ナイト・ワーカーズへようこそ(2)

 夜の出来事が嘘だったかのように、昼の街は騒がしかった。

 人の声、車の音、店内から外に滲む軽快な音楽。

 ありふれた日常風景の一コマ。そのはずなのに妙に気が休まらない。

 背後から何かが後をつけてきているような、そんな気がしてならなかった。

 化粧で隠した右手の甲に、無意識に手が伸びる。


「なんだよ。今悩んだって仕方ないだろ?」


 半歩ほど前を歩く青年――白浪カノンが振り返りながら気のない調子で言った。

 白いシャツに黒のカーディガン。大学生だと言われれば信じてしまいそうな装い。黒と白が反転したユズリハの服装とは、妙にちぐはぐだった。 


「それは……そうですけど」


「今はとりあえず現場の確認。いろいろ考えるのは、それが終わってからにしようぜ」


 彼の視線が再び前に戻る。

 肩に掛けられた細長い袋――まるで市内袋のようなそれが、彼の動きに合わせて小さく揺れている。

 中に入っているのは十中八九、昨日彼が携えていたものだろう。



 ――規約、契約、注意事項に同意書、エトセトラ。山のような情報の塊を全て詰め込まれたとき、時刻はすでに正午を回っていた。

 正直、半分も理解できてはいない。

 重要そうなところだけ丁寧に説明してくれるものだから、それ以外の部分は余計に記憶から薄れていた。

 

 このままでは頭がパンクしかねない様子のユズリハの前に、いなくなっていたはずのカノンがひょっこりと姿を現す。


「説明はもう終わった?」


「ええ、完璧よ。我ながら惚れ惚れするくらいにはね」


 カノンの問いに答えながら、ツユリはパタン、と書類の山を閉じていく。

 なんとも重苦しい表情のユズリハを見るなり、カノンは表情一つ変えることなく、


「それじゃあ行こうか」


 とだけ言って、玄関口へと消えていく。


「え、あの、ちょっと……!」


 未だ脳内に難しい単語を巡らせながら、ユズリハは慌てて遠ざかる彼の背を呼び止めた。


「いろいろいきなりすぎです……! せめて、行き先くらいは教えてくれないと……!」


 そう言いつつ、ユズリハもまた玄関口へと向かった。

 隣で不満げに眉をひそめる彼女に対し、カノンはわずかに笑みをこぼすと、


「行き先はもちろん、僕ときみが初めて出会った場所だよ」


 などと、平然と言ってのけた。

 やけにロマンチックな物言い。

 ただでさえ混乱していた頭の中が、さらにかき乱されたような気がした。



 そうして彼に連れられ、昼間の繁華街を二人で歩いている。


 やはりというかなんというか、カノンはやけに人目を引いた。

 人とすれ違うたび、物珍しげな視線が彼を二度刺す……その繰り返し。

 それだけカノンの白髪は、白昼の繁華街では不釣り合いだった。きっと夜のネオン街ですら、彼の存在を隠すことはできないだろう。


 目的地を聞いてすぐ、ユズリハは案内役を買って出た。

 ただでさえ自分の問題なのだから、なるべく手伝っていきたい……そういう気持ちがあった。

 繁華街のあたりはそれなりに足を運んでいたし、あんな路地裏に行き着いたのは初めてだったけど、それでも一度は訪れた経験があるのだから、簡単に案内できるだろう。

 そう高をくくっていた。


「ええと……あれ? こっちだと思ったんだけど……」


 歩道の隅。

 ユズリハは悩ましげに唸りながら、スマホとにらめっこしている。

 さっきから同じところを行ったり来たり。

 しかしどうやっても、あの路地裏に行き着かない。


「確かここを真っすぐ……。でもあんな看板あったっけ……?」


 朧気な記憶は、彼女が思っていたよりも当てにならなかったのだ。

 つい最近、似たような状況に陥ったような覚えを感じながら、ユズリハは何度も周囲と画面とを見比べ続ける。


「どう? 場所、わかりそう?」


 背後からカノンが画面を覗き込むようにしながら声をかけた。

 

「いえ、その……まだかかるかも、です」


 バツの悪そうな声色で答える。


「んー、そっか。まあ、そっちはきみに任せるからさ。頼んだよ」


 呑気な声色で伸びをする彼の姿に、ユズリハの眉がピクリと動いた。


 こっちは必死になって探しているというのに、彼は手伝う素振りすら見せないまま、呆然と人だかりを観察していた。

 周囲の光景と地図アプリとを比較していようと、電柱に書かれた住所を読み解いていようと、カノンは決して彼女の作業に加わろうとはしなかったのだ。


 ――あなただって、ちょっとは手助けしてくれてもいいと思いますけど――。


 飛び出しそうになった言葉を慌てて飲み下すと、ユズリハはパチパチと数回瞬きをしてから、じっとスマホの画面に意識を向けた。


 カノンはといえば、今度は人だかりとは反対の、建物の壁の方向に視線を移している。

 何かを感じているかのように、はたまた、何かを探しているかのように、じっと目を凝らしながら、遠くでも近くでもない空間を眺め続けていた。


 再び集中し始めてからさほど時間も経たず、ユズリハは唐突に深い溜息を漏らした。

 脱力したように肩を落としながら、スマホをポケットに仕舞う。まさしく、ギブアップの合図であった。


「……何か、気になるものでもありましたか?」


 取り繕いながら、他所に視線を向けるカノンに声をかける。


「ああ、ちょっとね……それよりどう? 場所は特定できた?」


 気のない返事をしつつ、カノンの視線は未だ遠くにあった。


「……いえ」


 つい、視線を外してしまう。

 すると今度は彼がユズリハの方を向いて、


「まあまあ、そういうこともあるよ。僕も、地図読むの得意じゃないし」


 励ますように言った。

 その優しさに、少しだけ胸が痛む。

 自分から案内役を申し出ておいてこの有様だ。こんなことなら、最初から彼に全て任せておくのが正しい選択だった。

 ああ、また間違えてしまうなんて……。


 苦い面持ちを浮かべるユズリハ。

 その内心を気にしていないかのように、カノンが再び口を開く。


「そうだ。探すついでに、ちょっと寄り道してもいいかな」


「寄り道、ですか?」


「そう。実は、きみに見てほしいものがあるんだよね」


「私は別に構いませんけど……見せたいものって、いったいどんなものなんです?」


「それは着いてからのお楽しみさ」


 問いかけをまともに取り合おうともせず、カノンははぐらかすようにそう言うと、再び人々の往来の中に身を投じた。

 少しずつ遠ざかっていく背中を追いかけながら、彼に悟られないように息を漏らす。

 ユズリハの彼に対する印象は少しずつ、命の恩人からマイペースな人に変化しつつあった。



「確かこのあたりで……」


 繁華街の大通りを抜けて少し歩いたところ。

 交差点を何度か曲がり、やがてマンションの立ち並ぶ住宅街に行き当たったところで、カノンは唐突に足を止めた。


「……あの」


 周囲をきょろきょろと見回すカノンに、ユズリハが声をかける。


「確かに寄り道はいいって言いましたけど、これは寄り道ってレベルじゃないような……」


 昨日の現場を探すついでにしては、繁華街の中心部から随分と離れてしまっている。

 これでは探すついでというより、もはや別の何かを優先しているように思えてならない。

 ユズリハが心配になるのも無理はなかった。 


 しかし、カノンはそんな彼女の声など耳に届いていないのか、辺り一面をじっくり観察していると、不意に


「――見つけた」


 静かに声を漏らした。


「あったんですか? 見せたいもの……」


 彼の視線の追うと――なんでもないマンションの一角。自転車が上下二段に停められている、どこにでもあるような駐輪場が目に入った。

 ……だが、それだけ。

 単なる日常の風景が、いつもと変わらない様相で広がっているのみ。


「……もしかして、馬鹿にしてます?」


 思わず口から棘を吐き出す。


「もっとしっかり見てくれよ。だろうからさ」


 ユズリハが目を凝らすと、空間がわずかに歪んで見えた。

 油が水に滲んだみたいな、輪郭の曖昧な影のようなものが、地面にへばりつくように蠢いている。


「これって……怪異ってやつ、ですか?」


「うん。これはよく見かける典型的な奴だね」


 それを眺めたまま、彼は淡々と続けた。


「誰にも言えなかった愚痴とかさ。どうでもいいよなって吐き出されなかった不満とか」


「それも、“願い”なんですか?」


「少なくともツユリはそう言ってるけど、僕はあんまり興味ないね。分ける基準なんて、作ってる奴ら次第だもん」


 そう言って彼は何をするでもなく、すぐに踵を返す。


「え。ちょ……!」


 思わず飛び出た呼び声に、カノンはぴたりと足を止めた。


「ほんとに、ほんとに見せるだけ? なにもしないんですか?」


「なにもって……うん、そうだけど。逆に聞くけど、なにすると思ってたの?」


「それは……目の前に怪異がいるんだし、てっきり……」


「てっきり?」


「……斬るんじゃないかって」


 言って、少しだけ後悔した。

 彼の雰囲気が、ほんの一瞬だけ変わった。

 さっきまでの柔らかさが掻き消えるような感じ。

 彼の表情に変化はない。それでもユズリハは、言葉を選び間違えたことに気がついた。


「……斬る必要なさそうだから斬らない。それだけのことだよ」


 変わらない声色に混ざる、数滴の不快感。

 ユズリハはそれを敏感に感じ取ってしまう。誰もが見落としてしまう感情の機微にめざといのだ。それは今回も同じだった。

 そうなってしまうと、ユズリハにはもう何も言えない。

 何を言うべきか、正しい言葉が見つからないのだ。


「さ、次に行こう」


 適切な言葉が見つからないうちに、彼は足早にその場から去っていく。

 ユズリハは口を閉ざしたままカノンの背中を追いかけた。

 徐々に距離が迫る彼の背を見ていられなくて、ユズリハは無意識に駐輪場に目のやり場を求める。


 それは、何も言わない。

 見送りもしないし、言葉も返さない。

 動くこともできないし、消えることすら許されない。

 そこにへばりついているだけの影。

 ただ存在しているだけの影の塊が、しかし目線を戻した一瞬だけ、吹いて消えるほど弱々しい炎のように、小さく揺らめいたような気がした。


 きっと、見間違いだろう。

 今の彼女には、そう思うことしかできなかった。



 再び大通りに戻った二人の間に流れていたのは、長い沈黙だった。

 前を歩くカノンはなぜかこちらを振り向かない。そんな彼に気を遣ってしまって、ユズリハもまた声をかけるタイミングを失っていた。


 だんまりを決め込んだまま歩いているうちに見覚えのある交差点に差し掛かると、そこから目的地である路地裏にたどり着くまでそう時間はかからなかった。


「ふむ……」


 路地裏の真ん中あたりに立っている二人。すぐ真下を見下ろしながら、右隣のカノンが小さく声を漏らす。

 アスファルトに、どす黒い染みがべったりとへばりついていた。

 水か何かで濡れているわけではない。むしろその場に焼き付いているような跡に、不気味さを感じた。


「昨日の怪物の体液だね、多分」


 そう言うとカノンは膝を折り、手のひらでゆっくりと色の変わったままのアスファルトを撫でる。


「……あんなのにも、血が流れてるんですか?」


 ユズリハは立った姿勢のまま、少し気まずさを覚えつつ彼の後頭部めがけて問いを落とす。


「んー、少し違うけど似たようなもんかな。人の形してるやつほど、組成も人のそれと似通ってるみたいで」


 感触を確かめるようにアスファルトの表面を撫で続けていたカノンは、やがておもむろに曲げていた膝を真っ直ぐ伸ばす。


「これは……ちょっと面倒なことになってるっぽいね」


「面倒なこと、ですか?」


 砂利のついた手のひらをズボンで拭うカノンに、ユズリハが問いかける。


「怪異は本来、見てわかるような痕跡を残さない。死んだら何もかも消えてなくなるような連中だからね」


 そう言われてユズリハは、昨晩の出来事を思い出す。

 彼女を執拗に襲った乾電池の怪物は、カノンにその身を斬られたあと、どろどろの液体と化して消滅した。肉体を構成していたケーブル上の四肢なんかも同じく液状化してアスファルトに染みついた。

 今まで怪異は消滅すると液体になって地面に染みつくのが普通だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。


「あの怪異は。どういう意図があったのかはまだわかんないけど」


「……でも、あれは昨日カノンさんが……」


「間違く殺したんだけどなー。ともかく、きみの両親を襲ったのはほぼ確定であの乾電池ヘッドだろうね。そっちは見てないけど、断言してもいいでしょう」


「それじゃ、まだカノンさんが怪物を倒してくれれば……! それだけで、全部元に戻るんじゃ――!」


「いや、無理だろうね」


 わずかな期待を含んだユズリハの言葉を、カノンがピシャリと遮った。


「あれを見つけて殺したところで、解決には至らないだろう。もう一回、今朝のようなことが起きるだけだと思う」


「で、でも……そうならない可能性だってあるんでしょう!? だったら……!」


 思わず声に力がこもる。

 脳裏によぎった光景が、彼女の気持ちを強くさせた。


「きみの言うこともわからなくはないよ。でも、もしその予想が外れた場合は?」


 カノンの冷静な問いかけに、ユズリハは口を閉ざしたまま、顔を俯かせる。


「今度は本当に、お父さんもお母さんも死んでしまうかもしれない。昨日までは登校してたはずの友達が、明日は来ないかもしれない。好きな人が、自分のせいで死んでしまうかもしれない……そんな、”かもしれない”がある以上、強硬手段に走ることはできないし、許されない」


 ――慮られている。

 そう感じて、何も言い返せない。


「……っ」 


 それでも、肩を落とさずにはいられなかった。

 やっと見えた一筋の光が、すぐさま闇に呑まれたような感覚。

 気落ちするのも無理はないだろう。

 そんな彼女を見て、カノンは右の人差し指をピンと空へ向けながら口を開く。


「まあまあ、そう気を落とさないで。確かに手っ取り早い方は難しそうだけど、策がないわけじゃないよ」


「えっ……?」


 うなだれていたユズリハは顔をゆっくりと上げる。

 その顔は酷く歪んでいて、目尻にはじんわりと涙を浮かべていた。

 カノンに言われて頭によぎった、最悪の結果というもの。

 それを想像するだけで、罪悪感に押し潰されそうになった。


 自分にはとても人の命なんて背負えない。責任なんて、とれるわけがない。

 だからもう、解決なんてできやしない。なぜかそう思い込んでいた。

 しかし。


「……本当に、あるんですか? そんな方法が……」


「あるよ。面倒だけど一番確実で、根本から解決できる素晴らしい方法がね」


 彼はやけに自信ありげな口調でそう言うと、ユズリハの前に手を差し出す。


「さて。やることは決まったんだ。一旦戻って、策を練ろうじゃないか」


 彼の手は変わらず、救いの手のままのようだ。

 ユズリハは安堵の笑みを浮かべ、零れそうな涙を我慢しながら、そっと彼の手を掴み――。

 

「――そこを動くな、”大罪人”」


 ようやく得た安心を踏みつけにするかのように、背後から突如、冷たい声が響いた。



 振り返ると、路地裏から大通りに出る道を遮るように、人影が見える。

 少なくとも五人。全員ネクタイにジャケット姿で、ここからでは性別までは見て取れない。

 ユズリハは彼らの装いに、なんとなくツユリのことを思い出した。


 ふとカノンの方に目をやると。彼は口をわずかに開けたまま、ひどく億劫そうな面持ちで、眉間にしわを寄せていた。

 見知った顔だろうか。


(それにしては、やけに嫌そうな顔をしてるけど……)


 などと思いつつ、再び視線を声の先に戻す。

 スーツ姿の人たちはそこに真っすぐ立ったまま、黙ってこちらを眺めている。その視線は観察というより、むしろ監視という方が近いだろう。


 彼らとカノンとの間には、妙な緊張感が生まれつつあった。

 互いが互いを警戒しているのか、一挙手一投足を見逃さないように、目を光らせ続けていた。

 やがて、五人のうち真ん中に立つ人物が一歩前に出ると、しばらく流れていた静寂を終わらせるかのように口を開いた。


「まさかこんなところでお前と顔を合わせるとはな……”大罪人”」


 少し低い、男の声。


「お前のような存在が気軽に出歩いていいわけがないということを、まだ理解できていないらしいな」


 相手を馬鹿にするようなねちっこい言い回し。

 まだ会話すらしていないのにもかかわらず、ユズリハは直感する。

 ……あの男は、苦手だ。


「どこ歩いてようと、こっちの自由だろ」


 ずいぶんとやる気のなさそうな表情を浮かべていたカノンはいつもの顔つきに戻ると、やや棘のある物言いで男に言葉を返す。

 男はぴくりと頭を揺らすと、理路整然とした足取りでこちらに近づき始めた。


「ふん……我々が不在なら、だ。善良なる市民の味方が危険人物を見逃すなどできるはずもなかろう?」


「どうでもいいけど、そっちこそ僕がきみらの上層部直々に”無害認定”受けてるってことくらい、いい加減覚えてほしいもんだよ」


「ああ、よく覚えているとも。上層部も墜ちたものだと今でも残念に思っている。気にするな……そんな認定は俺が必ず覆してやる」


「いつも言ってるけど、いつになったら覆されるんだろうね」


 気がつけば男は二人の目の前まで距離を詰めていた。

 整えられた短い黒髪と、きりっとした眉。少し面長で、鼻筋は真っすぐ。背はカノンよりも大きいだろうか。

 何よりも印象的な他人を見下すような目つきに、ユズリハは自然と気を悪くする。


 大罪人? 無害認定? 上層部?

 意味の分からない単語が並べられ、気分はすっかり蚊帳の外である。


「……何をじろじろと。貴様も罪の自覚を持っていないようだな……”罪人”」


 と、思っていた矢先、急に男の矛先がユズリハに向いた。


「は、はあ? 罪人? 何のことですか……?」


 まったく身に覚えがない指摘に、ユズリハは面食らう。

 罪の自覚どころか、そもそも何の罪も犯していないはずだ。


 ユズリハの反論に、男はまるで残念だと言わんばかりに深いため息をつくと、ひどく冷たい眼差しで彼女を見下ろした。


「な、なんですか? 言いたいことがあるならはっきり言ったら――」


 言い終わる前に、男が左手の人さし指で指さす。


「では、その痣はなんだ?」


 その指摘に、背筋がゾッと凍った。

 何も言い返せず、ただ咄嗟に右手を隠すように背中に回すことしかできなかった。


 完璧に隠したはずだった。

 カノンですら、見てもわからないと言わせたほど綺麗に隠れていた。


(なんでわかったの? 見えないようにしてるはずなのに、どうして?)


 男は何も言わない。ユズリハの言いたいことなど察しがついているのか、嘲るように鼻で笑うだけだ。


「それはまごうことなき罪の証だ。それを刻まれておきながら潔白だと宣うか。笑えん冗談だ」


 取り乱すユズリハを歯牙にもかけず、男の左腕が静かに上がる。

 地面に水平、肘は直角。指をまっすぐ空に伸ばしたその姿は、さながら軍隊の号令のようだ。


「……自らを無垢と思い込むその精神性こそが、お前が罪人たる証明なのだ」


 男の動きに従うかのように、未だ背後に控える四人の人影がわずかに動く。

 遠くからでも肌で感じる、刃の切っ先を向けられているような感覚。そんなものとは縁遠いユズリハであっても、この感覚には覚えがあった。


 ――これは、殺気だ。


 ほんのわずかな恐怖心。だが、たったそれだけで十分だった。

 きちんと息を吸うことができない。

 足は生まれたばかりの動物のようにがくがくと震えて、うまく立っていられない。

 指先にも力が入らず、思うように動かせない。

 バクバク、バクバク。心臓の音が、けたたましく脳内に響く。


「――あ、ああ……う、あ……」


 ヒューヒューと耳障りな呼吸音とともに、言葉にすらなっていない嗚咽が漏れる。

 昨日のことも、それから今朝のことも、考えないようにしていた記憶を無理矢理刺激され、頭が真っ白になりながら、ユズリハは膝から崩れ落ちた。


「罪人には罰を。当然の報いだ」


「……っ……!」


 男の左腕が、空間を裂くように振り下ろされる――だが、腕は水平になり切らないまま、その動きを止めた。


「……あんまりうちの依頼人クライアントを困らせないでくれ」


 号令の腕を、カノンの掌が受け止めていた。


「……なんのつもりだ」


 無理矢理振り下ろさんとするも、掴まれた腕はピクリとも動かない。


「見てのとおりだよ。そっちこそ、勝手な真似するなよ」


 カノンは起伏のない声色でそう言うと、さらに強い力で男の腕を握る。


「っ……」


 声こそ上げないものの、男の顔色がわずかに曇った。


「……離せ」


「何もせず帰ってくれるってんならそうしてやってもいいけど」


「我々は主に代わって裁きを下さねばならない。おまえも理解しているはずだが」


 今度は振り払おうと試みるも、やはりカノンの手は男の腕から離れない。


「相変わらず自分らのこと棚に上げて価値観を押し付けるの、やめてくれないかな。興味ないんだよね」

 

「何を言うか……清められた我々こそが代弁者なのだ……!」


 未だに抵抗を続ける男の態度にうんざりしたカノンは、握りつぶさんという勢いで、腕を掴んでいる手にさらに圧力を加えた。


「ぐっ……!!」


 骨がきしむような痛みに、男の表情が苦痛に歪む。

 男がカノンの腕を振り払えない限り、この攻防戦に勝ち筋はない。

 やがて動きを止めたままにらみ合いを続けていると、男が掴まれていない方の右腕でカノンの肩をパン、パンと数回叩いた。

 それはギブアップのサイン。


 カノンが腕から力を抜くと、男のは素早く腕を自分の方に戻し、掴まれていた箇所に手を当てながら口を開いた。


「……よかろう。今日はおまえに従ってやる」


 カノンからしてみれば、負け惜しみにしか聞こえない言葉。しかしそれを追求するのも面倒なので、適当に返事を返すだけに留める。


 殺害の指示撤回を受け、背後に控えていた人影たちも同様に殺気を収めると、一人、また一人とその場から散っていった。

 気配が消えていくのを見届けるなり、カノンはすぐにユズリハの目の前にしゃがみこんだ。 

 殺気が解かれたとはいえ、未だにユズリハは覚束ない意識のまま、カノンを呆然と眺めることしかできないでいた。


「まあ無理もないか……できたばっかりのトラウマをいきなり掘り起こされたんだからね」


 安心させる術はないものかと、ためしに彼女の手を優しく握る。

 手はすっかり冷え切って、まるで今の彼女の心を現しているようだった。

 そのまま彼女の腕を自分の肩に回すようにして支えると、さながら怪我人の介護のようにゆっくりと立ち上がる。

 どうやら足には力が戻ったようで、まだ不安な部分はあるものの、自力で歩くこと自体は可能なようだ。


「さ、帰ろう」


 そう声をかけて、決して慌てず落ち着いた足取りで大通りの方に向かう。

 ユズリハの体がついてこれているか、しきりに確認しながら、一歩、また一歩と足を進める。

 ちょうどスーツの男の隣に差し掛かったとき、彼はまっすぐ前を向いたまま、唐突に口を開いた。


「そういえばさ。ずっと気になってたんだけど」


「おまえの問いに答える義理はない」


 構わずカノンが続ける。 


「駐輪場で発生した小さな怪異。あれ、どうしたんだよ」


 物言わぬ怪異。生まれて間もない、将来性の塊。

 その気配が消失していることに、カノンは気がついていた。


「言っただろう。答える義理はないと。しかしあえて言うならば……おまえの考えているとおりだと言っておこう」

 

 不快感をあらわにしつつ、男が答える。


「そっ、かあ……いや、残念だね」


 平坦だが少しだけ沈んだ声色でそう言うと、彼は再び、大通りへと足を進める。

 スーツの男はその場に立ったまま、彼が横切っていくのを見送った。

 正確に言えば、見送ることしかできなかった。


 今、男がカノンに攻撃を仕掛けようものならば、無事では済まなかっただろう。

 痛み分けで済めば御の字。だが実際は、返り討ちにあうのが関の山だ。

 触れようとするものすべてを斬ってしまいそうな、鋭い刃物のごとき危うさが今の彼にはあった。

 遠くなるカノンの背中を、せめてもの抵抗だと刺すような視線を送りながら、男は誰もいなくなった路地裏で、一人呟く。


「いずれ、思い知らせてやろう――おまえの罪のなんたるかを」


 その言葉を残して、ついに路地裏から人の姿が消えた。

 カノンは一人、考える。

 彼らと同じ荒療治を、自分は試みる。

 そのとき、彼女は耐えられるのだろうか、と。


 彼が振り返ると、そこには怪物が刻んだどす黒い染みだけが、未だべっとりとへばりついていた。

 


 


  

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