第7話 左手薬指のスキャンダル(?)

それは、私たちが恋人になって、ちょうど二周年の記念日だった。

その日、珍しく早く終わった仕事の後、梨乃は私の部屋に来るなり、もじもじと、まるで初めて告白する少女のような仕草で、小さなベルベットの箱を差し出した。


「…みく、あのね、これ…」

「…なぁに?」

「二周年、おめでとう。…これからも、ずっと隣にいてください」


その箱をそっと開けると、中には、寸分違わぬデザインの、二つの指輪が並んでいた。プラチナの、華奢で、何の飾りもないシンプルなリング。しかし、その内側には、私たちのイニシャル――『M to R』『R to M』――が、小さな文字で、しかしはっきりと刻まれている。


「…梨乃…、これ…」

「ペアリング。…ずっと、欲しかったの。ダメ、かな?」


上目遣いで尋ねるその瞳は、不安に揺れていた。ダメなわけがない。嬉しくて、愛おしくて、胸が張り裂けそうだった。私は言葉の代わりに、梨乃を強く抱きしめ、その唇を塞いだ。


その夜、私たちは何度も互いの指に指輪をはめ合い、その度に子供のようにはしゃいだ。左手の薬指で、同じデザインのリングが揃って輝く。それは、法的な拘束力など何もない、ただの金属の輪だ。しかし、私たちにとっては、世界中のどんな契約書よりも重く、そして甘い、魂の誓約の証だった。


「…でも、これは、絶対にこの部屋の外には着けていってはいけないわ。いいね?」


ベッドの中で、梨乃の指に嵌められたリングをそっと撫でながら、私は釘を刺した。私たちの『秘密』は、こんなにも分かりやすい形で晒していいものではない。


「…うん、わかってる。二人だけの、宝物だもんね」


梨乃は、少しだけ寂しそうに、しかし素直に頷いた。その時の私は、この誓いが、翌日にはいとも簡単に破られることになるとは、夢にも思っていなかった。梨乃の、恋に浮かされた注意力の散漫さを、私は少しだけ、見くびっていたのだ。


生放送の音楽番組。それは、一瞬のミスも許されない、アイドルの戦場だ。

新曲の披露。激しいダンスナンバー。目まぐるしく変わるフォーメーションと、ミリ単位で計算されたカメラワーク。その中で、私たちは完璧なパフォーマンスを繰り広げていた。美玖は『氷の姫』として冷ややかに、梨乃は『天使』として愛らしく。

問題の瞬間は、曲の後半、梨乃のソロパートで訪れた。


カメラが、梨乃の顔のアップを狙う。彼女が、ファンを誘うようにマイクを握った右手を、そっと頬に添える振り付け。その時、衣装のフリルが揺れ、隠れていた左手が、ほんの一瞬、画面の中央に映り込んだのだ。


――キラリ、と。


スタジオの強い照明を反射して、彼女の左手の薬指にはめられたプラチナリングが、悪魔のように、残酷なまでに美しく輝いた。


ほんの、コンマ数秒。ほとんどの視聴者は気づきもしなかっただろう。

しかし、この世界には、獲物(推し)の一瞬たりとも見逃さない、鋭い目を持った狩人(ファン)たちが、何十万人と存在しているのだ。


私は、パフォーマンスに集中していて、その致命的なミスに全く気づいていなかった。番組が終わり、鳴り響く拍手の中、私たちは完璧なステージをやり遂げた達成感に満たされて、楽屋へと引き上げていった。


「お疲れ、二人とも! 今日のステージも最高だったわ!」


マネージャーの佐々木さんが、笑顔で私たちを迎えてくれる。その笑顔が、どこか引きつっているように見えたのは、気のせいではなかった。

異変に気づいたのは、梨乃が衣装から私服に着替えていた時だった。


「あれ…? 指輪…」


彼女の呟きに、私の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。まさか。そんなはずはない。


「…梨乃、あなた、まさか…着けてきたの…?」

「ご、ごめん…! 昨日、あまりに嬉しくて、寝る時も着けてて…そしたら、朝、外し忘れちゃって…!」


顔を真っ青にして謝る梨乃。私は、その言葉が耳に入ってこなかった。震える手でスマートフォンを掴み、SNSを開く。そこは、すでに戦場の様相を呈していた。


>『【悲報?】今の歌番組、早乙女梨乃ちゃんの左手薬指に指輪が見えた気がする…』

>『気のせいじゃない! スローで確認した! 間違いない、指輪だ!』

>『嘘でしょ…りのちゃんに限って…相手、いるの…?』


絶望的な呟き。しかし、それはほんの序章に過ぎなかった。数分後、戦況は誰もが予想しなかった方向へと、劇的に転回し始める。


>『待って。あの指輪のデザイン、すごくシンプルじゃない?』

>『ていうか、あのプラチナの感じ…どこかで見たことあるような…』


そして、一人の熱心なファンが、決定的な証拠(という名の憶測)を投下した。

それは、私が数日前の雑誌インタビューで、私物のネックレスとして紹介した写真との比較画像だった。ネックレスのトップは、小さなプラチナのリングをモチーフにしたデザインだった。


>『…え、嘘。このネックレスのリングと、りのちゃんの指輪…デザイン、完全に一致してない…?』


その投稿を皮切りに、TLは狂乱のるつぼと化した。


>『まさか…まさかとは思うけど…ペアリング…ってコト!?』

>『“ネックレス”は美玖様のカモフラージュ!? 本当は指輪として持ってる!?』

>『左手薬指は“命”に一番近い指。そこに嵌める指輪の意味、知らないオタクはいないよな?』

>『スキャンダル(対男)じゃなくて、スキャンダル(対みく)だった…? 天国かよ…』


裏切りへの絶望は、一瞬にして、二人の関係が“本物”である可能性への、熱狂的な歓喜へと塗り替えられていた。だが、美玖にとって、それはどちらも同じ地獄だった。バレた。私たちの秘密が、暴かれた。もう、終わりだ。


「…どうしよう…どうしよう、りの…!」

「ごめんなさい、みく…! 私のせいで…!」


パニックに陥り、泣きじゃくる梨乃と、血の気を失って立ち尽くす美玖。

楽屋の空気は、世界の終わりのように重く、冷え切っていた。


その時、ガチャリ、と静かにドアが開き、佐々木さんが入ってきた。

その手には、タブレットと、なぜか数種類のジュエリーカタログが握られている。彼女の表情は、驚くほど、穏やかだった。


「二人とも、落ち着いて。話を聞きなさい」


佐々木さんは、私たちをソファに座らせると、深呼吸を一つして、言った。


「まず、ネットの騒ぎは、全て把握しているわ。そして、すでに対策は打ってある」

「…対策…?」

「ええ。旧知の仲であるジュエリーブランド『Étoile Filante』の広報部長と進めてた話を説明するわね」


佐々木さんは、タブレットの画面を私たちに見せた。そこには、すでに完成されたプレスリリースの文面が表示されている。


>『【Étoile Filante】新作“Amitié Éternelle(永遠の友情)”シリーズ発表のお知らせ。ブランドミューズに、大人気アイドルユニット『みくりの』の桐島美玖さん、早乙女梨乃さんを起用』


「…これは…」

「今夜の生放送は、この新作リングのサプライズお披露目、ということにするわ。二人が着けていたのは、そのサンプル。来週から始まるキャンペーンに先駆けた、ティザー広告だった、……と。そういう物語よ」


佐々木さんの説明は、あまりにも完璧で、あまりにも手際が良すぎた。まるで、この事態を予見していたかのように。


「数時間後には、ブランドの公式アカウントから、このリリースと、二人の美しい宣材写真が発表される。ファンは『やっぱりそうだったんだ!』と納得し、そして安心する。この指輪は『ペアリング』ではなく、『友情の証』として、公式に世に放たれるの」

「…そんな…うまい話が…」

「ええ。ちなみに、広報部長からさっき連絡があって、『最高の宣伝になる』と、泣いて喜んでいたわ。この騒動で、初回ロットは数分で完売するでしょうね」


佐々木さんは、にっこりと、しかし目の奥は全く笑っていない表情で、私たちに告げた。


「だから、もう泣くんじゃない。あなたたちは、ただのうっかりさんじゃない。最高のプロモーションを仕掛けた、ブランドミューズなんだから。胸を張りなさい」


呆然とする私たちを残し、佐々木さんは「じゃあ、私はブランド側と最終の打ち合わせがあるから」と言い残して、颯爽と部屋を出ていった。嵐のような、数十分間だった。


静まり返った楽屋で、私と梨乃は、顔を見合わせた。そして、互いの左手薬指で、同じように輝く指輪を見た。

これは、スキャンダルの証拠になるはずだった。私たちの秘密を暴く、時限爆弾のはずだった。

それが今や、私たちの「公式な友情」を象徴する、祝福されたアイテムになろうとしている。


「…すごいね、佐々木さん…」

「…ええ。まるで、魔法使いみたい…」


私たちの秘密は、またしても、この優しい世界によって、完璧に守られてしまった。

いや、違う。守られたのではない。もっと巧妙に、もっと美しく、「公然の秘密」として、世界に開示されたのだ。

私たちは、この日を境に、堂々と、この指輪を着けて仕事ができるようになった。


ファンたちは、それを見るたびに、意味ありげな笑みを浮かべて、こう囁き合う。

「友情の証(笑)」と。

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