない。ジムの借金は、まだ全然片付いてないんだから。
「お疲れ様でーす」
聞き慣れたスタッフの声に顔を上げると、いつもの男が控室の扉を開けた。
「マヤ選手、今日もお客さんの期待が高いっすよ。前の試合、マジでバズってて」
「そう……。ありがと」
適当に返事をして、再びベンチに背を預ける。期待とかバズとか、ぶっちゃけどうでもいい。こっちは生活のために出てるだけだし。
今日の私の出番はメインらしく、その前に前座試合が一本あるらしい。
(へぇ……。誰だろ)
興味半分でモニターに映し出されたリングの様子を見る。
映ったその姿に、私は思わず目を見張った。
「……え、ミク?」
モニターの中央に立っていたのは、白と金の豪奢なガウンに身を包んだ、あの“お嬢様ボクサー”ミクだった。
(マジで? 本物?)
正真正銘、ミク本人。公式戦でも名を馳せていて、私が判定まで持ち込まれた唯一の相手。しかも年下の夫と超ラブラブな、SNSでも話題の人妻ボクサーだ。
(何であの人がこんなとこに……?)
リング中央に立ったミクが、マイクを受け取る。
「みなさま、こんばんは。わたくし、本日は初めてこちらの舞台に参戦させていただきます。どうぞよろしくお願いいたしますわ」
変わらぬ古風なお嬢様口調。観客席からはざわめきとともに拍手が巻き起こる。
「この舞台に立った理由? うふふ……それはもちろん、“強い男の人と本気で拳を交える”というスリルが味わえると聞いたからですの」
(は?)
ミクの一言に、私はモニターの前で固まった。
(それ、誰かちゃんと説明した? このリングの男の子たち、素人だよ?)
案の定、対戦相手の男子は茶髪にピアスのチャラ男系。明らかに“調子に乗った生贄”って感じ。
(あー……終わったな)
リング上、試合開始のゴングが鳴った。
結果は──惨劇だった。
試合開始から十数秒、チャラ男の突っかかるようなジャブを紙一重でかわし、ミクの左アッパーがカウンターで炸裂。男は無様にリングに転がる。
その後も立ち上がっては一方的に打ち込まれ、観客の女の子たちは大歓声。男子は完全に玩具扱いだった。
(マズい、ミクさん……本気だ)
えっちな特典にも全く興味を示さず、むしろ「ごめんなさいね、楽しくてつい♪」とか言ってた。
(このままだと……本当に壊れちゃう)
何か手を打たなきゃ。ふと、観客席に一人の褐色の影を見つけた。
エリカだった。
(──使える!)
私はすぐさまスタッフにメモを託して、エリカに渡すよう頼む。彼女が読んだ瞬間、リング裏へと向かってきた。
ミクが試合を終えて立ち去ろうとした瞬間、エリカがステージ裏に乱入。
「新兵! 貴様は遊びすぎだ! 任務完了前に余興とは何事かッ!」
「ま、まあまあエリカさん。ミクさん初参加だし、緊張をほぐすにはちょうどよかったかと……」
「黙れマヤ! 貴様も連帯責任だッ!」
完全に茶番だが、これで場は和んだ。ミクも笑いながら「なんだか愉快なところですわね」と言って、満足そうに退場していった。
(……はぁ、疲れた)
私は控室に戻り、タオルで汗を拭う。もう完全に、トラブル処理班だよ。
でも、そういうのが性分なのかもしれない。
「──マヤさん、準備できました」
スタッフの声で、私はリングに向かう。今度は自分の番だ。
薄暗い照明の中、再び踏みしめるリングマット。
そして、向こう側に立っていたのは──
「お久しぶりです、マヤさん」
ソウタだった。
痩身の体つきはそのままだけど、目つきだけは明らかに違う。迷いが消えている。
「今日は……俺が勝って、貴女を好きにします」
言葉は穏やかでも、芯がある。
(──はぁ?)
私は呆れた顔で彼を見つめたまま、無意識にグローブをきつく握った。
(つづく)
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