第2話
涙など、とうに枯れたと思っていた。叫び声などもう出ないと思っていた。明日にでも死ねると思っていた。しかし現実はどうだ。爪を一つ剝がれたくらいで涙が滲む。無様な叫び声をあげてしまう。それなのに、指先から流れ出る血は純白の袖を水玉模様みたく染めるだけで失血死には至らせない量。まだ痛がることができてしまうのだ。身体もまだ生きようとしているのか、既に爪を抜かれた左手の血は止まった。まだ逃げられない。
「思った通り。白には赤がよく似合う。」
頭上からねっとりと絡みつくような声が落ちてくる。地主の息子。イカれた文豪気取りの青年。
「蘭の花言葉は優雅、美しい淑女だそう。でも、」
まとわりついて糸を引く唾液とともに不揃いな歯が現れる。酷く醜い笑顔だった。この男の前に連れてこられた瞬間、向けられた顔と同じ。その顔も、従者たちが離れると肉欲に歪められたが。
「昨日までのあなたは人形のようでした。よくない。大変よくない。」
そう、ぶつぶつと呟きながら男はもう一枚、蘭から爪を剥ぎ取る。昨日与えられた痛みとは違うそれらに、彼女はまた声を上げる。甲高い、動物の鳴き声のようなそれに男は満足そうに顔をゆがめ、不揃いな歯が再び覗く。男の長い袖が机の上に放置されていた生爪にひっかかり、微かな音を立てて地面にたたきつけられた。
「しかし、人形のようだから従順だと思ったのに、私に傷をつけて…」
男は自身の頬に手を添える。赤黒い切り傷。蘭が抵抗したときに着いた傷だった。今、彼が蘭の爪を剥ぐ行為は美の探求でも何でもない。そこにあるのはただの腹いせでしかなかった。男の目が嘗め回すように蘭の上を滑る。
「顔は駄目だ」
男はさっきまでの気取った口調とは打って変わり、ただの低い声で呟いた。昨日、蘭をその手で蹂躙したときと同じ。衣を剥いで容赦なく扱った、性欲の奴隷。手汗で湿り、毛の処理もまともにされていない汚物同然の手が頬に伸びた時、彼女は男の顔を掴んだ。その時に、形の整った爪が彼の両頬を抉ったのだ。
「忌々しい…」
そう呟いた男は胸の前で拳を固め、蘭の腹部に容赦なくいれた。鍛えておらず、怠惰に暮らしていた、戦に出れば一瞬で死ぬような男でも体の弱い彼女にとっては身体を折って苦しむほどの一撃だった。かはっ、という音が唾液とともに飛び出す。反射で手に力が入る。しかし爪が抜かれたせいで指先に刺されるような激痛が走った。狭い部屋にくぐもった声が響く。
「痛いですか?昨日、私も痛かったんですよ。」
男の顔が目と鼻の先まで近づいてくる。この先、自分になにが起こるのか、考えずとも蘭は分かった。
「白い腕が快楽でさまようように動く姿を見ながら犯すのを楽しみにしていましたが、縛って行き場を塞いでしまうのも一興でしょう。また抵抗されては適いませんしね。」
脂汗が滲んだ毛穴だらけの肌に、油膜が張ったような濁った眼。何もかもが彼と違う男に、蘭はまた蹂躙されるのだ。
「大丈夫。そのうち、痛みまで悦びに変わりますから。」
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