第1話:ボロ探偵事務所にて

この世界では、死んだものには何も残すことはできない。

だから、死にたくないものは、隠れるか、狂うしかないのだよ。


Scene 1:バカたちの日常

東京の外れ。雑居ビルの三階。

階段を上がる途中で、タバコと埃の混じった匂いが鼻を刺す。


カンカンカンと電車の音。

ミンミンミンミンと蝉の声。

下の子供の笑い声が、蒸し暑い夏の空気に溶けていく。

古びたドアのプレートには、くすんだ文字が浮かんでいた。


【田中探偵事務所】


中は相変わらず、雑然とした空間だった。

新聞の山、焦げたマグカップ、そしてソファに沈んだ青年が一人。

ベランダでは、タバコをくわえた小汚いおっさんが雨に打たれている。

さっきまで晴れていたのに、今は土砂降り。イライラした顔で煙を吐く。


「オッサン! コーヒーもうないんだけど!」

机に足を投げ出した真紀が、腹の底から叫んだ。


田中はベランダから顔を出さず、灰を指でトントン叩く。

「お前、この雨で行けるわけねぇだろ」


雷鳴が一閃。部屋を白く照らす。

真紀の腕の筋肉がピクリと動く。 “ぶん殴る”五秒前。


田中は視線だけでそれを止めた。

「壊すなよ。前のマグカップ粉々にした時、 “実験だから”とか言ってたろ」

真紀は無言で拳を構え

……そして、ベランダのドアをバンッと閉めた。


「おい! てめぇ、待てゴラァァァくそがぎぃぃぃぃ💢」

「は〜い、何も聞こえませ〜ん!」


新聞を読んでいたハルが顔を上げ、飽きたように言う。

「オッサン、依頼こねぇの?」


「お前らが朝からうるさいから来ねぇんだよ! あとこのクソ雨だ!」

「いつも来ねぇのに、もっと来ねぇよ! あとベランダ開けろやぁぁぁぁ!!」


三人の声が、狭い部屋をゆるく回る。

笑いと静寂が同居する、いつもの事務所。


田中は震えながらシャワーを浴び、隠していた高いコーヒーを飲んでいた。

だが、二人にバレて、ドッタンバッタン。


それが、 “異常”に侵食される前の、穏やかな時間だった。


Scene 2:教授、来訪

午後。

雨が止み、窓の隙間から薄い陽が差し込んでいた。

カンカンカンと階段を登る音。

埃まみれのドアが、コンコンと小さく鳴る。


「はーい、いま開けまーす!」

真紀がドアを開けると、スーツ姿の男が立っていた。

髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の瞳が静かに光る。


「本当に……こんな雨、嫌になりますねぇ」

濡れた傘を立てかけながら、男は軽く頭を下げた。

カエルの鳴き声が遠くで響く。


田中は机の灰皿を押しのけ、座るよう促した。

「いやはや、こんな日に申し訳ない。自分、石神と申します。

大学で考古学を教えています」


「……大学教授が、ウチみたいなボロ事務所に?」


「友人の紹介でしてね。ここは、なんというか

いろんなことを頼めると聞きまして」


男は一度息を整え、まっすぐに田中を見た。


「本題なんですが……娘が、 “神隠し”に遭いました」


空気が、少しだけ重くなる。

真紀の笑みが消え、ハルが新聞を静かに畳んだ。


“神隠し”。

それは、ただの失踪事件ではない。


この世界では、能力者と呼ばれる者たちが存在する。

生まれつきの者もいれば、突発的に発現する者もいる。

無能力者は区別され、社会は歪み、異形が生まれた。


“異形”


能力の副産物。

人の姿を捨てた、理不尽そのもの。

それらの存在が関わる“上位現象”。

ニュースを騒がせている“神隠し”も、その一つだった。


田中は一瞬、灰皿の上で指を止める。

「……続けてくれ」


Scene 3:依頼と違和感

ざぁぁー……と、外で雨の音が響く。


「失踪したのは、一週間前です。部屋の扉は内側から鍵が掛かっていました。

防犯カメラにも、何も映っていなかったそうです。娘はこちらです。」


石神教授は淡々と語り、写真を二枚差し出した。

一枚は高校生ぐらいの娘と、教授がピースしている写真。

もう一枚は、発掘現場での記念撮影だった。


田中はメモを取りながら眉を寄せた。

「これは……?」


「娘と一緒に行った発掘の時のものです。」

「私は、娘がまだ生きていると信じています。」


教授の声は静かだった。

深く沈んだ井戸の底から響くような、遠い声。

悲しみを押し殺しているそう見えた。

けれど、どこか“張りつめすぎている”ようにも感じた。

ひとつ息をすれば、崩れてしまいそうなほどに。


真紀は胸の奥がざらついた。

かわいそう、というよりも……何か、見てはいけないものを覗いたような気持ち。

その違和感に気づいたのは、彼女だけだった。

田中もハルも、ただ真剣に教授の言葉を受け止めていた。


それなのに、真紀の頭の片隅には、

“どうしてだろう”という小さな疑問が、音もなく沈んでいった。


「教授も……能力者なんですか?」


「……ええ、まぁ。昔は地域級と認定されました。

今は教鞭ばかりで、もう……動かせる気もしませんがね」


教授の指が握る万年筆が、わずかに震えた。

その微細な“揺れ”を、ハルだけが見ていた。


その瞬間、パチン、と。照明が落ちた。


「うわっ……!?」

真紀が小さく悲鳴を上げる。


窓の外で雷鳴が唸り、電線が火花を散らす。


停電。


闇の中、教授の顔だけが雷光に照らされた。静かな声が、低く漏れる。


「……やはり、ここもか。」

その言葉の意味を、誰も理解できなかった。


Scene 4:黒い残響

バタン、とドアが閉まる音。

カツン、カツン、と階段を降りていく足音。

クソみたいな雨は、まだ止まない。

遠くでは鉄道の音が、ゆっくりと街を横切っていった。


教授が帰ったあと、事務所には一瞬だけ沈黙が落ちる。


真紀が椅子の背もたれに体を預け、ぽつりと漏らした。

「ねぇ……なんか怖くない? あの人」

「怖いのは、公共料金払ってねぇお前らの方だ」

田中の一言に、真紀とハルの殺気が一瞬にして戻る。


「電気代って、オッサンが払ってんだろ!」

「領収書どこやったんだよ!」


わーわーと騒ぐ二人。

その声を背に、田中はただ煙草の火を見つめていた。


灰皿の中の吸い殻。

かすかに揺れる橙色の光。


その火が、ひとりでに“ふっ”と消えた。


田中が眉をひそめ、外を見る。

ガラスの向こうに、虹が出ていた。

灰色がかった七色の弧。

まるで、誰かが空に爪で引っかいたような、歪な光。


それがこの街で見る、

“異常の前触れ”だった。

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