ギルト・イン・ザ・ボックス(2)

 かすかに月明かりが差し込む、学校の廊下。

 通路奥の暗闇から姿を現したスーツ姿の男たちが、じりじりとカノンに迫る。

 背後は壁。左手には窓。右手には開かずの空き教室。逃げ道はない。

 

(尾行に気づかないとは……不覚を取ったな、これは)


 決して気を緩ませたつもりなどなかったが、ユズリハに注意を向けていたのもまた事実。そのせいで敵の接近に気づけないなど、依頼を受けた側としてはあるまじきことだ。

 そしてあろうことか、ユズリハは怪異に引きずり込まれてしまった。

 言い訳のしようもない、失態の連続。

 このままでは、ツユリに合わせる顔がない。


 最も優先すべきは、ユズリハの救出。

 しかし彼らがカノンの行動を易々と見逃すはずもない。

 ……なら、今すべきことは、一つだけだ。

 刀を握る手に、自然と力がこもった。


 カノンはゆっくりと後ずさりしながら、静かに連中の出方を伺っている。

 向かってきているのは三人。

 ハンドガンを向ける右の男。

 肩幅の広い、刀を手にした中央の男。

 左の男は他二人よりも小柄で、サブマシンガンを携えていた。

 三人はちょうど廊下の幅を埋めるように横に広がっており、こちらにプレッシャーを与えている。


 先に動きを見せたのは、カノンの方だった。

 彼はゆっくり重心を下げると、予備動作もなしに背後へと飛び上がった。


「はっ、とんだ馬鹿野郎だなァ!」


 中央の男が獣のように吠え、着地の瞬間を狙い、刀を上段に構えて突進する。

 左右の男たちは男の左右の空間を埋めるように銃を構え、カノンの逃げ道を塞いでいた。


 しかし、カノンの頭の中に、最初から”逃げる”という選択肢など存在しない。

 仕事の邪魔をするというのなら、相手が誰であろうと関係なく、ただ斬るのみ。

 重力に従って、真っ白な上履きのつま先が床に触れる。

 刹那、突進してきた男の巨躯が、左右の車線を物理的に遮断した。

 たった一瞬だけ生まれた、弾丸を通さない死角。それを見逃すカノンではなかった。


 彼は着地の衝撃をそのまま推進力に変換し、弾むように地面を蹴った。


「な――!」


 一度の瞬き。

 たったそれだけで、カノンの姿が視界から消えた。

 男は泡を食ったように視線を泳がせながら、いなくなった彼の姿を追い求める。

 視界の下部にちらりと白銀の髪が見えた瞬間、男はほとんど反射的に、刀を荒々しく振り下ろした。

 だが、動揺の宿った刀が彼に届くことはない。

 カノンは紙一重で斬撃をかわし、するりと流れるように男の懐へと潜り込んだ。

 心臓よりも低い位置から、閃光のような逆袈裟の一太刀が男に迫る。


 ――ビシャッ。

 水たまりを弾いたような音が、静かな廊下に響き渡った。

 血と雫があたりに飛び散り、扉や窓を赤く彩る。

 続けざまに、切れ口から大量の血が溢れ出すと、真っすぐカノンに降り注いだ。

 髪、服、上履きまでもを血の色に染めながら、男の体が無気力に崩れ落ち、彼の背にもたれかかる。

 心臓の音は聞こえない。

 それはもはや人ではなく、血を溢れさせるだけの、単なる大きな肉塊であった。 


「ふう……」


 一息つきながら、カノンが死体を背から降ろそうとそのとき、既に力の抜けきった指から、握られていた刀がずるりと落ちた。

 こだました無機質な金属音――それが、張り詰めた緊張の糸を断ち切る合図となった。

 ダダダダッ!!

 廊下の奥から轟く暴力的な銃撃音が、音の余韻を塗り潰す。


 生き残った二人の男は、仲間の死に揺らぐどころか、その骸を斜線上の障害物としか認識しておらず、銃撃に一切の躊躇いを見せることはない。

 マズルフラッシュが交互に、そして不規則に明滅するのを見て、カノンは咄嗟に降ろしかけていた死体の襟元を掴んだ。

 カノンを貫くはずだった鉛玉の数々は、突然割り込んできた死体の盾に吸い込まれていく。

 ぐちゃ、ぐちゃり、と音を立てながら、既に冷たくなった肉を容赦なく抉る生々しい感触が、両腕を通してカノンに伝わった。


 銃撃の猛攻を受け止めながら、カノンは一歩ずつ歩みを進める。

 今はなんとかしのぐことができているものの、盾が人間の体ではいずれ限界を迎えてしまう。

 それより早く、どちらか片方だけでも無力化しなくてはならない。


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……。

 足を動かすたび、発砲音よりも耳につく水音とともに、上履きの足跡が床に残る。

 上履きはすっかり赤く染まり、窓から差し込む月光に照らされ、艶めかしく輝いている。


 敵まであともう少しというところで、とうとう死体の盾は悲鳴を上げ始めた。

 筋肉や骨によって留められていたはずの弾丸が、血肉を巻き込んでカノンをかすめ、背後へと飛んでいく。

 死体はまさに蜂の巣状態であり、腕や足などはかろうじて胴体と繋がっている程度にはズタズタにされており、今にもちぎれてしまいそうだ。

 カノンが蜂の巣にされるのは、もはや時間の問題だった。


 ――だが、勝機はすでに見えている。

 左の男は、サブマシンガンのトリガーが軽くなったことに気がつくと、銃口を対象に向けたままリロードを始めた。

 銃撃の手が緩んだその瞬間、カノンは死体を両手で持ち上げると、


「お友達だろ! 返してやるよ!」


 声を張りながら、それを思い切り投げ飛ばした。


「な、なんだぁっ!?」


 男は意識が手元に向いていたせいか、反応がわずかに遅れてしまい、退避もままらならずに死体に押しつぶされてしまう。

 銃を手放し、仰向けになりながら必死に這い出ようともがくも、元来の体格差もあってか、男の体はびくともしない。


「貴様ァ!!」


 右の男が声を荒げながら、ハンドガンの引き金を繰り返し引いた。

 しかし弾丸はカノンから逃れるように軌道を変え、彼を捉えることができない。


「クソッ、クソクソ!!」


 バンバン! バン!

 悪態とともに、鈍い銃声が吐き出されるも、鉛玉は力なく空気を抉るばかり。


「ちくしょおっ! うおおおおぉぉぉ!!!」


 自分を鼓舞するように――いや、接近するカノンへの恐れを拭うかのように吠えながら引き金を引く。

 が、トリガーはただカチ、カチ、と虚しい音を返した。


「こんなときにっ、クソが……!」


 男は、急いで後ろへと下がりながら、震える手を懐へと潜り込ませる。

 こういうときに限って、替えの弾倉がすんなりと見つからない。焦りに拍車をかけるように、カノンがみるみる距離を詰める。

 なんとか弾倉を探り当て、慌ただしい手つきで空になった弾倉を吐き出させる。

 視界に映る彼にちらりと目をやる――刃物のように鋭く、見るものを凍り付かせる冷酷な瞳。白銀の髪は赤く塗りたくられ、その姿はさながら血肉を貪る鬼のようであった。


 死。

 死。

 死。

 男の脳裏によぎる、圧倒的な死の予感。カノンの殺気が、喉元まで迫っている。


 手を震わせながら弾の再装填を終え、男はわずかに安堵を覚えると、今度はカノンに対して激しい怒りを向け始めた。

 標的はもう目と鼻の先。すぐに構えて引き金を引けば、流石の奴でも反応しきれまい。

 浅はかな思考とともに向けられた銃口の先――そこに、カノンの姿はなかった。


「ど、どこに消えたっ……!?」


 狼狽する男の視界の左端に、わずかに影が蠢く。


「そこにいやがっ――」


 咄嗟に左へと銃を向けるも、男の運命はすでに決まっていた。

 ――男がリロードに手間取っているのを見た途端、カノンはタン、と床を鳴らすと、軽々と右の壁面へと飛び上がった。

 そうして男が再び正面を向くと、彼は壁面を蹴るようにして身を翻し、腰を捻りながら刀を構え、男めがけて、一閃。


 死角から姿を現した白銀の青年の、研ぎ澄まされた殺気――鬼気迫る表情を網膜に焼き付けたまま、男の頸はごろん、と床に転がった。


「ぐっ……! こんな、もの……!!」


 左の男は、未だ死体に潰されたままだった。

 必死に銃火器を手繰り寄せようとしてたらしいがそれも間に合わず、無力感に苛まれながら、仲間の頸が落とされるのを見ていることしかできなかった。


「き、さまァ……!」


 男はカノンをきつく睨みつけると、声を低くして圧を駆ける。

 いくら凄んでみせても、彼の目にはその姿が滑稽に映った。


 カノンが緩慢な足取りで男の元へと向かう。

 ちょうど頭のすぐそば――顔を覗き込めるような位置に立つと、彼は己の刀を逆手に持ち替え、切っ先を男の胸元に向けた。

 これから何が起こるのかが理解できたのか、眼光の鋭かった男の顔が、一気に青ざめる。


「なっ……! や、やめろ! おい! 聞いてるのか!! やめろ!!」


 男は自分の置かれている立場を理解していないのか、上から目線でカノンに命令をする。

 しかしカノンにそれを聞き入れるつもりはない。

 ゆっくりと焦らすように、真下に向けて刃を下ろし始めた。

 ぶちぶち、ぐちゃぐちゃ……刃が死体の肉を裂き、臓器を容易に貫く生々しい感触が伝わってくる。

 彼は躊躇うことなく、さらに切っ先を奥へと進ませた。


「やめろっ! なあ、悪かった、悪かったよ、急に襲ったりして俺が悪かった!! もうしない……二度と襲わない、危害も加えない! だからやめてくれ! 命だけは、助けてくれ……!」


 ようやく己がどういう状況に置かれているのかを理解したのか、今度はみっともなく命乞いを始めた。

 だが、やはり何も変わらない。

 刃はどんどん死体を貫いていく。

 やがて、切っ先が硬くて弾力のある表面を貫き始めると、男は急に言葉を失い、代わりに痛みに悶えるような声を漏らすようになった。


「ぐっ、う、あ……! なんで、だよ、なんで、やめてくれないんだよ……!」


 刀から皮膚や血管を貫く感触が伝わる。胸辺りから血がどくどくと溢れ始め、脇腹を伝って床に流れていく。


「ぎゃっ!!! あ、ぅあああぁっ!!!」


 刀が肉を裂くほどに――神経を抉るほどに、悲鳴は激しさを増した。

 気を失ってもおかしくはないほどの痛みが全身を駆け巡っているのだから、それも当然の反応だろう。

 ああ、


 刀は、死の目前まで迫りつつあった。

 切っ先のすぐ先から、ドクン、ドクン――という音が、刀を通して伝わる。

 まだ生きていたいと主張するかのように、心臓が激しく、そして荒々しく拍動している。

 男は直感した自らの死に抗うように、大粒の涙を流しながら、ふるふると首を横に振り続けていた。


「やめ、て、くれ。やめ……助けっ……」


 全身に走る激痛に声を出すのも苦しいはずだろうに、それでも男は引きつった声を必死に絞り出して、息を詰まらせながらも生を求めた。

 ……だが。


「お別れだ、どっかの誰かさん。人の命を狙っておいて、助けてくれなんて虫がよすぎるよ」 


 それは死への誘い。

 死神の呼び声。


「……やめ、やめろ……やめ、やめやめやめ――!」


 男は最後の力を振り絞って抜け出せた左腕を真っすぐカノンへ伸ばすも、彼は渾身の力で刀を奥へと差し込み、真っ直ぐに心臓を貫いた。

 逆流した血液が口から大量に吐き出され、男の顔は血塗られる。

 生に縋った彼の左腕はカノンに届かず、ただ力なく虚空を掴んでいた。


「ふう……」


 引き抜いた刀を、血肉や脂を払い捨てるように、ぶん、と一振りする。

 赤々とした肉片の数々が月明かりに薄く照らされ、奇妙な輝きを放っている。


 ――パチ、パチ、パチ――。


 カノンが教室へと体を向けたとき、暗闇の中から乾いた拍手の音が響いた。


「相変わらず趣味の悪い殺し方だ。白浪」


 耳障りなほどに緩やかな、まるで相手を煽るかのように手を打ち鳴らしながら、その人物が暗闇より姿を現す。


「昼間ぶりだね、羽村はむらくん。そっちこそ相変わらず間の悪い人だ」


 彼に羽村と呼ばれた男。名を、羽村トオノスケ。

 調査のために街へと繰り出した二人に接触した、スーツの男。

 羽村はピクリと眉を動かすも、冷静な態度を崩さず、


「それはけっこう。お前にとって都合が悪いのならば、俺にとっては好都合ということだ」


 と、片手で短髪をかきあげながら言った。


「我々はこのときを待っていた……お前が孤立し、自ら袋小路に踏み入るときを、な。まさかこうも早くに巡ってこようとは。ふふふ……」


 不敵な笑みを漏らす羽村は、何かの号令を出すように、片腕をすっ、と掲げる。

 彼の動きに合わせて、暗闇から次々にスーツを身に着けた人間が姿を現す。ぞろぞろと群れをなす様はまるで軍隊のようで、真っ黒な見た目から、カノンは蟻の姿を連想した。


「お前という怪物を相手するには、三人では少々物足りなかったらしい。さて、これならば”おもてなし”には事足りるだろうか?」


 羽村の次なる号令で、スーツ姿の部隊は彼の前に集結すると、瞬時に隊列を組んだ。

 前列は跪き、後列は立ってアサルトライフルを構える。さっきの三人とは異なる、よく訓練された陣形だった。


「どうだ、圧巻だろう。お前を仕留めるためだけにかき集めた選りすぐりの隊員たちだ」


 羽村が口角を吊り上げ、得意げな口調で言う。

 頭の中で思い描くカノンの最後の姿――そのあまりの滑稽さに、羽村は思わず吹き出してしまい、狂気的な笑い声が廊下を満たした。

 盛大に笑い声をあげながら、羽村の脳裏によぎるのはもう一つの記憶。

 彼が過去に受けた屈辱は、未だ脳の中枢を侵食し、復讐と怨嗟の炎を燃やし続けていた。

 この古傷を癒す方法はただ一つ。

 ……白浪カノンを、自らの手で殺すこと。


 緩んでいた羽村の表情がは唐突に強張り、彼は喜びに満ちたため息を深くつきながら、死神の鎌のごとき左腕をゆらりと掲げた。


「さあ……今日を、お前の命日にしてやろう」


 憎しみのこもった一言とともに、羽村は腕を勢いよく振り下ろす。

『攻撃開始』――その号令に合わせて、一斉に引き金が引かれた。

 地響きのような破裂音が廊下中に轟き、カノンの鼓膜を激しく揺らす。

 一秒にも満たないうちに、無数の鉛玉が視界を埋め尽くした。

 背後に身を引こうとも、左右へ飛び退こうとも、逃げ道はない。


 死の気配をわずかに感じているものの、カノンは妙に冷静だった。

 目の前の光景には興味がない。単なる鉛玉など、喰らおうが大して痛手ではないのだ。ただ、痛みを感じたくないから避けていただけのこと。


 ――借りた上履き、汚しちゃったな。


 呆然と、そんなことを思っている。

 鉛玉は、もうそこまで迫っていた。



 空き教室の中へ引き込まれたユズリハは、ケーブルの束のような腕によって、乱暴に放り投げられた。


 咄嗟に両手を前に突き出すも、ユズリハはうつ伏せのようになりながら、硬い木の床に激しく衝突した。


「ぅあっ……!」


 受け身が上手くいかず、顎を思い切り打ち付けてしまい、苦悶の声が口から飛び出る。

 ぶつけたところがじわっと熱を帯びたかと思えば、それはすぐに痛みへと変わる。


「……っ!」


 全身から感じる鈍い痛みの数々に、ユズリハは声を押し殺しながら身を丸くする。

 徐々に体から痛みが引いていくと、彼女はようやくその場に立ち上がることできた。


「あ、れ……?」


 ぼんやりとした意識の中、教室全体を見回してみたユズリハの口から素っ頓狂な声が漏れた。

 そう、どこにもいないのだ。

 ユズリハを連れ込んだ、あの怪物が。


 身構えること、およそ数分。

 待てど暮らせど、怪物が姿を現すことはない。

 わずか数分間でも、気を張り続けるのはなかなかに骨が折れる。いい加減、いるかいないかもわからないのだから、少しは力を緩めてもいいのではないか。

 ユズリハは徐々に体から力を抜くと、


「ふう……」


 と一息つきながら、改めて周囲に目を向けた。


 空き教室とはいえ、中は他の教室とそう変わらない光景が広がっている。

 まず目についたのは、学級机と椅子。

 縦も横も丁寧に整列されており、使用された形跡は見当たらない。

 ただ使われることを待ち続けているかのように、積もった埃が層を作り出していた。

 真っ新な黒板も同様に、書き込まれたような跡はなく、窓から差し込む赤い日差しを反射し、てらてらと輝いている。

 壁際のロッカーには、当然何も入っていない。生徒一人一人の所持品を余すことなく入れられるように作られているはずなのに、口を開き続けている様子は、どうにも空虚に見えた。


 教室の中を調べていると、初めてここに踏み込んだときのことが、脳裏に浮かぶ。

 ああ――ここはそのときから何も、変わっていない。

 まるで、時が止まってしまったかのように――。


 ――


 どうにも拭えない、小さな違和感。

 ユズリハは少しの間立ち尽くすと、思い立ったように廊下側へと駆け寄り、身を乗り出すようにして窓を覗き込んだ。

 窓は分厚い雲で覆われているみたいに薄暗いだけで、外の風景を映し出してはいない。取っ手を力強く引いてみるも、窓はびくともしない。まるで接着剤か何かで強く固定されているみたいだった。


 今度は反対、校庭側の窓際へと向かい、同じように窓を覗き込んだ。

 廊下側と違い、こちら側は外の風景が見えるようになっている。そのため、ユズリハの予想が正しければ、外は夜の帳に包まれていて、月明かりだけが地上を照らしているはずだ。

 だが、窓の向こうに広がる光景を見て、ユズリハは己の目を疑った。


 外は、そろそろ日が沈もうという頃。

 真っ赤な日差しが地上へと注がれ、街並みを照らす。空の向こうで、夕焼けが美しく輝いていた。


 無意識に口を手で覆った。

 信じられない、とでも言うように。

 教室の状態も、日差しの入り方も、外に広がる光景も、何から何まで、

 似たような場面に出くわしたことがあるわけでも、夢で見たことをデジャブのように感じているわけでもない。

 この教室に足を運んだ日――ユズリハは眼前に広がる光景とまったく同じものを、実際に体験しているのだから。


 何かを直感したのか、顔を青く染めながら、ユズリハは勢いよく振り向く。

 黒板前の空間が禍々しく歪んだかと思えば、次の瞬間、一見何もないところから、赤と黒のケーブルのような繊維が一気に吐き出された。


 黒いケーブルはまるで意思を持つ生き物のように這い出し、ビニール被膜が擦れる不快な音を発しながら蠢いている。

 ケーブルの一本一本が小さく脈動する様は、細い血管のようだった。

 それらは複雑に絡み合いながら、次第に太い束へと成長していく。

 ユズリハはなんとなく、筋肉組織のみの人体模型を思い出した。


 赤い皮膜のケーブルは動脈のように、黒いケーブルは静脈のように。

 目の前の教壇やカーテンレールすら飲み込みながら、なおも肉体の形成を進めている。

 骨を砕き、肉を裂くような音をけたたましく響かせながら、やがてケーブルの束は、人の形をしたなにかへと自らの肉体を作り上げた。


 天井まで達する頭部、広く大きな肉体。

 手足には指も関節もない。ケーブルを自由自在に操れる存在には不要のパーツなのだろう。

 頭部らしき箇所は作られているものの、そこに表情と呼べるものは存在しない。

 目も鼻も口もなく、束ねられたケーブルの形が、頭だと主張しているのみだ。


 化け物を前にして、ユズリハの胸の内には恐怖の他にもう一つ、幅を取る感情が芽生えていた。

 人の姿を模しているのに、人になり切れていない。

 その歪みが、どうしても気になるのだ。

 たとえば、人体模型のパーツが入れ替えられているような違和感。

 入れ替えられていてはいけないという、使命感。

 そんなものは間違っているという、圧倒的な正しさ。


 ――そうだ。

 正しくなければ、意味がない。

 いくら怪物が人の形を真似しようと、そんなものに意味はない。

 正しくない存在など、不要なのだから――


 ユズリハの感情に呼応するように、ケーブルが怪しく蠢く。

 人の形をしたケーブルは胸を張ると、腹部が複雑怪奇に編み込まれ、やがてその部分に大きな空洞を作り上げた。


 奥の見えない、終わりの見えない、真っ暗な穴。

 怪訝に思ったユズリハが、その中を遠くから覗き込もうとしたそのとき。


「……え?」


 空洞をくぐり抜けるように、人間が姿を現し、ユズリハは唐突に言葉を失った。

 自分と怪異しかいない空間の中に人が現れたことも驚いてはいたが、彼女の絶句の本質はそこではない。


 真っ黒で真っすぐに伸びた黒髪にぱっつん前髪。大きくきゅるんとした釣り目。翠ヶ丘高校の女子指定制服を身にまとい、無感情の視線をユズリハに向けるその人物に、見覚えがあった。


「ユウコ……!?」


 思わずその名を呼ぶ。

 今まで何度も呼んでいた名前。

 親しみを込めて呼んでいた名前。

 ――ユズリハに裏切られた、被害者の名前を。

 

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