ひかりの森

深山心春

第1話

 雨がひっそりと降っていた。先ほどまで頻繁に転げ落ちていた石や土砂はもうほとんど静まっている。時が経つとともに次第に強まる雨と、内から聞こえる自分の荒い息遣いだけがこもるように響いて耳についた。

 赤ん坊ほどの石を何度も何度も打ちつけた。折れるような鈍い音と粘つく嫌な音がして、石を振り上げるたびに汚いものが石を染めて滴り宙へと散っていく。

 潰さなければ。これが、誰だか、わからないように。

 頬に血飛沫が飛んで初めて手を止めた。

すぐに雨がそれを流していくのはわかっていたけれど、手で強く何度も頬をこすった。石を離してみて初めて、自分の手がまるで痙攣しているようにひどく震えているのに気づいた。両手をきつく握っても震えは止まらない。うつむいて両手を額につけると、まるで祈っているかのような格好になった。

「……が、悪いんじゃない。悪いんじゃ……」

 肩で息をしながら呪いのように何度もつぶやく。冷たい雨が体を濡らしていくけれど、こころはもっと冷えていく気がした。

 顔を上げることはできなかった。

 視線を上げると割れた柘榴の実のようなものが、身を起こしてじっと自分を見ている。そんな気がしてならなかった。

 雨の音をかいくぐって複数の人の声が聞こえた。逃げなければ。その思いが急速に脳裏に広がった。振り向いた側はまだ崖になっている。わずかに下がった足のせいで、小石が底に転げ落ちていく。足音が、声が近づく。

 逃げなければ。荷物を引き寄せる。

 その思いだけが心も体もすべてを支配していた。


 レシテはのどかな気候の島だ。海に浮かぶいくつかの島々の都市国家のひとつである。どこまでも広がる青空の下、羊の肉を丸めて野菜とごった煮にしたスープの大鍋をかき混ぜた。東方の香辛料の効いたスープの香りが熱い湯気と一緒に立ち上る。

「おーい! フィン! はやくスープ!」

「もうすぐ!」

 短く返事をして質素な木の椀に次々にスープを一定分量でよそっていく。列に並んだ30人ほどの人々は礼を言いながら受け取り、多くは木陰に敷いた敷布の上に腰を下ろした。少年は配り終わるとやはり涼を求め、木陰に座り足を投げ出す。ふう、とひとつ息を吐き、額の汗を拭った。

 少年の背は高くもなく低くもない。ゆったりと腰まである木綿の立ち襟のシャツに、藍色の帯を締め布の笛筒を下げていた。ぬるい風が少年の癖のない茶色の髪をそよがせる。甘やかな顔立ちにはほんの少しの幼さが残っていた。深い青色の瞳がまぶしそうに空を仰いだ。鮮やかな緑の木々は陽射しを受けてまばゆく輝き涼しい風を落としていた。

(ひかりの森)

 意識に滑り込むようにふいにその言葉がよみがえる。

「フィン。なにぼんやりしてるんだ?」

 はっとして声の方へ視線を向けると、ユアンが傍らに立っている。飄々として軽い性格の青年だったが、深みのある上手いと思わせる笛を吹く。

「別になんでもないよ。どうしたの?」

 尋ねると、彼は困ったように首をさすった。

「プロムがまだ飯に来ないんだよ」

「また?」

 呆れて声を上げると、そうなんだとため息をつく。

「で、僕に呼んでこいと言うんだね?」

「まだ練習していると思う。おまえさんの仕事だろう、新米さん?」

「はいはい。芸もできない雑用の僕の仕事ですよね。行ってくるよ」

 軽口を叩いてよいしょと立ち上がると、ユアンは少し笑って少年の頭を軽くこづいた。

「頼んだ。お前の笛、聴いてみたかったよ」

 そのまま手を上げて立ち去って行く。

 まだ感触の残る頭に手をやる。嫌な気持ちではなかった。ひとつ背伸びをして、フィンは木漏れ日の中を歩きはじめた。


 いま、古都プルシェではたくさんの音楽舞踏団が集まっている。ひと月後に王の息子の成人の儀式が行われ、それに合わせて古都は祭りになるからだ。島で有名ないくつかの舞踏団は、王や王子の前で舞を披露し競うことにもなっている。

 フィンたち「青海の紅玉」もそのひとつの一座だった。数日前から古都プルシェの城門前の森に宿営地を張っている。プロムは30人ほどの一座きっての舞い手である。

 プロムは元々、練習熱心な舞い手だったけれど、王の御前で舞うことが決まってから一段と練習熱心になっていた。

(舞姫は見初められるかもしれないものね)

 一座の者たちの噂話を思い出し、ふうんとつぶやきながら土草を踏みしめ歩いていく。小さな白い花を咲かせたオリーブの茂みを過ぎると、鈴の軽やかな音がはっきりと聞こえはじめた。更に歩を進めると、見慣れた少女が軽やかに舞っている姿が見えた。

「お昼だよ」

 鈴の音は響き続ける。

「プロム、もうお昼だよ」

 口に手をやり大きな声で告げると、鈴の音が一際大きくなり、震えるように消えた。

「フィン、もうそんな時間?」

 驚いたように目を大きくさせて、少女が振り返る。ひとつに束ねた癖のない亜麻色の髪は豊かに腰まで届いて揺れていた。色白で榛色の大きな瞳が印象的な少女だった。ひだの多い木綿の半スカートに紅い帯を締め、裾をつぼめたズボンを履いている。フィンと同じ16歳の少女だったが、艶やかというよりは清らかであどけない印象の少女だった。

「毎回呼びに来る僕の身にもなってよね」

「ごめん。いつもありがとう。感謝してるから」

 プロムは屈託なく笑う。フィンは呆れてため息をついた。とても舞の名手には思えない。

「ごめんってば。さあさ、行きましょ。フィンのスープ楽しみだな最初は酷かったけど、美味しくなったよね」

「そりゃ、1年近くも雑用やってたらね」

 2人並んで木陰を歩いていく。フィンのほうがプロムより頭ひとつ背が高い。プロムが動くたび亜麻色の髪が背中で元気に揺れて、手首の鈴の輪が軽快に響く。

「プロムって本当に元気だよね」

「だって元気が取り柄だもん」

 多少の嫌味も通じない。羨ましいよ、とフィンはため息をついた。

「元気なのは良いけど、ちゃんと練習時間は守ってよね。練習しすぎてもダメなんだから」

「はいはい」

「体調管理も僕の仕事のひとつなんだから。わかってる?」

「わかってるって」

 にこにこと笑うプロムを横目で睨む。絶対にわかってない。少し意地悪な気持ちになって、そう言えばと話題を変えた。

「プロムが練習熱心なのって、見初められたいからだって本当?」

「えっ」

 プロムの頬がほんのりと朱に染まるのを見て、フィンは立ちどまった。驚いた。ただの噂だと思っていたのだ。立ち止まったふたりの間を微かな風が通り過ぎていく。

「わ、私は別に……ただ……」

上擦った声で言い訳を探すプロムの声に、フィンも我に返った。プロムの背をぽんぽんと叩く。

「別に僕は良いと思うけど? さ、早く行こうよ。本当にスープが冷めちゃうよ」

「う、うん。お腹空いちゃった」

 気を取りなおしたように笑うプロムに、フィンもちょっと笑ってみせる。遠くにちらりと目を向ければ城壁が見えた。門をくぐれば白壁の家々と白い宮殿が見えるはずだ。その景観から古都は「白の都」とも呼ばれている。他愛もない話をしながら、皆の元へと急いだ。


 どこまでも届いてゆくのではないかと思うほど、さまざまな音色が響いている。

 今日もよく晴れていた。舞い手や弾き手が練習に励むのはもちろんのこと、フィンもいつもの食事や洗い物の他に、衣装の最終的な手配に追われている。

 あふれるほどの衣装が入った編み籠を積み上げていく。

 見初められたいから頑張る。別に恥じることでもないと思う。誰だって自分のいちばん居心地の良い場所を求めている。当たり前のことじゃないか。

 ふと手を止める。そうだ、当たり前のことじゃないか、そうだろう?

 流れた汗を拭うと籠に寄りかかった。その拍子に帯に下げた笛筒の紐が外れる。手を伸ばしたが間に合わず、笛筒は音もなく緑の下草に落ちた。急いで拾い上げ安堵の息をつく。手に感じる笛筒の感触にフィンはしばらく黙って眺めていた。

「笛を吹きたいだろうね」

 その声に物思いから引き戻される。体が強張った。視線の先には小柄な老婆が腰を屈めて佇んでいた。

「ノエラ長老……」

 ノエラは足を引きずるように歩いてくると、フィンの手を皺の深い両手で取った。

「綺麗な良い指だ。笛が吹きたいだろう」

 フィンは黙ってされるがままになっている。ノエラの黒い目は膜がはっていた。その両目がじっとフィンの心奥深くまで見ている。そんな錯覚を覚えそうになる。

「私の目はほとんど見えなくなったけれどおまえの笛の音はよく覚えているよ。技術は少し足りないが、優しい、本当に優しい透き通るような音色をしていたね」

 懐かしむような声の響きに耐えきれず、フィンはうつむいた。やわらかな茶色の髪が音もなく落ちて、フィンの表情を隠す。

「旅先で偶然通りかかった家の中から流れてくるおまえの笛の音を聴いたとき、ぜひ手元で育てたいと思った。おまえの両親には子どもを売る気はないと怒られておまえに会うこともできなかったけれど。せめてと託した手紙を持って訪ねて来てくれた時にはどんなに嬉しかったか……なのに」

「ノエラ長老……僕は」

「おまえは両親を亡くし、その上事故で手は前のように笛を奏でられなくなっていた。音を奏でるのは繊細な指の動きが必要だからね。あの音色を出すことはもう難しいのだろうね……でも、それでも良いからもう一度、おまえの笛を聴きたいと思ってしまうんだよ」

「僕は。僕はもう、笛を吹かない……!」

意識せず激しい言葉が口から漏れた。フィンはうつむいたまま、はっと口をおさえた。ノエラの顔にたちまち失意に似た色が広がる。しかしすぐに頭をひとつ振る。

「そうだね。前のような音色を出せないのは辛いだろう。お前はとても良く働いてくれる。それで良いんだよ。おまえは堂々とここにいて良いんだからね」

「ノエラ長老……すみません、僕は」

「私こそすまなかった。言うまいと思ったのに、大舞台を前にしておまえを思うと切なくなってね。邪魔したね……公演までもう少しだ。頑張って働いておくれよ」

 フィンの頭を撫でてノエラは去っていく。フィンは動けずに笛筒を握る手だけに力を込めた。

 誰の気配もなくなってから、やっとの思いで顔をあげる。息をつく。空には音が溢れている。まぶしくてたまらない。フィンはきつく目を閉じた。


 空は次第に夜の色を帯び始める。夕食後の稽古も終えて、仲間は篝火のそばに寄り談笑した。フィンは夕食後の後始末を終えると、話しかけてくる仲間たちと話し込み、あくびを噛み殺したのを機会に席を立った。天幕に戻ろうかと思案しながら歩き始めると、ユアンがよう、と手を上げた。

「ユアン、調子はどう?」

「まずまずかな。本当にもう少しだからな、頑張らないと」

「ユアンがひとりで笛を吹くのは、プロムひとりの舞の見せ場だし、がんばらないとね」

「まあな、うん。俺の見せ場でもあるからな」

 少し照れくさそうな、けれども誇らしげな口調だった。

「戻るんだろ? 途中まで一緒に行こうぜ」

「うん……あ、、僕はもう少しやらなきゃいけないことがあったんだ。先に休んでくれる?」

「そうか。無理するなよ」

 うん、とユアンに見せた笑顔は、彼と別れてひとりになった途端、たちまち失せた。うつむき加減で歩いていく。仲間の声が遠ざかると、下草を踏みしめる音が静かな夜にこだまする。立ち止まり空を見上げると、無数の星々がきらめいていた。

 笛を吹けるユアンと吹けない自分。自業自得であるはずなのに、そんなことを考える権利もないのに、ちりちりと胸の奥が痛んだ。

(――ひかりの森を見つけることはできるかな)

 やわらかな声が蘇っては囁く。フィンはぎゅっと目を閉じると頭を振ってその声を追い出した。息を吐いて見つめた先に、辺りを窺うようなプロムの姿を認めた。安堵にも似た気持ちが胸に広がる。

「プロム、なにしているの?」

「えっ……! わっ、フィンこそ、なにしているの」

 プロムは明らかに狼狽した様子だった。フィンはその様子から察し、ははあと、呆れとも感心ともつかない声が出た。

「また練習しようと思ってたんでしょう」

「えへへ。ね、黙っていてね」

仕方ないなあとフィンは笑みを浮かべる。大丈夫、いつものように笑えている。笑えているはずなのに、プロムは心配そうな顔をする。

「ね。長老と話したって聞いた。大丈夫?」

 笑みが強張るのを自分でも感じた。なんでもないよという声は狼狽えてひどく掠れてしまう。プロムはなにかいいたそうだったが、フィンは拒むように手を振った。

「僕、もう寝るよ。プロムも早く眠るんだよ。少しなら内緒にしておくからさ」

「笛のこと? フィン本当は笛を吹きたいんでしょう? そのことでなにか?」

「……僕は、もう」

 背を向ける。

「僕は、もう、笛を吹けないんだ」

 そのまま歩き出した。顔を上げて、背筋を伸ばして、真っ直ぐに前を向いて。なにも後悔していないんだと言うように。誰にそう言おうとしているんだろうと、心の片隅で思いながら。


 集合馬車の車輪が軋む音が遠くに聞こえた。

「僕たち、どこか似てるね」

「そう?」

「うん。雰囲気や年格好もだけど、今はもう身寄りがいないとか。それにほら」

 優しげな声に楽しそうな響きが加わる。

「笛が好きでたまらないところとか、ね」

「そうだね」

 けれどふたりの少年の行く道はまったく異なっていた。ひとりはこれからも笛の道を歩き、ひとりは肉体労働に従事する道が待っていた。少しの時が過ぎれば、ふたりの細く美しい指は、似ても似つかないものになっていくだろう。

「ねえ、ひかりの森って知ってる?」

「ひかりの森?」

 そうだよ、と優しく少年は頷く。

「女神さまがね、誰にでも幸せになる場所を用意してくれているんだって。幸せな日々を過ごせる場所と時間を、ひかりの森と言うんだ。だけどそれがいつ来るのか、果たしてそこに辿り着けるかは誰にもわからないんだって」

「ふうん……」

ねえ、と少年はどこか遠い目をして再び口を開いた。

「……僕たちはひかりの森を見つけることはできるかな」

 馬車の幌に雨が当たり始める音がしはじめる。車輪に弾かれた石が音を立てて飛んでいく。集合馬車がスピードを上げた。

(だめだ)

 叫ぼうとするけれど、声が出なかった。それでももう1度警告を発する。

(だめだ、その先を曲がってはいけない!)

 ねえ、と優しい声が語りかける。


「ねぇ、僕たちは、どこか似てるね」


 楽しそうに言う少年の顔はいつの間にか、割れた柘榴のように、白い肌を破り、赤い肉が顕になっていた。口とわかる部分が笑みを形どる。粘ついた赤い糸が引く。

 絶叫する声が、自分の声だと気づくまで少しの時間が必要だった。


 胃の中のものをすべて吐き出して胃液も出なくなっても、不快感はおさまらなかった。背筋を這い上るような悪寒がする。苦しさに涙が滲んだ。夢だ落ち着けと言い聞かせても体は震えた。どうしようもなく苦しかった。だから温かな手が自分の背を撫でていることに気づくのに遅れた。のろのろと顔を向ける。

「プロム……まだ練習していたの?」

 やわらかな手が優しく背を上下するたびに、麻痺していた感覚が少しずつ戻ってくる気がした。

「フィンはいつも人のことばかりね。大丈夫? まだ吐きたい?」

 その問いに力なく首を振る。プロムが渡してくれた皮筒で喉を潤した。水はぬるかったけど、とても美味しく、体を満たしていく。ほっと一息をつく。プロムはフィンの頭をそっと掴むと、自分の両膝の上に頭を置いた。頬が熱くなるのがわかる。しかしそんな思いも、見上げるプロムの様子に身をひそめた。

「どうしたの?」

 なにが、とプロムは静かに問い返す。天にのびる木々は黒く影を落としている。星が瞬く夜空に虫の声が聞こえた。ひそやかな月の光を受けるプロムはとても綺麗だった。

「なんだか様子が変だよ。なにかあった?」

「……フィンには敵わないなあ」

 ため息のようにそう言うと、プロムは白い指でフィンの前髪を梳いた。さらさらと髪が流れる音がする。プロムはしばらくの間そうしていたが、やがて、あのねと口を開いた。

「女の子の家は貧しかった。だから小さなその子は舞踏音楽団に売られたわ。舞の稽古は厳しくて、逃げ出すことばかり考えてたの」

 髪を梳く手は止まらない。静かな声と優しい仕草は、フィンにもうない家族を思いださせた。

「そしてね、巡業中、本当に逃げ出したの。でも古都は広くてとても複雑で、すぐに迷ってしまった。路地は狭くて陽も射さなくて、ところどころ欠けた白壁はひんやりとしていた。心細くてたまらなくなったとき、うずくまっている小さな背を見つけたの」

「それで?」

「見たこともない綺麗な服を着た男の子だった。男の子は言ったわ。お前はどうして泣いているんだ、って。その子だって大きな瞳に涙をいっばいにためていたのにね。男の子は、女の子が側にも寄れない身分の子だった。ふたりはいろいろなことを話したわ。舞の稽古が辛いこと、勉強が辛いこと、寂しいんだってお互いにわかった。だから女の子は言ったの。いつか最高の舞をお見せしますって。約束して頑張りますって。男の子はとても喜んで、それなら自分も頑張るって……」

 手が止まった。瞳がどこか茫洋となる。亜麻色の髪が風にさらわれる。フィンはプロムの頬に手を伸ばした。

「怖いんだね?」

 だからか、とフィンは思った。怯えて見えるのはそのせいか。見初められたいとかそんな理由じゃなかった。きっと彼女は約束を守るためにその日から励んできたのだろう。ただ、約束を支えに生きてきたのだろう。そしていま、本当に約束を果たせるのか、不安でたまらないのだ。

「僕で良かったら力になるから。だから、もう少し、頑張ろう?」

 王子が約束を覚えているとはとても思えないけれど、身分の高い者がほんの一時すれ違った女の子を今も気にかけているとは思えなかったけれど。

 だけど彼女のために、覚えていれば良いと心から思った。

「ありがとう……フィン」

 プロムは少し笑う。自分の頬にあるフィンの手に手を重ねて目を閉じた。


 音楽が鳴り響き、色とりどりの花々が空に舞う。白い都の通りには露店がひしめき、大勢の人がはしゃいだ声を上げた。古都プルシェは祭りに酔いしれていた。古都の最奥にある通称「白の宮殿」の空気もいっそう華やいでいる。門をくぐり青くきらめく池に架けられた5つの橋を渡った中庭には、敷布に座ったたくさんの貴人と、選ばれた舞踏音楽団がいた。

 中庭の中央に細長い池があり、舞姫たちがそのほとりで舞っている。

「緊張してるの?」

 囁くとプロムは前を見つめたまま、ぎこちなく頷いた。視線の先には王と主役の王子の姿が認められた。15になったばかりの王子は、なめらかな絹の衣に、大きな緑の宝玉のブローチをつけている。少しきつめな端正な顔立ちの少年だった。

 先の舞踏音楽団の舞はそろそろ終わりに近づいてきている。舞踏音楽団の舞も楽も素晴らしかった。舞姫もとても美しい。だけど、とフィンは思う。

 流れるような亜麻色の髪を背で揺らし、白い花を髪飾りに挿している。額には涙の形の青石を垂らし、裾の膨らんだ刺繍のある絹のズボンを、透き通ったヴェールでつつんでいる。プロムはとても愛らしかった。

 あの夜以来、フィンはプロムの練習に付き合い時には歌い、時には葉笛を吹き、不安になるプロムを慰め励ました。大丈夫。稽古の量も技量も、彼女は誰にも劣っていない。

「大丈夫、自信を持って」

 舞が終わる。頭を下げて、舞姫たちがさざ波のようにさがった。

「さあ、行って」

 背中を軽く押す。プロムはひとつ頷き、ひと呼吸ののち、その背中が次第に遠ざかる。新しい曲がはじまる。ちらりと見えたユアンの覇気のない顔が気になったが、10人の舞姫が一斉にしなやかな腕を空に向けたことに気を取られた。

 舞がはじまった。

 舞姫たちは美しく揃って舞っている。あふれるような音色にあわせて、舞姫の持つ白い布がたなびいていく。ヴェールがふわりと空気にふくらむ。揃って足を地につけるたび、涼やかな鈴の音が響いた。

 プロムは中央で舞っている。先ほどまでの臆していた様子はどこにもなく、ひときわ華やかに見えた。フィンは眩しいものを見る思いでその光景を見つめる。胸に押し寄せる思いを、なんて言い表したら良いのかわからない。ただ、ひたむきに舞い続けるプロムの姿を追っていた。

 やがて舞姫たちが膝をつき、布を持った両手を広げた。立っているのは中央のプロムだけになった。笛の音だけが静かに流れはじめる。片手で布をそよがせ、足を交互に踏み鳴らす。一見簡単そうに見えるけれど、その実、複雑なステップだ。

 フィンが異変に気づいたのはその時だった。微かに笛の音が乱れはじめたのだ。まだ観衆は気づかない。けれどフィンの耳は確かにとらえた。プロムもきっと感じているだろう。笛の音は少しずつ、確実に乱れ始めている。このままでは舞台がだめになってしまう。

(いつか、最高の舞を見せますって)

 フィンは拳を握りしめた。手のひらはやけに汗ばんでいた。約束したの、と声が聞こえる。もう1度、きつく握りしめた。

 フィンは顔を上げる。

 なにをするのか、と隣に控えたノエラの声が聞こえた。戸惑うような違和感は一瞬で、すぐにそれはフィンの手に馴染んだ。音の入り口を探る。目を閉じると、息を吸い込む。

 旋律に旋律が重なった。フィンの吹く笛から、どこまでものびゆくような澄み渡った美しい音が奏でられた。笛の音は空気に乗って、風に流れて、誰も聴いたことのないような豊かな音色と技量を観衆に届けた。プロムがその音に乗って、しなやかに舞う。音もなく跳んで上体をそらし布をひるがえした。フィンはただ一心に吹き続けた。王子が喜んで拍手をし、プロムに言葉をかけるまで。


「プロム! プロム! 見つけた!」

 最大の名誉を手に入れたあと、飛び出すように宮殿を出たプロムを見つけたのは、街を出た宿営地の森の入り口だった。まだ陽は高く、街から賑やかな音楽が聴こえてくる。プロム、ともう1度呼ぶと、背を向けた細い肩を震わせた。

 王子は彼女を褒め称え、親しく語りかけた。胸の宝玉のブローチを与えもした。けれど、彼はプロムを覚えていなかった。どれだけプロムが衝撃を受けただろうかと思うとやり切れなくなる。なにか言ってあげたいのに、言葉が見つからない。ふたり立ち止まったまま、少しの時が流れた。

「ね。私、上手く舞えていた?」

「もちろんだよ……!」

「ちゃんと最高の舞だったかな?」

「うん、とても素晴らしかった」

 だったら、とつぶやいて、プロムはくるりとフィンに向き直った。

「だったらちゃんと約束は果たせたよね。私は最高の舞手になれたんだもの。あの約束のおかげで、私、今日まで頑張ってこられたんだもの。生きてこられたんだもの。全然むだじゃなかった。やっぱり素敵なことだったよ」

 眦には涙が浮かんでいた。それでも彼女は明るく笑う。なにも後悔することはないのだ、と。明日に怯えていたのに、ちゃんと未来を見据えている。     ああ、僕とは違うんだ――と、フィンはまぶしく彼女を見て、そして微笑む。

「本当に。最高に綺麗だったよ」

 あの集合馬車の転落事故。しっかりしろ、と揺さぶった少年――「フィン」の首が力なく落ちた時、運命だと思った。少年の荷物に舞踏楽団の手紙が入っていることも、事情も知っていた。

 彼は、「フィン」はもういない。

 もっと笛を吹いていたかった、幸せになりたかった。なにより孤児として、これから待っているだろう労働者としての過酷な現実から逃げたかった。手が石を探った。

「フィン」の笛の音は長老に知られていたから、笛は吹けなかったけれど――。

「でも覚えていて貰えなかったけれどね」

 プロムはえへへと、恥ずかしそうに頭をかいた。私が覚えているからいっか、と気を取り直したように笑う。すぐに、あっと声を上げ驚いた顔になると、フィンに詰め寄り彼の腕を掴んだ。その拍子にふたりとも座り込んでしまう。

「フィン! フィン! 手は治ったの!? あれフィンだよね!? 凄く素敵な音色だった! 本当に良かった……!」

 プロムは真剣な表情だった。思わず呆気に取られてそして微笑む。ふたり座った場所をくるりと取り囲むように木漏れ日が落ちていた。

 僕にとっての「ひかりの森」はこの場所だった。幸せだと思った。ずっとこのままでいたかった。

 けれどそれは偽りの場所。ノエラは気づいただろう。記憶の音色といまの音色が別物だということに――。僕は後悔するだろうか、と自問する。プロムを助けなければ良かったと後悔するだろうか、と。

「プロム、聞いて」

 微笑む自分に気づいて、ああ、僕もまだ捨てたものじゃないと思った。プロムは変わらず真剣な表情をしている。掴まれた腕に手を添えた。心に染み込むほどに温かく優しかった。ゆっくりと息を吸い込む。

「僕の――本当の名前はね」

 風が吹く。森の木々が一斉にざわめいた。木漏れ日だけが変わらず、優しくふたりを照らし出していた。(了)

 




 

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