第9話 世界中が、私たちの味方
その声は、驚くほど静かだった。
しかし、マイクを通して増幅されたその一言は、凍り付いたホテルの宴会場の隅々にまで、まるで波紋のように広がっていった。
「――そのご質問に、お答えします」
ゴシップ記者の男は、獲物が罠にかかったとでも思ったのだろう。
その唇に、醜悪な笑みが浮かぶ。他の記者たちは、固唾を飲んで梨乃の次の言葉を待っていた。
誰もが、これから起こるであろう壮絶な舌戦、あるいは、涙の謝罪会見を予期して、カメラを固く握りしめている。
絶望の淵にいた私は、テーブルの下で梨乃に握られた手の、その確かな温もりだけを命綱のように感じながら、彼女の背中を見つめていた。小さな、華奢な背中。しかし今、その背中は、どんな城壁よりも強固で、頼もしく見えた。
梨乃は、マイクの前で一度、ゆっくりと目を閉じた。まるで、これから紡ぎ出す言葉の一つ一つを、魂の中で確かめるように。そして、再びその瞼が開かれた時、彼女の瞳には、先程までの氷のような怒りではなく、どこまでも深く、穏やかな、湖のような静けさが湛えられていた。
彼女の視線は、もはやゴシップ記者には向けられていなかった。その視線は、会場にいる他の記者たち、カメラのレンズの向こう側にいるであろう何十万ものファンたち、そして、隣で震えている私――彼女が愛する、すべての「味方」へと注がれていた。
「ビジネスパートナー、以上か、というご質問でしたね」
梨乃は、静かに語り始めた。
「私にとって、桐島美玖という人は、ビジネスパートナーという言葉では、到底言い表せません。彼女は、私の光です。私が道に迷った時に、いつでも正しい場所を照らしてくれる、北極星です」
会場が、わずかに、どよめいた。それは、あまりにも詩的で、あまりにも率直な、アイドルの会見で発せられるには、あまりにも“本物”の響きを持った言葉だったからだ。
「私が、まだ何者でもなかった研修生の頃。孤独で、誰にも心を開かなかった彼女の、その才能と、その魂の美しさに、一番最初に気づいたのは、私だと自負しています。私が、この人を、世界で一番輝く場所に連れて行く。……そう誓いました」
梨乃の言葉は、もう誰にも止められなかった。それは、彼女の魂からの告白だった。
「私たちは、他の誰にもわからない痛みと、喜びを、ずっと二人で分かち合ってきました。ステージの上では、互いの呼吸さえも聞こえます。片方がつまずきそうになれば、もう片方が、言葉を交わさずとも支えることができます。彼女は、私の半身であり、私の魂の、もう半分です」
そこまで言って、梨乃は、初めて私の方を振り返った。その瞳は、優しく、そして少しだけ、悪戯っぽく細められている。
大丈夫、信じて、と。その視線が、そう語っていた。
そして、彼女は再び前を向き、この茶番に終止符を打つ、最後の一撃を放った。
「ですので、改めてお答えします。私と桐島美玖は――」
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「――私たちが、どのような関係であるかは、言葉で説明するものではありません。ただ、一つだけ言えることがあります。私たちは、皆さんが想像し応援してくださる通りの関係です。それ以上でも、それ以下でもありません」
完璧な、答えだった。
肯定も、否定もしない。ただ、ボールを、私たちを愛してくれる人たちの、その善意と解釈に、すべて委ねるという、絶対的な信頼に基づいた答え。それは、悪意に満ちた記者への返答ではなく、この会場と、世界中にいる「見守り隊」への、感謝と愛を込めたメッセージだった。
一瞬の、本当に一瞬の沈黙。
ゴシップ記者が、何かを言い返そうと口を開きかけた、その時だった。
パチ、パチパチ…。
乾いた音が、会場のどこかから響いた。
見ると、記者席の最前列に座っていた、白髪の混じったベテランの女性記者が、穏やかな笑みを浮かべながら、拍手を送っていた。彼女は、私たちのデビュー前から、ずっと取材を続けてくれていた、業界の大御所だった。
その一拍手が、合図だった。
一人、また一人と、記者席から拍手が湧き起こる。それは、やがて会場全体を包み込む、嵐のような喝采へと変わっていった。それは、スキャンダルを暴けなかったことへの失望の音ではない。一人の少女の、愛と勇気に満ちた答えへの、心からの賞賛と、連帯を示す音だった。
「その通りだ!」
「野暮なこと聞くんじゃない!」
誰かが叫ぶ。フラッシュが、今度は祝福の光となって、ステージ上の梨乃に降り注ぐ。
「素晴らしい答えでした! では、気を取り直して、ドーム公演で、ファンの方々に一番見せたいパフォーマンスについて、お聞かせいただけますか!」
司会者が、すかさずそう叫び、場の空気を完全に正常へと引き戻した。ゴシップ記者の男は、顔を真っ赤にして、バツが悪そうにその場に座り込む。彼の周りには、誰一人として彼に同調する者はいない。彼の放った毒矢は、会場全体が作り出した、温かい拍手という名の巨大な盾によって、完璧に弾き返されたのだ。
私は、その光景を、涙で滲む目で、ただ呆然と見つめていた。
私たちは、孤立していなかった。戦っていたのは、二人だけではなかった。
私が恐れていた「世界」は、私たちを裁くための法廷ではなかった。
それは、私たちの恋という、か弱く、しかし美しい花を、ずっと静かに、黙って育んでくれていた、優しい庭園そのものだったのだ。
私が築き上げた「秘密」という名の、冷たくて息苦しいガラスケースは、今、梨乃の勇気と、世界の優しさによって、内側から粉々に砕け散った。
会見が終わり、嵐のような一日が過ぎ去った後の、静かな楽屋。
二人きりになった瞬間、私は、崩れ落ちるように、梨乃の胸に顔をうずめて泣いた。恐怖からではない。安堵と、感謝と、これまで感じたことのないほどの、どうしようもない幸福感からだった。
「…りの…、ありがとう…、ありがとう…っ」
「うん。もう、大丈夫だよ、みく」
梨乃は、しゃくりあげる私の背中を、優しく、何度も撫でてくれた。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した私は、涙で濡れた顔を上げた。
そして、ずっと心の中にあった、一番大事な質問を、口にした。
「…ねぇ、梨乃。…私たち、もう、隠さなくてもいいのかも、しれないわね」
それは、長年の呪縛から、ようやく解き放たれた瞬間の、魂の呟きだった。
すると、梨乃は、きょとんとした顔で、小首を傾げた。そして、心底不思議そうに、こう言ったのだ。
「え? 最初から、隠してるつもりなんてなかったけど?」
その言葉に、私は、今度こそ、本当に言葉を失った。
そして、涙で濡れた顔のまま、どちらからともなく、私たちは、ふふ、と笑い合った。
ああ、そうか。この子は、ずっとそうだったのだ。
私が恐怖に怯え、秘密の城壁を高くしていた間も、この子は、ただありのままに、私を愛していただけなのだ。世界が、それを許してくれると、最初から信じていたのだ。
私たちの「秘密」は、終わった。
そして、ここから、私たちの「誓い」が始まる。
世界中に見守られながら、愛を紡いでいく、新しい物語が。
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