それぞれの天井
目を覚ました瞬間、まず感じたのは冷たさだった。
背中に触れる硬い感触。ほのかに漂う消毒液の匂い。ユズリハはなんとなく、病院を思い浮かべた。
ゆっくりと瞼を開ける。
見慣れない天井――染みや模様の一つもない、真っ白なだけの蓋。
無垢というよりは潔癖。穢れを許さないと言わんばかりに、空間全てを見下ろしている。
体を起こそうとして、ふと両手首に抵抗を感じた。
顎を引くようにしながら目を向けると、金属の輪が手首を束ねるようにはめられている。
それほど太くはないものの、引っ張ってもびくともしない。見た目より強度は高いらしい。
体をごろんと横に向け、両掌をベッドの上につきながらなんとか身を起こす。
カチャカチャと手錠を引っ張る音を響かせつつ、ユズリハは改めて周囲を見渡した。
部屋は広くも狭くもない。壁も天井も床も全て白で統一されていて、窓らしき部分は見当たらない。光源は頭上で輝く蛍光灯だけ。
部屋全体がこんな色だからなのか、やけに蛍光灯が眩しく見えた。
置かれているのは自分が横たわっていたベッドと、小さな机と椅子が一脚ずつ。
映画やドラマでたまに見かける、何らかの隔離施設。そんなイメージが頭に浮かぶ。
どれくらい眠っていたのだろう。
体の感覚は戻っているが、妙に喉が渇いているし、お腹も空いている。体の疲れはまだ抜けきっていないが、それなりに時間は経っているはずだ。
拘束された手を今一度確認する。
手錠からは細いチェーンが伸びていて、それがベッドの枠に繋がれていた。
行動範囲はベッドの周辺だけ。立ち上がることはできるものの、部屋の四隅にまではたどり着けないらしい。
……こういうのって、大抵は足首につけるものじゃないのか。
手首とベッドとを結ばれると、足を拘束されているよりよっぽど不便な気がする。寝返りだって打てないし、食事するにも不便極まりない。
仮に鎖が切れてしまったとしても自由にさせないための保険……なのかもしれないけれど。
そんなことを思いながら、ユズリハは壁のとある一点を見つめた。
視線の先には、金属製の扉。重々しい雰囲気を醸し出しながら、何人たりともの脱出を拒むように口を閉ざしている。
おそらくは唯一の出入り口。
鍵穴らしき部分は見当たらない。もしかすると、ドアノブを捻るだけで簡単に開くのかもしれない。
けれどそもそも手が届かないのだから、どのみち無意味な発想だった。
……なんのためにこんなことを。
そう思ったとき、ふとカノンの言葉が頭をよぎった。
――ユズリハは、怪異を操ることができるかもしれない――
あのとき、彼がどうしてそんなことを口にしたのか、ユズリハにはまだわからない。
けれどあの言葉がなければ、今頃自分は立派な花壇の肥やしになっていただろう。
そう考えるだけで、背筋が震えた。
結局、彼は何を言おうとしていたのか。
あの言葉にはどんな意味があったのだろう。
ぼんやりと思考を巡らせていると――。
バタン、と部屋の扉が開いた。
入ってきたのはやはりというか、スーツ姿の男。
年齢は二十代半ばだろうか。垂れていつつも険しい目つき、カノンよりもがっしりとした体格。蔑視の一瞥をユズリハに向けるなり、男は無言のままトレーをベッドの上に置いた。
水の入ったペットボトルと、簡素な食事が乗せられている。
「……あの」
用件を終えて足早に立ち去ろうとする背中に声をかけると、男の動きが止まった。
「ここは、どこですか」
わずかな緊張が喉を圧迫する。
男はしばらく間を空けてから、ユズリハの顔をじっと捉えると、静かに口を開いた。
「知ってどうなるってんだ?」
若々しく棘のある声。
「……少なくとも、安心できます」
「はん、んなもんいらねェだろ。どーせこれから安心とは程遠い生活になるんだしよ」
「それ、どういう意味ですか……?」
「なんだ聞いてないのかよ。あんたはこれからいろん~な実験を受けてもらうことになってんの。あんた、怪異を操れるかもしれないんだろォ? だから本当にそれができるのかテストするってわけ」
「実験……? テスト……?」
男はにやりと笑いながら頷く。
「なんだっけな~……痛みや苦しみを与えて? 強い思いに怪異が反応するかを見る、とかなんとか。そんでもって、前の被検体は爪を剝いでやったんだけどよ、まあこれが弱っちいのなんので! 初っ端で壊れちまったから処分しちまったんだよなァ!」
クツクツと喉を鳴らしながらやけに楽しげに話す男を前にして、ユズリハはただ唖然とするしかなかった。
そしてすぐに直感する――この人は、嫌いだ。
「なんだよビビっちまったのかァ? まあ無理もないわな。あんたみたいな気の弱そうな女にはきっと耐えらんねえだろうし!」
男はそう言って、ゲラゲラと下品な笑い声を響かせる。
会ったばかりの人間に、これほど明確な嫌悪を示したのは初めてだった。
苦手意識を抱くことはこれまでにも何度かあった。
けれど、この感情はそれとは違う。はっきりとした拒絶反応。自分の人生の中で関わり合いを持ちなくない人種。それが目の前の男だった。
「さて……それじゃ俺はもう帰っちまうが、くれぐれも変な気ィ起こすんじゃねえぞ? まあどーせ逃げらんねえだろうがよ……」
ひとしきり笑い続けて満足したのか、目尻に涙を浮かべながら、男はくぎを刺すように言って、くるりと踵を返す。
遠ざかっていく背中。再びそれを呼び止めるように、
「あ……ま、待って」
と、思わず身を乗り出しながら言った。
チェーンがわずかに音を鳴らす。
「ああァ? まだなんかあんのかよ」
男はぽりぽりと頭を掻きながら、ドスのきいた声で答える。
「……あなたたちは、何が目的なんですか?」
「は? だから、んなこと聞いてどうすんだって――」
「怪異を消し去ろうとしてるくせに、どうして操る実験なんて必要なんですか」
わずかに語気が強くなる。
その小さな圧を感じたのか、男は観念したように口を開いた。
「いいぜ、教えてやるよ。怪異を自由自在に操ることで、世の中の善と悪の総量をも意のままに操作する――それが俺たち、『
誇らしげにそう言うと、開けっ放しになっていた扉をくぐって、男の姿が今度こそ暗闇の奥へと沈んでいく。
世界の善悪をコントロールするなど、実に荒唐無稽な話だ。
怪異と出会う前の自分なら、そうやって鼻で笑っていたことだろう。
しかし、今はとてもそんなことをする気にはなれない。
突き付けられた現実が、しっかりと心に傷を残していた。
再び静寂が支配し始めた部屋で一人、ユズリハはまた天井を見上げる。
本当に何もない、白一色の天蓋。
心を虚無にしかねないその光景が、しかし何故だか妙に落ち着くのだ。
そう、まるで――彼の髪を眺めているみたいで。
とあるマンションの一室。
剥き出しのコンクリートに囲まれながら、羽村トオノスケは顔をしかめたまま椅子に座っていた。
手が行き場を求めるように懐に潜り込み、煙草を一箱抜き取る。
視線を落とすことなく流れるような手つきで煙草に火をつけると、肺の全体を満たすかのように煙を吸い込み、勢いよくそれを吐き出した。
煙が白い靄のように天井へ立ち昇っていくのを、羽村はなんとなく目で追った。
飾り気のない灰色の面。その調和を乱すように右の隅につけられた、真っ黒な染み。
あの汚れがいつからあるのか、羽村には見当もつかない。
気づいたときにはそこにあって、どうしてか妙に気になった。だが、いくら拭いても汚れは落ちることなく残り続けてしまって、いつしか気にすることも少なくなった。
椅子の背もたれに体重を預け、煙を吸っては吐き出すのを繰り返す。
「チッ、頭の固い年寄りどもめ……」
思わず不満を漏らす彼の脳内に、先刻の光景が浮かび上がった。
ユズリハをこの場所に連れて戻るなり、羽村は彼女の監視を部下に任せると、とある場所へと足を運んだ。
鉄製の扉をノックもせずに勢いよく開く。
細長い会議室のような部屋。長い楕円形のテーブルを囲うように座っている五人の老人の目が、一気に羽村の姿を捉えた。
「おお、誰かと思ったら羽村ではないか」
視線の先――ちょうど五人の中央に腰掛けている老人が声を上げる。
「きみが戻ったということは、仕事は済んだのかね?」
「ええ。その件のご報告で参りました」
老人は頷きながら片手をすぐ近くの椅子に向けて差し出すも、羽村は短く首を横に振った。
「して、検体は?」
「ご命令通り、地下に幽閉しております。たとえ怪異を呼びつけようと、あの場であれば下手な真似はできますまい」
「うむ……では早速実験に取り掛かり給え。今回の検体が我々の悲願を果たす存在であればよいのだが」
老人の命令。
しかし羽村は首を縦に振らず、その場でじっと彼らの姿を見つめている。
「……何か言いたそうだな、羽村よ」
彼の浮かべる険しい表情に何かを感じ取ったのか、老人は肘を机の上に乗せると、目の前で指を組み合わせた。
その言葉を待っていたかのように、羽村が徐に口を開く。
「我々は怪異撲滅のため、機関に身を捧げております。所属員の中には怪異そのものを否定するものも少なくない。だというのに怪異を制御するなどと……そのような世迷言に、誰が納得すると?」
羽村の言葉に、老人たちの表情がわずかに曇った。
「……きみは何が言いたいのだ」
「単刀直入に言いましょう。私はあの女を処分すべきだと考えております。ですのでどうか、その許可をいただきたい」
軽い口調であっさりと述べられたその言葉を耳にした途端、今まで口を閉ざしていた他の老人たちが、一斉に口を開いた。
「君はいったい何を考えているのかね!!」
「我らの悲願を愚弄するつもりではないだろうな!!!」
「きみのような思想が我々の目的にどれほどの害をもたらすか、理解しておるんじゃろうな!?」
口々に放たれる罵声と怒号。
それらは確かに神経を逆なでするものではあったが、羽村にとっては大したことではない。
彼らに対して敬意を払ったこともなければ、忠誠を誓った覚えもないのだ。
所詮は届かない理想を追い求めている、無駄に年を食っただけの連中。
単なる年寄りのくせに、いつまで経っても叶わない願いを追い求めるロマンチストのつもりでいらっしゃる。
そんな哀れな老人たちの妄言にいちいち腹を立てるほど、自分は子供ではない。
苛立ちも怒りなど当然湧くわけもなく――代わりに呆れや嘲笑に近いものが、羽村の胸に湧き上がった。
少女への処分など、端はなから聞き入れられるとは思っていない。
本当の目的は別にあるのだ。最初の要望など、ただのブラフなのだから。
「これは失礼。我らの悲願、当然忘れてはいません……では、これならいかがでしょう。白浪カノンへの無害認定を取り消す、というのは」
男の名を出した途端、老人たちが明らかにどよめいた。
「そこで何故……あの男の名が出てくるのだ」
「奴は現在、検体の護衛をしているらしく」
その言葉に、さらに老人たちがざわめいた。
老人たちは羽村を横目に見つつも、彼に聞こえないくらいの声量で、なにやらぼそぼそと話し合いを始めている。
そんな素振りに対しても、羽村は何も感じない。
「奴は必ず少女の奪還に来るでしょう。もし奪還を許せばまず間違いなく、少女と怪異との繋がりは断たれます。我らの宿願は再び遠のいてしまうのです」
眉一つ動かさず、続けざまに口にした。
……何を、迷うことがあろうか。
奴がお前たちの悲願の障壁となっていることなど、とっくに理解しているだろう。
お前たちとて高潔ではない。白浪カノンさえいなくなれば、確実に欲望への道に近づくのだ。
ただ頷けばいい。大人しく自分の要望を聞き入れればいい。
そんな簡単なことが、どうして奴らにはできないのだ。
羽村は黙って、老人たちの返答を待っている。
わずかに期待はあった。いくらロマンチストたちであろうと、障壁を取り除かねばたどり着けないということくらいは、理解しているだろうと。
しかし――。
「――それは、ならん」
中央の老人が、重々しく口を開いた。
「なっ……!?」
予想していなかった答え。これまで冷静を取り繕っていた羽村の顔がわずかに乱れた。
「いいか羽村。白浪カノンには手を出すな。命を奪うなど、言わずもがなだ」
「何故ですっ! 奴は我々にとって邪魔者でしかない! あんな不完全な存在など、早々に処分してしまえばよいではありませんか!!」
「ならん、ならんと言っている!」
そう言って、老人は手のひらをテーブルにバン、と振り下ろす。
「理由をお聞かせくださいっ!! それを聞かない以上は、引き下がるわけにはいきません!!」
「それは前も説明しただろう! 彼は機関にとって無害であると判断できたから――」
「黙れっ!!!」
老人の声を中断させるかのように、羽村は握りこぶしの側面を背後の扉めがけて強く叩きつけた。
ガシャン! と硬く重い音が会議室中に響くと、老人たちは一瞬にして静まり返った。
「御託はもう聞き飽きたのだ!!」
「し、しかし……無害である以上は――」
「奴は今、検体を奪還しようとしている! これを有害とせずしてなんとするかっ!!!」
激昂のあまり、声を荒げる。
冷静でいられるほどの余裕など、とうに消え失せていた。
「貴様らはいったい何に怯えている!? 組織を預かる立場にありながら、そのような腑抜け具合では下に示しがつかんと何故わからんのだ!!!」
「いくらなんでも言葉が過ぎるぞ、羽村よ……!」
老人の一人から出た苦言は、しかし鬼の形相を浮かべた羽村の鋭い睨みによって、すぐにかき消される。
「もはや許可など必要ない……俺は、俺のやりたいようにやらせてもらう……!」
そう言って、羽村はくるりと踵を返した。
背後からなにやら騒がしい音が聞こえるが、それが耳に届くことはない。
単なる雑音として処理され、そうして意識の片隅にもとどまらないまま、羽村は荒々しい足取りで会議室から出ていった。
老人たちはしわくちゃになった顔を互いに見合わせながら、会議室の中で小さく座り続けることしかできなかった。
――いつの間にか、煙草はほとんど焼けてしまっていた。
羽村は吸殻を灰皿に押し付けながら、新しい一本を取り出す。
同じように火を点け、煙を吸い、ため込んでから吐く。
いつもの流れ。いつもの動き。いつもの夜。
いや、そろそろ日が昇るころか。
ふと、卓上の写真立てが目に入る。
伏せるように置かれていたそれを手に取り、顔の前に持ち上げた。
遊園地の大きな乗り物の前で、四人の家族が並んでいる。
中央で快活に笑う短髪の少年。
少年に隠れるようにしながら、ぎこちなく笑みを見せる少女。
二人の様子を見守るように、両端で頬を緩める父と母。
とあるテーマパークで撮影された写真――最後の家族写真だった。
「……俺はもう、待たない」
呟いた言葉が、煙の中に消えていく。
羽村は写真立てを置くと、再びそれを卓上に伏せた。
天井を見上げると、やはりあの染みが目につく。
あれを気にすることも、そろそろなくなりそうな予感がした。
カノンが目を覚ましたのは、日が昇ってからいくらか経ったころだった。
勢いよく起き上がると、彼はすぐに視線をぐるりと周囲に向けた。
見慣れた机に椅子。よく使っている衣装箪笥。それから台所の光景と、生活感のある香り。
わずかに気を緩ませると、カノンは次いで己の様子が変わっていることに気がついた。
こびりついていたはずの血や脂は拭き取られ、べたつくような不快感を一切感じない。同じように血肉で汚れ、さらに穴だらけにされてしまったはずの衣服はいつの間にか脱がされていて、代わりに上下とも黒のジャージを着せられていた。
「あら、ようやく目を覚ましたのね」
視線を上げると、ツユリがそこに立っている。
ということは、そうか、やっぱりここは――。
「……よく、来てくれたね」
ソファから身を起こしながら言う。
どうやらあの学校で野垂れ死んでいるところを、ツユリが迎えに来てくれたらしい。
そのときはすっかり気を失っていたもので、彼女が来てくれたことにすら気がついていなかったが。
「ちょうどあいつらと入れ違いになることができてね。ふふ、完璧なタイミングだったわ」
得意げに鼻を鳴らすツユリ。
「来てくれたのはありがたいけど、あんまり危ないことするもんじゃないよ」
「あら、よく言うわ。私が来なければ本当に死んでいたかもしれないわよ?」
「そっちこそよく言うよ。並大抵のことじゃ死なないのなんてわかりきってるくせにさ」
カノンが呆れ気味に言うと、ツユリがクスリと笑みをこぼす。
そんな彼女にやや怪訝めな視線を送りつつ、少し間を空けてからカノンが再び口を開いた。
「……僕の刀は」
「ちゃんと回収してるわよ」
そう言ってツユリが居場所を指し示すように視線を向ける。
ちょうど玄関へ向かう扉のすぐ隣に、カノンの刀が丁寧に立てかけられていた。
――しっかりと納刀された状態で。
「苦労したのよ? 刀は見つかったのに、鞘がどこにも見当たらないんだもの。戦闘時に鞘を投げ捨てる癖、いい加減改善したらどうかしら?」
ツユリがやれやれ、と両手を広げてみせるも、しかしカノンは
「仕方ないだろ、邪魔なんだから」
と、負い目など全く感じていないような口ぶりでさらりと言った。
反省の色など微塵も見せない彼の態度に呆れながらも、ツユリが口を開く。
「で、どうするつもりなの?」
思考を見透かしたような一言に、カノンの髪がわずかに揺れる。
「機関の潜伏先に乗り込んで、ユズリハちゃんを連れ戻すつもりでしょう?」
カノンは黙ったまま、静かに頷く。
「やっぱりね……はっきり言うわ。今飛び出したところで、また二の舞を演じることになるだけよ」
ツユリは厳しい声色でそう言うと、不意にプラスチックのトレイをカノンに差し出した。
「……これは……」
トレイの上には、何か細長いものが転がっている。
鋭いというよりは楕円に尖っているそれは、キラキラと銀色の輝きを帯びていた。
「そう、それは弾丸よ。しかも銀で作られた特別製――あなたに対して、最も有効な武器ね」
ツユリの説明に対し何の反応も示さないまま、カノンはそっと指を弾丸に触れさせる。
途端、指先が熱を帯びると、ジュッ、と焼けるような音とともに、触れた部分に鋭い痛みが走った。
「……やれやれ。最初から狙いは僕の方だったのか」
余裕ありげに口角を吊り上げてみるも、引き鉄を引いたときの、にやついた表情が頭をよぎって、カノンは無意識に眉をひそめた。
「わかってはいるでしょうけど、羽村は機関でも随一の純潔派だもの。人間を
「毎回思うけどささ、相変わらず勝手な奴らだよね。自分たちで作っておいて、邪魔になったらはい、さよならなんてさ」
「ま、しょうがないじゃない。半ば事故のようなものだったし、あなたの存在はあそこの上層部が求めていたそれとは違っていたみたいだし」
「言うこと聞かなきゃ処分かよ。酷い奴らだ」
カノンが若干砕けた口調で不満を漏らす。
「話を戻すけれど……機関はあなたを殺せはしない。けれど、死の寸前まで追い詰める手段は持っているわ」
ツユリの視線がトレイの上に置かれた弾丸を捉えた。
「――もしその弾丸が、あなたと敵対する機関員全員に支給されていたら……カノンくんはどうするつもりなのかしら」
「……そりゃもちろん、当たらないようにするだけだよ」
「あら、ずいぶん強気な発言ね。普通の弾丸ですら避けきれていなかったくせに」
ツユリの指摘に、カノンは何も言い返せなかった。
己の回復能力を過信して、通常の回避すら怠っていたのは紛れもない事実だ。
結果、今回のように治癒も追いつかなくなり、そのせいでたった一発の凶弾で動けなくなるという失態を犯した。
「ただでさえ穴だらけにされているというのに、銀製の弾丸全てを避ける自信はいったいどこから湧いてくるのか、私にはさっぱりわからないわ」
「でも、次は完全に避けられるかもしれないだろ」
「無理よ。あなたは確かに視力や聴覚、それから反射速度は並の人間より遥かに高いでしょう。……でも、それだけ。運動能力が人の領域を超えたわけじゃないの。いくら運動能力に優れていたところで、人のままでは無数に迫る弾丸を完璧にかわすことなんてできやしないわ」
「……じゃあ、そもそも見つからなきゃ――」
「それもおそらく無理でしょうね。いえ、夜中に侵入することはできるでしょうけど、それまでユズリハちゃんが無事である保証はないわ。殺しはしなくても、拷問なんかは平気でするでしょうね。あなたも覚えがあるんじゃない?」
「……」
じゃあ、どうすれば。
吐き出しかけた言葉を、カノンは飲み込んだ。
ツユリの言うことは最もだ。
対白浪カノンの武器を持っている以上、迂闊な真似はできない。
かといって、悠長に日が暮れるのを待っていては、ユズリハへの危害は増えていく一方だ。
ならば、と早急に駆けつけたところで、再び最初の指摘に逆戻りするだけである。
だから……ツユリはきっと、こう言いたいのだろう。
メリットがないのだから、捨て置け――と。
助けに行ったところで死ぬかもしれなくて、たとえ奪還できても今度は二人とも帰ってこれない可能性が高い。
それなら、せめて自分の無事だけでも確保して、今回はどうしようもなかったのだと割り切ればいい。そう言っているのだ。
しかし――。
「ツユリが何を言おうと、僕はユズリハを連れ戻す。絶対に」
彼女と目を合わせながら、きっぱりとそう言い切った。
ああ、頭ではわかっている。
行ったっていいことはない。痛い思いをするだけだ。最悪、死ぬかもしれない。
――だが、それがなんだ。
ユズリハはもっと痛い思いをしているかもしれない。
その痛みを知っている。
その苦しみを知っている。
その果てにもたらされた、怪異現象という災害を、白浪カノンは知っている。
二度とあんな悲劇を起こさせないために、何としても助けなくてはならないのだ。
覚悟を決めた瞳を前に、しばし黙っていたツユリは、やがて観念したように、
「……どうせ、こうなるだろうと思っていたわ」
とため息交じりに言って、台所からなにやら錠剤の入った小瓶を取り出し、カノンへと差し出した。
「なにこれ」
黒ジャージを脱ぎながら、カノンが言う。
「銀だなんだと言ったあなたへ害をもたらす物質に対して、ある程度の耐性を作り出せる薬よ。どうせ行くって言うだろうから、ちゃんと用意してあげてたのよ」
ツユリが変わらず呆れ気味の口調で言った。
「へえ……こりゃどうも。ありがたく使わせてもらうよ」
そう言ってカノンが受け取ろうとするも、寸前でツユリが手をわずかに引く。
「……なんだよ、くれるんじゃないの?」
「いいから、よく聞きなさい……これは無効化してくれるものじゃない。さっきも言ったように、耐性をつけてくれるだけ。しかも三十分という制限時間つきよ」
「それなら、三十分経ってからまた飲めばいいだけだろ?」
カノンの言葉に、しかしツユリは首を横に振る。
「繰り返し使えば、効果はどんどん薄れていくわ。体がその薬に慣れてきちゃうのよ。それに、何度も飲み続けていると、今度は薬が毒になる可能性だってある」
「……どういうこと?」
「あなたの体が耐えられる許容量を超えてしまって、逆に有害になるってことよ。薬の飲みすぎで逆に体を壊すようなもの」
ツユリの説明に、カノンは納得したように掌をポンと叩いた。
「だから……できれば一度、もしくは二度の服用に留めること。それ以上は、おそらくカノンくんの体が耐えられなくなるわ……約束できる?」
身を案じるような声色に、カノンは迷いなく頷いて、
「もちろん。約束するよ」
そう言って、ツユリから小瓶を受け取り、懐に収めた。
やがて、カノンは身支度を全て済ませると、立てかけられていた刀を手に取り、竹刀袋にしまったそれを背に抱える。
白のシャツ、黒のズボン。家を出るまでに着ていたものと変わり映えのない服装。
しかしこれが彼にとっての正装だった。
「よし、じゃあ、行ってくるよ」
そう言って振り返る。
ツユリはうっすらと目を細め、ひらひらと手を振りながらただ一言、
「いってらっしゃい」
優しい声でそう言った。
扉を横に引き、玄関をくぐる。
ふと見上げると、空には雲一つない快晴が広がっている。
それを見て、カノンはわずかに後ろめたい気持ちになりながら、ゆっくりと一歩を踏み出したのだった。
カノンがいなくなり、ツユリは一人自室にこもりながら、近くの細長い棚から大きなファイルを取り出すと、それを散らかった机の上に開いた。
何重にも閉じられた書類の数々をぺらぺらとめくっていき、やがてある程度進めたところで彼女は手を止めた。
見開き二ページの右側に綴じられているのは、一枚の紙。
ある人間のプロフィールが、細かく記載されている。
性別、体重、年齢……出身地や住所、そして現在の病歴まで。さながら病院で使用するカルテのようだった。
わざと下から読み上げながら、ツユリは最後に上部の欄に目を向ける。
書かれているのは、対象者の名前。
その名を彼女は、愛おしそうに指で撫で、小さく呟いた。
「白浪カノン――」
懐かしい記憶が頭を駆け巡り、ツユリは一人、怪しく笑った。
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