第6話 ファン感謝祭と「#公式が最大手」

ファン感謝祭。

それは、アイドルにとって、そしてファンにとって、年に一度の特別な祝祭だ。ライブや握手会とは違う、もっと親密で、手作りの温かさに満ちた空間。抽選で選ばれた幸運な数百人のファンだけが、アイドルの素顔(という名の、もう一つの仮面)に触れることを許される、甘美な儀式。


今日の会場は、都心にある多目的ホールだった。ステージ上には、メンバーカラーの風船が飾られ、手書きのポップがあちこちに貼られている。その少し垢抜けない雰囲気が、かえってアットホームな親密さを醸し出していた。


「みんなー! 今日は来てくれて、ほんっとーにありがとー!」


リーダーの元気な挨拶を皮切りに、イベントは和やかなムードで始まった。

ゲームコーナー、メンバーの私物プレゼント抽選会。ファンたちの熱狂的でありながらも、どこか家族を見守るような温かい視線に包まれて、美玖の心も少しずつ、氷が溶けるように和らいでいく。


ステージの端と端。美玖と梨乃は、あえて距離を取って座っていた。

それは、この手のイベントでのお約束だった。あまり近づきすぎると、自分たちの「本気」が漏れ出てしまう危険性がある。

だからこそ、視線だけで会話するのだ。ゲームで他のメンバーが珍回答をすれば、一瞬だけ目を合わせて笑い合う。

ファンからの熱い声援を受ければ、ほんの少しだけ得意げな表情を相手に向ける。それは、誰にも気づかれない、二人だけの秘密の通信だった。


イベントの目玉は、最後の質問コーナーだ。事前にファンから集めた質問が、ボックスの中に大量に詰め込まれている。そこからメンバーがランダムに質問用紙を引き、答えていくという、ありふれた、しかし最も危険を孕んだ企画。


「さーて! どんどん行ってみよー! 次は、りのちゃん、お願い!」

「はーい!」


司会に促され、梨乃は元気よく手を挙げると、ボックスの中に深く腕を突っ込み、一枚の紙を引いた。

その小さな紙切れが、これからこの穏やかな祝祭の場に、爆弾を投下することになるとは、この時、誰も予想していなかった。


梨乃は、折り畳まれた紙を広げ、そこに書かれた文字を読み上げた。


「ペンネーム、『みくりの尊さに人生を捧げたい』さんからです! いつも応援ありがとうございます♡ えっと、質問は…」


その瞬間、梨乃の笑顔が、ほんのわずかに、本当にごくわずかに、凍り付いたのを美玖は見逃さなかった。何かが、おかしい。


「…『美玖先輩と梨乃ちゃんに質問です』…」


梨乃の声が、少しだけ震えている。ざわ、と客席が期待に満ちた空気で揺れた。美玖の背中に、冷たい汗がツーっと伝う。


「……『お二人は、いつも本当に仲が良くて、私たちファンは毎日幸せをいただいています。そこで、ずっと気になっていたのですが…お二人の関係は、どこまでが“営業”で、どこからが“本気”なんですか?』……だそうです!」


梨乃が最後のフレーズを叫ぶように読み上げた瞬間、ホールは水を打ったように静まり返った。


時が、止まった。

全ての視線が、ステージ上の美玖と梨乃、その二点に針のように突き刺さる。それは、これまで向けられてきた温かい眼差しとは全く違う、好奇心と、少しの悪意と、そして何よりも真実を渇望する、鋭利な刃物のような視線だった。


――終わった。


美玖の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。血の気が引き、耳鳴りがする。隣に座る他のメンバーたちが、息を呑む気配がする。どうする? どう答える? 嘘をつく? 「全部、ファンの皆さんに喜んでもらうための営業ですよ」と、完璧な『氷の姫』の仮面を被って、そう答えるのがきっと正解だ。


でも、そう言ってしまったら、隣にいるこの子の気持ちを、私たちの現実を、自分自身で踏みにじることになる。それは、死ぬことよりも、辛い。


思考が完全に停止し、金縛りにあったように動けない美玖の隣で、梨乃が動いた。

彼女は、凍り付いた笑顔をゆっくりと溶かすと、マイクを握り直し、すっくと立ち上がった。そして、客席を、その一番後ろの壁までを見渡すように、ゆっくりと、しかし力強い視線を向けた。


その瞳に、もはや怯えの色はなかった。そこにあるのは、圧倒的な覚悟。

愛する人を、そして自分たちの世界を守り抜くという、揺るぎない決意。


「――答えます」


凛、とした声が、静まり返ったホールに響き渡った。


「質問、ありがとうございます。すごく、すごく嬉しい質問です。私たちも、いつも皆さんが、私たち二人のことを、どんな風に見てくれているのかなって、気になっていたので」


梨乃は、一度言葉を切ると、ふわり、と、まるでステージに舞い降りた天使のように、柔らかく微笑んだ。


「どこまでが営業で、どこからが本気か、ですよね?」


客席が、ごくりと息を呑むのが見えた。美玖は、ただ梨乃の横顔を見つめることしかできない。


「うーん、そうですねぇ…」


梨乃は、わざとらしく小首を傾げ、考えるそぶりを見せた。

その一挙手一投足が、完全に場の空気を支配している。

そして、次の瞬間。彼女は、いたずらが成功した子供のように、ぱっと顔を輝かせると、言い放ったのだ。


「えー? ぜーんぶ、本気だよっ♡」


一瞬の沈黙。

そして、次の瞬間、ホールは、割れた。


爆発、と表現するのが最も近い。地鳴りのような歓声と、絶叫と、拍手が、津波のようにステージに押し寄せた。何人かのファンは、その場で崩れ落ちるように泣き出している。


「――なんちゃって!」


梨乃は、熱狂の渦の中心で、ぺろりと舌を出してウインクしてみせた。その完璧な締めくくりに、会場のボルテージは制御不能なレベルにまで達する。もはや、それは感謝祭ではなく、一つの宗教的な儀式のようだった。


「きゃー!」「りの様ー!」「もう結婚しろー!」


阿鼻叫喚の客席。その熱狂の中で、美玖は呆然と立ち尽くしていた。

梨乃が、たった一人で、この絶体絶命の状況を、最高のエンターテイメントに変えてしまった。

イベントは、その熱狂が冷めやらぬまま、奇跡的な大団円を迎えた。



そして、その夜。美玖たちの知らない場所で、もう一つの祭りが始まっていた。


>『【神回】ファン感レポ。全てが本気(なんちゃって)宣言。私は現場で死んだ』

>『「なんちゃって」が完全にフリだった件について。あれはもう公開告白以外の何物でもない』

>『あの質問した少年、GJすぎる。彼こそが我らの救世主』

>『もはや“営業”という名の皮を被ったドキュメンタリー。#公式が最大手』


SNSのトレンドは、「#みくりの」関連のワードで埋め尽くされた。

ファンたちは、梨乃の言葉の真意を、完璧に理解していた。そして、その真実を理解した上で、「営業」というお約束のゲームに、これまで以上の熱量で参加することを決めたのだ。


楽屋に戻り、二人きりになった瞬間、美玖は梨乃に強く抱きついた。

「…怖かった…!」

「うん、怖かったね。ごめんね」

「…梨乃は、すごい。本当に、すごい…」


震える美玖の背中を、梨乃は優しく撫でた。その手は、ステージの上とは比べ物にならないほど、小さく、そして温かかった。


「大丈夫だよ、みく。私たちが本気だってこと、誰も気づいてないから」


梨乃は、心の底からそう信じているような声で、言った。

その甘く、そして決定的な勘違いに、美玖はもはや何も言うことができなかった。

ただ、この温かい腕の中で、自分たちの秘密が、まだ守られている(と思い込める)幸福を、噛み締め続けるしかなかった。

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