第3話
空に手を伸ばした。名前と同じようにしなる枝のような髪の手触りを思い出そうとして。
―髪、編んであげる。
そういってあなたの髪を指で梳いて絡めて、時々口づけた。それを誤魔化すように、丁寧に髪を編むふりをした。私がここにきてから彼は自分で髪を編むのだろうか。そんなことはせずに、いっそ、切ってしまってほしい。私が大切に、大切に汚してきた髪なんて切ってしまって、髪ごと私を忘れて、幸せに生きて…
「同志が貴方をぜひともみたいと!来なさい、蘭。」
―そんなの、絶対に嫌。
壁と足を繋ぐ忌々しい鎖が解かれる。男は芸術だなんだと解きながら、自身の署さには無頓着なようだった。不格好に腰が突き出ているし、悪趣味にテカテカと光る靴は藍色の裾を踏みつけている。
「さあ、行きましょう。」
行こうにも、足が動かない。足の爪も全て抜かれ、力が入らないのだ。纏足もされていない足など、と言いながら彼の舌が指の間を這った感触が蘇り、さらに身体が強張る。
「大丈夫、良い方々ですから。」
丁寧な口調以外の仮面が男から剥げ落ちる。焦ったような脂汗が額に浮き、口元が歪む。彼は芸術家気取りで蘭を痛めつけると機よりも、むき出しの肉欲で思うがままに蹂躙するほうが彼女にとって恐ろしい。彼の仲間であるのなら複数で犯されるのだろうか。
「恥を、かかせないでください!」
言い終える前に、彼の浅黒い腕が蘭の前髪に伸びる。色素が薄く、柔らかい髪は無遠慮な力によって何本も音を立てて千切れた。男は指に絡みついた髪を汚いものを扱うように払い落とす。昨夜は指を絡め、口に含んだというのに。
―あなたが最後に梳いてくれた髪、汚れちゃった
そう絶望できた昨夜の余裕が、今はない。男の手が後ろ髪に伸びる。乱暴に全体を掴まれる。強い力で重心が引き上げられた。怯える目が男を見上げる。
「おや、その顔いいですね。」
男は再び仮面をかぶりなおしたかのように口角をぐにゃりと上げる。掴んだ髪を勢いよく上に引き上げた後、手を離した。
「!」
鈍い音と蘭の叫び声が冷たい部屋で空しく反響する。後ろ手で縛られているせいで顔をそのまま地面に打ち付けてしまった。そのせいだろう。口の中にだらりとした何かが流れ込む。ここにきてから感じた痛みも、流した血もまだ出尽くしていないことがわかった。まだ、身体は生きようとしていた。蘭自身はもう死んでしまいたいのに。
「歩けないなら引きずっていくか。」
男は再び蘭の髪を掴む。当たり前のように千切れ、抜け落ち、男の指に絡みつく。煩わしそうに男は従者を呼びつけた。
「客間に連れてこい。」
無計画な男は、結局蘭を他人に任せ、先に客間に戻っていった。
―眠ったあなたを汚したことの、罰なのかしら。
安らかに眠る彼の顔を思い出しながら蘭は指で自身の髪を梳いた。掴まれ、千切れ、抜けた髪が無残に絡まり、指が通らない。彼が綺麗だと言ってくれた髪はもう、見る影もないのだろう。力の入らない爪に抜けた髪の先が当たる。
「いたっ」
破瓜した時、容赦なく殴られたとき、腕を掴まれ、肩に歯形を残されたとき、爪を引き抜かれたとき。それらに到底及ばぬ痛みのはずなのに。まだ微々たる痛みに自身は身体を震わせてしまう。
―病気でもっと早くに死ねたら、いっそのこと両親に見限られた時点で死んでおけば
そんな後悔がよぎる。しかし、と蘭は目を伏せた。そんなこと、できるわけがなかったのだ。彼の傍に死の直前までともに居たいと願ってしまった。死など選べるはずがなかった。
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