第2話 見知らぬ湖にて目覚めたときのこと
さぷさぷと水面が耳を打つ。
スヤンは寝ぼけたまま、少し手を這わせて、暖かな浅瀬の感触を確かめた。
それから、目を開けるということを思い出し、恐る恐る視線を泳がせる。
眩しさに頭痛がして一瞬眉根を寄せたが、痛みはすぐに引いていった。
一面の晴天に、高く渡り鳥が隊列を為す。
そこは、波風穏やかな湖岸だった。スヤンは細波を寝具に、仰向けになって倒れていた。
意識がはっきりしてくると、スヤンは自分の傍らに、少女が座ってこちらを覗き込んでいることに気がついた。
スヤンとぱちりと目が合うと、少女は居住まいを崩して彼を呼んだ。
「頭目」
「────シャオ?」
スヤンは不思議なものを見るように尋ねた。
名前を呼ばれて、シャオは安堵した表情のまま繰り返して頷いた。
「はい、私です。頭目」
洒落っ気のない麻の衣と、腰に差した古い剣。
彼女は睡花会の若い剣客の一人で、スヤンの部下、と言うべき存在だった。
当然、先の忌々しい夜には、あの死体の山のどこかにいたはずだ。
変わりない彼女の姿、高く結い上げた藍色の長髪と、黒水晶のような杏眼は、スヤンにとっては今や懐かしさすらあるものだった。
スヤンは跳ね起きると、辺りを見回し、それから呆然と自分の両の手のひらを眺めた。
衛士たちに筋まで叩き潰されていた手首は、何事もなかったかのようによく動く。
指先は、血の熱が鼓動に合わせて巡っている。
(生きている……)
足の先には翡翠色をした水面がどこまでも続き、微かに遠く、霧がかった森が見える。
木々は背後にも深く広がり、ここが森に囲まれた大きな湖であることを示していた。
スヤンの知る限り、都の近くにこんな場所があったとは聞いたことがない。
倒れた後のことを思い出そうとするとまた頭痛がしてきて、スヤンは額を押さえて呟いた。
「……何が起きた」
少しの沈黙を経て、シャオはきつく拳を握りしめて答えた。
「……突然、東の御老の手の者が屋敷を囲みました。応戦いたしましたが、どうにもならず」
「それは俺も知っている。帰ってきたが、間に合わなかった」
絞り出すようなスヤンの声に、シャオは頷いてから、努めて冷静に続けた。
「幸か不幸か、そのとき私はまだ息がありました。それでも、程なく皆の後を追うことになるはずだったでしょうが……」
スヤンが戻ってきてすぐのことだ。
彼のもとへ這って往こうとしたシャオの目に、月の光を照り返し、ひときわ輝く刃が映った。
「間もなく強い光に満たされ、気がつけばこの水辺におりました」
誰かに助けられたのかとも思ったが、周囲にもそれらしき人は見当たらなかった。
スヤンは一つ溜息をついて、首を振った。
「ここはあの世か?」
するとシャオは苦笑いを浮かべて、やんわりと否定した。
「あの世であるならば、ここにいるのは私たちだけではありますまい」
「それも……そうだな」
「奇怪な話ですが、この水はどんな傷も癒すようです。どうやってかここに運ばれたのは幸運でしたね」
自分で指先でも切って試してみたのだろう、シャオは懐の小刀を弄りながらそう言った。
その手の甲が少し痩せこけて、唇もひび割れているのを見て、スヤンは自分たちが死にかけてから、かなり時間が経っていることを察した。
「俺は何日目覚めなかった」
「私が起きてから、三日ほど。傷も深かったので時間がかかったのでしょう」
事も無げにそう言うが、その間はろくに食べ物もなかったはずだ。
スヤンは妙な居心地の悪さを覚えた。
「置いていけば良かったものを」
スヤンが俯きがちにそう言うと、シャオは丸い目をさらに丸くして答えた。
「御冗談を。ずっとお傍におりますとも」
それから、少し息をついてスヤンは浅瀬を立ち上がった。
不思議なことに、ぐっしょりと濡れていたはずの服はみるみるうちに乾き果て、ほんのりと甘い香りがするようになった。
ふと足元を見ると、見慣れた革鞘と、赤い番傘が並べられていた。
「明天」
思わず膝をついて手を伸ばすと、まるで嬉しがっているように、独りでに小さく鍔が鳴る。
異邦に辿り着いて尚、また自分に握られることを選んだらしい。
「頭目の剣も傘も近くに落ちていました。私も、多少の荷物は持ったままのようです。ここがどこであれ、少しは何とかなりそうですね」
シャオはスヤンに付き従いながら、真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。
「これから、どういたしますか」
その純粋な視線からついと目を反らし、スヤンは深く傘を差す。
「……まずは、食うものを探そう」
「承知しました」
湖から離れていくスヤンの後をシャオは子犬のように付いて回る。
かつては少し鬱陶しいとさえ思っていた気配が、今は何より頼もしく感じた。
この間まではもっと多くの足音が、スヤンの周りにあったのだ。
思えば、初めは一人だったはずなのに、いつからあれだけの仲間を持つようになったのだろう。
ふと、そんな疑問を抱いたが、答えになるような記憶はスヤンの中に在りはしなかった。
こんなにも日差しは明るいというのに、寒くて堪らないような気持ちがした。
「シャオ」
「はい、頭目」
何の気なしに呼ぶと、シャオはこちらを伺うように覗き込んだ。
すっかり大人になったと思っていた顔は、存外、まだ丸みが残っていた。
背丈は高く伸び、しっかり者だが、それでも彼女は自分より一回りも年下の少女だった。
「よく、生きていたな」
自然と声が漏れていた。
そんなことを思うのは、どうにも初めてだった。
だが、その奇妙な感覚が、消えない寒さを和らげているような気がした。
「俺は嬉しい」
「……はい、頭目」
それきり彼女は顔を赤らめて、しばらく俯いたままだった。
次の更新予定
ある人斬りが異世界で探した新しい人生について 遠梶満雪 @uron_tea
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ある人斬りが異世界で探した新しい人生についての最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます