第8話 “悪意”という名の来訪者

私たちの人気は、いつしか自分たちでも制御できないほどの熱量を帯びた、巨大な恒星のようになっていた。新曲は出すたびに記録を更新し、冠番組の視聴率は常にトップを走り続けた。そしてついに、その日は訪れた。すべてのアーティストが夢見る、あの聖地への切符。


――東京ドームライブ、決定。


その一報が告げられた時、私と梨乃は、言葉もなくただ抱きしめ合った。研修生時代の、汗とカビの匂いがしたあの薄暗いレッスン室から、五万五千人の光の海へ。あまりにも遠く、非現実的だった夢が、今、私たちの手のひらに乗っている。その重みに、身が震えた。


そして今日、私たちはその公式発表のための記者会見の場に立っていた。

会場は、都内の一流ホテルの、シャンデリアが眩い光を放つ一番大きな宴会場。

集まった報道陣の数は、百を超えるだろうか。彼らが構えるカメラのフラッシュは、まるで途切れることのない稲妻の海のようだった。テーブルの上にずらりと並べられたマイクは、こちらを威嚇するように伸びる、金属の森。


その荘厳で、殺伐とした光景の中心で、私は完璧な『氷の姫』を演じていた。隣には、純白のワンピースをまとった梨乃が、柔らかな『天使』の微笑みを浮かべて座っている。私たちは、もうこの光景に慣れていた。いや、慣れたふりをすることが、プロとしての責務だった。


「――それでは、質疑応答に移らせていただきます」


事務所の幹部による発表が終わり、司会者がそう告げると、金属の森が一斉にざわめき立った。次々と手が挙がり、当たり障りのない、祝福に満ちた質問が続く。


「ドームという大舞台への、今の率直な意気込みをお聞かせください!」

「ファンの方々へ、メッセージをお願いします!」


私たちは、用意された模範解答を、淀みなく、心を込めて返していく。会場の空気は、終始、温かく、祝祭的だった。そう、この瞬間までは。

私たちの「優しい世界」が、音を立てて砕け散る、その瞬間までは。


司会者が「それでは、次が最後の質問とさせていただきます」と告げた時、それまで一度も手を挙げていなかった一人の男が、すっくと立ち上がった。


中年の、少しやつれた男。服装はだらしなく、その目だけが、獲物を品定めするような、不快な光を宿していた。他の記者たちが持つ、祝福や好奇心とは明らかに質の違う、粘着質で冷たい光。


「週刊誌『リアルスクープ』の者ですが」


その雑誌の名を聞いた瞬間、隣に座るマネージャーの佐々木さんの肩が、微かに強張ったのを私は感じた。空気が、変わる。それまで部屋を満たしていた温かい湿度が、急速に失われていくような、肌寒い感覚。


男は、ニヤリと、獲物を見つけた爬虫類のような笑みを浮かべると、その唇から、毒を含んだ言葉を吐き出した。


「桐島さん、早乙女さん、ドーム公演おめでとうございます。お二人のご活躍、大変素晴らしく思います。…ところで、単刀直入にお伺いしますが」


彼は、わざとらしく一度、言葉を切った。その沈黙は、これから放たれる言葉の破壊力を増幅させるための、悪意に満ちた演出だった。


「お二人の関係は、ビジネスパートナー以上との噂がありますが、事実ですか?」


――世界が、凍った。


一瞬にして、あれほどけたたましく明滅していたフラッシュの海が、ぴたりと止んだ。記者たちの囁き声も、空調の音さえも、すべてが遠のいていく。ただ、男の放った「事実ですか?」という言葉だけが、悪質なエコーとなって私の頭蓋の内側で何度も、何度も反響している。


悪意。

私は、初めて、純度100%の、何の混じり気もない、剥き出しの悪意というものに、真正面から晒された。


ファン感謝祭の少年の質問は、無邪気な好奇心だった。ネットの騒動は、私たちの関係を好意的に解釈しようとする、ファンたちの愛の暴走だった。

だが、これは違う。


この男は、私たちを傷つけたいのだ。私たちの築き上げてきたものを、壊したいのだ。そのゴシップで金儲けをしたいのだ。その目的のためだけに、ナイフを突き付けてきている。


血の気が、さあっと引いていく。手足の先から感覚がなくなり、まるで冷たい水の中に沈んでいくようだ。怖い。怖い。怖い。怖い。声が、出ない。呼吸の仕方が、わからない。


『氷の姫』の仮面が、内側からバリバリと音を立てて砕けていく。今、私がどんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。きっと、怯えた迷子のような、惨めな顔をしているに違いない。


(…終わった…)

(私たちの秘密が、私たちの恋が、こんな、汚い悪意に殺される…)


絶望が、黒いインクのように心を塗りつぶしていく。助けを求めるように隣の梨乃を見ることさえできない。もう、何もかもが、終わりだ。


その、暗闇のどん底で。

不意に、私の左手に、温かい感触が触れた。

テーブルの下、誰にも見えない場所で、梨乃の手が、震える私の手を、強く、強く、握りしめていた。それは、ただの慰めではない。大丈夫、私がいる、と告げる、決意の体温だった。


私は、はっと息を呑んで、梨乃の顔を見た。

彼女は、もう笑ってはいなかった。

その顔から、『天使』の仮面は完全に剥がれ落ちていた。


そこにいたのは、私の知らない早乙女梨乃だった。その瞳には、怒りとも、悲しみともつかない、氷のように冷たく、そして鋼のように強い光が宿っている。それは、自らのテリトリーを侵され、最愛のものを守るために牙を剥く、孤高の獣の目だった。

梨乃は、私の手を握ったまま、ゆっくりと、本当にゆっくりと、椅子から立ち上がった。


その動きには、一切の迷いも、揺らぎもなかった。

静まり返った会場の、すべての視線が、その小さな身体に注がれる。

彼女は、マイクが林立する演台へと、一歩、また一歩と、毅然として歩いていく。

そして、メインマイクの前に立つと、質問した男を、射抜くような鋭い視線で、まっすぐに見据えた。


会場中の誰もが、固唾を飲んで、彼女の次の言葉を待っている。

やがて、梨乃は、静かに、しかしホール全体に響き渡る、凛とした声で、言った。


「――そのご質問に、お答えします」


その声は、これから始まる反撃の狼煙だった。

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