カトレアの抵抗
鈴木チセ
第1話
籠から出されると、そこは山頂ではなく、窓すらない地下室だった。蘭は綺麗な衣装を着ているものの、長い裾で脚が隠れるからと言って、靴にかける金をケチったせいで裸足のまま。
――今頃あの人たちは美味しいお酒でも飲んでるのかも
足の裏に砂利がこすれる。だが、生まれてから靴なんて与えられた記憶がない。あの隔離小屋から出ることもなかったし、蘭には戸籍もないのだから。だから陶器や玻璃の欠片でも踏まない限り痛みなんて感じたことがない。
――冷たい
ここで餓死するのか、本当に山の神が現れて私を食い殺すのか。どちらにしても地獄には違いない。その場で蘭は腰を下ろす。死ぬのか、私は。あの汚い小屋で静かにひっそりと自分は死ぬのだと思っていた。まさかこんなに見てくれだけは綺麗な衣に包まれて無残に死ぬだなんて誰が思っただろう。血を吐き、のたうち回りながら死ぬ運命を呪ったが、その結果がこれなのか。広がる袖をたくし上げる。よく見たら縫い目は雑で、生地の端は色も斑になっていて染め方が雑だ。ところどころ飾りを縫い付ける糸もほつれている。安物だった。
――支度金には謝礼も含まれていたはず。一体、どれほどあの人たちの懐に入ったことやら
最後だけ孝行娘だと褒められたが、そんなことで褒められても心が動かないほど、両親への蘭の心は冷めきっていた。女児では家を継げない。おまけに結核を患ってしまい、売り飛ばすこともできやしないのだ。幼いころは煙草を押し付けられたり、寝ているところに水をかけられたり、茶碗を投げられたこともあったが、結核になったらそれらはぱたりと止んだ。まだ生きていたかったらしい。だが、そんな境遇に蘭が涙を流すことはあっても正気を保ち続けていたのは弟の柳がいたからだった。今彼女が身に着けている左耳の耳飾りだって、彼とおそろいの大事なものだ。
――せめてあの支度金の一部でも、いや、それでなにかあの人たちが食べるごちそうの一つでも柳の口に入ればいい。
彼は健康だし、よくわからないが気功のようなもので人形を扱える。大きくなったらあの両親からも村からも逃げ出して幸せに生きていけるはず。
――結核が感染ってなければだけど
安物の衣でも「綺麗だよ」と言ってくれた彼に私は罪を犯してしまった。山の神がいるなら、私は碌な死に方などできないのかもしれない。蘭は軽く姿勢を崩し、楽な態勢をとる。連れてこられた時点で死ぬと思っていたが肩透かしを食らわされた気分だ。
――殺すならいっそ一思いに…
両掌をこすり合わせて天を仰ぐ。いつぞやに小屋の中から見た伝道者と同じ所作だった。
――祈っている。そう柳が教えてくれたのだっけ。
目を閉じる。自分が生贄になることが村のためになるというのなら、私の死は柳を守ることになるのだろうか。そう思うと幾分かは死への恐怖が和らいだ。日の光も差さない、餓死するかも食い殺されるかもわからない。だが、最悪舌を噛んで先に死ねばいい。そう楽観的になっていた時だった。がたんと音を立てて扉が開かれる。いよいよ来たか、と振り向いたときに姿を見せたのは位が高そうな人間。
「誰?」
蘭が振り向くと編まれた髪が肩から落ちると同時に、彼女の高い声は歌でも歌うかのようにこの地下室に響いた。光が入らないこの場所で彼女にだけ後光が差しているかのような錯覚に、一番高そうな衣を着た男は目を奪われた。
「あなたの主ですよ。」
そう言うとにやりと笑みを浮かべ、男は後ろの従者らしき人間に何かを指示する。彼らは退出し、扉を閉じた。
「あなたの名前は?」
「蘭」
燭台で照らされた男の顔は脂ぎっていて、細い目が胡散臭い。山の神に殺されると聞かされていた蘭はこの、主を名乗る男への不信感を募らせる。男は蘭の顔に燭台を近づけると満足そうにそのかさついた唇を吊り上げた。
「白い肌、赤い唇にうるんだ瞳。えぇ、どれも私好み。」
男の両腕が蘭の胸元に突然伸びた。縫製の甘い、ぺらぺらの生地の安い衣。どうなるかなど、簡単にわかる。彼女は細い腕で胸元を押さえる。痩せ気味ではあるものの、確かにそこには女性らしいなだらかな曲線があるのだ。見せるわけにはいかない。
「細い腕ですね。」
だがその抵抗もむなしく、衣は左右で分けられ、骨が微かに浮いた肩が露わになってしまった。初めて他人に肌を見せた羞恥で彼女の頬が赤く染まり、背後にのけぞる。
「嫌!」
甲高い声でそう叫ぶも、それは男の嗜虐心に火をつけるだけ。彼の腕から逃れようとすると髪の先を掴まれ、引き戻される。
「大人しくしてください。」
できるわけがない。蘭は袖を掴まれているが、ゆとりがあるため、大きく右手を振りかぶり、彼の頬をひっかいた。伸びた爪が彼の頬に一筋、赤い線をつくる。だが、彼女の爪も割れ、指先に走る苦痛に顔を歪めた。
「痛っ」
彼が頬を押さえたことで、掴まれた袖が解放される。逃げ出そうと、蘭は彼に背を向けた。衣は完全に肩から脱げ落ち、白い背が彼の目の前に晒される。
「逃がしませんよ」
低い声が絡みつくように聞こえると、蘭は髪を掴まれ、蘭は地面に引き倒された後、うつぶせにされ、馬乗りにされる。彼女の口の中には埃と砂粒が入り込み、じゃりじゃりとした感覚が不快だった。
「暴れすぎです。しつけをしないと」
男の股の間で蘭は身を捩ろうとするが、重さで動くことはできない。襟首を腰のあたりまで下げられたせいで、背が冷たい。
「やめて、離して、」
それらの言葉は、やはり男の嗜虐心を煽るだけなのだ。男は舌なめずりをし、じゅっという、人間からは到底聞くことがないはずの音が鳴ると、蘭の濁った叫び声に耳を傾けた。
「熱いでしょう?」
彼は燭台の油を蘭の背中に垂らしていた。一瞬で彼女の背中の一部は爛れ、赤黒く変色する。そこを燭台の底で押さえつけた。
「大人しくしないともっと痛い目に遭わせますよ。おや、聞いていない。」
叫び声を上げ続ける蘭の耳に男の声は聞こえていないようだった。彼は蘭が叫び終えるのを待つと、垂れ下がった蘭の腕を掴み、一度彼女から降りる。それから仰向けに転がした。苦痛に喘ぐ彼女を面白そうに見つめ、気まぐれに下腹部を蹴りつける。
「ここにこれから私のが入るのですね。」
蘭の喉からひゅっと音が鳴った。再び彼女に跨った男の顔が近づいてくるのを、彼女は顔を背けて避ける。髪とともに右耳の飾りがしゃらんと音を立てる。誘っているようにでも見えたのか、男はその耳飾りを掴んだ。白い肌に映える赤い耳飾りは柳の形見ともいえる大切なもの。
――こんなのに触れられてしまうなんて。
綺麗な思い出が汚される心地に蘭は身を震わせる。また、しゃらりと音を立て、彼は耳飾りを撫でる。
「ただの村娘のものにしては、いやに贅沢な品ですね。」
そう言いながら脚を割られると、はだけ、破かれた衣の間に手を入れられ、まさぐられた。汗が滲み、生ぬるい感触が気持ち悪い。ばらばらに動く指が肌の上を這う。好き勝手に弄られ、無理やり体液を引きずり出され、生贄から一瞬にして、蘭は奴隷になり下がった。
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