第2話
私が待ち合わせ場所に車で現れると、政樹は驚いた様子だったが、運転席にいるのが友里とわかると顔をほころばせた。
「久しぶりだね、牧野さん」
「お久しぶりです。麻依をお借りしちゃって、すみません」
私が助手席から降りると、政樹は車の窓に身をかがめて、友里に会釈した。
「ううん。麻依は牧野さんに会えるの、楽しみにしてたから」
政樹は朗らかに言った。同意を求めるように私を一瞥する。私は彼と友里の両方に、肯定の微笑を返した。
優しすぎて、ちょっと信じられない。私を好きでいてくれることと、私が友里と会うことを優先しても許されることが、両立するというのが不思議だった。
政樹の笑みには何の陰りも、曇りもない。心底から、私がしたいようにすることを喜んでくれているようだった。一人の男性の心に、それだけの器量があるなんて、まるで虚構の世界だ。あまりにできすぎた人物といると、相手が自分でいいものなのか、不安になってしまう。
「それじゃあ、楽しんで。またね」
友里は軽やかに手を振ると、ギアをドライブに入れて発進した。傾きはじめた夏の陽の中を、コンパクトカーがなめらかに走り去っていく。
「行こう」
「うん」
二人で観たいと言っていた映画の席を、政樹が予約してくれていた。歩き出しながら、彼はごく自然な動作で、私に左手を差し出した。私の右手を掴むのではなく、掴めと迫るふうに突き出すのでもなく、僕は手をつなぎたいけど良かったら、と言いたげに。
いつものように、自分の手を添える。輪郭を確かめるように私の肌を包む手は、そのために創られたかのようにちょうどいい大きさだ。映画館から出てきたあとも、それは変わらなかった。
遅い夕食を済ませたとき、時計の針は十時を回っていた。
「駅まで送るね。遅くまで付き合わせてごめん」
あっさりとそう言った彼に、戸惑い半分、予想通りの気持ち半分で、私は告げた。
「終電、もうないの」
やっぱりというか、彼は知らずにいたらしい。途端に申し訳なさそうにした。
「えっ――ごめん、知らなくて」
謝らなくたっていいのに、というせりふを、私は呑みこんだ。むしろ、この状況を待っていたのは私のほうなのだ。彼も待っていてくれたら嬉しかったのだけど、そうではなかったらしい。ほのかに赤い顔が、困惑に覆われている。
「車で送――ろうと思ったけど、お酒飲んじゃったな」
私も然りだ。だから、車で帰ることはできない。
「散らかってるけど、俺の家でもいい?」
「政樹さえよければ。ごめんね」
「ううん」
やや躊躇いながら、彼は歩き出した。
「俺こそごめんね。本当は、もうしばらくしてから、もっと準備してお迎えしたかったんだけど」
恐縮したようすに、この状況を喜んでいる自分がおかしいのかと一瞬気後れする。でも私たちは、すでに三か月も一緒にいる。遅すぎたくらいだ、と自分に言い聞かせた。本来彼は、こんなに待つ必要はなかった。
「ううん。終電の時間、言ってなかったし」
屈託のない笑みを浮かべたつもりだったが、歩きながら彼は気もそぞろだ。降ってわいたような状況とはいえ、嬉しくはないのだろうか。拒まれるのだろうか、と疑念がかすかな不安に変わる。
良かったらどうぞ、と言いたげに差し出された手を、私は急いで握った。
市街から少し離れたところにある政樹の家は、確かに散らかっていた。ただ、二人で過ごすのであればまったく問題はなかった。政樹はコーヒーを入れてくれた。本やDVDが並ぶ棚に、一緒に置かれたミルを無造作に取り出し、キッチンにしまっていた豆を挽いて。
部屋にふわりと漂った香りは、独特の苦みを微かに含みつつも、どこか甘かった。熱い湯で淹れられたコーヒーそのものも、苦みや酸味はなく、重厚な味の向こうに甘みがある気がした。
「これ、とっても飲みやすいね」
言うと彼は破顔した。さりげなく振る舞ってはいたけれど、どこか待ち構えていたような笑みだ。
「麻依は酸味とか苦みのある味は、あんまり好きじゃないみたいだったから。でもこれなら合うかなって」
つられて私も頬が緩んだ。カフェでアルバイトをしていながら、それほど知識もこだわりもなかった私には、新鮮な味だった。でも、同じバイト先で、政樹のほうは知識を蓄積していたらしい。
「こんなコーヒーあるんだ」
「すごいでしょ」
彼の顔は、いつものように優しげながら、少し得意げだった。並んでベッドのふちに背を預け、無邪気な目に見つめられてどきりとする。いつも落ち着いている政樹が、無防備な感情のひらめきを見せるときは、いつもそうだ。
コーヒーは、ほとんど飲み終わっていた。空になったマグを両手に包んで、私は政樹のほうに身を寄せた。
「でも政樹は、もっと苦いのが飲みたかった?」
むき出しの二の腕が、引き締まった腕に触れると、たくましい肌が少しだけ熱を帯びる――気がする。それとも、私がひとり勝手に体温を上げているだけだろうか。
「ううん。ちょっと落ち着きたいときは、こういうのも淹れるよ」
豆を常備しているくらいだから、確かにそうか、と思う。彼はコーヒーを飲み干すと、私のマグを覗き込んだ。
「どうしたの?」
「飲み終わったなら、キッチンに持ってくから」
私の手を包むようにしてマグを取りつつ、政樹が額に唇をつけた。温かい。熱いコーヒーを飲んだぶん、ひやりとした冷房の中でも体温が上がっている。
ほとんど無意識に、彼の腕を引き寄せた。驚いた気配はしたが、政樹の身体はごく自然に私の肌と触れ合う。唇を彼のそれに重ねると、自分の鼓動と体温がまた跳ね上がる。唇をついばみ返す彼の動きは、どこまでも優しい。
力の抜けた身体を、政樹にゆだねた。どこか遠慮がちな腕は、しかし頬に手を添えるだけで、私の身体を包もうとはしない。温かい指を、頬から首筋へ、首筋からデコルテへ誘導し始めたとき、彼はぱっと身をはがした。
「政樹」
思わず、縋るような声が出てしまう。言ったあと、しまった、と思った。こういう声は、人を苛立たせてしまう。余裕のない相手に、さらに気遣いを強いてしまうような声色は。
ところが政樹に、苛立った様子はない。ただ、戸惑いと迷いを浮かべて私を見つめているだけだ。目の奥に、揺らぎがあるような気がする――もう一度身を寄せたら、今度は抱きしめてくれるだろうか。
「ちょっと、出てくる」
は、と言いそうになったのを呑みこむ。あまりに突然すぎて、考えが追いつかない。でも一つだけわかるのは、彼がこの場から、どんな不自然で奇妙な振る舞いをしてでも、離れようとしているということだ。
「飲み物、買ってくる」
「待って」
このまま独りぽつねんと残されるのは、耐えられない。それに、目の前から政樹がいなくなると同時に、何か失う気がした。この数か月の間に、少しずつ深まってきた関係が、あっけなく消えてしまう。私は無意識に立ち上がっていた。彼は小さな玄関で、すでにスニーカーを履いていた。
「すぐ戻るよ」
宥めるような一言が、かえって鋭い直感を惹起した。黙って見送ってしまったら、彼は帰ってこない。
「私も行く」
小走りに玄関に駆けよって、サンダルを突っかけた。政樹はそそくさと扉を開けて、鍵を閉めもせずに出てしまった。慌てて背中を追い、マンションの外階段を駆ける。
「ねえ、待って」
急いではいるが、本気で私を振り払おうとしてはいない足取りだった。ただ顔を合わせることが気まずくて、足を速めている。
「逃げないでよ」
言うと少しだけ歩みが遅くなった。追いついた私は、差し出されてもいない彼の腕を取った。
「嫌なの?」
「何が?」
「ああいうこと」
我慢できなくて、直球の問いが出た。政樹はたじろいだものの、手を払いはしなかった。
「嫌なわけじゃない」
「じゃあ、何で逃げるの」
「麻依だから――」
「私とじゃ嫌なの?」
「そうじゃないよ。でも、焦りたくないから」
私にとっては、明確な拒絶ととれる言葉だった。しかも、理由をはぐらかした上での。ぐっと息を詰まらせた気配が伝わったのか、心配そうな顔がこちらを見た。表情を取り繕う暇がなく、またも縋るような目で彼を見てしまう。
「私たちもう一か月付き合ってて、部屋に泊まるんだよ。すること一つしかなくない?」
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