ギルト・イン・ザ・ボックス(4)

 ――封じ込めていた記憶が、雷鳴のように脳内を駆け巡る。


「どうやらちゃんと思い出せたみたいね?」


 少し影の差したユズリハの面持ちに、怪異は薄ら笑いを浮かべながら言った。


「……おかげさまで」


 そう言いつつ、怪異から視線を逸らす。

 余裕のありげな言葉は、単なる強がりでしかなかった。

 未だに思考がまとまってくれないのが何よりの証拠だ。

 だが、動揺させられた割にユズリハの頭は意外に冷静さを欠いてはいない。

 胸の奥に引っ掛かるような妙な感覚が、頭に血が上るのを防いでくれていたらしかった。


 散らばった欠片を拾い集めるかのようにゆっくりと思考を形成し直しながら、怪異の語った内容を改めて思い出す。

 あれの言った通りなら、目の前の怪異は二年前の願いによって生まれたということになるが、そこがどうにも腑に落ちないのだ。


 当時の記憶をもう一度振り返ってみたものの、違和感が払拭されることはない。それどころか、妙な感覚は増すばかりだ。


「なぁに? せっかく思い出したっていうのにまだ納得してないわけ?」


 眉間に皺を寄せたまま黙り込んでしまったユズリハに、怪異は呆れたようにため息をつく。


「いくら考えたって答えは変わんないの。わたしは二年前に、他ならぬあなたの願いから生まれたんだから。いい加減認めてくれないかしら」


 怪異の言葉を、ユズリハはどこか上の空で聞き流していた。

 脳裏によぎるのは、カノンが話してくれた怪異の特質。命を宿した怪異が、何を目的に動くのか――。


 ……瞬間、ユズリハの眉がピクリと動く。

 そうか、そういうことだったのか。

 彼の言葉は暗闇にもたらされた一筋の光のように、堂々巡りの思考を終結させた。

 確かな確信を持ったユズリハは、逸らしていた目を怪異へと向け直すと、小さく息を吸ってから口を開く。


「……あなたは嘘をついてる」


 静かながらもはっきりとした声。

 彼女の瞳から迷いが晴れていることに気がついたのか、怪異は含みのある笑みを浮かべる。


「嘘じゃないわ。自分の誕生日を忘れる人はいないでしょう?」


「そうだね。私もそんな人は珍しいと思う。……でもそれは、あなたが人だったら、の話」


 怪異の薄ら笑いに、わずかなほころびが生まれたような気がした。


「カノンさんは言ってた。怪異は願いを叶えるために存在するって。それこそが宿命だからって」


 淡々とした口ぶりで発せられる言葉を、怪異は黙ったまま聞いている。

 依然笑みはそのままだが、やはりそれはどこかぎこちないように見えた。


「もしあなたがあの願いから生まれたというのなら……どうして


 ユズリハの芯を食うようなその一言に、怪異の表情から笑顔が消えた。


 結局、ユウコの人生は正しくなれなかった。

 彼女は当日、受験会場にも現れず、家を出たきり誰にも行き先を告げないまま姿を消した。

 それ以来、彼女を見たものは誰もいない。生きているのか死んでいるのかすら、誰も知りはしない。

 だから……自分の願いは叶えられていない。


 さっきまでとは打って変わって、怪異は全ての表情筋を強張らせ、口を横一文字に結んだまま、ユズリハをじっと見つめていた。

 一切の感情が読み取れない視線に、底の見えない闇を除いているような恐ろしさを感じるの、ユズリハはしっかり目を合わせたまま、静かに怪異の動向を伺っている。

 意味のない沈黙が、ゆっくりと教室を支配していく。


「……い、いい加減黙ってないで、なんとか言ったらどう……?」


 耐え切れなくなったユズリハがぎこちない口ぶりで怪異を詰めたその瞬間、怪異の頬がピクリと反応するように動いた。


「ふふ……ふふふ」


 怪異は再び頬を緩め、不敵に笑みを浮かべる。

 慈愛と軽蔑が混ざり合うような視線に、思わず背筋がぞわっと寒気立った。

 訝しげに睨みつけるユズリハに、怪異はケタケタと笑い声を上げ続ける。

 耳をつんざくような甲高い声に、ユズリハの表情がわずかに険しくなった。


「っ、何がそんなにおかしいの……!?」


「何って全部よ全部!! あなたの言ってることぜーんぶおかしいの!!!」


 怪異は耐え切れないと言わんばかりに腹を抱えたまま、笑い声を轟かせ続けている。

 人を子馬鹿にするようなその態度は、ユズリハの腹をもう一度煮えさせるには十分だった。

 その笑みも、その声も、怪異のとる行動の何もかもが煩わしく思えた。

 記憶の中に残っている親友の姿が少しずつ歪んでいくのを、どうしても見過ごすことができなかった。


「いい加減にして――!」


 とうとう我慢の限界に達したユズリハが、肩に触れようと手を伸ばしたそのとき――彼女の言葉を遮るように、怪異が口を開く。 


のに、まだ目を逸らし続けてるんだもの!! おかしくて仕方がないわ! あはははは!!!!」


「――は?」


 教室中に木霊する嘲笑にも似たその声が、口から漏れたか細い声をかき消した。

 伸ばしたばかりの手は終着点を見失って、意思をなくしたようにだらんと垂れ下がる。

 ユズリハはわずかに口を開けたまま、絶えず緩み続ける怪異の顔を、ただ呆然と見つめている。


「……嘘だ」


 そんなはずはないと、つい口から飛び出してしまう。


「だって、じゃあなんで……なんでユウコは受験に来なかったの? なんでユウコは急にいなくなったの!?」


 ぐるぐると渦巻く感情を制御できないように、ユズリハが声を荒げた。

 拳に力が入り、爪先がぎりぎりと皮膚に強く食い込むも、なぜか痛みはまったく感じない。

 己を鋭く睨みつけるユズリハの気持ちを、怪異はまるで理解できなかった。

 何故そんなにも感情を荒立てるのか、どうしてこの姿を嫌がるのか、未だに理由がわからない。

 だからただ一言、


「さあ?」


 と突き放すように言った。


 神経を逆なでするようなその言葉に、ユズリハは呆気にとられた。

 返す言葉も失って、怪訝そうな面持ちを浮かべたまま、ただただ唖然とするしかなかった。


 「わたしは願いを叶えただけだもの。受験に行かなかったのも姿を消したのも、それがあの子の思う正しさだったからじゃない?」


 ようやく笑いが収まった怪異がぶっきらぼうに言い放つ。


「そんなの望んでない……!」


「いいえ? すべてはあなたが望んだことなの。親友が消えたのも……両親が傷ついたのも、ね?」


 己の心を見透かしたようなその言葉に、ユズリハの心臓がどくん、と強く脈打った。

 怪異の顔を見ていられなくて、不意に視線を落とす。

 視界に入るのは自身の右手。

 未だ刻まれたままの黒い痣のような模様。

 病室に横たわる両親の姿が脳裏をよぎり、さらに心臓の動きが激しくなる。


「違う、そんな……っ」


 締め付けるような痛みが途端に襲いかかり、胸元を強く押さえながら、ユズリハはゆっくりとその場に膝をついた。


「私はただ、ユウちゃんの幸せを願っただけ……幸せを……」


 うわ言の様に呟き続けるその姿を、怪異は値踏みをするような視線で見つめる。


「思ってもないことは言わない方がいいわよ? 自分以外のことなんてどうとも思っていないのにくせに」


「知ったようなこと言わないでっ!」


「わたしはあなたから生まれたのよ? なんだって知ってるわ。親友への歪な感情も、両親への苛立ちも、なにもかも」


「っ……!」


 何も、言い返すことができなかった。

 否定するのは簡単だ。違う、そうじゃない。そう口にするだけでいい。

 しかし何故だか、その言葉を吐き出すことができない。

 もうそこまで出かかっているのに、喉の奥で引っ掛かり続けている。


「あら、まだ認めたくないわけ?」


 言葉を詰まらせるユズリハに、怪異が小さな声で言う。


「……なら、ちゃんと教えてあげなきゃね」


 怪異は膝を折り、ユズリハと視線の高さを合わせると、じっと瞳の奥を覗き込むように彼女と目を合わせる。

 意識すれば逸らせるはずなのに、怪異の瞳から目が離せない。

 

「さあ、もっとよく思い出して。川上ユウコへ向けていた感情が、いったいどんなものだったのかを」


「……」


 怪異のかすかな囁き。懐かしい瞳に、ユズリハの意識が吸い込まれる。

 頭の中を直接かき混ぜられているような妙な感覚。胸の深いところから、どす黒い感情が一気に噴き出した。


 ――なんでも卒なくこなす様に憧れていた。

 頭のいいところが、気が利くところが、人のために動けるところが、羨ましかった。

 いろんな人に頼りにされているのを見かけると、自分の友達はすごい人だと嬉しくなった。

 けれど、そういった部分を見せつけられるたび、彼女を激しく妬んだ。


 喜びの気持ちが芽生えれば、その分だけ嫉妬の炎がじわじわと広がっていく。

 あれだけ嬉しかった彼女の人望も、賢さも、生き様も、自分は何一つ持っていない。

 ……どうして自分は、彼女のようになれないんだろう。


 相反する感情を抱えながら、ユズリハは片方を意識の外に追いやった。わざと見ないようにして、存在ごとなかったことにした。

 だが、完全に消え去ったわけではない。ただ見えなくしただけで、淀んだ感情は知らないうちにどんどん蓄積されていく。


 やがてその自覚もないまま、炎は完全に心を燃やし尽くした。

 ユウコの弱音が増え始めたのは、ちょうどそのころだった。

 自分の中で正しいと思っていた人間が、自分にだけ見せてくれる弱気な姿。

 そんな彼女を、ユズリハは受け入れることができなかった。


 あれだけ正しかったはずなのに。

 自分の正しさすら、塗り替えられてしまったというのに。

 将来の不安?

 交友関係の悩み?

 両親との不和?

 本当にユウコが正しい人間なら、そんな弱音など吐くはずがない。

 弱い人間であるはずがないのだ。


 だから願った。

 ユウコを正しくしたくて。

 ……いや、違う。

 自分の望む姿に、戻してあげたくて。

 それが、彼女にとって一番いいことだと信じて疑わなかった。


「あ――」


 膝から力が抜けてしまって、ガクリとその場に崩れ落ちた。

 思い出した――いや、ずっとひた隠しにしていた感情はあまりにも醜いもので、けれど、もはや目をそらすことは不可能だった。


「本心を自覚した気分はどうかしら?」


 ユズリハは何も答えない。

 とても答える気になれなかった。


 口を噤むその姿が面白くないのか、怪異は眉間にわずかに皺を寄せると、何か思いついたかのような含みのある笑みを浮かべる。


「ちょうどいいわ。もう一つ、いいことを教えてあげる」


 にんまりと不気味に微笑みながら、怪異はユズリハの耳元に口を寄せる。

 かかる息がくすぐったくて、すぐに身を引こうとしたわずかな一瞬。

 怪異が楽しげな口ぶりで囁くように口にしたその言葉に、ユズリハは自分の耳を疑うしかなかった。


「……川上ユウコはとっくの昔に死んでるわ。正しさに従って、ね」


 ――己の中の何かが、音を立てて崩れ始めたような気がした。

 唐突に背中が重くなって、咄嗟に両手を前に突き出す。

 なんとかうつ伏せにならずには済んだものの、腕は悲鳴を上げるかのように、小刻みに痙攣していた。


 死んだ?

 嘘だ。

 そんな。


 ほんの小さな囁きで、思考の一切が漂白された。

 空っぽになった頭の中には、代わりに死という言葉が詰め込まれていく。


 おまえのせいで死んだ。

 おまえのせいで死んだ。

 おまえのせいで死んだ――。


 己を責め立てるような声が、脳内で反響する。

 それが繰り返されるたび、白くなった思考はたちまち真っ黒に染めあげられていく。


「っ、う、ぇっ……!」


 自分のせいで。

 そう思っただけで、たまらず気持ち悪さがこみ上げてきて、慌てて口元を手で覆った。

 喉の奥に残る嫌な苦さを感じつつ、気持ちを必死に落ち着かせようと深呼吸をする。


 だが、怪異はそれを許さない。

 ユズリハの震える手を取り、なおも言葉を紡ぐ。


「大丈夫、あなたは何も間違っていないわ」


 ユズリハが反応するように面を上げる。顔はすっかり青ざめ、気づかないうちに大粒の涙が頬を伝っていた。


「あなたのおかげで、”わたし”は正しくなれたんだから」


 そう言って、怪異はくしゃっと笑った。

 その酷く懐かしさを感じさせる笑みが、ユズリハの思考をさらにかき乱した。


「……ユウ、ちゃん――?」


 その名を呼ぶと、怪異が肯定するように頷く。


「うん、そうよユズちゃん。”わたし”、あなたには感謝してるの。あなたの正しさは間違ってないし、あなたの願いは正しいものだったわ」


「ほんとに……? 私、ちゃんと正しくあれたの……?」


 消え入りそうな声。その問いかけに、怪異――ユウコがまた首を縦に振った。

 しかし、ユズリハの表情は未だ晴れない。


「……でも、そのせいでお父さんとお母さんが……」


 己の願いが二人を傷つけた。

 それもまた、逃れようのない事実なのだ。

 自分はその責任を取るために、もう誰も被害者を出さないために、ここに来たはずだ。


「んー……じゃあさ、また願えばいいじゃないっ」


「え……?」


「今度は両親を助けてくださいってお願いしてみればいいわ。そうするだけで、怪異はあなたの願いを叶えてくれる。そのはずでしょ?」


 名案だとでも言わんばかりに自信満々の笑みを浮かべるユウコ。

 ユズリハの脳裏に白髪の影がよぎる。

 しかし、彼の言葉が思い出せない。何のためにここに来たのか、彼は何と言っていたのか。そのすべてが真っ黒の中に飲み込まれてしまった。


「そうだわ! なんなら”わたし”のことも一緒にお願いすればいいのよ! ここに連れ戻してほしいって! そうしたらご両親も無事で、”わたし”も戻ってくる……あなたの望んだ日常が、帰ってくるわ!」


 ユウコが声色を弾ませながら言った。

 ……そうだ、彼女の言う通りだ。

 怪異はどんな形であれ、自分の願いをかなえてくれた。

 ユウコを正しくしてくれたし、親を痛めつけてくれた。

 なら、もう一度願えばいい。

 今度は一気に二つ。親の傷を癒して、ことが起きる前の状態に戻してもらう。

 ユウコは――今、目の前にいるはずだが――この街に戻してもらって、同じ高校に通っていることにしてもらえばいい。


 こうするだけで、欲しいものが手に入るのか。

 なんだ、思っていたより簡単じゃないか――。

 もう、彼女の目に現実は映らなくなっていた。


「さあ、そうと決まれば手早く済ませましょう? ふふ、何も難しくはないわ。あの時やったのと同じように、自分の気持ちをぶつけるだけでいいの。素直に口にするだけで、怪異はきちんと願いを叶えてくれるわ」


 ユウコがユズリハの肩を掴む。


「さあ、さあ、さあ――!」


 焦燥を掻き立てるような口ぶりで、ユウコは今か今かとユズリハの言葉を待ちわびる。

 ただ願うだけでいい。その願いをかなえてやれる。そうすれば、己の存在も永遠となる。

 さあ。

 さあ。

 さあ。

 闇一色の瞳に見つめられながら、ユズリハが口を開こうとしたそのとき。

 外界の干渉を阻んでいたはずの扉が、一瞬にしてバラバラに吹き飛ばされた。

 舞い上がる粉塵をすり抜け、白銀の青年が、真っ赤に染まった足を閉ざされし空間に踏み入れたのだった。



 金属製の扉が豆腐のように切り刻まれ、大小様々な破片が教室内に吹き飛ばされる。

 激しく舞い上がる粉塵の奥から、刀を携えた真っ赤な影がゆらりと姿を現した。

 部屋に降り注いでいた夕焼けの光はみるみるうちに消えていき、やがて外と変わらぬ夜の帳が空き教室にも訪れた。


 足を踏み入れた途端、見慣れない少女がカノンの視界に入る。

 早足で接近するカノン。

 ユウコは咄嗟に身構えるも、彼はまるで眼中にないと言った態度でユウコを横切り、ユズリハのすぐ前で膝を折った。


「カノン、さん……?」


 虚ろな瞳が彼を捉えた。

 どうやってここに?

 意識が定まらないのか、そんな簡単な疑問すら、うまく口にすることができない。


「話はあとで」


 短く言って、カノンはユズリハの手を自分の首に回させる。

 服を汚してしまうかもしれないが、そんなことを気にする余裕もない。

 しっかりと両手で彼女の体を抱えると、すぐに目が脱出経路を探し始めた。


「あら、どこへ行くつもり?」


 立ち上がった彼の背中に、ユウコが刺すように声をかける。

 本来ならばここで斬っておきたいところだが、生憎そんな時間はない。

 カノンはすぐ目の前の窓に手を伸ばしながら、


「ごめん、急いでるからまた今度でいい?」


 と突き放すように言って、勢いよく窓を開く。

 教室内に吹き込んだ夜風を一身に受けながら、彼は窓枠に身を乗り出すと、ユウコに振り返ろうともしないまま、軽々と外に身を投げたのだった。


 薄暗い教室に一人取り残されたユウコは、張り付けた化けの皮を溶かすように剝がしながら、風のように去っていった白銀のことを思い返す。

 彼を目にしていた時間はあまりにも短かったけれど、それでも一つだけ、確信したことがあった。


(妙な気配だと思ってたけど、なるほど、あれはだったのね――)


 その得心は、ケーブルの異形へと戻った怪異とともに、闇の中に掻き消えた。



「ひいいいいいいいぃぃぃぃ――!!!!」


 耳をつんざくような悲鳴が、夜の中庭に轟いた。

 圧倒的な衝撃に呼び起こされ、意識がはっきりとしたのも束の間。自分が高いところから落ちていることに気がついたユズリハは、反射的に甲高い叫び声を上げたのだった。


 カノンはほんの少しだけ顔をしかめながらもしっかりと土肌の表面を見据え、体勢を整え始める。

 落下することわずか数秒。


「きゃっ……!」


 ドシン! という鈍く激しい衝撃が足に襲い掛かって、カノンの表情がやや陰る。しかし彼はうめき声一つ上げずに、腕の中で縮こまっているユズリハを優しくその場に降ろした。


「あ、あの、ありがとうございます、また助けてもらって――」


 そこまで言って、さっきまできちんと見えていなかった彼の姿が視界に入り、ユズリハは思わず喉の奥をひゅっと鳴らした。

 カノンは血と脂に塗れた己の体を改めて確認しながら、


「さっきも言ったけど、説明は後で。今はとにかくここから出るのが先決だ」


 と、平然とした顔で述べる。


「わ、わかりました……」


 聞くなという方が無理ではないだろうか。

 そんなことを思いつつも、ユズリハはその欲求をぐっと飲みこんだ。

 カノンはすぐ近くにあった大きな石製の花壇の裏に身を潜めると、顔だけをわずかに出しながらじっと周囲を見渡した。


 視界の先には大きな建物。それと校舎を繋ぐ通路の近くに自分たちは降り立ったらしい。コンクリートで舗装された通路は壁に囲まれていない外廊下の形式で、左右は地面と地続きになっていた。


「あの建物、体育館なんです」


 彼に倣って身を潜めていたユズリハが隣で小さく言う。


「へえ、そうなんだ……ここから外に出られるみたいだけど、どこに繋がってるのか知ってる?」


「もちろんです。左に行けば正門に、右に行けば裏門に行けますよっ」


 ユズリハの口調はなぜか得意げだった。

 今現在通っている高校なんだから、当然知っていて当たり前だろうが、野暮なことは言うまい。


「……よし、とにかくさっさとここから離れよう」


 そう言ってカノンがユズリハの手を握る。


「え? 離れるって、私まだ何もできて……」


 すっと立ち上がる彼の横顔を、ユズリハが見上げる。


「いや、今日は一旦引き上げる。こっちとしても想定外の事態が起こっちまったもんでね。だから――」


 そこまで言って、唐突にカノンの言葉が途切れた。

 彼はいつになく真剣な面持ちで、ある方向を強く睨みつけている。

 鋭く研ぎ澄まされた視線の先を追うように、ユズリハもまた首をそちらに向けた。


 校舎を背にした左手――暗がりの中に、人影が揺らめく。

 一人ではない。二人、三人……どんどん影は増えていき、闇の中からぼんやりと人の形が浮かび上がった。

 校舎の角、体育館の陰、外廊下の両端。人の気配が、四方から漂い始め――。


「囲まれてる」


 カノンが静かに言った。

 スーツ姿の人間たちが、じりじりと距離を詰める。誰もが銃を携えており、どの顔にも感情は見て取れない。


「カノンさん、あの人たちって……」


「ああ、昼間会った連中だよ」


 軽い口調の声に宿るわずかな緊張。

 カノンはさっきまでとはまるで異なる空気をまといながら、改めて刀を握り直した。

 整列を終えた人影の中から、一人が前に出る。

 整えられた短い黒髪。

 その男は二人の姿を目にするなり、にたりと嫌な笑みをこぼした。


「……追い詰めたぞ、白浪」


 羽村が、やや嬉しそうに声を上げた。

 彼の声に合わせて、スーツの集団が一斉に銃を構える。

 マシンガン、アサルトライフル――教室の前でカノンに向けられていた銃口が、今度は花壇越しにユズリハにも向けられている。

 どうやら奴らは自分だけでなく、彼女すらも手にかけるつもりらしい。


「ずいぶん早かったね……もう少し時間がかかると思っていたけど」


「当然、待機させていたに決まってるだろ。まさかあの程度で終わりだと思っていたんじゃないだろうな」


「これ以上無駄な殺生をしたくはないんだけどなぁ……」


「クク……お前らが大人しく死んでさえくれれば、死体もあと二つで打ち止めだ」


 羽村は廊下で見せたのと同じように、左手を上に掲げる。


「……今度こそ、ちゃんと死んでくれよ? できれば肉片すら残らないようにな」


 手を勢いよく振り下ろすと同時に、すさまじいほどの銃声がけたたましく静寂を裂いた。

 カノンは咄嗟にユズリハの頭を下げさせると、刀を構えながら花壇を飛び越えた。

 眼前に迫る無数の銃弾を視界に捉え、かっと目を見開くと、目にもとまらぬ早業で斬り払う。

 次々に弾丸を処理するカノン。

 しかし、所詮は彼も人の身。決してすべてを両断できているわけではない。


 刀身で弾く、ぎりぎりでかわすだけではおびただしいほどの猛攻に追いつくことができない。

 鉛玉は確実に彼の肉を抉り取って、背中を通り抜けるように貫通した。

 血飛沫が花壇に飛び散り、植物の上に降り注ぐ。


 轟く銃声、炸裂する血液、花壇の表面が抉れる音。

 ユズリハは頭を抱えながら悲鳴を漏らすも、それらはすべて他のノイズにかき消されてしまう。


「そらそらどうだ!! これでは手も足も出まい!!!」


 攻撃部隊の背後に下がった羽村は、穴だらけになっていくカノンの姿に歓喜の声を上げた。

 憎い相手の傷ついていく姿の、なんと美しいことか。

 己の嗜虐心が、自尊心が、どんどん満たされていく感覚に、羽村は震えた。


「絶対に手を緩めるんじゃないぞぉ……!! ここで殺しきれ!! 女もだ!!!」


 羽村の号令で、銃撃がさらに苛烈さを増した。


「ぐっ……!」


 弾をいなし続けるカノンがわずかに漏らした弱々しい声。

 その声が耳に届いて、ユズリハが思わず花壇の隙間から目を出した。

 ――もうやめてください、死んじゃいます!


「――え――?」


 飛び出そうとしていた言葉は、しかしカノンの肉体に起こる異常な光景を目にした途端、パッと消え去り、端的な驚きの言葉へと塗り替えられた。


 何十発もの銃弾を浴びた肉体に開けられた弾の痕が、みるみるうちに塞がっていく。

 まるで肉が焼けるような音を立てながら、皮膚同士が強引に癒着し、傷を癒しているのだ。


 ――だが、ユズリハはその姿に、逆に不安を覚えてしまった。


 彼の傷は、完璧に治癒されてはいない。

 中途半端に塞がっているのもあれば、だらだらと血を流し続けているものもある。

 度重なる銃撃の嵐に、いつの間にか肉体の修復が間に合わなくなっていた。


(このままじゃ……まずいな)


 指の感覚が少しずつ薄れている。

 足にうまく力が入らない。

 かろうじて致命傷は避けているものの、弾は確実に体に命中している。

 けれどいよいよ、大して痛みを感じなくなっていた。

 カノンの身体は、ゆっくりと限界に近づいている。

 

 このまま二人して共倒れなどするわけにはいかない。

 ――鉛玉がまた、カノンの肉を喰らう。

 なんとかしてユズリハだけでもこの場から逃さなければ。

 ――避けた弾が花壇に大きな亀裂を作る。

 でも、どうやって――


 カノンがちらりとユズリハに視線を向ける。

 弾痕塗れで崩壊寸前の花壇はもはや遮蔽物としての機能を果たしていない。土は崩れ、赤く染まった花が力なくこうべを垂れる。

 その裏でただ身を小さくすることしかできなかったユズリハは、己の頭が欠けた花壇の縁から見えてしまっていることに、まだ気がついていない。


 銃撃の礫が降り続ける中、ふと羽村が動く。

 懐から取り出したのは、一丁の銃。他の連中のとは異なる細い銃身、回転式の弾倉――リボルバーである。

 羽村は緩慢とした動作で銃を片手で構え、ある一点に狙いを定め、軽々と引き金を引いた。

 男の腕が大きく跳ね上がり、大口径の弾が螺旋状に空気を切り裂く。

 鉛玉の雨を通り抜け、目指すは花壇から飛び出る、標的の首――。


 鳴りやまない銃撃の中に飲み込まれるはずだった乾いた銃声を、カノンは決して聞き逃さない。

 咄嗟に地面を蹴り上げる。

 鉛玉を食らいながらもユズリハと弾の間に割り込むと、弾の軌道上に置くようにして、刀を胸の前で構えた。

 弾丸はすぐに刃に命中し、真っ二つに切り裂かれた破片が思いもよらない軌道を描いて散っていく。


「うっ……!」


 破片の一つが肩を撃ち抜き、カノンは思わず顔をしかめる。

 わずかに痛むが、ユズリハが無事ならそれでいい。今にも泣きだしそうな顔でこちらを見てはいるものの、弾は当たっていないようだった。


「外した、か」


 落胆の言葉とは裏腹に、羽村は何故かクツクツと愉快気に喉を鳴らしている。

 まるで最初から、これが目当てだったと言わんばかりに。

 あれだけ苛烈だった銃撃は、いつの間にか止んでいた。

 スーツの連中も、既にことを済ませたとでも言いたげに、静かにほくそ笑んでいる――


 好機、と駆けだそうとしたその瞬間、カノンの体が唐突にぐらりと崩れた。


「なん、だ……?」


 カノンが力なくうつ伏せに倒れ込む。

 足に力が入らない。いや、さっきとは違う――筋肉が麻痺してしまったような感覚が、体全体に駆け巡っている。


「だ、大丈夫ですかっ……!?」


 思わずユズリハが花壇から身を乗り出し、カノンのもとへ駆け寄った。

 塞がりかけていた傷口が一気に開き、大量の血を吐き出し始める。


「嘘、どうして……? さっきまでは治ってたのに……」


「……そう、か、さっきの弾は……」


 何か思い当たったカノンに、羽村が手を打ち鳴らした。


「ご明察。さっきの弾は特別製でね。お前の体組織を破壊するためだけに作らせた代物だ」


 羽村はリボルバーの弾倉から弾を一発抜き取ると、これ見よがしにそれを見せつけた。


「清めた灰と銀で作られた銃弾。お前にはさぞかし辛いだろうなァ?」


 弾を込め直し、羽村はケタケタと耳障りな笑い声をあげる。他の連中も同調するように、ゲラゲラと声を轟かせ始めた。

 しかし、カノンは気丈に笑みを浮かべると、


「ふっ……そこまでしなきゃ、勝つ自信もない……なんてね」


 うつ伏せのまま、羽村の顔を見上げながら吐き捨てるように言った。

 実に滑稽な姿だ。這いつくばって啖呵を切っても、みじめなだけだ。

 だが、どうしてもそれが……諦めていないカノンの姿が、声が、言葉が、羽村の感情を刺激した。


「黙れ黙れ黙れ!! お前、自分の立場をわかってんのか!? これから死ぬ分際で偉そうなこと言ってんじゃねェ!!!」


 一気に頭に血が上り、羽村は声を張り上げながら地べたのカノンに銃口を向けた。。

 荒々しく息を吐き、震える指を引き金にかける。

 それでもカノンの表情から笑みが消えない。

 馬鹿にするような、見下すような薄ら笑いが、消えてくれない。


「っ、貴様ァっ――!!」


 激高した羽村が指を引ききろうとした瞬間。


「隊長、今は……」


 スーツ姿の男が一人、諫めるように羽村に声をかけた。


「………ああ、そうだったな」


 小さく舌打ちをしつつ、羽村の銃口が今度はユズリハを捉える。


「ひっ……!?」


 悲鳴を上げながら、ユズリハは己の身を守るように身を縮めた。


「我々の目的は罪人の処罰……殺すならまずは女の方から、だろ?」


 ユズリハに視線を向けたまま、同意を求めるに首を揺らすと、スーツの男は静かに頷きながら隊列のもとへ戻っていく。


「や、やだ、死にたくないっ……!」


「はっ、ずいぶんと身勝手だなァ。お前が安易に怪異を生み出したせいで、人様に迷惑がかかってるっていうのによ」


 弱々しく震えるユズリハの言葉を、羽村は鼻で笑い飛ばした。


「お前が死ねば怪異も消える。罪は洗い流され、怪異を生む罪人もこの世から消える――良いことずくめだとは思わないか?」


 見下すように言いながら、リボルバーの撃鉄を起こす。

 今度こそ、羽村が引き金を引こうとした瞬間――


「まあ、待ちなよ……」


 地べたから、弱々しい声が耳に届く。


「……死にぞこないに構ってる暇は――」


「いいのかな……その子は、怪異を……操ることが、できるかもしれないのに」


 その言葉に、羽村の指がぴたりと止まる。


「きみらの悲願、だろ? 怪異を自由に操るのはさ……いいのかな、可能性を、摘んでしまって」


「……」


「それが上に知れたら……きみらは、どうなるんだろう、ね?」


 カノンの虚ろな瞳が、後ろに控える羽村の部下たちに向けられた。

 彼の言葉の意味を理解したのか、スーツ姿の集団が口々に言葉を交わし、徐々にざわめき始める。


 羽村は口を閉ざしたまま、ユズリハに向けた銃口をカタカタと震えさせていた。

 やがて、周囲のざわめきが最高潮に達したとき、羽村はパン、と一発、乾いた銃声を響かせ、騒ぐ部下の口を閉じさせた。

 銃口は明後日の方に向けられ、飛び出した弾丸が学校の壁面に小さな傷をつける。


「……いいだろう。お前の口車に乗ってやる」


 そう言って顎で指示を出すと、部下の何人かがユズリハの体を拘束する。


「や、やめて、離して、離してよっ……!」


 じたばたと抵抗する彼女に、呆れたように視線を向ける羽村。


「ええい、大人しくしろ! 次抵抗すれば、今度こそ殺すぞ!!」


「う……」


 成す術もなく、ユズリハは拘束を受け入れる。


「さあ、行くぞ」


 先に歩き出した羽村の後を追うように、スーツの集団がぞろぞろと撤退していく。


「あ、カノンさんっ……!」


 その波に飲まれるように、後ろから押され、前から引っ張られながらも、ユズリハはどうにか彼の方へと首を向ける。


「待ってろ、ユズリハ……絶対、迎えに行くから……」


「カノンさん! 起きて、しっかりして!!」


 彼女の声が、どんどん遠くなっていく。

 そして、カノンの意識もまた、ゆっくりと遠のいていった。

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