第10話 ステージで誓うキスを
東京ドームの地下通路は、巨大な生き物の血管のように、複雑で、薄暗く、そして熱気を帯びていた。
壁の向こう側から、地鳴りのように響いてくる五万五千人の歓声が、床を、空気を、私たちの骨の髄までを震わせている。それは、開演を待つ観客の期待が凝縮された、巨大なエネルギーの塊だった。
かつての私なら、この途方もないプレッシャーに押し潰され、手足の先から凍り付いていただろう。だが、今、私の心は不思議なほど、凪いでいた。隣に、梨乃がいるから。いや、違う。隣に梨乃がいて、その手を、もう世界中の誰に憚ることなく、握りしめることができるから。
「…すごい音だね、みく」
ステージへと続く、最後の扉の前。梨乃が、少しだけ興奮したように囁いた。その横顔は、スポットライトを浴びる前の、ほんのひとときだけ見せる、素顔の早乙女梨乃だった。
私は何も答えず、ただ、握っていた梨乃の左手を、そっと引き寄せた。そして、彼女の薬指で淡い光を放つ、あのプラチナリングに、自分の唇を寄せた。
「…みく…?」
驚きに目を見開く梨乃に、私は、これまで誰にも見せたことのないような、不敵な笑みを浮かべてみせた。それは『氷の姫』の冷たい微笑みではない。愛する人を手に入れた、一人の女としての、自信に満ちた笑みだ。
「見せつけてやろう。梨乃。私たちの愛を」
「……っ!」
梨乃の顔が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。いつもは私をからかい、リードしてくるこの小悪魔が、今はただ、言葉もなくうろたえる、可愛い恋人だった。その表情が、たまらなく愛おしい。
「さあ、行こう。私たちのファンが、待っている」
SEの音が最高潮に達し、目の前の巨大な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。その向こうには、光があった。五万五千のケミカルライトが織りなす、この世で最も美しい、光の銀河が。
歓声が、爆風となって私たちの全身を叩く。
私たちは、光の中へと、一歩、踏み出した。
夢のような時間は、瞬く間に過ぎていった。
巨大なステージを縦横無尽に走り回り、歌い、踊る。熱気で喉はカラカラになり、汗は滝のように流れ落ちる。だが、不思議と疲れは感じなかった。視線を交わせば、梨乃が笑いかけてくれる。手を伸ばせば、そこに彼女の体温がある。それだけで、無限に力が湧いてくるようだった。
そして、運命の曲が始まった。
私たちがデビューした時から、ずっと大切に歌い続けてきた、バラードナンバー。その最後のサビに、あのフレーズがある。
ファンたちの間で、いつしか伝説として語られるようになった、「愛してる」のアイコンタクト。それは、私たちの『秘密』の象徴であり、甘い罪の儀式だった。
イントロが流れ始めた瞬間、五万五千の観客が、息を呑むのがわかった。彼らは知っているのだ。この曲が、私たちにとって、どれほど特別な意味を持つのかを。
曲は、クライマックスへと向かっていく。
ステージの中央。スポットライトが、私と梨乃、二人だけを白く照らし出す。私たちは、向き合っていた。その距離、わずか数十センチ。互いの瞳の中に、光の海を背負った自分が映っている。
梨乃の瞳が、わずかに潤んでいた。その瞳が、問いかけてくる。『どうするの?』と。
私は、微笑みで答えた。『見てて』と。
最後のフレーズ。
私が、歌う。
「――愛してる」
その言葉を紡ぎ終えた瞬間、私は、梨乃の腕を掴み、その身体をぐっと引き寄せた。そして、その驚きに見開かれた唇に、自分の唇を、重ねた。
時が、止まった。
五万五千人が見守るステージの、そのど真ん中で。
それは、ほんの一瞬だったかもしれない。しかし、私にとっては永遠にも感じられる、甘く、そして熱い、誓いのキスだった。
唇を離すと、梨乃は、夢でも見ているかのような顔で、呆然と私を見つめていた。その頬は、これまで見たことがないくらい、真っ赤に染まっている。
次の瞬間、静寂は破られた。
ドームが、揺れた。
絶叫。歓声。祝福。嗚咽。あらゆる感情が混じり合った、巨大な音の波。それは、スキャンダルへの非難などでは断じてない。一つの愛の物語が、最高の形で成就したことへの、世界で最も温かい、祝福の喝采だった。
私は、まだ呆然としている梨乃の手を固く握りしめ、客席に向かって、深々と、頭を下げた。
***
打ち上げの会場は、ライブの熱狂がそのまま移動してきたかのように、騒がしかった。
スタッフ、バンドメンバー、事務所の人間、その誰もが、興奮冷めやらぬ顔で、互いの健闘を讃え合っている。
その輪の中心に、私たち二人はいた。
「桐島、早乙女、お前たち、最高だったぞ!」
顔を真っ赤にしたプロデューサーが、私たちの肩を力強く叩く。
「伝説のステージになったな! 明日のスポーツ紙の一面は、全部お前らだ!」
振付師の先生が、豪快に笑う。
そして、私たちの目の前に、マネージャーの佐々木さんが、静かにグラスを差し出した。その目元は、泣きはらしたように、少しだけ赤かった。
「…本当に、おめでとう。そして、ありがとう」
絞り出すような声だった。
「あなたたちのマネージャーでいられて、私は、世界一の幸せ者よ」
その言葉に、私たちの目にも、熱いものがこみ上げてくる。
私たちは、ようやく、完全に理解した。
私たちが「秘密」だと思い込んでいた恋は、ずっと前から、この温かい人たちに、ただ黙って、見守られていただけなのだと。
その夜、喧騒から逃れて、二人でマンションに帰った。
ドアを閉めた瞬間、そこには、いつもの静かで、穏やかな日常があった。窓の外の夜景だけが、少しだけ、いつもより輝いて見える。
私たちは、何も言わずに、ただ、固く抱きしめ合った。
ステージの上の熱狂も、誰からの祝福もいらない。ただ、こうして、互いの腕の中にいられること。それが、私たちのすべてだった。
「…ねぇ、みく」
「…ん?」
「私、今日のこと、一生忘れない」
「…私も」
唇が、自然に重なる。それは、ステージの上で見せた、情熱的なキスではない。ただ、愛おしくて、たまらないという気持ちだけで交わされる、穏やかで、どこまでも深いキス。
「愛してるよ、梨乃。これからも、ずっと」
「私も、愛してる。世界で一番」
私たちの恋は、もう秘密ではない。
世界が公認する、一つの愛の形になった。
でも、何も変わらない。
明日も、私たちは、こうして二人で目を覚まし、他愛のないことで笑い合い、そして、互いの温もりを確かめ合うのだろう。
勘違いから始まった、甘くて少しだけおかしな恋物語。
その次のページは、きっと、今日よりもっと、幸せなことで満ちている。
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(全十話 了)
もう少しだけ後日談が続きます。
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