第5話 私たちが「恋人」になった日(馴れ初め・後編)
あの雨の日の夜、古びたレッスン室で交わされた約束。
『私が美玖をセンターにする』
その言葉は、呪いのように、そして祈りのように、桐島美玖の魂に深く刻み込まれた。それは、孤独という名の氷の城壁に差し込んだ、初めての光だった。
それからの日々は、まるで疾走する夢のようだった。
梨乃は有言実行の塊だった。
彼女は天性のコミュニケーション能力と愛嬌を武器に、それまでバラバラだった研修生たちの心を巧みにまとめ上げていった。
美玖がその圧倒的な実力でパフォーマンスの頂点に君臨し、梨乃がその太陽のような明るさでグループの心を一つにする。いつしか二人は、誰もが認めるユニットの両輪となっていた。
そして、運命の日が訪れる。
最終オーディションの結果発表。プロデューサー、役員、振付師といった、私たちの生殺与奪の権を握る大人たちが、重々しい表情で審査用紙に目を通している。息を吸うことさえはばかられるような、真空の沈黙。床のワックスの匂いが、やけに鼻についた。
「――デビューメンバーは、以上五名。そして、センターは……桐島美玖」
その名前が呼ばれた瞬間、世界から音が消えた。
歓声も、拍手も、誰かの嗚咽も、すべてが分厚いガラスの向こう側の出来事のようだった。ただ、隣に立つ梨乃が、自分のことのように顔をくしゃくしゃにして喜んでいるのだけが、やけにスローモーションで見えた。彼女は美玖の手を強く、強く握りしめ、「やったね」と、声にならずに呟いた。
約束が、果たされた。
美玖は、梨乃が望んだセンターになったのだ。
しかし、その日から、美玖の世界は再び静かに色を失い始めた。
デビューが決まると、待っていたのは祝福だけではなかった。雑誌の取材、テレビ局への挨拶回り、レコーディング、衣装合わせ、ダンスのフォーメーション確認。分刻みで消費されていく時間。そのすべてで、美玖は「センター」であることを求められた。
センターとは、ただ中央に立つ人間ではない。それは、グループの顔であり、象徴であり、すべての期待と責任を一身に背負う生贄(いけにえ)でもあった。カメラのフラッシュは、他のメンバーの数倍、美玖に集中した。インタビューで最初にマイクを向けられるのは、常に美玖だった。
かつて、研修生たちからの嫉妬と畏怖が作り上げた孤独とは、また質の違う、新たな孤独。それは、期待という名のガラスケースに閉じ込められるような、息苦しい孤独だった。
梨乃は、そんな美玖の危うさを見抜いていた。
移動中の車の中で、眠るふりをして美玖の肩に頭を預けてきたり。誰も見ていないタイミングで、そっとポケットにチョコレートを忍ばせたり。その細やかな気遣いが、美玖の心をかろうじて繋ぎとめていた。だが、二人きりでゆっくり話す時間さえ、デビューという巨大な波は飲み込んでいった。
そして、運命の夜は、デビュー曲を初披露するショーケースの前日にやってきた。
美玖の借りたばかりの、まだ生活感のないワンルームマンション。窓の外では、都会の夜景が作り出す人工の星々が、冷たい光を放っている。その光は部屋の中までは届かず、美玖は電気もつけずに、ただ一人、床に座り込んでいた。
明日、あのステージに立つ。センターとして。何千もの視線が、自分の一挙手一投足に注がれる。梨乃がくれたこの場所で、私は、失敗できない。完璧でなければ、ならない。
その重圧は、鉛の塊となって美玖の全身を押し潰していた。手足の感覚がない。呼吸が浅い。鏡を見なくてもわかる。今の自分は、あの雨の日、床に突っ伏していた時よりも、ずっとひどい顔をしている。
ピーンポーン、と無機質なインターホンの音が、静寂を切り裂いた。
居留守を使おうか。そう思ったが、身体が動かない。音は、執拗に二度、三度と繰り返される。諦めたように、美玖は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。ドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは、いるはずのない人物だった。
「…梨乃…」
ドアを開けると、梨乃はビニール袋を片手に、少し困ったように笑っていた。
「ごめん、こんな時間に。どうしても、顔が見たくなって」
「…どうして、ここが…」
「佐々木さんを脅して聞き出した」
梨乃は悪びれもせずに言うと、ずかずかと部屋に上がり込み、勝手知ったる様子で電気をつけた。眩しい光に、美玖は思わず目を細める。
「うわ、何この部屋。ガラーンとしてる。ちゃんとご飯食べてるの?」
「…食べてるわ」
「嘘。顔、真っ青だよ。隈もひどいし」
梨乃はビニール袋から温かいお茶のペットボトルを取り出すと、それを無理やり美玖の手に握らせた。じんわりと伝わってくる温もりに、凍えていた指先の感覚が少しだけ戻ってくる。
「…何の用? 明日に備えて、早く休まないと」
「それは、こっちのセリフ。ねぇ、美玖。また、あの日の顔してるよ」
梨乃は、美玖の目の前に立つと、その瞳をまっすぐに覗き込んできた。それは、研修時代の、あの雨の日の夜と同じ、全てを見透かすような真剣な眼差しだった。
「怖いんでしょ。また、失敗するのが」
「……」
「一人で、全部背負い込もうとしてる」
美玖は、何も言い返せなかった。図星だった。梨乃の前では、どんな強固な仮面も、どんな嘘も、意味をなさない。
「…当たり前でしょう…」
かろうじて、絞り出す。
「私は、センターなんだから。あなたの……あなたがくれた、この場所で、みっともない姿は見せられない…!」
感情が昂り、声が震える。梨乃は黙って、その言葉を受け止めていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「…違うよ、美玖」
「何が違うのよ!」
「私がセンターにしたかったのは、ただ完璧なだけの『桐島美玖』じゃない」
梨乃は一歩踏み出し、美玖の両肩を掴んだ。その手には、震える美玖を落ち着かせようとするような、強い力が込められている。
「私がセンターにしたかったのは、私が好きな、桐島美玖だよ」
時間が、止まった。
好き? 今、この子は、好き、と、言ったのか?
思考が、ショートする。理解が、追いつかない。
「研修生の時から、ずっと。誰にも媚びないで、自分の信じる美学だけで、一人で戦ってる美玖が、綺麗で、眩しくて、…放っておけなかった。私が隣に立ちたかった。ううん、隣で、支えたかった。私がこの手で、あの人を一番高い場所まで押し上げるんだって、そう決めたの」
梨乃の瞳が、熱に濡れている。それは、友情や憧憬の色ではなかった。もっとずっと、切実で、濃密で、どうしようもなく甘い、恋の色だった。
「だから、お願い。一人で戦わないで。私がいる。あなたの隣には、絶対に私がいるから」
その言葉が、最後の引き金になった。
美玖の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。堪えていたもの、押し殺していたもの、重圧、恐怖、孤独、その全てが、熱い雫となって頬を伝い落ちていく。
「…りの…っ…」
「うん、みく」
梨乃は、泣きじゃくる美玖を、壊れ物を抱きしめるように、優しく、しかし力強く抱きしめた。美玖の背中を、あやすようにゆっくりと撫でる。その温もりと、シャンプーの甘い香りに包まれて、美玖は子供のように声を上げて泣いた。
どれくらいの時間が経っただろうか。涙が枯れ果てた頃、美玖は梨乃の腕の中で、そっと顔を上げた。梨乃は、何も言わずに微笑んでいた。その笑顔を見て、美玖は、自分がずっと前から、この笑顔に救われていたことを、そして、この笑顔を誰にも渡したくないと、心の底から願っていたことに、ようやく気づいた。
「…私も、好き」
それは、やっとのことで絞り出した、か細い声だった。
しかし、梨乃にはっきりと届いた。梨乃の瞳が、驚きに見開かれ、そして、次の瞬間、花が咲くように、これまでで一番美しい笑顔になった。
どちらからともなく、顔が近づく。
初めてのキスは、涙でしょっぱい味がした。
その夜、二人は一つのベッドで、夜が明けるまで語り合った。そして、恋人として迎える最初の朝の光の中で、美玖は言ったのだ。
「…この関係は、絶対に、誰にも知られてはいけない。ファンを、メンバーを、裏切ることはできないから。これは、私たち二人だけの、秘密」
その提案に、梨乃は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐにこくりと頷いた。
「うん。わかった。二人だけの、秘密だね」
それが、この壮大で、甘ったるい勘違いの始まりだった。
あの時、互いの手を固く握りしめて誓った秘密の協定が、まさか世界中に公認され、温かく見守られることになるなど、この時の二人は、知る由もなかった。
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