3
窓の外は、静かな雪だった。
湖から吹く風が、白い粉を街の屋根の上にまき散らしている。
室内は石造りの壁のせいで少し冷たく、ストーブの赤い火だけが小さくゆれていた。
イナ・イエヴレワは、机の引き出しをゆっくりと開けた。
その奥から、擦れた紙の封筒を取り出す。
中には、若い女性の写真。
淡い金髪と、どこか遠い国の光を宿した瞳。
――それが、彼女の母だった。
母はロシア人ではない。
英国系のアメリカ人。
かつて、学生の頃に父とフランスで出会い、恋をして、結婚した。
その後、母は外国籍を捨ててソビエトに渡った。
けれど、国は彼女を受け入れなかった。
イナ・イエヴレワが生まれ、授乳が終わる頃――
「外国人は、もうこの地に滞在できません」と、冷たい通達が届いた。
母は祖国へ帰され、娘はソビエト国人民として父に引き取られた。
それがこの少女の始まりだった。
イナ・イエヴレワは写真を両手で包むように持ち、唇でそっと息を吹きかけた。
母の笑顔は少しだけ滲んで、光の中に溶けていくように見えた。
「お母さまのところに、行きたい……」
彼女は小さな声でつぶやいた。
部屋には、その言葉だけが残った。
壁の時計の針が静かに進む音が、やけに大きく響く。
しばらくの沈黙のあと、イナは窓の外を見つめた。
灰色の空の下で、湖面がかすかに揺れている。
その揺らぎは、彼女の胸の中にある小さな波と同じだった。
「……楽しいって難しいな……」
彼女はまた独りごとのように言った。
その声は、冷たい空気の中に吸い込まれていった。
****
イナ・イエヴレワは、手の中の写真をじっと見つめていた。
古びた白黒の写真の中で、若い母が微笑んでいる。どこかヨーロッパの街角のような背景。明るい髪が風に揺れ、瞳には淡い光があった。
「……お母様」
声に出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
机の上に写真を置き、彼女は膝の上で手を組んだ。指先が冷たい。
「私、頑張って、生きなければいけないの……?」
言葉は、静かな部屋に吸い込まれていった。
暖房の音がかすかに続く。
外では、雪が降りはじめているのかもしれない。風の音がときおり窓を叩いた。
ふと、幼い頃に聞いた母の声が、記憶の底から浮かび上がる。
柔らかく、優しい声だった。
――ご飯が食べれて
暖かい場所にいれて
お風呂にはいれて
お布団でねむれる
これが幸せよ――
あのときは、ただ笑って頷いた。
けれど今、その言葉の意味が、痛い。
「……死んで終わりなのに、なんで生きてるの?私」
写真の中の母は、静かに微笑んだままだった。
その笑顔が、遠い国の光のように、今のイナ・イエヴレワには届かない。
彼女は写真を胸に抱きしめ、ゆっくりと目を閉じた。
部屋の中に、静寂が降り積もっていく。
まるで、雪のように。
イナ・イエヴレワは窓の外を見つめた。
灰色の湖面が寒そう。
「生きて、くの、私……?」
声は自分自身に問いかけるようで、でもどこか弱々しかった。
机の上に置かれた写真を見つめる。母の笑顔、遠い国の空。
悲しみが胸に波のように押し寄せる。
――悲しいのは、悲しすぎるから……──
その言葉が、胸の奥で反響する。
誰かに言われたわけでもなく、ただ自分自身の心が囁いた。
「人は、死ぬんだよ」
イナ・イエヴレワは小さく息を吐く。
「楽しいことは、すぐに消える……」
指先が写真の縁をなぞる。
光も音も、すぐに消えてしまうけれど、それでもここに生きている自分がいる。
「……人間は?、楽しいこと?は、消える……」
イナはその現実??……を、ただ静かに受け止めた。
部屋の空気は冷たいけれど、暖房の音が微かに生きていることを思い出させる。
そして彼女は、写真を胸に抱きしめた。
消えない光はここにはないかもしれない……けれど。
****
イナ・イエヴレワは机の引き出しから封筒と便箋を取り出した。
薄い紙を前に置き、鉛筆を握る手は少し震えていた。
しばらく、何も書けずに息をつく。
窓の外の湖面が、灰色の光を揺らしていた。
やっと、鉛筆を動かし、文字を紡ぐ。
「お母さまへ……」と、ひと文字ひと文字、心の奥から出てくる言葉をそっと便箋に刻む。
──────────────────────────
お母さまへ
私は元気にしています。
でも、夜になると湖の水が真っ黒に見えて、少し怖くなります。
昨日も、湖の前で立ち止まってしまいました。
どうして私、生きているのでしょう。
悲しい気持ちが強すぎて、自分でも整理できません。
お母さまに会いたいです。
あなたなら、私の気持ちをわかってくれると思うから。
イナ・イエヴレワ
──────────────────────────
書き終えると、手が止まり、深く息をついた。
涙がひと粒、頬を伝う。
イナは便箋を軍用封筒に入れ、丁寧に折りたたむ。
糊をぬり、封をして、切手をそっと貼った。
「届くかな……」
彼女は軍用封筒を机の上に置き、しばらくそのまま見つめた。
送ることはできないかもしれない。
でも、書いたという事実だけで、よかった。
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