ある人斬りが異世界で探した新しい人生について
遠梶満雪
第1話 辿り着く前のこと
一体いつから、己は日差しを厭うようになったのだろう。
眩しさに顔をしかめて、手探りに傘を探す。
その指先が心地よい水のぬるさを掻き分けて、初めて、男は気がついた。
果たして、自分は死んだのではなかったか。
しかし、思い出せるのは、倒れた直後の寒さばかりだ。
傷も、血溜まりも、あの忌々しい夜の気配は、もはやどこにも残っていない。風の匂いと水辺の熱は、ただ、彼が遠くに来たことを示している。
それでも確かに、男は生きていた。
瞬くと、甘く軽やかな、懐かしい声が彼を呼んだ。
「頭目」
こちらを窺う少女の姿は、男の見慣れたものだった。
思わず名前を呟く。すると、彼女は嬉しそうに繰り返す。
「はい、私です。頭目」
男はゆっくりと、事の経緯を思い返した。
***
晴れた夏夜のことだった。
月は明るく瓦を照らし、風はそよいで柳を撫でる。
とある議員が宴の帰路にお供を数人ばかりつけ、都の石畳を歩いていた。
都といえども寂れて久しく、町人たちは皆ひっそりと息を潜めている。
遠く離れた山際に、工場の灯り、吐き出す煙がちらついていた。
ふと面を上げると、道の先に誰かいる。
妙な男だ。
艶のない黒髪は結うほどの長さもなく、ただ爛々とした金色の瞳が暗がりで煌めいている。
「御免」
涼しげな声が夜闇をくすぐる。
古びているが上等なシャツを内に着込み、
「貴族院の、東の御老で間違いあるまいな」
男は、左手に赤い番傘を差している。今夜は、雲の一つもない。
議員の付き人は遮るように進み出る。
「下がれ、こちらは……」
彼の言葉はそこで断ち切られた。
雨が降ってきたようだ。
重たげな飛沫が路傍を濡らす。
その泥濘は鮮やかな赤色をしていた。
雨は、付き人から噴き出したものだった。
「その首、貰い受ける」
そう言う男の右手には無骨な刀が握られていた。刃は、垂涎めいて血糊を纏った。
我に返った護衛たちは一斉に斬りかかる。
しかし、一つは流され、一つは躱され、一つは真正面から叩き折られた。
返す刀とは思えぬ重撃が、護衛たちの骨を断つ。
「……睡花会の人斬りか」
転がる付き人の首を蹴り飛ばし、議員は自ら剣を抜く。近頃は、誰ぞに雇われて政敵を斬って回る、不遜な輩の多いことだ。
奇妙な人斬りは答えず、刀を片手に、静かに傘を傾けた。
月の光が二条の刃紋に照り返る。
「囲め!」
「!」
議員は剣を振り上げ、怒声を上げた。
するとたちまち、四方八方から衛士が現れ、人斬りを囲む。
罠にかけられたのだ。今宵、人斬りが殺しに来ることは議員の知るところであった。
もはや逃げ場はない。
人斬りはわずかに目を見開いたが、すぐに平静に戻る。彼にとって、敵の数はさしたる問題でない。人斬りは静かに傘を閉じ、まるでもう一本の刀のように左手に提げた。
「大した窮地でもない、という顔だな。世間はお前を幽鬼の剣士とも、妖刀に魅入られたとも騒ぐが、確かにそう思わせるだけの力はあるのだろう」
議員はそう言うと、剣を構えたまま人斬りに問うた。
「誰の命で動いている。話せば、お前だけは助けてやろう」
しかし人斬りは、首を微かにもたげただけで、答える気色はない。
ひゅう、と風が吹いた。
気づけば議員の眼前には死線が燦めいて、彼は咄嗟に鍔で受け止めた。握る掌が汗ばんだ。
「────何故、言われるままに人を斬る。金が要るか、取り立てられたいか」
今度は返事を期待した訳ではなかったが、意外にも人斬りは静かな口を開いた。
「……お前たちのやることで、民は迷惑を被っているからだ。お前は理想に取り憑かれている」
それを聞くと、議員は低く唸って首を振って、諭すように言葉を返した。
「理想か。理想で結構。一度でもそれを追った人間だけが、その遠さと価値を知っている」
しかし、親子ほども齢の離れた二人では、鍔迫り合いの軍配は当然人斬りに上がる。
撥ねつけられた議員は人斬りをじっと見据え、まだ動くなと衛士を制した。
「だが、人を殺めて暮らしをよくしようというのは、今に星を手に取らんと背伸びする子どもよりもずっと愚かな考えだ」
「……お前が死なねば国は変わらず、しかし、老いて退くを待てば我らの家族が死ぬだろう」
「なるほど、それらは飼い主からの受け売りか」
議員の声には今や恐れはなく、ただ憐憫の色ばかりが滲んでいた。
彼は溜息をつくと、一転、険しい顔つきで言った。
「馬鹿なやつだ。強いのはお前だけで、お前は強いだけなのだ。私という餌に釣られ、のこのこと
その言葉が人斬り、スヤンにとってどれほどの意味があったのだろう。初めて、その黄金色の視線が揺らいだ。
彼は身を翻し、すぐさま西の方角へ駆け出した。
議員の首は取らなかった。
その理由は、彼自身にもはっきりとしなかった。
都の衛士が大波のごとく行く手を阻む。
それをスヤンは力任せに刀で圧し斬り、傘で突き払い、道をこじ開ける。
太刀筋は酷く精彩を欠いて、敵の刃を取り零しては深手を負う。後ろからも幾度となく斬りつけられた。
滴り落ちる彼の血と飛び散る衛士の血が、都の通りに花を咲かせる。
「ハァッ、ハァッ…………」
都の郊外に古屋敷があった。
かつては大層立派だっただろうが、今となっては繕い誤魔化してようやく家の形を保っている。
スヤンはそこで、自分を頭目と慕い、志を同じくしているとのたまう十数人の仲間と暮らしていた。
仲間だ。スヤンにしてみれば彼らは話にならないほど弱かったが、わざわざ追い出すほどの興味もなかった。
軒先に居ついた雀を、誰が気にするのかという話だ。
そんな見慣れた寂しい庭先にスヤンはとうとう辿り着いた。
追手はもうない。斬って散らした。代わりに右肩は上がらず、肺は破れ、赤黒い血が口や鼻から止めどなく溢れ出す。
それでもスヤンはよろめきながら崩れた四つ目垣を押し越えた。
中は、それ以上に
柱は深く切りつけられ、駄目になっていた。
戸板は破られ、敷物は汚れていないところがない。
彼の仲間だった無名の剣士たちは、襲撃に応じようとしたのだろう、剣を握ったまま庭のあちこちで息絶えていた。
淡い彩りを湛えていたはずの初夏の庭は血肉によって塗り潰されていた。
林檎にも似た花の薄色を、濁った赤に重く濡らして項垂れる、風に散りゆくことさえ許されなかった
皆殺しだ。
どこから間違えていたのかも、もう分からなかった。
足の力が抜け、とうとうスヤンは地べたに倒れ伏した。
胸の奥が溶けるように熱くなったり、指先が寒くて震えたりした。
じわじわと広がっていく自分の血液が、仲間のそれと混じり合っていく様を霞んだ瞳で眺めていた。
本当の雨が降り始めた。
傘の下には宿れない。
不愉快な生ぬるい水滴はスヤンの死を早めつつあった。
血を拭う暇もなかった愛刀が、雨に打たれて洗われていく。
艶めかしい鈍色の向こうに、歪んだ満月が揺らめいていた。
「
ろくに研ぎに出せもしなかった、頑丈なだけのなまくら刀。それでも、ここへ至るまで、その鋼は欠けることすらなかった。
このまま朽ちさせるのは忍びないと思っても、今や感覚もない腕では鞘に納めることすらできなかった。得体の知れないぞくぞくとした感触が、胸の底から押し寄せていた。
刹那、虚像の満月が一際大きく輝いた。
スヤンはもうその意味を考えることもできないまま、波に引き寄せられ、水底へ深く沈むように、静かな眠りに落ちていった。
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