依頼料、上乗せで

 白い光が、一人の少女を冷たく照らす。

 心電図の音が、やけに間延びして聞こえた。

 病室に流れるのは、規則的な電子音のみ。

 包帯を巻かれた両親の姿はなんとも痛々しく映る。


 ユズリハは、二人の姿をうまく見ることができないでいた。少しでも視線を向けるだけで、赤く染まったリビングの景色を思い出してしまう。

 そして、得体の知れない昨夜のことも。


 ……部屋の隅で小さく蹲りながら、ユズリハはちらりと父の手の甲に視線を向けた。

 父の手の甲に残された痣のような痕。それは父だけでなく、母の手の甲にも残されている。


 ──手術を終えてすぐのころ。ユズリハは疲れた面持ちの医師に呼び出され、診察室に案内された。


「一命は取り留めました。ただし出血が酷く、しばらくは意識が戻らないかもしれませんね」


 さっきとは別の、ふくよかな男の医師が淡々とした口調で説明する。


 命は助かった。

 そう言われても、実感がない。

 ベッドの上にあるのは、あまりにも痛々しい”生”の形だった。


「それから……少し気になることがありまして」


 医師はカルテを閉じ、小さく息をついた。


「気になること、ですか?」


「なんというか、その……お二人の手の甲に、痣のような痕がありまして。一応お調べはしたんですけど、どうやら怪我の類ではないようで……娘さんから見て、ご両親はどうでした? 普段の生活でよくぶつけていたとかそういったことはありませんでしたか?」


 聞かれて、ユズリハは首を傾げた。

 両親が手に怪我をしたとか、そういった話に覚えはなかった。何かと言いたがりの母のことだから、そんなわかりやすいところに痣ができようものなら、こちらが気がつく前に話しかけてきそうなものだ。

 そうでなくても、手の甲なんてわかりやすいところにそんな痕が残っているのなら、気がつかないはずがない。


 ユズリハは医者に促され、とりあえずその痣を確認することになった。

 物音を立てないようにそっと病室に入り、ベッドの方に足を進める。

 このときからすでに、ユズリハは両親のことをうまく見ることができなかった。二人がこんなことになってしまった原因は、ほかならぬ自分にあるのだと思っていた。


 それでもどうにか視線を向ける。

 二人の顔は思いのほか穏やかだった。きっと麻酔が効いているおかげだろう。どうかこのまま、痛みがぶり返さないことを祈ろう。


 ほっとしたのも束の間、母の手の甲に視線を落としたそのとき……ユズリハの背筋がぞわっと逆立った。

 確かに痣のように見える。近くで見ても、どこかにぶつけてしまった痕のようだ。

 けれどそうじゃない。傷跡なんかじゃない。


 手の甲に染みついているのは、だった。

 血でも墨でもない、光の一切を許さないような、異様なまでの黒。


 ほんの一瞬、その黒が──ユズリハの脈に合わせて、どくんと脈打ったように感じた。

 額から冷たい汗がダラダラと垂れ落ち、床に滴る。

 一刻も早くここから離れたいというのに、足に力が入らない。

 見たくないはずなのに、どうしてだか、目が離せなかった──。


 それからしばらく。彼女は病室の隅、窓際で膝を抱えるように座り込んでいた。


 目を離しても、瞼を閉じても、どうやってもあの<黒>が脳裏に浮かび上がってくる。そのたびに首をぶんぶんと横に激しく振って、無理やり頭の中から消し去ろうとした。


 ……どうするべきなんだろう。

 小さくなりながら、これからとるべき行動について頭を回す。

 留まったところでできることはない。二人の目が覚めるまで、甲斐甲斐しく看病してやることくらいだろうか。しかしそんなことは病院の職員が、自分よりもてきぱきとこなすだろう。


 ならば誰かに助けを求めるか。

 しかし、何と言って?

 父と母は得体の知れない力によって死ぬかもしれないから、どうにか守ってくれとでも言えばいいのか。誰もそんなことは信じてくれない。それどころか、頭のおかしい奴だと鼻で笑われるのがオチだ。


 「はあ……」


 大きくため息をつきながら、壁に身を預ける。

 膝を抱えていた腕をスカートの上に置くと、ポケットからひらりと何かが落ちた。

 手探りでそれを拾い上げ、顔の前まで持ってくる。 


 <特殊処理請負業 ナイト・ワーカーズ>

 <白浪カノン>


 それは昨晩、彼から手渡されたあの名刺だった。


 「……そうだ」


 しばらくその名刺を眺めていた彼女は何か思いついたように声を漏らすと、おもむろに立ち上がる、

 名刺を片手に携えたまま、脇に置いてあった自分の荷物を手に取って、足音を立てないように出入り口へと向かう。

 病室の戸に手をかけたところで、ユズリハの動きがぴたりと止まった。


 ……もう、さんざん悩んだ。

 どうするべきかは考えた。それが正解かどうかもわからない。もしかしたら、間違っているかもしれない。


 それでも──。

 迷いを振り切るかのように、ガシャン、と力強く扉を開けて病室を離れた。


 もう、両親が起きないようにという意識はなかった。

 目指すは名刺に書かれていた住所。

 彼ならもしかしたら、なんとかしてくれるかもしれない。


 「絶対、助けるから。待っててね……お父さん、お母さん」


 小さく呟き、無意識に駆けだす。

 不安はまだ残っている。

 けれど、淡く不確かな希望を、彼女は心の底から信じていた。

 


 「んー〜〜〜……」


 ユズリハは道の端で一人、唸り声をあげていた。


 「確かにここのはずなんだけど……」


 そう呟きながら、小さな紙と液晶の画面とを何度も見比べている。

 紙は昨日、彼から受け取った名刺だった。その名刺の下部に書かれた住所をアプリで検索し、その結果と名刺の記載を比較していた。


 彼女はかれこれ数十分ほど、目的地にたどり着けずにずっと同じところをぐるぐると行ったり来たりを繰り返していた。

 スマートフォンの地図アプリは、確かに住所がこのあたりで間違いないことを示している。けれどなぜか、ユズリハが何度試しても、気がついたころには目的地を通り過ぎてしまっているのだ。


 名刺の住所はおそらく間違っていないはず。確信はないけれど、そう思った。

 なんといっても、わざわざこうやって名刺に記載までしているのだから、間違っているわけがない。

 ユズリハは特にこれといった理由もなく、そう思い込んでいた。

 だとすれば問題があるのはやはり、地図アプリの方だ。

 いや、間違いない。そうに決まってる。


 何十分も歩かせ続けて、それでも目的地にたどり着けないのは、このアプリがうまく機能していないからだ。だから何度も何度も、気づいたころには通り過ぎてしまっているのだ。 

 そう思うと、悪いのはわかりにくい住所の方ではなく、いつまで経っても案内できないアプリの方ではないかと、そういう気持ちが芽生え始める。


 「……このポンコツアプリっ、全っ然役に立たないじゃん!」


 これまでも苛立ちを募らせていたユズリハは先の気持ちも相まって、思わず画面に向かって不満を叫んだ。

 ……しかし、返ってくるのは静寂のみ。かろうじて耳に届いた風の通り抜ける音が、さらに虚しさを掻き立てる。

 がっくり、という音が聞こえてきそうな勢いで、その場に屈みこむ。


 「はあ……なにやってんだろ、わたし」


 こんなところで喚き散らして、恥ずかしいったらありゃしない。

 しかも物言わぬアプリに当たり散らすだなんて、みっともないにもほどがある。

 だが、こうしている間にも両親の容体が急変してしまうかもしれない。


 あの模様の意味はまだわからないが、今度こそあの化け物が父と母を確実に殺しに来るかもしれない。

 そう考えると、焦らずにはいられなかった。


 もう一度、名刺に目を通す。

 上部には、会社らしきものの名称、<ナイト・ワーカーズ>。特殊処理請負業とあるが、これが実際どのような職業を示しているのか、まるでわからない。


 ここに来るまでに少し調べてみたところ、通常の清掃では対応できない現場の専門的な清掃作業……と書かれていたが、やはり何をしている仕事なのか、あまり想像がつかなかった。

 清掃作業ということは、彼はひょっとしたら清掃員なのかもしれない。とてもそんなふうには見えなかったけれど……。

 そう、彼──白銀の髪を持った青年。名前は確か──と、名刺の中央に視線を向けると、そこには彼の名前が大きく書かれていた。


 「白浪、カノン──」


 なんとなく彼の名を呼んだ途端、手にしていたスマホが急に振動し、告げた。


 『目的地に到着しました』


 咄嗟に振り返ると、二階建ての木造家屋が音もなく姿を現した。

 ユズリハはぽかんと口を開けたまま、突然現れた家を呆然と眺めている。

 ここには家なんて建っていなかったはずだ。

 いや、厳密にいえばここはだったはずなのだ。


 両隣に視線を向けると、確かに別の家屋がそれぞれ建っている。

 さっきまで隣り合っていたはずの建物が、今ではその関係を引き裂かれ、間に割り込まれている。しかもそれが当たり前であるかのように……最初からそうであったかのように感じ始めているのが、不思議でならなかった。


 「……」


 散々時間をかけて、ようやくたどり着いた目的地を前にして、ユズリハはあろうことか二の足を踏んでいた。


 ……怖い。

 昨日のことを思い出すのが?

 いや、そうじゃない。

 彼に会うことが?

 ……多分、そっちだ。

 彼に会うことで、自分の未来が大きく変化するような、そんな気がしている。

 それがいいことなのか、それとも悪い方に転ぶのかはまだわからない。けれど間違いなく、大きな転換点となる。


 もしかしたら、両親を救えないかもしれない。

 仮に救えたとしても、自分は無事でいられないかもしれない。

 最悪、三人とも死んでしまうかもしれない。

 それでも……それでも、いいのか?


 誰かが自分に問いかけている。

 姿の見えない誰か。声のない誰か。意思のない誰か。

 そのどれもが、ユズリハの不安を掻き立てようと躍起になっている。

 考えても考えても、答えは全く浮かばない。

 誰かの声はどんどん大きくなっていく。



 それでいいのか。

 それでいいのか。

 それでいいのか。



 彼らに対するユズリハの答えは、すでに決まっていた。

 迷いの声を払拭するように、彼女はを踏み出した。

 最悪の未来になんてさせやしないし、両親の命も救って自分も無事に戻ってみせる。そう、心に決めたのだ。

 頭の中で反響していた声が、みるみるうちに遠くなっていって、やがて聞こえなくなった。


 「それで、いいの」


 すでに消えてしまった声に対して、小さく呟く。

 ユズリハは玄関前に立つと人差し指をピンと伸ばし、すうっと息を吸ってから意を決して、小刻みに震える指をそっと進めた。


 ピンポーン……。

 玄関の向こうで、澄んだインターホンの音が短く響く。

 少しばかり待っていると、すぐにドタドタと足音が聞こえ、ガチャリ──と錠の外れる小さな音がして、目の前の扉がゆっくりと開かれた。


 「あら、何か御用?」


 現れたのは、カノンではなかった。

 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、真っ黒な長い髪を後ろで束ねた女性だった。


 第一印象は、とても仕事ができそうな人。

 白シャツに黒いパンツ、前を開けたままのジャケットと、首元までしっかり締めた赤いネクタイがそう思わせたのだろう。

 それに、鋭いながらも圧力の感じない瞳とくっきりとした鼻筋。

 はっきり言って、美人だった。


 そんな美人の出迎えに面食らいながらも、ユズリハは口を開く。


 「あの、ここに、白浪カノンさんはいらっしゃいますか?」


 問われて一瞬、女性の視線が下がったことに、ユズリハは気が付かなかった。


 「……ええ、もちろん。」


 ユズリハの左手をちらりと見終えると、女性は瞬時に視線を彼女に向け直し、にこやかな笑みを浮かべながら頷いた。


 「とりあえず彼を呼んでくるから、あなたは中で待っていなさい」


 「お邪魔しても大丈夫なんでしょうか……?」


 「お客様を外でお待たせするわけにはいかないもの。いいからいいから」


 促されるまま、ユズリハは一歩、玄関に足を踏み入れる。

 この女性はいったい何者なんだろう。

 ふっと浮かんだ疑問を頭の片隅に留めながら。



 リビングに案内されたユズリハは、中央の椅子に腰掛けながら周囲を見渡す。

 あんな怪物を倒した人の勤め先なのだから、もっと危険物が置いてあるとか、怪しげな実験をしているとかを想像していた。

 しかし、ここにあるのは普通のシンク。まだ水滴の乾いていない食器。メモなんかが張り付けられた観音開きの冷蔵庫。飾り気のない食器棚と家電の数々。


 怪しげな薬もなければ、彼が持っていたような凶器も置かれていない。

 遠くに視線を移すと、洗面所らしき場所が見える。ドラム型の洗濯機が一台。見覚えのある形をしている。手前には洗濯カゴが置かれているが、今は空っぽだった。


 当たり前に行われている、人の営みの匂い。

 想像していたよりずっと、普通の空間が広がっていた。

 しばらくして、先ほどユズリハを出迎えた女性が再び姿を見せる。


 「ごめんなさいね、お客様に飲み物も出さずに待たせちゃって」


 そう言って彼女は冷蔵庫を開けた。

 中にはピッチャーやペットボトルなどが並んでいる。それらの隣に、赤い液体で満たされたパックのようなものがちらりと見えた。

 ユズリハはどうしてだか、嫌な寒さを感じた。


「いえ、お気遣いなく……それで、白浪さんは?」


「ここにいるよ」


 女性の背後から、ふと声が聞こえた。

 振り向いた先にいたのは、白銀の髪を持つ青年──白浪カノンだった。

 長袖のシャツに黒のゆったりとしたズボン。少し長めの髪は襟足だけを後ろで束ねている。

 夜に融けた空間でなお眩く輝いていたあの白髪は、昼間においても不自然なほどに白い。そう、ほんのわずかに見ただけでも、目を奪われるような。


 「お、昨日の……。僕宛のお客って、もしかしてきみ?」


 軽い調子でそう言いながら、彼はテーブルの向かいに腰を下ろす。

 口調に反して、表情はあまり変わっていない。


 「昨日は災難だったね。お互い生きてて何より」


 「その子依頼人だったの? そんな話聞いてないわよ」


 女性は背中を向けたまま口を挟んだ。


 「あの時間は声かけるなって前言われたから、僕はツユリの言いつけをちゃんと守っただけですよ」


 カノンは半身を振り向かせながら若干嫌味っぽい言い回しで返す。


 「あら、そうだった? まあいいわ。けど報告書は書いてね。でないとあとで私が困るんだから」


 はいはい、と適当な返事をして、カノンは再びユズリハの方に顔を向けた。


 「それで、もう準備できたの?」


 「え?」


 「ほら、依頼料。十万円だっけ。それとも、まだ用意できていない?」


 「え、と、そう、ですね。まだ……」


 ユズリハの声がどんどん細くなる。

 昨日の今日ではさすがに用意できないし、そもそも今日はその件で訪れたわけではない。

 ましてや、彼の言う<依頼>の内容すら曖昧なままだ。


 「そっかぁ。ああ、全然気にしないで。こっちも急いでないし」


 両掌をこちらに向けながら、左右にひらひらと揺らし、カノンは『気にするな』のジェスチャーをとっている。


 「……あの」


 そんな彼に、ユズリハが小さく口を開く。


 「どうかした?」


 「カノンさんって、昨日の怪物みたいなのを倒すことがお仕事なんですか?」


 「……んー、そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」


 彼はわざと答えを濁し、机の表面を指でなぞった。


 「カノン。あなたまさか依頼人に何の説明もしてないの?」


 そう言いながらツユリが麦茶の注がれたグラスをそっと二人の前に置いた。


 「説明してる暇なかったんだって。ね?」

 と、カノンがちらりとこちらを見る。


 「え? ええ……確かに説明を受けている余裕はなかったかもです」


 「ほんとかしら……」


 やれやれ、と眉をひそめながら、ツユリはカノンの隣に腰掛けた。


 「さて……そういえばまだ自己紹介が済んでなかったわね。私はツユリ。カノンくんの仕事仲間よ。あなたのお名前は?」


 「八雲ヤクモユズリハと言います……」


 「ユズリハさん。いい名前ね。では改めて、きちんと説明するわね──私たちがどんな仕事をしているのかをね」



 「結論から言えば、私たちは、を請け負っているの」


 ツユリの口から、聞き慣れない単語が飛び出した。


 「怪異……?」


 「そう。けれど今あなたが想像しているような、お化けや妖怪とは少し違うわ」


 ツユリはテーブルに両肘をつき、指先を軽く組み合わせ、その上に顎を置いた。


 「たとえば、明日はどうしても晴れてほしいって思ったこと、あるでしょう?」


 「はい。ちっちゃいころの遠足前とかは特に……」


 「でも、そういう日に限って決まって雨が降る。そうすると、<次こそは>と人はまた祈る。空を見上げて、自分の願いを叶えてほしい、ってね」


 ツユリの声が静かに沈む。


 「怪異っていうのは、そうした<人の願い>に呼応して形作るの。強くて、純粋で、時には歪んでしまって、願いを叶えるだけにとどまらず、人に危害を加えてしまうこともある」


 ユズリハは昨夜の出来事を思い出した。

 黒く蠢く影が吐き出す、闇に染められた液体。

 あれも……誰かの願いが生んだものなのだろうか。

 ──脳裏に隠れた、夕陽の差し込む教室の風景──。


 「……つまり、ツユリさんたちは、怪異を退治することが仕事なんですね」


 その風景から逃れるように、ユズリハが訊いた。


 「退治、ね」


 横からカノンが口を挟む。氷の入ったグラスをくるりと回しながら。


 「昨日の奴はそうするしかなかった。あれは敵意のみの良くないものだったから」


 そう言って彼は麦茶に溶けていく氷を眺めている。


 「できることなら、穏便に済ませたいもんだよ」


 彼の言葉は、どこか寂しげだった。


 ……そうするしかなかった。

 ということは、場合もあるのだろうか。

 命を奪うのではなく、それこそ彼の言ったように、穏便に済ませられるようなことが。


 「けどまあ、上手くいかなかったらしい。だからきみは依頼料を用意するよりも前にここに来た」


 彼の視線がユズリハに向けられる。心の奥底を探るような目つきで、じっと彼女を見つめている。

 それに耐えかねて目線を落としたそのとき、右手の甲が黒く滲んだ。

 ユズリハは思わず肩を跳ねさせて、素早く瞬きを繰り返す。


 いつの間にか手の甲に、真っ黒な痣がにじんでいた。

 額から嫌な汗がブワッと噴き出す。病室で横たわる両親の姿が鮮明に蘇る。。そのおかしな反応を見逃す彼らではなかった。

 どのみち、訊かれるでもなく話そうと思っていたことだ。だから、説明することに抵抗はない。


 「……実は」


 ユズリハは、今朝起きたことのすべてを二人に話した。

 朝起きたら両親が倒れていたこと。リビングの床が赤く染まっていたこと。二人の命に別状はないと言われたこと。それから、手の甲の痣と、玄関に残されていた墨のような跡のこと。そして今、唐突に浮かび上がった自分の痣のこと──。

 カノンはグラスをテーブルに戻すと、短く息を漏らした。


 「……事情はだいたいわかった」


 その口調は穏やかすぎて、逆に冷たく聞こえた。。


 「──で? 結局、きみは僕にどうして欲しい?」


 彼は背筋を丸めて、俯いているユズリハの顔を覗き込む。


 「わたしは……このままじゃお父さんもお母さんも死んでしまうかもって、だから……」


 膝の上で握りしめていた両手に、ぐっと力が入る。

 爪が皮膚に食い込んでいるのか痛みが走る。

 答えなければいけないのに、うまく言葉が出てこない。

 けれど。


 「……助けてほしい、です……!」


 けれどしっかり顔を上げて、カノンから目をそらさずにそう言った。


 「そっかそっかぁ……」


 軽い口調の彼は、顎に手を当て、口を閉ざす。

 長い沈黙。

 ツユリも同様に黙り込んだまま、カノンの様子を伺っている。

 彼はさっき置いたグラスにもう一度手を伸ばすと、それを口に運ぶ。

 グラスの中の氷が、カラカラを音を立てた。


 「……よーし、準備してくる」


 ようやく口を開いたかと思えば、彼はすっと立ち上がり、それだけ言い残してリビングから去っていく。

 遠くなっていく彼の背中を、ユズリハはぽかんとした顔で見つめていた。


 「えっと、つまり……」


 ツユリの方に振り返ると、彼女は眉尻を下げながらも笑みを浮かべたまま、こくりと頷く。


 「ええ。あなたの依頼、うちが正式に引き受けましょう」


 その言葉を聞いてユズリハが安堵の息を吐いた途端、体がドッと重くなったように感じた。

 思えば朝からここまで、気持ちの休まるタイミングがほとんどなかった。

 まだ一安心というわけにはいかないが……とりあえず一歩前進だ。


 背もたれに身を預け脱力するユズリハを他所に、ツユリは近くの棚を物色している。何が何だかよくわからない書類の数々を引っ張り出すと、彼女はそれをドン、と机の上に置いた。


 「ツユリさん、あの、これは……?」


 小さいペットボトル分の高さはあろうかという書類の山。

 すっかり気の抜けていたユズリハが問いかけるも、ツユリは黙ったまま、慣れた手つきで書類の山から何枚か紙を取り出し、ユズリハの目の前に差し出して、


 「お疲れのようだけどごめんなさいね。依頼者様には規約の説明と契約の手続きをしてもらわなきゃならないの。それで……」


 ツユリが書類の山をちらりと見る。

 それを見てなんとなく、ユズリハは嫌な予感を感じていた。


 「も、もしかして……」


 「あら、察しがいいわね。そう、だから。長丁場になると思うけれど──我慢してね?」


 カノンがここから去って以降、ずっと彼女が笑みを絶やさなかった理由が理解できたユズリハは、呆気にとられたように口を開く。


 「マジ、ですか……」


 思わずひきつった笑みが浮かぶ。いったいどれだけの情報を与えられるのか。

 そんなユズリハの不安など意に介さず、ツユリがテキパキと説明をし始めた。

 

 ──ユズリハが疲れのあまり、話半分に説明を聞いていたからだろうか。

 それとも、ツユリの説明の仕方が巧妙だったからなのだろうか。

 ドラマなどによくある、契約書の隅に書かれた小さな文章を見逃すかのように、ユズリハはおそらく最も重要であり、覚えていなければならない部分を聞き逃してしまっていた。


 依頼料は、当初の三倍になります──。

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