ギルト・イン・ザ・ボックス(1)

 突如、後ろから聞こえたバサバサッという羽音。

 静寂を裂くようなその音に、ユズリハはビクッと肩を跳ねさせ、勢いよく振り返った。

 視界の先では、電線から飛び立ったばかりの鳥が群れを成し、すっかり暗くなった空を気ままに舞っている。

 本来は昼行性であるはずの鳥たちがこの時間に飛び交っているのは、どう考えても普通ではなかった。


「夜にカラスなんて……縁起悪い」


 ぽつりと零しつつ、乱された息を整える。

 再び前を向くと、自分の胸辺りまである校門を挟んで、慣れ親しんだ学び舎が、音もなくそびえ立っていた。

 昼間は生徒たちの喧騒を優しく見下ろしている四階建ての校舎が、今では月明かりに照らされて重たい影を落としている。


都立翠ヶ丘みどりがおか高等学校』

 校門の壁面に取り付けられた学校銘板に書かれたその名こそ、ユズリハの通う高校の名前だった。


 月光に照らされた学び舎は、昼間のそれとはまったくの別物だ。

 人の営みと時の流れを感じさせる風化した外壁が、今は酷く不気味に見えた。

 校舎がなぜかいつもよりもずっと大きく見えて、その圧迫感にユズリハはゴクリと息を呑む。

 見慣れたはずの光景が、どうしてこんなに恐ろしく見えるのだろう。

 ただ夜というだけなのに。どうして――


「――大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど」


 前から聞こえた言葉に、ユズリハはふっと我に返った。


「あ、いえ……すいません、なんでもありません」


 ユズリハが平静を取り繕うように言うと、


「そっか。ならいいんだけど」


 彼は短くそう言ってから、校舎をじっと見上げた。

 ユズリハもまた彼の視線を追うようにして、校舎全体を観察する。

 職員室の窓は重厚なカーテンによって、外の光を拒絶するかのように硬く閉ざされている。一ミリの隙間すら見当たらないほどだ。

 他の教室も職員室同様に、またも分厚いカーテンが中身をまるっと隠してしまっている。そのおかげで、外からでは中の様子がまったくわからない。

 

 ……何か、変だ。

 なんとなく思った。

 根拠はない。そう感じた程度のものだ。

 それでも妙にひっかかりを覚える。自分の記憶の中の姿と、何かが違う気がする。

 わかりやすくて、単純な差異。

 しかしユズリハはそれに気が付かないまま、ふっと浮かんだ違和感を頭の片隅に追いやってしまった。


「うーん、どうやって入りましょうか……」


 学校を眺望し続けるカノンに、ユズリハはぽつりと独り言じみた言葉を零す。


「普通にここから入ればいいだろう?」


 彼がさした指の先には閉ざされた校門。

 何人たりとも入ることを許さない、というわけでもなく、よじ登れば簡単に侵入できそうではある。

 しかし――。


「そういうの、良くないと思います」


 ユズリハは眉尻を下げながら彼に苦言を呈す。


「大丈夫だって。誰もいやしないよ」


「誰かが見てなくても、神様の目は誤魔化せないんです。悪いことをすれば、いつかその報いが自分に返ってくるんですから」


「残念。ご存じだと思うけど、神様を信じてないもんでね。でもさ、仮に神様がいたとしても、今回のことは見なかったことにしてくれると思うよ」


「……どうしてです?」


「だってこれ、人助けだもん。いわば善行。そのためならちょっとした悪事も許されるに違いない」


 調子のいいことを自信満々に述べてみせるカノンに、ユズリハは呆れるようにため息をつく。


「それじゃあ、きみはどうやって学校の敷地内に侵入するつもりだったんだよ。出る前に行く場所を伝えたんだから、当然こういう手段を取ることだって考えられたはずだろう?」


「それは、だって……いきなりのことだったし……まさか無断で侵入するだなんてて思いませんでしたし……」


 口から飛び出すのは、言い訳じみた言葉ばかりだった。


「やれやれ。早期解決を願う人間の発言ではないね、それは」


 それだけ言って、彼は校門を安全に登ることができるかどうかを入念に調べ始めた。


 ユズリハは気まずそうな表情で口を閉ざしたまま、どこか他所に目を向けている。

 彼の言葉は、グサリと音を立ててユズリハの胸に突き刺さった。

 その通りであると、頭では理解している。

 ただ、どうにも気が引けてしまう。

 自分の倫理が、それを許されざる行為であると受け付けてくれないのだ。


 ここからでは誰もいないように見えるが、もし守衛や警備員の人が巡回していて、その人たちに見つかってしまったら?

 もし職員の誰かが残っていて、発見されてしまったら?

 先生や警備でなくても、校門を飛び越える姿を偶然見かけた周囲の人が警察に通報してしまったら?

 頭に浮かんでは消えずにとどまり続ける数々の不安が、ユズリハに二の足を踏ませた。


「ぐずぐずしてても仕方ない。さっさと行こう。準備はいいかい」


 そうこうしているうちに、まごまごしているユズリハの様子など気にもせず、既に鉄柵に手を掛けているカノンが言った。


「……」


 顔はやはり下を向いたまま。

 彼の問いかけに対してわずかな沈黙を漂わせたあと、どうしようもないと悟ったユズリハは、ガックリと肩を落としながらも、渋々カノンの提案を受け入れることに決めた。

 これではまるで犯罪者ではないかと、胃のあたりがキリキリと痛む。

 しかしこれも仕方のないことなのだ。

 全ての事態を解決するためには、避けては通れない道なのだから。

 

(お願いだから、誰も見てませんように……!)


 心の中で強く祈りながら、ユズリハも校門の鉄柵に手をかける。


「早く登らないと置いてっちゃうよ」


 真上から聞こえた声の方向に視線を向けると、さっきまで隣にいたはずカノンが、門のてっぺんから仁王立ちの姿勢でユズリハを見下ろしていた。


「え、もう上にっ……!?」


 ユズリハが目を丸くすると、彼は頭上に留まったまま、


「僕が早いんじゃなくて、きみが遅いだけだよ。ユズリハ」


 と言い残し、そのまま向こう側へと降りていった。


 相変わらずの言動に、鉄柵を握る手にぐっと力がこもる。

 最初こそ金属のひんやりとした感触が伝わってきたものの、今や掌の内にこもじんわりとした熱がそれを塗りつぶしていた。


 一歩、また一歩。

 着実に上を目指す。

 手が汗ばんで滑りそうになるたび、それをなんとか堪えながらもう一度力を込め直す。そこに置き場なんてないんじゃないかと不安になりながらも、つま先で足の置き場を探る。

 たとえ踏み外したとしても、骨が折れるような程度ではない。

 そう頭では理解しているが、やはり高さのある場所から落ちるというのはどうしようもない恐怖だった。

 

 なんとか上までたどり着いたときには、すっかり肩で息をしていた。

 緩やかだった掌の熱は内側から滾るような熱さへと変化し、力を抜いた今でもそれが残っている。

 もう少しここでゆっくりしていたい気持ちもあるが、息をついている場合ではない。

 こんなものはまだ序の口なのだ。ここで疲れてしまっていては、これから先、向かう場所で自分を保てるはずもない。


「よし……」


 短く息を吐くと、学校の敷地内、校舎に背を向けながら、登ってきた姿勢とは反対の向きでゆっくりと校門を降り始める。

 登ってきたときより力を込める必要がないので簡単に降りられるかと思いきや、これがなかなかそうでもない。

 これはこれで落ちるかもしれないという不安は常につきまとうし、さっきと比べて腕にしっかり力がこもっていないので、足を踏み外してしまったときに保険がない。

 結局登るのも降りるのも、それなりに怖いのだ。


 自分の足が地面についたことを確認すると、一気に鉄柵から手を放す。

 なかなか時間がかかってしまったが、ようやくユズリハも敷地内に降り立った。


「ふう……」


 額に汗をにじませながら、長めに息を吐く。

 こんなことは体力的にも精神的にも二度と御免だ。

 そう思いつつ隣に目を向けるも、カノンはユズリハがこちら側に来るのを確認するや否や、すぐに校舎の方へと向かい始めていた。


「ちょ、置いてかないでくださいっ」


 これは信頼の表れなのだろうか。それとも単純に、邪険に扱われているのだろうか。

 まだ会って一日も経っていないから、おそらく後者に違いない。たった一日で信頼関係が築かれるとは到底思えないのだから。


 遠ざかっていく彼の背中を慌てて追う。

 あれだけ盛んに空を舞っていたカラスの群れは、再び電線へと集っている。

 どんどんと小さくなっていくユズリハの背をじっと、監視するように、咎めるように見つめながら。



 昇降口にたどり着いたとき、ユズリハは思わず息を呑んだ。

 普段のそれとはまったく違う、冷たく異質な空気が校舎の中を漂っていた。

 想像していた通り、どこも電気は点いていないらしく、せいぜい非常口を示すランプが怪しく緑色に光を発しているだけで、それ以外は闇に包まれている。

 ユズリハはとっさにポケットから取り出したスマホでライトを点けると、それを真っ暗な空間に向けた。


 昇降口を抜けてすぐの真正面に見えるのは、上に続く階段。それから職員室や保健室へと繋がっている、左右に伸びる廊下。

 教室はすべて二階から四階までに設置されていて、ユズリハたち三年生の教室はというと、階段を上がってすぐの階層に割り振られていた。

 翠ヶ丘高校は学年が上がるにつれて教室が下の階層に移る方式を取っているため、登校初日から早々に四階へと昇る苦行をこなさねばならない新入生に同情しつつも、自らも味わった苦しみを体感するべきだと心の中で思うのが、学校生徒の常であった。


「それじゃあ、案内よろしくね」


 ひとしきり周囲の様子を確認し終えたカノンは、そう言ってユズリハの背後に回った。


「一応聞くけど、どこに向かえばいいのかわかってるよね」


「……もちろんです」


 小さく、それでいて確かな声で応える。

 彼が呼び起こした光景が再び脳裏によぎる。

 赤く染まった教室の一角。

 そこにいるのは、自分とだけ。


 自分の通う教室ではない。

 保健室でもないし、音楽室なんかでもない。

 二階には一室だけ、使われていない部屋がある。

 どうして使われていないのか、理由を生徒たちは誰も知らない。それはユズリハも例外ではない。


 だから選んだ。

 ――その方が、都合がよかったのだ。


「……そういえば、カノンさん」


 いつものように自分の下駄箱へと向かっていたユズリハが、突然思い出したかのように口を開く。


「一応、校内は土足厳禁なんですけど、上履きは持ってきてますか?」


「ん? そりゃ当然。持ってきてるわけない」


「えっ」


 何食わぬ顔でさらりと言い切る彼に、虚を突かれたような気持ちになる。


「じゃあ、どうやって中を調べるつもりだったんです? もしかして、靴のまま……?」


 彼女の問いに、カノンは当たり前のように頷く。


「いくらなんでもだめですからね! 絶対に絶対にだめですからね!」


「騒がしいなあ。靴下のままだと不測の事態に対応できないだろう」


「だからって、土足は許されません! 校門を飛び越えるのとはわけが違います!」


 平然とした彼の態度に、ユズリハは思わず声を荒げた。

 自分が今、夜間の学校に侵入しているという意識はすっかり朧気である。


「そう言われてもね。ないものはないよ」


 肩をすくめながら、悪びれた様子を一切見せない彼に、ユズリハは眉間に皺を寄せずにはいられなかった。

 彼には備えておくべき一般常識というものが欠けているのではないかと思った始末である。


 確かに、昨晩のようなことが起こったとき、彼には万全の態勢でいてほしいという気持ちはある。万全でなかったとしたら、自分はあのとき死んでいたかもしれないと強く思うからだ。


 しかし、それとこれとは別である。

 今、優先されるべきことは校内の風紀を維持すること、それだけなのだ。


「……もう、仕方ありませんね」


 ユズリハは観念したように呟くと、自分の下駄箱に両手を突っ込んだ。

 ようやく諦めてくれたのかとカノンが思ったのも、束の間、戻ってきたユズリハの手には、すっかり変色してしまった上履きと、があった。


「……これは?」


 二つの上履きを見比べながら、カノンが問う。


「これ、上履きの予備です。よかったら使ってください。というか、絶対に使ってください」


 語気を強めながら、ユズリハは真っ白なままの方をカノンへと差し出す。


「……上履きに自前の予備って、普通あるもんなの?」


「もしもの場合に備えて予備を用意しておくのは普通のことでしょう?」


 それが至極当たり前だと言わんばかりの声色で、ユズリハが言った。


「……」

 

 カノンは何も言葉を返さずに上履きを受け取ると、黙々と足を通し、つま先やかかとを床に打ち付けて少しだけ周囲を歩いてみせる。


「……ちょっと小さいね」


 そうして靴の慣らしを終えたカノンは、未だに靴の調子を整えながら、小さく不満を漏らした。


「カノンさんが持ってこなかったのが悪いんですからね。文句言いっこなしです」


 ユズリハも長年愛用している上履きに履き替え、さっきまで履いていた靴を下駄箱に入れ終わったとき、ふと妙な違和感を覚えた。


「あれ……?」


 なんせ、スマホの光がなければまったく見えないのだ。

 ここまで近づいて、ライトで照らして、ようやく違和感に気がつくことができた。


 この学校の下駄箱は、一律同じ作りになっている。

 上級生も下級性も、生徒が使うものはすべて蓋がついていないはずなのだ。

 それなのに、今は違う。

 全ての穴が埋められてしまったかのように……いや、そもそも最初から靴を入れるためのスペースなど空いていなかったかのように、下駄箱の面は真っ白に塗りつぶされていた。


 ――ここには誰もいない。


 ――おまえしかいない。


 ――おまえ以外を認めない。


 誰かの視線を肌で感じ取り、咄嗟に勢いよく振り返る。

 視界に映るのは、不思議そうにこちらを見つめるカノンの姿だけで、他には誰もいないらしかった。


「……気のせい、か」


 言い聞かせるようにそう呟く。

 下駄箱は依然として、彼女以外を拒絶しているというのに、ユズリハはその違和感を頭の片隅に追いやって蓋をする。


「……早く、行きましょっか」


 彼女はやや駆け足気味に昇降口を抜け、未だ無垢の壁面に挟まれているカノンにそう言った。


「そうだね。とっとと済ませよう」


 カノンはユズリハの後を追うように、しかし漫然と歩を進める。

 視界の先をスマホで照らしながら階段を昇るユズリハは、カノンに対して尋ねようとした言葉を押し殺し続ける。


 ――この下駄箱、変なんです。

 収納スペースが全部潰れていて、自分のところしか残っていないんです――


 ただそう聞けばいいだけなのに、その勇気が出ない。

 彼にそれを否定されたくなかった。


 ――いや、違う。厳密には、そうではない。

 否定されること自体を怖がっているわけではない。

 ただ、彼に否定されることで――そんなことはなかったと、明言されることで。

 おかしいのは自分の方だという現実から、逃げられなくなってしまうのだから。



 空き教室は曰く付きの場所で、学生たちの間で嘘か真か、様々な噂が飛び交っていた。

 たとえば、夜の何時かに訪れると青白い影が見えるだとか、誰もいないはずの教室の中から人の話し声が聞こえるとか。

 

 中でも一番の知名度を誇っていたのは、不運にもその教室内で命を落とした人が地縛霊になっているというありきたりな話。

 もちろん根拠などあるはずもなく、学生たちの話題の一種でしかない。


 しかしその噂のせいか、進んで空き教室に近づこうとする人はほとんどいなかった。

 せいぜい、肝試し感覚の不良生徒が数人いた程度である。

 ――あの日の自分以外には。


 踊り場を抜けた先、そこには一階の塗りつぶされたような闇とは異なる空間が広がっていた。

 窓から差し込む月の光は、それを遮るように閉じられたカーテンを突き抜けて薄い影を床に写し出し、見慣れたはずの廊下を無機質に変色させる。


 ユズリハは手元のスマホを操作すると、点灯させていたライトを落とし、周囲に目を凝らす。

 頼りの光を失ってなお、薄暗く照らされた廊下の輪郭が目でわかった。視界の先、光の届きづらい隅なんかはまだよく見えないままが、これなら光がなくても十分探索できるだろう。

 スマホのバッテリーを温存しておきたかったユズリハはそう判断し、するりと懐へとしまった。


「こっちです、行きましょう」


 己を鼓舞するように口にした言葉を、カノンを先導しているように見せかけ、ユズリハは階段を昇り切った先を右へ歩き出した。


 キュ、キュと上履きの乾いた音が、不気味なほど静かな廊下に小さく響く。

 その音が、自分は今ここにいるという呼びかけのように思えて、ユズリハはなるべく音を立てないようにそっと足を進める。


 道中、ユズリハは近くの壁に学校の見取り図が貼り付けられていたことを思い出した。

 念のため確認しようと、ふと左に首を向けたそのとき。

 ちょうど目の高さ。お目当ての見取り図以外にも、様々なポスターが貼られていた。生徒会の広報や学校行事の案内、新聞部のくだらない記事などもある。


 その中の一枚――おそらく防犯ポスターが、やけにユズリハの目についた。

 やや右寄りに、地域の安全を呼び掛ける笑顔の女性キャラクターが描かれている。すぐ左には太く大きい字体で書かれた文章を読み取る。


『いつも誰かが見ています』


 昼間だと何とも思わないはずのイラストも、薄暗い空間で見ればどこか恐ろしさを感じる。

 特に、キャラクターの目。

 月明かりの届かない影の中にいながら、爛々と、異様な輝きを放っていた。


「――え?」


 ユズリハが突然、喉の奥から絞り出したかのような、か細い悲鳴を漏らした。

 彼女が壁面から目を離そうとしたその瞬間、ポスターの中の女性の黒目が、ぐるりと生々しく回転した。

 斜め前を剥いていたはずの瞳が、真横にいるユズリハを真正面から捉えている。

 インクで印刷されたその目は酷く無感情で、彼女に何か伝えたいことでもあるかのように、じっとユズリハを凝視していた。


「ひっ……!?」


 バクンッ、と心臓が跳ね上がる。

 反射的に目を逸らそうにも、体が硬直してしまって、思い通りに動かせない。

 女性の弧を描いた口は、今や嘲笑のそれに変化していた。


「……それがどうかした?」


 唐突に声を掛けたカノンが、そのまま彼女の視界の中に割り込んだ。

 ポスターが彼の姿によって隠されると、ユズリハは喉の奥をキュっと鳴らしながら、我に返ったかのように、無理やり呼吸を整え始める。


「ぽ、ぽす、たー、の……目が」


 息が整わないうちに、ユズリハが言う。

 彼女の片言な言葉を聞いた彼はくるりと振り返り、さっきまでユズリハの視線の先にあったもの――薄い一枚のポスターを見かけると、じっと目を細めた。

 女性のキャラクターが描かれた、何の変哲もないただの紙。

 ユズリハが見た異常など最初からなかったかのように、それは残酷なまでに一枚の紙でしかなかった。


「大丈夫、なんてことないただのポスターだ」


 カノンはユズリハの肩を掴むと、壁面に視線を向けないようにしつつ、彼女の体の向きを目的地の方角へと誘導する。


「ささ、よくわからないものは無視して、とっととその空き教室ってのに向かおうじゃないか」


 彼はわざとらしく活気のある声色でそう言うと、ぽんぽん、と肩を優しく二度叩いてから、再びユズリハの少し後ろに身を引いた。

 荒れていた心の波が、少しだけ落ち着いたのを感じながら、ユズリハは短く頷く。


「……うん、そうですね。早く、行きましょう」


 返事をしたその声には、まだ恐怖が残っていた。



 先に進むと決心したのも束の間。

 一度魅入られた呪いはそう簡単にとけてくれないらしいということを、ユズリハは身に染みて体感している最中だった。


 廊下までの道のり。その両側――教室の壁、それから閉じたカーテンの上に、さっきまでなかったはずの長方形のポスターが、居場所を奪い合うように貼り付けられている。

 ポスターにはどれも、さっきの防犯ポスターさながら人のイラストが描かれており、そのイラストの黒目もまた、変わらず爛々と不気味に輝いていた。

 

「……」


 皮膚がわずかに寒気立つ。

 意を決したユズリハが一歩踏み出した途端、無数の目が一斉に彼女を捉えた。

 それはもはや、視線という名の凶器だった。

 一つ一つがユズリハの肉体を貫くように、彼女の一挙手一投足を監視している。

 彼女が一歩進むたび、二次元的な瞳は追従するように眼球をぎょろりと動かし、決して視線を離すことはない。


 あまりの圧迫感に吐き気すら催しながらも、ユズリハはその歩みを止めない。

 なるべく見ないように。目に入れないように。そう意識しながら。

 けれど、そうやって見たくないと思っているものほど、人は意識してしまうもの。

 ユズリハもまた、例外ではない。

 

 ふと、見てしまった。

 ポスターに書かれたキャッチコピー。それを、無意識に目が追った。

 文字は言葉として認識され、ユズリハの脳内で反響する。


『廊下を走ってはいけません』


『自分に素直になりましょう』


『お父さんお母さん、いつもありがとう』


『見て見ぬふり、いつまでするの?』


 蓋をしたはずの記憶が、次々に掘り起こされる。

 ユズリハの精神を侵すには、十分なほどに。


「嫌っ……嫌、嫌!! 嫌!!!」


「ユズリハ――?」


 カノンがそっと駆け寄るよりも早く、喉が張り裂けそうなほどに叫びとともに、突如ユズリハは走り出した。

 何度も頭を振り乱す。世界と自分との輪郭は曖昧になっていくのに、頭の中だけはやけに鮮明なままで、それがさらにユズリハの思考をぐちゃぐちゃにした。


「いったいなんだ……?」


 呟きながら、カノンは彼女がしきりに気にしていた壁面へと目をやる。

 目の前にあるのは、何の変哲もない金属で作られたただの壁。さっきのポスターのような、彼女を追い詰めるものは何一つ存在しない。


「……っと、まずいまずい」


 悠長にしている暇などなかったことを思い出した彼はすぐさま視線を戻し、既に遠くに見えるユズリハの背を追いかけた。


 錯乱状態に陥りながら、ユズリハの足取りは安定していた。

 脳の乱れが足に伝わっていないのか、思考は散り散りになっているのにもかかわらず、自分が今どこに向かうべきなのか、その答えが明確に浮かんでいる。

 まるで、あの日の記憶をたどっているようだった。

 涙と吹き出る汗にまみれながら、必死にそこへと駆け続ける。

 やがて目の前に行き止まりを示す壁が現れたとき、ユズリハはようやく足を止めた。


 息も絶え絶え、膝に手をついて背筋を丸めながら、荒々しく呼吸を整える。

 足の発する悲鳴に、電池の怪物から逃げた夜を思い出す。

 あのときと、同じ痛みだ。


 ポタポタと垂れる汗を腕で拭いながら、伏していた顔を上げる。

 目の前には、大きな扉。

 隙間から、全てを飲み込んでしまうような異様なオーラを漂わせている。


「こ、こは……?」


 改めて自分のいる場所を思い出し、ユズリハはハッとする。

 目の前の教室こそ、二人が目指していた場所――始まりとなった空き教室だった。


「ど、どう、しよ……」


 未だ乱れた呼吸のまま、きょろきょろと首を回す。

 カノンを置いてきてしまった。

 先に入って中の様子を探った方がいいのだろうか。

 その方が、調査もスムーズに進むかもしれない。

 けど、彼が来てから一緒に調べた方が捗る可能性は高い

 そもそも自分ひとりでなにがわかるわけでもないのだ。


 それに。

 それに、一人では――不安だ。


 ユズリハが扉の目の前で二の足を踏んでいると、ふと廊下の向こうが白く輝いたような気がした。

 気のせいだろうか。

 いや、あるいは……。

 廊下の暗闇に、じっと目を凝らす。そこには、


「おーーーーーい!!!」


 と、ユズリハの姿を視界にとらえ、呼びかけるように右手を大きく振るカノンの姿があった。


「よかった、ついてきてくれてた……」


 ユズリハが胸をなでおろした、その瞬間だった。


 バタン! と大きな音を立てながら、空き教室の扉がひとりでに開かれた。


「え――」


 音の鳴った方向に視線を向けるよりも先に、暗闇の奥で蠢く何かが勢いよく飛び出した。


「ひっ……!」


 姿を現したを見て、ユズリハは小さく悲鳴を漏らす。


 細くて硬い、ケーブルのような繊維を束ねたような何か。

 腕の形こそしていなかったものの、ユズリハはその姿に見覚えがあった。

 彼女を襲った、電池の怪物。

 あれもまた、同じような姿をしていたはずだ。


「あれは、ちっ……!」


 突如現れた異形とも言うべきそれに、カノンは小さく舌打ちしながら、ぐっと姿勢を低くして、思い切り地面を蹴った。


「ユズリハ!!!」


 彼女の名を叫びながら、必死に手を伸ばす。


「カノンさ――!!」


 口から漏れた彼の名前を遮るように、ケーブルがユズリハの口を覆う。

 再び呼吸が乱され息苦しさを感じながらも、自らの拘束を振りほどくかのように、ユズリハもまたカノンに向けて手を伸ばす。

 無数のケーブルは異端の接近を察知したのか、悠長に蠢かせていたはずの触手のような体を、すぐさま教室の中へと戻し始めた。

 掃除機のコードが収納されるように、ケーブルの束がみるみるうちに暗闇の中へと消えていく。


「間に合え、間に合え……!!」


 心の声を口にしながら、カノンがさらに加速する。

 体力など気にする余裕はない。ただ、彼女の手を握らなければならない。彼女をこちらに引き寄せなければならない。それが、自分のやるべきことだと。


 あと少しで指先が触れる。

 ユズリハの手を、掴むことができる――しかし、現実は非情である。


「――――!!!!!」


 指先が触れ合うことはない。

 彼の手が、届くことはない。


 ユズリハの伸ばした手は虚空を掴んだまま、触手とともに闇の中へと吸い込まれていった。


「まだ――!」


 カノンはすぐに教室の中へ飛び込もうとするも、扉は勢いよく閉ざされ、彼の侵入を阻む。

 戸に手をかけるも、扉はびくともしない。

 鍵がかかっている様子はない。どちらかというと、強制的に開けなくされているような感触があった。


「舐めてもらっちゃ困るね……!」


 そう言って懐の刀に手を掛けたそのとき――彼の動きがぴたりと止まった。

 周囲を取り囲む、ピリピリとした気配。

 己に向けられている、確かな殺意を感じ、廊下の奥へと振り向く。

 薄暗い暗闇の中より現れたのは、スーツ姿の男たち。

 数にしておよそ十数人。

 それぞれが手に剣や銃などの武器を持ち、こちらの様子を伺っている。


「……今忙しいんだけど」


 不快を声に乗せ、カノンは慣れた手つきで刀を抜く。刀身が月明かりに照らされ、彼の髪と同様に鈍く光を放つ。

 両者は何も言葉を交わさない。

 誰もいないはずの廊下に、血の気配がゆっくりと漂い始める。


「いいぜ。全員、返り討ちだ」


 そう言って彼は荒々しく鞘を床に投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音が廊下に跳ねる。それが、開戦の合図であった。

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