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イナ・イエヴレワ(Ina Ievleva)とイナエ・ボロダコワ(Inae Borodakova)は、
ソビエトの内陸部にある巨大な湖のほとりの街に暮らしていた。
湖の周囲には温泉が幾つも湧き出し、地中からは豊かな湯量が絶え間なく湧き、
その蒸気は朝になると街全体をやわらかく包み込んだ。
冬の寒さは、湖と温泉のぬくもりによって遠ざけられ、
この土地は、冷たい内陸の大地の中で、ひそやかに暖かく保たれていた。
湖畔の街は、決して観光地ではなかった。
その美しい湖の近くの森林には冷戦下の軍事施設が潜み、
大陸間弾道ミサイルの基地が静かに稼働していた。
街の住人はほとんどが軍人の家族であり、
軍関係者やその関連職に就く一般人たちで占められていた。
赤錆色の屋根、灰色の壁、規則的に並ぶ小さな窓。
一見すると湖畔の普通の住宅街だが、
住宅は軍の資材で作られており、どこか堅牢で質実な印象を与えた。
司令官の住宅は、その中でもひときわ目立つ白い豪邸であった。
二階建ての建物は、外観こそシンプルだが、
厚い壁と強固な基礎により、外界の騒音や戦争の影から内部を守る設計になっていた。
屋根は平らに近く、煙突は一本、目立たぬように立ち、
窓は大きく、湖を一望できる位置に配置されていた。
内部は質素で整然としており、
軍の規律と家庭の静けさが同居する空間だった。
家具は重厚で無駄がなく、
廊下は広く、壁にはわずかに家族の写真や風景画が飾られていた。
その豪邸に住むのが、二人の少女である。
イナ・イエヴレワは司令官の娘。
イナエ・ボロダコワは、司令官の亡き妹の娘であった。
二人は姉妹のように育てられたが、血のつながりは薄く、
家族としての絆は日々の生活の中で少しずつ紡がれていた。
メイドが家事を取り仕切り、司令官は軍務のため長く家を空けることが多い。
そのため少女たちは、邸宅内の静寂と、湖を渡る風の音を友とし、
ボートを漕ぎ、水面に映る雲を見つめながら、
日々の時間をゆっくりと過ごしていた。
イナは観察力が鋭く、物思いにふけることが多く。
一方、イナエは活発で明るく、
イナを笑わせることが多かった。
二人の目は、湖の青と緑を映すように、
それぞれに異なる輝きを湛えていた。
湖畔の街も、住宅も、少女たちの暮らしも、
すべては静かに、しかし何かを秘めたまま、時間の中に佇んでいた。
朝早くの時間。
イナ・イエヴレワ(Ina Ievleva)と
イナエ・ボロダコワ
(Inae Borodakova)は、
メイドが淹れてくれたあたたかいミルクティーを、
湖の見える窓辺の小さなテーブルで二人並んで飲んでいた。
ミルクティーの湯気がふんわりと立ち上り、
隣に添えられた焼きたてのクッキーの香ばしい匂いが、
静かな朝の光の中でほのかに漂っていた。
イナ・イエヴレワは手に取ったクッキーを、
サクッと軽くかじると、口の中でほろりと溶けていくのを楽しんだ。
一方のイナエ・ボロダコワは、ミルクティーに角砂糖をひとつ落とし、
クッキーには手を伸ばさず、カップを軽く傾けて飲んでいた。
「クッキー、食べないの?」
イナエ・ボロダコワはすぐには答えず、静かに窓の外を見ながら問い返すように言った。
「昨日の夜、湖で一人で何してたの?」
「夜の湖散歩」と短くイナ・イエヴレワ。
イナエ・ボロダコワは、夜の湖の水面を思い浮かべるように目を細めた。
そして小さな笑みを浮かべながら、クッキーのひとつを手に取り、
口に放り込んだ。
サクッとした食感と、ほの甘い香りが口いっぱいに広がる。
イナ・イエヴレワが
ミルクティーのおかわりを
取りに行く間。イナエ・ボロダコワは窓際の花を見ていた。花はメイドが植えたもの、なんの花かわからないけど、たぶん……。
すると、ミルクティーのおかわりを持ってイナ・イエヴレワが戻ってくる。彼女はミルクティーのカップで手を温めながら話す。
「昨日の夢ね。湖の水が真っ黒に見えたの。夢の中では、この街の全面戦争アラートが鳴り響いて、核戦争がこの街から始まって……。いつもの夢」
「わかる……」
イナエ・ボロダコワが小さくつぶやく。
その声は、朝の静かな部屋に溶け込んで、風に混じった温泉の湯気のように柔らかく漂った。
イナ・イエヴレワは窓の外を見やった。
灰色の雲が湖の上をゆっくりと流れ、温泉地帯のぬるい蒸気が空気を湿らせている。
遠くで、軍のサイレンの練習音がかすかに聞こえ、夢と現実の境界を曖昧にさせた。
「自分の人生の終わりは……自分で決めたほうがいいのかな」
イナ・イエヴレワは、言葉をひそめてつぶやいた。
「先延ばしは駄目?」
イナエ・ボロダコワが問いかける。
「幸せな時に死んだほうが……いいような気がする」
イナ・イエヴレワは小さく笑った。
「今、幸せなの?」
イナエ・ボロダコワの目が真剣に揺れる。
「わからない……たぶん、だけど……」
答えは曖昧だった。
イナエ・ボロダコワは、手のひらでミルクティーのカップを包み、白い湯気が指先をふわりと覆うのを感じた。
その湯気越しに見えるイナの瞳は、湖の深い碧と同じ色をしていた。
「それで、夜に湖に散歩?」
イナエ・ボロダコワの声には、静悲が混ざっていた。
「うん……」
イナ・イエヴレワは小さくうなずく。
夜の湖は、昼間とはまるで別の場所のように静かで、風もなく、音もない。
水面は鏡のように闇を映してるから死の世界かもしれないとイナ・イエヴレワは言うのだった。
イナ・イエヴレワは、自分の部屋に戻ると、扉を静かに閉めた。
窓の外では、薄い雲の向こうに湖の光がぼんやりと反射している。
暖房の音が微かに鳴り、部屋の空気は重たく、静まり返っていた。
彼女は机の椅子に腰をおろし、両手を膝の上で握りしめた。
「……私、生きて、なにをすればいいのかな」
言葉は誰に向けたわけでもない。
自分の中から、ふと洩れ出した。
昨日の夜――湖の前に立ったときの冷たい風の感触を思い出す。
あのとき、湖の水面は真っ黒で、吸い込まれそうだった。
一歩、踏み出せば楽になれる気がした。
けれど、足は動かなかった。
「……死にたいだけ、……なのに……」
彼女は自分の声に驚く。
涙ではなく、乾いた息だけがこぼれ落ちた。
脳裏に浮かぶのは、誰かの笑い声。
冷たい、他人の目。
「『死ぬ勇気もないのに、死にたいって言うな』」
そんな言葉を思い出し、胸の奥が焼ける。
「……そうだよね。私、死ぬ勇気なんて、ない」
言葉が空気の中に消える。
そのあとに残るのは、静寂と、暖房の低い音。
「私……の悲しみなんて……」
イナ・イエヴレワは呟き、窓辺に歩み寄った。
窓の向こうの湖は灰色の空を映し、冬の光に沈んでいる。
どこかで軍の汽笛が鳴り、遠くの風がカーテンをわずかに揺らした。
「なんで、生きてるのかな……」
その言葉には、涙のような柔らかさがあった。
「私は、この世界には向いていない。」
イナ・イエヴレワは、小さく囁いた。
「……死ぬって?いけないことなの……?」
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