ホワイトスカーレット
かなね
白銀と出会った日
煌びやかなネオンの輝きが、夜の帳に包まれ始めた街を明るく照らす。
大通りは人で賑わい、騒がしい音楽と甘ったるい香水の香りが混ざり合って、夢見心地を作り出す。
高層ビルの窓ガラスに反射する光は瞬く星々のようで、行き交う人々は液晶端末を片手に、眠らない街を形作っていた。
目が眩むような繁華街から一歩奥に踏み込めば、そこには別世界が広がっている。
湿った風と錆びた鉄の匂いが充満する、光の届かない路地裏の隙間を惑うように、一人の少女が駆けていた。
「はっ……はっ……!」
呼吸をしているのか、それともただ喉が鳴っているだけなのかもわからない。
足の筋肉が悲鳴を上げている。
背筋を伝う汗の感触、制服が肌に張り付く感覚が気持ち悪かった。
気を抜けば逆流してきそうな胃液を強引に飲み下しながら、ただ走る。
一歩でも足を止めればそれで終わってしまう。そう思った。
目の前、突き当たり。右へ曲がる。
この道がどこにつながっているのかもわかってはいない。反射的に選択しているだけだ。
そうするたび、これは正しいものなのかと誰かが脳裏で囁いているように思えてならない。
しかしそんな声も、すぐに焦燥に飲まれた。
――タッ、タッ、タッ――。
背後から響く嫌なほど規則的な足音が耳に届いて、駆ける少女――ユズリハの心臓が激しく拍動した。
いくら走っても、いくら逃げようとも、それはまるで設計に忠実なロボットのように、一定のリズムを保ちながら、彼女を追い続けていた。
「お願いっ……もう、来ないで……っ!」
不意に口から滲み出た言葉。
しかしそれが通じるはずもないということを、ユズリハはとっくに知っている。
何本ものケーブルを束ねたような、関節のない足と腕。本来なら人の頭がある部分に突き刺さった、巨大な乾電池。首の付け根からは真っ黒い液体が漏れ続け、垂れ落ちたアスファルトをじわじわと浸食する。
繁華街を歩いている最中、それは突然姿を現した。
見えていたのは自分だけ。街ゆく人間は誰一人、現れた異形に気がついていない。
──逃げろ。逃げろ。逃げろ。
目にした途端、本能が強く叫んだ。
だが怪物は今もなお、執拗にユズリハを追い続けている。
水かどうかもわからない液体を踏み抜いて。
置かれた段ボールを蹴り飛ばして。
コンクリートの地面を強く蹴り上げる。
少し逸れれば、すぐに光が広がっている。
そうだ、そっちに逃げ込めばいい。そうすれば助かる。助かるはずだ。
根拠のない自信がふっと湧いて出た。
しかしユズリハの体は、決して光のもとへ向かおうとはしない。
その中はあまりにも眩しすぎて、自分が立ち入る資格などないように思えた。
「っ…………あっ……!」
次に正面を向いた時、ユズリハは唐突に、その場でぴたりと足を止めた。
目の前には巨大な壁。
行く手を阻むように――ユズリハの努力をあざ笑うかのように、静かにそびえ立っている。
大量の汗を噴き出しながら、呼吸を整えるのも忘れて周囲を見渡す。だがどこにも逃げ道は見当たらない。
まさに袋のネズミ。そう思ったのも束の間、全身から一気に力が抜け、膝がぺたりと地面に触れた。
なんとか立ち上がろうとするも、一切の自由がきかない。逃げようとする意識が、とうとう体に追いつかなくなった。
ふと、さらに暗い影が背後から差し込んだ。
弱々しく振り返る。
怪物が、もうすぐそこにいた。
首の付け根から流れるドロドロの液体。口らしきものは見当たらないのに、どこからかコシュ、コシュ、と不自然な呼吸音を漏らしている。
およそ目などないはずなのに、それは確かにユズリハの顔を覗き込んでいた。
「あ……う……」
腹に強く力を込めるも、間抜けな音だけが口から抜けていく。
疲労と絶望が舌の動きを鈍らせていた。
視界がぼんやりと滲み、雫が頬を伝って地面にいくつかのシミを作り出す。
「ぅ、ぐぁっ……!」
首に巻き付いたケーブルが、空気の通り道を奪い、ユズリハの意識を現実に引き戻した。
反射的に息を吸おうとするも、かすれた悲鳴すらまともに出せやしない。
何とかケーブルを引き剥がそうとする。
が、さらに強くなった締め付けに、意識が薄れ始める。
色も音も、何もかもが消えていく。
世界と自分との形が曖昧になって、そして、ゆっくりと溶け合っていく感覚。
……ドクン、ドクン、ドクン。
静かになった己の世界に、心臓の鼓動だけが、やけに重々しく響いた。
激しい脈の音はどうにも耳障りで、やかましくて、とても煩わしい。
……けれど、まだ確実に、生きようとしている。
「……だれ、か」
――出ないはずの声を無理やり絞り出した。
「だ、れか……」
――いるはずもない、誰かに向けて。
「――だれか、たす、けて……」
ささやかな祈り。本能を剥き出しにした、精一杯の言葉。
ただ夜の路地裏に溶けて、なくなって、やがて意味すら失っていくはずの、空虚なメッセージ。
その意味を理解しているのか、はたまた理解していないのか。ユズリハの声に首らしき部分を傾げながら、怪物のケーブルがさらに鋭く締まっていく。
――さようなら、私の人生。
ユズリハが己の死を覚悟したそのとき──
「その願い、僕が叶えてやろう」
怪物の背後。そのさらに奥から響いた一つの声が、静寂を切り裂いた。
虚ろな瞳を力なく向けると、誰もいなかったはずの場所に、青年が立っている。
目についたのは、特徴的な白銀の髪。
それはあまりにも異質で、光の届かない路地にあって、まるで月明かりを纏っているかのように、怪しく輝いているように見えた。
右手に携えた刀。鞘はなく、こちらも爛々と輝いている。
「電池の頭、繊維の体……変わったタイプもいるもんだ」
怪物を観察するように目を細めながら、男がぼそっと呟く。
「なかなか興味深いね。とはいえまずは……」
男がわずかに構えのようなものを取り、じり、と怪物を見据える。
小さく瞬きをした次の瞬間、ユズリハが目にしたのは――さっきまで遠くにいたはずの男が、目の前で怪物の腕を縦に両断する光景だった。
怪物は呼吸音を激しく乱すと、切り口から大量の液体をまき散らしながら、ユズリハ……というよりも、そばに現れた男から距離を取るように離れた。
途端にケーブルが解け始め、首の拘束が緩む。
喉から圧迫感が取り除かれた瞬間、ユズリハは自分が咳き込んでいるのも無視して、強引に呼吸を繰り返す。
「げほっ……はあっ、はあっ……」
息ができる。まだ、死んでいない。まだ……生きている。
そう実感していると、そばに立つ男が自分を見下ろしていることに気がついた。
「もう会話はできそうかな。」
呼吸を整えながら、ユズリハは小さく頷く。
「ならよし。じゃあ早速だけど、きみは自分の命にいくら出せる?」
「は……?」
男の唐突な問いかけに、思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「さっきも言ったろ。僕がきみを助けてやる。ただし、それなりに対価が必要だって話」
「な……それは、冗談のつもりですか……!?」
「冗談じゃない。こいつは商談だよ。きみが思う自分の価値を僕に金銭で提供するだけさ。それだけで命が救われる……悪い話じゃないだろ?」
確かに、彼の言う通りだ。
お金を払えば、とりあえず命は救われる。
最悪の事態だけは、避けることができるのだ。
しかし……。
「でも、急に言われたって、そんな……!」
ユズリハにとって、この問いは非情に難題だった。
なんせ、これまで己の価値など考えたこともなかったのだ。ましてやそれを金額として提示するなんて、もってのほかだ。
「答えが出るのを待ってやりたいところだけど、残念ながら向こうはそうでもないらしいぜ」
頭を抱えるユズリハに、男が静かに告げる。
彼の指の先――亀裂の入った壁のすぐ下で、怪物が怪しく蠢いていた。
おそらく、何もしてこない男の様子に好機を見たのだろう。それはすぐにでもこちらに飛び掛かって来そうな、そんな雰囲気を醸し出している。
どうする。どうする。どうすれば――。
考えること、わずか数秒。
もっと長かったように思えるほどの間を空けてから、彼女は小さく呟く。
「……百万円」
「……ふうん。それがきみの命の価値?」
「そうです。私には、それくらいの価値があります」
きっぱりと言い切った。
払えるか、なんて考慮していない。
ただそう思ったから、そう言ったまでだった。
男は前を向いていて、何を考えているかはまるでわからない。
けれど、わずかに笑みをこぼしたあと、彼は言った。
「いいよ。十万で」
「……え? 今、なんて――」
ユズリハが訊き返すよりも、先に、男は地面を蹴り、怪物のもとへ駆けた。
唐突に動き出した白銀に、怪物は急遽、己の体をぐぐっとたわませ始める。
失った腕の部位に別のケーブルを束ね、新たな腕を補完すると、四肢全体から無数の繊維を一気に放出した。
細く鋭利な金属の針が次々と男の体をかすめていく。
肉が裂かれ、血を噴き出しながら、男は決して物怖じすることなく、どんどん怪物との距離を詰めた。
それはさながら近所をランニングするような足取り。
迷いもなく、躊躇もなく、ただ真っすぐ、標的のもとへ向かっていく。
怪物は右腕部分だけをしなやかな束に戻すと、今度は束同士をさらに編み込むようにして、巨大な掌を形成すると、それを激しく男へと叩きつける。
――が、それは瞬く間にバラバラに切り刻まれ、意思を持たぬ無数の繊維の欠片だけが空中に散らばった。
舞い散る繊維をくぐり抜け、男が怪物に迫る。
放たれる鋭く深い殺気――近くにいないユズリハでさえ、思わずごくりと息を呑んだその圧力に怪物がのけぞった瞬間――わずかな隙を狙うように、男が素早く刀を振るう。
――まさに、一閃。
夜と調和した彼の斬撃が、音を置き去りにした。
途端、乾電池の頭部が、力なく地面へと落下する。
四肢を構成していたケーブルが一気に解け、羽毛のように周囲に舞い散った。
やがて、意思もなく転がる乾電池はどろりと溶けると、真っ黒な液体となって地面に沈み込んだ。
バラバラになったケーブルの糸くずもまた溶解し、そして、消えた。
「はい、おしまい」
刀に付着した液体を振り落とし、男が一息つきながら小さく呟く。
目の前で起こった出来事に、ユズリハは言葉を失っていた。
微かに残る恐怖と、ようやく芽生え始めた安堵がないまぜになって、感情の整理がつけられない。
今、どういう表情を浮かべているのだろう。きっと笑っているような、そして泣いているような。ともかく、ひどい顔をしているに違いない。
それでも一つだけわかるのは。
──私、助かったんだ。
その場でへたり込んだまま呆けているユズリハに、男がまたゆっくりと接近する。
なんとか立ち上がろうとするも、彼は手のひらを彼女に向け、それを制止した。
「あの……本当に、なんと言ったらいいか……」
「別に気にすることないよ。タダってわけじゃないしね」
「……それで、さっきの話なんですけど――」
そこまで言ったところで、彼は唐突になにやら一枚の紙をユズリハに差し出した。
「えっと、これは……?」
男が手渡したのは、名刺だった。
〈特殊処理専門事務所 ナイト・ワーカーズ〉。
副所長・〈
「お金は後日、ここに持ってきてくれたらいい」
彼が指さしたところ――名刺の下部には、小さく住所が載っている。
「支払いはいつでもいいけど、忘れないうちにね」
「はい……そうだ、それでさっきの話は……あれ?」
次に目線を上げた時、彼──カノンの姿はきれいさっぱり消えていた。
続けざまに、ユズリハの耳に街の喧騒が届く。ガヤガヤとした雑踏。けたたましく響くサイレン。遠ざかっていた現実が、ようやく彼女のもとに戻った。
あまりに信じられない出来事の連続。これが夢であったかのような錯覚を感じてしまう。
けれど、皮膚に制服が張り付く気持ち悪さと、それから、地面に染みついた真っ黒な液体の痕跡が、それを強く否定していた。。
家についたころには、夜更けどころではなかった。
時計の針はそろそろてっぺんに達しそうなころで、いつもだったら考えられない帰宅時間だった。
帰路の道中、街灯の灯りが少し滲んで見えるのは、疲れのせいか、それとも恐怖の余韻が続いているのか。今のユズリハにはわからかった。
おそるおそる玄関を開けると、両親が勢いよく出迎えた。
二人とも心配そうな表情で、「どこ行ってたの」「心配したんだぞ」と、ユズリハに声をかける。
どうやら二人とも、帰ってくるのをずっと待っていたらしい。
安堵の声を漏らす両親の姿にこちらも安らぎを感じながらも、どこか後ろめたさのようなものも芽生えた。
事情を尋ねる両親に、ユズリハはうまく言葉を選びながら、街で起きたことを話した。
不審者に追われたこと。危うく死んでしまうかもしれなかったこと。知らない男に助けられたこと。もちろん、その不審者が乾電池の化け物だということは伏せながら。
その話を聞かされて、おとなしく呑み込める二人ではなかった。
今すぐ警察に行こうとする二人を強く制止して、見知らぬ人に解決してもらったから大丈夫だと念を押す。
不審そうな表情を浮かべながらも、強く説得する娘の姿に一旦は納得したのか、二人は「今日はもう遅いから」と言って、早く寝るように促した。
軽い入浴と食事を終えたユズリハが階段を上っている最中、リビングの方から「やっぱり朝から警察に──」と相談する声が聞こえる。
行ったところで、いったい誰が信じてくれるというのか。
自分ですら現実感がわいていないというのに。
髪も乾かさないうちに部屋に戻って、布団に潜り込んだ。
窓を閉め切っているはずなのに、外の風の音がやけに耳の奥でざわつく。
それでも体は疲れ切っているようで、瞼を閉じるとすぐにユズリハは眠りについた。
眠りの中に揺蕩いながら、ユズリハは一つ、声のようなものを耳にする。
「――貴方の願いはなんですか?」
勢いよく目を覚ました。
妙に額が汗ばんでいる。あんまりうまく眠れなかったらしい。
夢の中で誰かに呼ばれていた気がするが、よく思い出せない。
ただなんとなく、嫌な胸騒ぎを感じていた。
いつもより少し重たい体を引きずりながら、部屋の外に出る。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。昨日の出来事が嘘だったかのように、世界はまた当たり前の日常を繰り返している。
──繰り返している、はずだった。
最初に気がついたのは、匂いだった。
鼻を刺すような鉄の匂い。嫌な生々しさが、一階から漂っている。
恐る恐る、一歩ずつ階段を降りる。
さっきからずっと、ピィーッという音が鳴り続けている。おそらく、やかんが沸騰したときの音だ。
……おかしい。何かがおかしい。
この時間だったら、父はとっくに出勤しているはずだし、母は自分を起こしに来るか、それまでは朝食の準備をしてくれているはずだ。起こしに来ていないということは、母は台所にいるはずで、もしそうなら、どうしてコンロの火を消そうとしないのだろう。
さっきからずっと、嫌な予感がする。
心臓の音がやかましいほど耳の奥で反響している。
階段を降りた先、玄関を一目見た途端、ユズリハは小さくひゅっと喉を鳴らした。
あるはずのない父の靴。荒らされたように乱れている。
それから──引きずるように伸ばされた、黒い液体の跡――。
「お母さんっ!!!」
慌ててリビングに足を踏み入れた彼女の視界に飛び込んできたのは、艶やかな赤。
床一面に広がり、カーペットを浸食している。
父がいた。
いつものようにスーツを着て、ネクタイを締めて……でもどうして、ソファの脇で崩れ落ちているのだろう。どうして動いていないのだろう。どうしてスーツは赤く染まっているのだろう。
震える視線が、台所に向く。
母もまた、そこにいた。
シンクの中で突っ伏すように倒れていて、腹部からじわじわと赤い色を垂れ流している。
――呼吸は?
わからない。
――生きている?
わからない。
――どうしてこんなことに?
わからない。
わからない。わからない。何もわからない。
時間が止まったみたいに、ユズリハの体は固まった。
声を出そうとしても、喉が動かなかった。
息を吸うたびに鉄の匂いが肺に取り込まれて、心がじわじわと赤く蝕まれていく。
昨日と同じだ。うまく呼吸ができない。整えようにも、それすらできない。
沸騰の耳障りな音が、どんどん大きくなっていく。さらに息が荒くなって、それ以外、何も聞こえなくなった。
匂い。
鉄の匂い。
音。
やかんの悲鳴のような音。
匂い。
音。
匂い。
音。
赤い、液体──
「そう、だ──」
今にも破裂しそうな脳みそをどうにか制御しながら、固定電話の受話器を手に取った。
「ばん、ごう……なんだっけ、救急車の……」
たどたどしい手つきで、なんとか番号を入力する。
もはや己の意識ではない。機械的に、そうしなければならないからやっているだけ。
こんなこと、望んじゃいなかった。
望んじゃいなかったのだ。
夕暮れの教室。
一人で――いや、もう一人。そこに自分と誰かがいる光景が頭をよぎる。
やかんはずっと、けたたましく鳴り響いている。
まるでユズリハを攻め立てるかのように。
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