白銀に出会った日(3)
誰かの足音が聞こえた気がして、わたしは目を覚ました。
……なんだか頭がズキズキする。もうひと眠りしようかとも思ったけど、倦怠感がそれを邪魔してくるので、わたしは仕方なく体を起こすことにした。
気を抜けば閉じてしまいそうな瞼を強引に開きながら大きく伸びをする。
まったく、枕がいつもと違うだけでこうも上手く寝付けないとは。我ながら繊細すぎるな、と思う。
しばらくここで寝泊まりすることを考えると、早いうちに自分の枕を回収しておくのもありかもしれない。
そのときは、カノンさんにお願いすることになるんだけど。
まだぼんやりとしながら立ち上がると、ふと扉の前に丁寧に畳まれた衣服が置かれていることに気がついた。
そういえば、昨日のうちにツユリさんが替えの服を持ってきてくれてたんだっけ。
流石にずっとこの制服を着続けるわけにもいかないし、ここはありがたくお借りしておこう。
グレーのパーカーと白のロングスカートを着用したわたしは、軽く身なりを整えたのち、なんとなく昨日の部屋に顔を出してみることにした。
軽くノックして、返事も待たずに扉を開ける。
中にいたのはツユリさんただ一人。<所長専用>デスクに腰掛けたまま、ものすごい速さでキーボードを打ち込んでいた。
絹のように滑らかな黒髪をさらりと流し、燃え上がるように赤かったネクタイの色が、今日は沈むような深紅に様変わりしていた。
扉の閉まる音に気がついたのか、ツユリさんはわずかにこちらに目をやったかと思えば、来訪者の正体を確認するなり、すぐに視線をモニターに戻した。
「ツユリさん、おはようございます」
「おはよう杠さん。ずいぶん遅いお目覚めね。しっかり眠れたのならよかったわ」
「え……?」
ふと壁面に目をやると、時計の針はそろそろ十一時を回ろうとしているところだった。
わたしが横になったのは、確か日付が変わる少し前だったはず。ということはつまり、大体半日も眠っていたことになる。
普段の睡眠時間がおよそ七時間ほど。こんなに長く寝ることなんて滅多にない。
……なるほど。てっきり頭の痛みは寝不足のせいで引き起こされているものと思っていたけど、実際はその逆。長く寝すぎたゆえの寝疲れが原因だったのか。
いったいどこが繊細さだというのか。
あまりの神経の図太さに、わたしは呆れるばかりだった。
「もうそんな時間だったんですね。ほんと、おかげさまでよく寝れました」
ツユリさんは、そう、とだけ口にして、再び意識を作業の方に向ける。
カタカタと無機質な音が響く中、特にやることもないまま来てしまったわたしは、空っぽの椅子に腰かけながらわざとらしく事務室を見渡し、
「そういえば、カノンさんはどちらに?」
などと訊ねてみた。
「彼なら部屋で寝てるわよ。そろそろ起きてくるんじゃないかしら」
「カノンさんって、いつもこれくらいまで寝てるんですか?」
「普段ならもう少し生活習慣は整っているのだけれどね。仕事を頼んでいるときはほとんど朝帰りになるのよ。彼が言うのは、その方が捗るらしいわ」
「ああ、それわかります。わたしも課題とかは夜ご飯を食べてからやる方で。なんとなくそっちの方が集中できるような気がしちゃうんですよね」
「白浪くんも似たようなことを言っていたけれど、私はまーったくわからないのよねぇ。だって一つの物事に集中するくらい、その気になれば簡単にできるじゃない」
ツユリさんは平然と、それが当たり前であるかのようにすごいことを口にした。
一応なるほど、だなんて頷いてみるけど、わたしにはその考えがまるで理解できなかった。むしろ瞬時に意識の切り替えができる人の方が少ないとすら思う。
わたしの知ってる人はみんな、どうやって集中力を高めるかに四苦八苦しているというのに……やはり天才――というか奇才というか、そういう人たちの思考は、普通の人たちのそれとかけ離れた位置にあるのかもしれない。
「……まあいいわ。それよりも杠さん、今時間はある? 依頼を遂行するにあたって、改めてあなたに聞いておきたいことがあるんだけれど」
わたしは小さく頷く。
「昨日も話したと思うけれど、あなたに降りかかる災厄の原因は、呪詛の可能性が高いわ。呪詛――つまりは呪いね。呪いがいったいどういうものかくらいは何かで耳にしたことがあるんじゃないかしら」
「はい。漠然と、ですけど」
呪い――誰かを恨んだり妬んだり、そういう負の気持ちを燃料として、呪う対象を苦しめたり痛めつけたり、最悪死に陥れたりもするような恐ろしい方法というのが、わたしの中にあるイメージである。
「私たちはそういう超常や異常現象のことを、神秘だったり怪異だったりと呼んでるの。人に害のない方が神秘。その逆が怪異ね――まったく。わかりづらいからいい加減呼び方くらい統一して欲しいものだわ」
ツユリさんは一瞬手を止め、深くため息を吐く。どうやら呼び名に関してよほど辟易としているらしい。
しかし、まさかそんなおとぎ話や漫画でしか聞いたことないような現象が実在するだなんて思ってみなかった。ましてや、自分がその対象になってしまうとは。
「普通の人間には認知できないだけで、神秘は常に世界と隣りあわせにあるわ。霊体――幽霊なんかがわかりやすいかしら。見えていないけれど、確かにそこにいる――あれだって立派な神秘であり、怪異現象の一つだわ。信仰心なんかもそうね。多数の強い信仰が、一つの大きな神秘を形作ることもある」
「……神様を信じる気持ちが、人に有害な怪物を作ったりするってことですか?」
「有害かどうかは生まれてみないとわからないわよ。でもそうね、良し悪しで言うなら、今回のケースは間違いなく悪よ。呪詛が他の神秘と異なるのは、明確な人の意思が必要不可欠という点だもの」
つまり呪いとは、術者にその意思がない限りは発動しないもの。
だからこそ、わたしに呪いをかけた何者かが存在する――それがツユリさんの考えだった。
「白浪くんには今、その張本人を捜索してもらってるところ。とはいえ、こちらでもある程度の目星はつけておきたくてね。まあ、いわゆる聞き取り調査ってわけ。ねえ杠さん――あなた、誰かから強い恨みや妬みを向けられたことは?」
「ない……と思います。嫌がらせもいじめも、受けた覚えはありません。」
実際、悪意に晒された経験はない。
……まあ、わたしがまったく気づいてないだけかもしれないけれど
「そう……まあそうよね。仮にあったとしても、本人に自覚がなければわからないわよね。そうなるとやっぱり彼に探ってもらうのが手っ取り早いか……いいわ、教えてくれてありがとう。また何か聞きたいことがあったら声をかけるわね」
それきり、ツユリさんの意識がわたしに向けられることはなかった。
わたしはおもむろに立ち上がると、軽く会釈をして部屋を後にする。
細い廊下を通り抜け、自室の扉すらも横切って、わたしはまたもなんとなく、玄関の戸をゆっくりと開いた。
外は強い日差しが降り注ぎ、眼前に広がる街を明るく照らしている。
風はとても穏やかで、体を優しく撫でるように通り抜けていく。
分厚い塀の向こうに広がる街並みは、流石に豆粒のようには見えないけれど、階段を降りればすぐにたどり着けるはずなのに、何故だか妙に距離を感じた。
ここからだと水平線の境界がよく見える。
街の境目も、川の途切れるところも、世界の広さが実感できて――同時に、自分の矮小さも見えてくるようだった。
ただひたすらに――遠い。
……見降ろすのをやめて、今度は空を見ることにした。
どこまでも広がる青い空。
今日は雲らしい雲も見当たらず、まさに青天が広がっている。
吸い込まれるようで――やっぱり、とてつもなく遠い。
こうしてじっと見上げていると、もしかしたら自分は羽ばたけるのではないか、というような気さえしてくる。
いっそのこと、ここから飛んでみようか。
そうすればもしかしたら、空を自在に泳ぐことだってできるかもしれない。
一種の妄想――いや、酩酊か。
そんなことを考える自分がすごく馬鹿らしくて、わたしは大人しく自室に戻ることにした。
◇
ツユリさんのもとで暮らすようになってから数日。
学校に行くことは未だ叶わず、変化した生活にも慣れ始めてきたころ。
「――あら、こんなところにいたのね。探したわよ」
脱衣所にこもって乾燥の終えた洗濯物を畳んでいると、出入り口の方からすっかり聞き馴染んだ声が聞こえて、わたしはふっと顔を上げた。
声の主であるツユリさんが、半開きになった引き戸の隙間から体を覗かせている。
彼女は相変わらずスーツを着用しており、本日のネクタイの色はやや赤に近い桃色だった。
一緒に暮らしていてわかったことだが、ツユリさんはいついかなるときもスーツ姿を崩さない。まさか寝巻にもしているんじゃないかと思うほどだ。
それから、特徴的なネクタイは主に暖色系ばかり。青や紫といった寒色系のものは持っていないようだった。
「ツユリさん? どうかしましたか?」
声をかけるも、彼女の視線はわたしの方ではなく、隣に置いてある畳まれたワイシャツの山に向けられていた。
……もしかして、畳み方に何か間違いでもあったのだろうか。
恐る恐る表情を伺うと、ツユリさんはむしろ満足げに頷きながら、
「いえ、相変わらず丁寧な畳み方だと思ってね。白浪くんにやらせるとすぐに手を抜き始めるからずっと困っていたのよ。あなたがいてくれて本当に助かってるわ、ありがとうね、杠さん」
そう言ってツユリさんは、優しい瞳をこちらに向けた。
「い、いえ、とんでもないです。わたしの方こそ、お世話してもらってるのにこんなことくらいしかできなくて……」
「気にすることはないわ。面倒を見ると言ったのは私の方なんだから、責任を果たすのは当然よ」
「でもっ……」
思わず食い下がると、ツユリさんは困ったように笑みを浮かべた。
……彼女の言っていることもわからなくはない。この人からすればわたしはお客さんで、丁重に扱うべきゲストなんだし。
だけどわたしはどうしても気になってしまう。
ここまで生活の面倒まで見てもらっているのに、無神経でいられるはずがなかった。
「――それなら、よければ一つ、私のお願いを聞いてもらえないかしら。家事をやってもらうよりも重要で、しかもあなたにしか頼めないことなの。あなたが気になっていることは、それとチャラってことでどうかしら?」
どうにも釈然としないままのわたしを見かねたのか、ツユリさんはそう言って、人差し指を天井へと向ける。
「っ、はい、やります! やらせてください! わたしは何をすればいいんですか!?」
「ふふ、ちゃんと説明してあげるから、そう急かさないの。……あなたには、今日の白浪くんの仕事に同行してもらいたいのよ。彼、これからまた街に出るって言ってたから」
「え……わたしが、一緒に……?」
驚きのあまり聞き返すと、彼女はそうよ、と小さく頷く。
そんな彼女の反応を見るなり、すっかりやる気になっていたわたしの気持ちは、急激に落下し始めてしまう。
「あの……そのお願いを聞くのはやぶさかではないんですけど……大丈夫、なんでしょうか? 外に出ちゃっても……」
「問題ないでしょう。白浪くんもいることだし」
気まずさのあまり目を伏せるわたしに、しかしツユリさんはけろっとした様子でそんなことを口にした。
そりゃ確かに、カノンさんがいれば心配はないかもしれないけど……あのとき刻まれた恐怖はわたしの内側を蝕んだままだ。
時間が経てばどうにかなると思っていたものの、むしろ日が過ぎるたびに恐怖はさらに鮮度を高め、嫌な寒さが激しくなりつつあった。わたしがマンションの敷地を自分から出ようとしなかったのも、それが原因だった。
あんな啖呵を切った手前、やっぱりやめますだなんて言えるはずもなく、わたしはなんとか表情を取り繕いながら、
「わ、わかりました。精一杯頑張りますっ。ついてくだけになるかもですけど……」
「それでいいのよ。あなたが動けば、必ずどこかの歯車も共鳴を見せるはずだから」
含み笑いを浮かべるツユリさんの言葉が、わたしにはよくわからない。
ただそこには、若干の期待が込められているような、そんな気がした。
◇
昼を少し過ぎてから、わたしはやや強引にカノンさんから承諾をもらって、彼の仕事についていくことになった。
これから向かう先は、わたしが化け物に襲われたあの路地裏である。
個人的にはあそこには立ち寄りたくないけれど、今日は彼の仕事を手伝うと決めたのだ。弱音を吐くわけにもいかず、わたしはせめて気丈に振るまうことを決めた。
「そういえば、二人で外に出るのって初めてですね」
繁華街への続く道のりの途中。
右隣りを並んで歩く彼に、軽い世間話のつもりで口を開いた。
「そりゃそうだろう。きみがあの敷地から出ること自体初めてなんだからさ」
「う……だって、怖かったんですもん。いつあれがまた出てくるか、わからないじゃないですか」
「僕としてはむしろ、出てきてくれた方がありがたいんだけどな。そうすれば、毎晩探しに出る必要もなくなるし」
軽い口調で言ってのける彼に、わたしはむすっとしながら怪訝な瞳を向ける。
「なんだよ。真夜中に出歩くのも意外と大変なんだぞ。情報は集まらないし、術者も見当たらないし、標的は全然見つかんないしさ」
「それなら、もっと早い時間から始めればいいじゃないですかっ」
「難しい相談だなぁ。僕はしっかり眠れないと気が済まない方でね」
「だったらもっとちゃんと寝てください! そういうわりに、すぐ起きる癖に……!」
彼はいつも四時間程度しか寝ていないのだ。明らかに睡眠不足だとしか思えない。
「仕方ないだろ。眩しいと目が覚めちゃうんだよ」
「カーテンを閉めればいいだけじゃないですか、もうっ……!」
態度を荒立てるわたしを揶揄するように、カノンさんはわずかに口角を吊り上げた。
彼はいつもそうだ。ああ言えばこう言って、言い訳じみた言葉を連発する――だからどこまでが建前で、どこからが本音なのかがわかりづらい。ふわふわとした言葉の中から彼の気持ちを探り当てるのは、なかなかに難易度の高い識別だった。
わたしは大きく息を吸って気持ちを落ち着かせると、再び口を開く。
「……実際、今日みたいに早いうちから調査するのはダメなんでしょうか。わたしを呪った人はともかく、あの化け物の方なら日中帯に現れてるのかもしれませんし」
「もしそうならツユリが報告をくれてるはずだけど、あいつから何か新しい情報を聞いた覚えはないな。……まあつまり、残念ながら進展はなしってことになる」
自嘲気味に笑みを浮かべるカノンさんに、そうですか、とわたしはやや肩を落とす。
もう何日も経っているのに、未だに化け物に繋がる手掛かりは見つかっていないらしい。彼の口ぶりから察するに、肝心のわたしに呪いをかけた張本人の目星もついていないのだろう。
進展がほとんどないということを聞かされ、わたしは不安でいっぱいになった。
彼らがしっかりと仕事を果たしてくれなければ、わたしは普通の生活に戻ることができない。それだけで済むのならいいけど、万が一の状況が訪れる可能性だってある。
……悠長にしている暇なんて、ないというのに――
「そう硬い顔するなよ。進みが悪いのは僕もあいつもわかってる。だからこそ、きみを外に出すことに決めたんだろうぜ」
「……ツユリさんに同じようなこと言われました。わたしが出れば歯車が動くとかなんとか」
首を傾げながら、あのときのツユリさんの言葉を思い出す。
頭の中で繰り返し反芻するも、未だに言葉の意味はよくわかっていない。
難しい顔で必死に頭を回転させていると、カノンさんがわたしにわかりやすい答えを与えてくれた。
「要するにさ。きみが外に出れば、きみを狙ってる連中が何かしらアクションを起こしてくれるかもしれないってこと。もしそうなってくれれば、犯人に接近することも叶う……かもしれない」
「結局かもしれない、なんですね?」
「それでも何もないよりは期待できる。可能性があるだけましだろう?」
確かに、とわたしは小刻みに頷きながら、一つ確信を持った。
・・・・・・つまり、わたしは囮なのだ。わたしを狙う連中をおびき出すための。
けど不快感はない。
これで目当ての人たちが動きを見せるのなら、むしろ好都合というもの。事態の解決に繋がるのなら、囮だってなんだってやってやる。
――くすぶっていたわたしのやる気に、めらめらと炎が滾る。
「よし、きみもその気になったみたいだし、さっさと行くとするか」
火の灯った瞳を見て発破をかけるカノンさんに、わたしは再び、今度は深く頷いた。
目指すは路地裏。願わくば、痕跡や手掛かりが見つかるといいんだけど。
◇
数時間にも及ぶ調査の帰り道。
がっくりと肩を落とすわたしの様が、調査の結果を強く物語っていた。
あれから何か所か、化け物が現れたとみられる場所の調査を行ったものの、わかったのはせいぜいあれがその場にいたという程度。有力な手掛かりは何一つ手に入らなかった。
そのうえ、何か反応を見せるかもと期待していた張本人たちも、特に動きは見られないまま、ただ時間だけが消費されていってしまった。
「はあ……」
わかりやすいほどの落胆が、ため息となって喉を抜ける。
けどそれも当然だ。得たものと言えば、足腰への疲労だけなのだから。
ふと隣に目をやると、カノンさんの面持ちは家を出たときと何も変わっていない。むしろこの結果すら予想の範疇だと言わんばかりに、涼しい顔を浮かべている。
「……ずいぶん平気そうじゃないですか、カノンさんは」
「まあこういう日もあるだろう。すぐに変化が現れることの方が難しいよ」
刺々しい口ぶりに、彼は慰めなのかどうかわかりづらい言葉を口にした。
・・・・・・やっぱり彼の言葉は難しい。きっと、あまりにも冷静で平坦すぎるからそう思ってしまうのだ。
まあ、ちょっと気が立っているせいでもあるのだけど。
ほとんど言葉を交わさず、黙々と日が落ちつつある駅前の通りを歩いていたそのとき。
なんとなく顔を上げると、人混みのずっと奥の方に、見覚えのある人影が目に入ったような気がした。
慌ててじっと目を凝らす。瞳は群衆をかき分け、一つのシルエットに焦点を当てる。 茶髪交じりのショートボブ。随分と薄っぺらいスクールバッグ。わたしと同じ高校の制服を身にまとい、スカートをほんのわずかに折り畳んだ姿に確信する――あれは間違いなく、同級生の
「おーい! みずきーっ!!」
周囲の人だかりも気にせず、わたしはその場で声を張り上げた。
様々な視線が一斉にこちらを向くも、そんなことはまったくお構いなしに右手を大きく横に振る。
わたしの声が届いたのか、その女子高生は慌てた様子できょろきょろと辺りを見渡すと、こちらの姿を視界に入れるなり、彼女も同じようにぶんぶんと右手を大きく振った。
そのままこちらに駆け寄ってくる彼女に合わせ、わたしも急ぎ足で距離を詰める。
全身の輪郭がはっきりしていくにつれ、やっぱりその人が瑞希であるということを、わたしは改めて確信した。
「びっくりした、誰かと思ったら杠じゃん! あんた、こんなとこで何してんのさ?」
元気はつらつに笑顔を見せる彼女――加古川瑞希は、同じ高校に通う友人である。
少し焼けた肌、短いボブカット、それからしっかりとした足腰が特徴的で、陸上部に所属していることもあって、よく走っているのが印象的だった。
彼女とは中学からの付き合いで、わたしにとっては親友とも呼べる人。実はツユリさんのもとで生活し始めている最中も、お互いに近況連絡などを送りあっていた仲である。
「瑞希こそ学校はどうしたの? まだ下校時間にはなってないはずだけど……もしかして、サボり?」
「バカ、あたしは用事があって早退しただけ! ずる休みし続けてる人とは違いますーっ!」
「違っ、ずる休みじゃないし! ちょっと身内でいろいろあったんだってちゃんと教えたでしょ?」
瑞希はあれ、そうだったっけ、なんて言ってとぼけてみせる。
いや、この反応は本気で忘れているときのそれだ。彼女の意識は常に前を向いているせいなのか、瑞希は非常に忘れっぽい性格なのである。
忘れたことを誤魔化すように高らかに笑っていると、瑞希はふとわたしの隣に立っている男の姿に気がついた。
「……えっと、あなたは……わかった、杠のお兄さんですね!」
瑞希はさも正解を言い当てたように得意げな表情を浮かべているけど、わたしに兄がいるだなんて言ったことは一度もない。相変わらず、適当にもほどがある。
兄弟だと指摘され、カノンさんはほんの少しだけ迷ってから、
「――そうです。兄のカノンです。いつも杠がお世話になっています」
「え、ちょ、カノンさん、何を……!?」
まさかの便乗する形で頭を下げるカノンさんに、わたしは思わず絶句する。
彼って、こういうのに乗ってくるタイプなんだ……?
「いえいえ! あたし加古川瑞希って言います! あたしの方こそ妹さんにはいつも世話になっておりまして!」
カノンさんがいらない乗り方をしたせいで、瑞希はさらに得意げな面持ちを浮かべ、正解を当ててやったと目線でこちらにアピールしてきた。
・・・・・・なんだか、段々考えるが面倒になってきた。いっそのこと、このまま勢いの任せる方が良いのだろうか。
そんなことを考えていると、瑞希は左手首の腕時計に視線を移し、
「あ、やばっ……ごめん杠、あたしこれから弟を迎えに行かなきゃなんないから、もう行くわ! なんかあったらまた連絡して! それじゃ!!」
瑞希はわたしの返事もも待たずに踵を返すと、一気に人混みの中を駆け抜けていった。
「……なんか、台風みたいな子だったな」
ぼそっと呟くカノンさんに、すっかり遠くなった背中を呆然と見つめながら、わたしは静かに同意した。
まさしく疾風怒濤。彼女の勢いを殺すことなど何人たりともできるはずがない。
だからこそ、一緒にいて楽しい。わたしが瑞希に合わせようとするように、瑞希がこちらに合わせようとしてくれるのが、とても心地いいのだ。
それでも今日はあの勢い。
どっと疲労感を覚えるわたしとは裏腹に、カノンさんは一人、顎に手を添え何かを思案している様子。彼が今何を考えているのかは定かではないものの、特に知りたいと思うこともなく、それからわたしたちは真っすぐにマンションへと帰宅したのだった。
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