ナイト・ワーカーズへようこそ(1)
白い光がベッドに横たわる二人を冷たく照らす。
包帯を巻かれ、点滴に繋がれた両親の姿はなんとも痛々しくて、とてもじゃないけどまともに見ることができない。
病室に流れる規則的な電子音が、やけに間延びして聞こえた。
──連絡してから、すぐに救急車がやってきた。
救急隊たちに運ばれ、気がつけば両親は手術室の中へと搬送されていた。
『手術中』という赤いランプの光が消えたのは、昼を少し過ぎた頃。
それから少し時間を置いてから、ユズリハは疲れた面持ちの医師に呼び出され、診察室に案内された。
「命に別状はありませんでした。安心して大丈夫ですよ」
ふくよかな男の医師が淡々とした口調で説明する。
そう説明されたところで、実感など湧かない。
「ただし、すぐには目覚めないかもしれませんね。出血が酷く、傷を癒すためにも体力を蓄えなければなりませんから」
「そう、ですか」
反射的に口からこぼれる。
医師の細かい説明など、上の空だった。
ある程度、二人の現状を説明し終えると、医師はやや眉尻を下げながら、何やら言い淀む様子を見せる。
ユズリハはその様子に首を傾げるも、彼女が尋ねるよりも先に、医師のほうが口を開いた。
「それから、少し気になることがありまして」
「気になること?」
「ええ。お二人の手の甲にですね、何か痣のような痕がありまして。お調べしたところ、内出血でできたものではないようでして……」
困ったように言う医師をよそに、ユズリハは咄嗟に己の右手を左手で覆い隠す。
「……いえ、あんまり気になさらないでください。医者として少し気になっただけ、ですので」
彼女の行動に気がついていない医師は、そう言って、朗らかに笑った。
診察室をあとにすると、ユズリハは真っすぐ病室に向かった。
二人の手の甲にできたというその痣を、自分の目で確認したかったのだ。
二人用の病室。殺風景な白い部屋。
大きなベッドのうえで、両親が一人ずつ、安らかに寝息を立てている。
穏やかな寝顔に安堵を覚えつつも、目覚めの兆しが見えないことに、自然と複雑な表情を浮かべた。
起きないだろうと思いつつも、抜き足でベッドに近づき、おそるおそる……意を決して、両親の手の甲を確認した。
「……!」
予想はしていた。
それでも、思わず絶句した
父と母の手の甲に刻まれた円形の黒い模様。
インクを滲ませたような、光の一切を許容しない、圧倒的なまでの黒。
咄嗟に二人の手を離し、己の右手を無意識にさする。
「なんで、二人にも……!?」
両親に刻まれた黒の痕跡が、ユズリハの手にもまた、刻まれていた――。
そして、今に至る。
部屋の隅で塞ぎ込んだまま、どこへ行くこともできず、こうして蹲っている。
……自分は、どうすればいいんだろう。
小さくなりながら、そんな考えがぼんやりと浮かんだ。
ここにいてもどうにもならない。理解しているからこそ、身動きが取れないでいた。
だからといって、家にも帰りたくない。
今朝の光景が網膜に焼きついている。玄関の扉を開いただけで、それは容易に思い起こされるだろう。
そうでなくても、警察が現場を調べるために、むやみに立ち入ることは許されないはずだ。
「警察……」
そういえば、事情聴取はされるのだろうか。
もっとも、何か聞かれたところで答えられることなんて何もない。
昨晩の出来事を話したって、誰も信じてはくれないだろう。そういう確信があった。
……なら、誰かに助けを求めてみるのは?
この事態を解決できる人を探して、力になってくれと頼むのは……。
「ふふ、馬鹿らしい……」
そこまで考えて、ユズリハは自嘲気味に呟いた。
だってそれじゃあ、警察に言うのと変わらないじゃないか。まともに取り合ってくれる人なんているわけがない。
自分ですら実感の湧かない話なのだから。
「はあ……」
大きくため息をつきながら、壁に身を預ける。
膝を抱えていた腕をスカートの上に置いたとき、何かがひらりとポケットから落ちた。
手探りで引き寄せたそれは、薄くて白い紙のようなもの。
こんなもの、いつもらったんだろう。
曖昧な記憶を思い出しながら、紙に視線を落とす。
<特殊処理請負業 ナイト・ワーカーズ>
<白浪カノン>
昨晩、彼から手渡された名刺だった。
「……そうだ……」
呆然と名刺を眺めていた瞳に、唐突に生気が宿った。
彼女はいきなり真っすぐ立ち上がると、脇に置いてあった自分の荷物を手に取って、足音を立てないように出入り口へと向かう。
病室の戸に手をかけたところで、ユズリハの動きがぴたりと止まった。
――これは、正しい選択なのか?
あの疑問が再び頭に浮かぶ。
迷いを振り切るかのように、躊躇っていた腕を強く引いて、病室を飛び出した。
彼なら、もしかしたら、なんとかしてくれるかもしれない。昨日の夜、自分を救ってくれた白髪の青年なら、あるいは。
「絶対、助けるから……待っててね……お父さん、お母さん」
そう呟いて、また走る。
胸に芽生えた一縷の希望は彼女にとって、まさに道標そのものだった。
「んー〜〜〜……」
意気揚々と飛び出したはずのユズリハは、道の端で一人、唸り声をあげていた。
「このあたりのはずなんだけど……」
そう呟きながら、名刺に書かれた住所ととスマホの画面に映る地図とを何度も見比べる。
かれこれ数十分ほど、彼女は目的地にたどり着けないまま、同じところを行ったり来たりしていた。
地図アプリは、確かに入力した住所がこの近辺であることを示している。
けれどなぜか、ユズリハが何度歩き回っても、気がついたころには目的地を通り過ぎてしまっているのだ。
繰り返すにつれ、眉間に少しずつシワが増える。
何十分も歩かせ続けて、それでも目的地にたどり着けないのは、きっとこのアプリがうまく機能していないからだ。
そんな思考すら芽生え始めて、スマホを握る手にぐっと力がこもった。
何回目の挑戦――しかし、あえなく失敗。
眼前に広がる光景はもはや見慣れたもので、そろそろ地図などなくともこのあたりを自由に歩き回ることすらできそうだった。
「……このポンコツアプリっ、全っ然役に立たないじゃん!」
とうとう限界に達し、思わず画面に向かって不満を叫んだ。
しかし、スマホは変わらず目的地はここだと示すばかり。
「はあ……なにやってんだろ、わたし」
項垂れつつポツリと零す。
こんなところで喚き散らして、恥ずかしいったらありゃしない。みっともなさの極みだ。
けれど、焦らずにはいられなかった。
……住所以外に何かヒントになるものはないか。
ダメ元でもう一度、名刺に目を通す。
特殊請負業――歩きながら調べてみたが、これがどういった仕事なのか、結局わからずじまいだった。
なんせ、まったく情報が出てこないのだ。まるで何かに隠されているように、無関係の情報ばかりが検索を妨げていた。
しかし、改めて見ると、なんとも言えない名前だ。組織の名前にしては、あまりにもふざけているというか、まともじゃないというか。
「ナイト・ワーカーズ、ね――」
なんとなくその名を口にした途端、手にしていたスマホが急に振動し、それから告げた。
『目的地ニ到着シマシタ』
咄嗟に振り返った彼女の視界に、二階建ての木造家屋が飛び込んだ。
突然現れた家に、ユズリハは自分の目を疑わずにはいられなかった。
だってここは家と家の境目だったはず。別の建物があったのならば、見逃すはずがないのだ。
「……」
徐々に薄れていく違和感に気味悪さを覚えつつも、ユズリハは足を進める。
二の足を踏んでいる暇などないのだ――その気持ちは、玄関の扉を目前にして一気に勢いをなくした。
……怖い。
上手く言い表せない恐怖。
何に怯えているのかも、よくわかっていない。
ただ一つだけ。白浪カノンともう一度出会うことで、人生は一変する――そんな予感があった。
それが良いことなのかはわからない。もしかしたら、うんと悪い結末が待っているかもしれない。
救いたい人は救えなくて、自分すらも地獄に落ちてしまうかもしれない。
誰かが自分に問いかけている。
姿の見えない誰か。声のない誰か。意思のない誰か。
そのどれもが、ユズリハの不安を掻き立てようと躍起になっているようだ。
誰かの声は反響して、どんどん大きくなっていく。
それでいいのか。
それでいいのか。
それでいいのか。
「…………」
迷いの声を払拭するように、彼女はもう一歩、足を踏み出して、
「……それでいいの」
小さく呟く。
頭の中で響いていた声が、少しずつ小さくなって、やがて聞こえなくなった。
ユズリハは人差し指をピンと伸ばすと、すうっと息を吸ってから、小刻みに震える指で軽くボタンを押した。
ピンポーン……。
玄関の向こうで、インターホンの音が短く響く。
少しばかり待っていると、すぐに足音が聞こえ、ガチャリ──と錠の外れる小さな音がして、目の前の扉がゆっくりと開かれた。
「あら、どちら様?」
聞こえてきたのは、大人びた女性の声。
ドアの隙間から顔を覗かせたのは、真っ黒な長い髪を後ろで束ねた女の人だった。
第一印象は、とても仕事ができそうな人。
白シャツに黒いパンツ、前を開けたままのジャケットと、首元までしっかり締めた赤いネクタイは、そう思わせるには十分だった。
それに鋭いながらも圧力の感じない瞳と、くっきりとした鼻筋。
はっきり言って、美人だった。
見知らぬ女性の出迎えに面食らいながら、ユズリハは徐に口を開く。
「あの、ここって、<ナイト・ワーカーズ>さんで合ってますよね?」
「ええそうよ。うちに何か御用? ひょっとして仕事の依頼かしら」
女性の視線が一瞬ユズリハの持つ名刺に移るも、彼女が気づくよりも前に、ジョイ性はユズリハに目を合わせ直した。
「私、白浪カノンさんに用があって……」
「なんだ、あの子の……お客さんが来るって言ってたかしら……まあいいわ。すぐにカノンくんを呼んでくるから、中で待っていてもらっても?」
「あ、ええと、入っても、いいんですか……?」
「もちろんよ。仕事の依頼に来たんでしょう? なら、落ち着いて話ができなきゃ」
ユズリハの答えも待たずに、女性が彼女の腕をぐい、と引き寄せた。
困惑するように眉をひそめながらも、ユズリハは促されるがまま玄関の敷居を跨ぐ。
「お、お邪魔します……」
「ふふ、いらっしゃい」
ぎこちない挨拶に、微笑みが返される。
……この女性はいったい何者なんだろう。
ふっと浮かんだ疑問を頭の片隅に留めながら、丁寧に靴を脱ぎ揃えた。
リビングに案内されたユズリハは、一人椅子に腰かけたまま、呆然と周囲を観察していた。
すぐに視界に飛び込んできたのは台所だ。
どこか懐かしさを感じさせるシンク。まだ水滴の乾いていない食器。メモなんかが張り付けられた観音開きの冷蔵庫。それから、飾り気のない食器棚と家電の数々。
なんとなく遠くに視線を移すと、今度は洗面所らしき場所が目に入る。
家電量販店でよく見かけるドラム型洗濯機。手前には洗濯カゴが置かれているが、今は何も入っていない。
……なんというか、思っていたのと違う。
もっとこう、事務所らしい場所を想像していた。言うなれば、無機質で殺風景で、緊張感の漂う空間。
しかしここは思っていたよりもずっと穏やかだった。
張り詰めていた神経が少しずつほぐれていくのを感じていると、先ほどの女性がひょっこりと姿を見せる。
「お待たせしちゃったわね。彼ならすぐ降りてくると思うから……あら、ごめんなさい、私ったら飲み物も出さずに」
「いえ、あの、お気遣いなく。私なら大丈夫ですからっ……!」
慌てて席を立つも、彼女はすでに冷蔵庫の中を探っている最中である。
間に合わなかった、と思いながら、どうしようもなく再び腰を落ち着けると、
「やあ。思ってたより早かったね」
突然目の前から聞こえた声に、ユズリハの体がビクッと跳ねた。
勢いよく顔を上げる。
彼女の視界に入り込んだ、少し長めの白銀の髪。
背もたれに体重を預けている青年――白浪カノンが、そこにいた。
長袖のシャツ、短く束ねられた襟足。それから、夜に融けた空間で眩く輝いていたあの白髪は昼間においても不自然なほどに透き通っていて、美しくもあり、逆に不気味でもあった。
「……どうかした?」
黙ったままのユズリハに、カノンはきょとんした面持ちを浮かべる。
「あ、いえ、その……なんでもありません、大丈夫です」
「そう? まあいいや……じゃあ早速、昨日の依頼料を――」
そこまで言って、カノンは唐突に言葉を止めた。
彼の目線の先には、トレイを抱えた女性の姿。どうやら戻ってきていたらしい。
「仕事を取ってくるのは素晴らしいことだわ。でもね、報連相を怠るのはよくないわよ、カノンくん」
そう言って、女性はやや険しい目つきでカノンを捉えた。
「いやいや、誤解だよ誤解。昨日すぐに報告しようとしたんだけど、もう寝てるっぽかったし、無理やり起こすのもよくないなと思って。僕なりの気遣いってやつさ」
「あら、それはどうも。でもおかしいわねぇ……帰ってきたあなたが扉を開けた音を、私はしっかり聞いた覚えがあるのだけれど」
「……報告しに行ったら、ツユリの部屋の電気が消えてたもんだからさ。てっきり寝てるとばかり。でもまあ、仕方ない勘違いだろ?」
「あなたの言う通りなら、そう勘違いしてもおかしくはなかったかもしれないわね。……本当に部屋の明かりが消えていたのなら、ね?」
ツユリと呼ばれた女性のやけに含みのある言い方に、カノンは表情をわずかに曇らせると、それ以上言い返そうとはせず、トレイの上のタンブラーを奪い取るように手に取った。
彼の態度にやや呆れつつ、女性は丁寧な手つきでユズリハの前にもう一つのタンブラーを置くと、
「遅くなってごめんなさいね」
と、にこやかに微笑みを見せる。
ユズリハが礼を言うよりも早く、女性はわざわざ遠回りをしながら、カノンの左隣に腰掛けた。
「それで、どこまで話したの?」
「まだ何にも。とはいえ、支払いだけなんだけどさ」
「……そういえばまだ名乗ってなかったわね。私はツユリ。カノンくんの……そうね、上司みたいなものかしら」
「上司じゃない」と横から訂正が入るも、その声に一切の反応を示さないまま、ツユリは淡々を話を続ける。
どうやら彼女は、広義の声を取り合うつもりがまったくないらしかった。
「名前、聞かせてくれる?」
「……
「さて、ユズリハさん……改めて、今日はどういったご用件で? カノンくんを頼ってきたということは……料金のお支払いかしら」
ツユリの問いかけに、ついつい表情が曇る。
あまりにも顔に出すぎてしまっているせいか、カノンの目がわずかに鋭くなったような気がした。
「いえ、その……実は、別の仕事をお願いしたくって」
小さく頷いてから、彼女は徐に話し始める。
今朝起こったこと。
昨日起きたこと。
それから、どうしてここに来たのか。
全てを余すところなく、詳らかにするつもりで……。
「……そう、そんなことが」
全ての説明を終えたとき、ツユリが小さく零すように言った。
「はい。だからなんとか、昨日みたいに力を貸してもらえないか、と……」
そう言って、ちらりとカノン見る。
話している最中も、彼は一切口を挟んではこなかった。無言を貫いたまま、やはりユズリハをじっと見ていた。
「……うん、ユズリハさんの事情はよくわかったわ。私たちを頼りに来てくれた理由も」
「じゃあ、もしかして……!」
ずい、と身を乗り出すユズリハを窘めるように、ツユリが両の掌を向けた。
「まあまあ、そう焦らないの。仕事を請ける請けないより先に、私たちの仕事内容について説明するわ。話はそれから。ね?」
どこか艷やかな笑みに、はやる気持ちがわずかに落ち着きを取り戻す。
この人の口調や振る舞いは、大人の余裕そのものだった。少し話をしただけで、どこか安心させられる。そういう雰囲気を感じた。
「訊くけどユズリハさん。あなた、
ツユリの口から、聞き慣れない単語が飛び出した。
「怪異……?」
「ふふ、今何を想像したのかしら。お化け? それとも妖怪? 遠からず、けれどち近からず、ね」
ツユリはテーブルに両肘をつき、組んだ指の上に顎を置いた。
「たとえば、明日はどうしても晴れてほしいって思ったことはあるかしら?」
「はい。ちっちゃいころの遠足前とかは特に……」
「その思いは、すなわち願い。人の感情が強くこもった祈りの塊――そう考えられているのだけどね」
ツユリの声が静かに沈む。
「怪異っていうのは、そうした<人の願い>に呼応して生まれる命なの。願いを叶えるために形作られた存在。簡単に言うとそんなところかしらね」
「……それだけ聞くと、全然いい存在というか……悪いふうには思いませんね」
「そうね。確かに聞こえはいいわ。願いを叶えてくれるんですもの。もしかすると億万長者にもなれるかもしれないわね。それが善性の願いだけなら、だけれど」
含みのある言い回しに、ユズリハが首を傾げる。
「つまりさ」
二人の光景を見ていたカノンが、唐突に口を挟んだ。
「その願いが誰かを傷つけるようなものでも、怪異は関係なく叶えようとするってこと。誰かを殴りたい、奪いたい、貶めたい、殺したい……追いかけて、ひどい目に遭わせてやりたい、とかもさ」
言われて、ユズリハはハッとした。
それが悪だという認識は、人間にしか存在しない。怪異には通用しないのだ、とカノンは語る。
「……じゃあ、昨日わたしを追いかけていたのって……」
「まず間違いなく怪異でしょうね」
「だね。断言してもいいくらいには」
二人の言葉は、ほとんど同時に発された。
話を聞いてから、ユズリハはしきりに右手を撫でるようになっていた。
こうしていないと落ち着かない。誰かの悪意が、己に刻まれているような感覚に、背筋が冷やされ続けていた。
「……で、おそらくだけど……今朝あなたのご両親を襲ったのも同じ怪異でしょう」
若干言いにくそうにしながらも、ツユリが言う。
「そう、なんですね……」
思わず顔を俯かせるユズリハ。
悪夢は終わったと思っていたのに、どうやらまだ続いているらしい。
心を黒く染めるには、十分すぎるほどの情報だった。
「でも、もう大丈夫。私たちに依頼してくれれば、あなたたちの身の安全と、怪異の解決、どちらもしっかり保障させていただきます」
唐突に、ツユリの口調が変わったような気がした。
先ほどまでの女性的な話し方はどこへやら。今はなんだか商談に臨むビジネスマンのような雰囲気を漂わせている。
「……そういえば、ちゃんと聞いてなかったと思うんですけど……お二人って、どういうお仕事をされてるんですか……?」
投げかけられた問いに、カノンがこう答えた。
「僕らは
あまりにも自信ありげな口ぶりに、ユズリハは何も言えなくなった。
「……ちょっと、引いてるわよあの子。どうしてくれるの」
「こんなので引くくらいならあのダサい組織の名前でとっくに引いてるって」
「なっ、ダサくないわよ。全然。かっこいいでしょうっ?」
「そう思ってるところがダサいんだって……」
「やだもう。センスの違いね?」
そう言って、ツユリがくすりと笑みをこぼす。しかし、まったく笑っているようには見えない。
むしろカノンに向けて、バチバチの熱を飛ばしているように見えた。
「……あの」
そんな二人の空気に割って入るかのように、ユズリハが口を開く。
「もしお二人が専門家? なら、この依頼、どうか引き受けてはいただけませんか……?」
おそるおそる尋ねる。下手に出すぎなような気もするが、とにかく今はこうするしかなかった。理由は明白である。
「……わたし、あんまり手持ちがありません。昨日の料金だって、いつ払えるかわかりません。でも、約束します。依頼料がいくらだろうと、絶対に払ってみせますから、だから……!」
振り絞るように言って、すぐに頭を下げる。
額が机と触れ合いそうになりながら、それでも背筋を丸めようとはしない。
対価を持たない自分では、こうすることしかできないのだから。
カノンは小さく息を吐くと、ツユリの目線を合わせた。
タンブラーの氷がカラカラと鳴る音だけが室内に響く。
やがて、カノンは中身を一気に飲み干すと、濡れた口元を手で拭いながら言った。
「いいよ。きみの願い、僕が叶えてあげよう」
昨日耳にしたのと、同じような言葉。
思わず顔を上げると、そこにカノンの姿はなかった。
「あれ? カノンさんは……」
「彼なら二階へ。仕事道具を取りに行ってるだけだから、すぐ戻ってくるわよ」
「そ、そうですか。ならよかった……」
ツユリの方に振り返ると、彼女は眉尻を下げながらも笑みを浮かべたまま、こくりと頷く。
ユズリハが安堵の息を吐いた途端、体がドッと重くなったように感じた。
思えば朝からここまで、気持ちの休まるタイミングがほとんどなかった。
少しは気を抜いてもいいのかもしれない。
背もたれに身を預け脱力するユズリハを他所に、ツユリは近くの棚を物色し始めた。
突拍子のない行動に首を傾げていると、ツユリは棚から引っ張り出した様々な書類を抱え、それをドン、とユズリハの目の前に置いた。
「ツユリさん、あの、これはいったい……?」
小さいペットボトル分の高さはあろうかという書類の山。
すっかり気の抜けていたユズリハが問いかけると、ツユリはその中の大きめのファイルから一枚の紙を取り出し、ユズリハに差し出す。
「お疲れのところ申し訳ないけれど、うちに仕事を依頼してくれた方には、契約書を作成しなきゃならないの」
「そうなんですね……全然大丈夫です。わたし、まだまだ元気なのでっ」
「そ。それはよかったわ」
得意げに鼻を鳴らすユズリハに、ツユリがニコリと笑みを浮かべる。
しかしそれは、さっきまでの朗らかさと比べると、妙に陰りがあるように思えた。
「でね、早速なんだけど……」
ツユリは慣れた手つきで書類の山を整理すると、机のうえに二分された塊が出来上がる。
「説明必須な事項がこれくらい。あとは、契約の締結にかかわる同意書がこれくらいかしら」
互いの山を指さしながら、ツユリはまたくすりと笑みをこぼした。
その笑みに……それから、出来上がった塊に、ユズリハの顔がみるみる青くなっていく。
「……まさか」
「そのまさか。ここにある書類全部に目を通してもらうわ。でも、問題ないわよね。元気なんですものね?」
彼女がずっとニコニコしている理由に気がついたユズリハは、口をあんぐりと開けたまま、小さく呟く。
「マジ、ですか……?」
思わずひきつった笑みが浮かぶ。
そんなユズリハの不安など意に介さず、ツユリがテキパキと説明をし始めた。
──ユズリハが疲れのあまり、話半分に説明を聞いていたからだろうか。
それとも、ツユリの説明の仕方が巧妙だったからなのだろうか。
ドラマなどによくある、契約書の隅に書かれた小さな文章を見逃すかのように、ユズリハはおそらく最も重要であり、覚えていなければならない部分を聞き逃してしまっていた。
――依頼料は、当初の三倍になります。
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