第6話 お言葉に甘えようかしら

 誤解が解けて、彼女が再度深々と頭を下げたあと、私は息を整えて、ようやく現実的なことを考え始めた。


 財布の中には心もとない金額しか残っていない。今月は家賃の支払いもあるし、そもそもお金に余裕なんてまるでない。ラブホの宿泊代を自腹で払うなんて冗談じゃない。


 だから、落ち着いた声で切り出した。


「とりあえず、昨日の飲食代もそうなんだけど、ひとまずここの宿泊費……は最低限貰いたいんだけど」


 彼女は一瞬、びくっと肩を揺らした。だけどすぐに顔を上げて姿勢を正して、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。


「はい……本当に申し訳ございませんでした。ご迷惑をおかけした分も加算して、こちらで足りるでしょうか? それと、もし後日この一件で何か問題が起きましたら、こちらまでお願いします」


 差し出されたのは、二枚の万札と、一枚の名刺。手に取った瞬間、紙の感触よりも名前の印字が目に飛び込んできた。


「……春野、咲良」


 小さく口に出した瞬間、彼女が「はい」と頷いた。


 五年近く居酒屋のカウンター越しか隣で酔った彼女の愚痴を聞いてきたというのに、初めて知る名前だった。それがよりによってラブホで知ることになるなんて、人生というのは本当に何が起きるかわからない。


 それにしても、いい名前だと思う。読みだけなら「春の桜」。私の名字は桜井。偶然とはいえ、なんとなく縁を感じる。どうにもこの人生、「さくら」という単語とは切っても切れないようだ。


 視線を名前の周囲に移すと、社名と支社名と聞いたこともないような部署名にくわえ、役職が目に入った。


 本人から聞いてはいたけれど、本当にあの大企業の係長だったのか……。半信半疑だったのに、目の前の証拠で否応なく納得させられる。


「……本当に、係長さんだったのね」


 思わず口から漏れた言葉に、彼女は照れくさそうに笑う。だけど、その笑い方がどこか子どもっぽくて、肩書きとのギャップが妙に可愛らしかった。


「えっと、さっきから思ってたんだけど、ビジネス感漂うやり取りにしなくてもいいわよ。私は年上だけれど、あなたのほうが社会人としてずっと立派でしょ? いつも通りのほうが気が楽ってものよ」


 少し意地悪を含ませてそう言うと、彼女はきょとんと目を瞬かせ、それから慌てたように笑みを浮かべた。


「そ、そうですか? じゃあそうします」


「そうして。名前も知れたことだし、今度から咲良さんって呼んでもいいかしら?」


「はい、もちろんです!」


 その返事は、予想以上に明るく、弾んでいた。まるで長年願っていた夢が叶ったかのような声色で、思わず笑ってしまうほど。


(……なんか、背中に尻尾みたいなのが生えてるみたいに見えたんだけど)


 もし本当にあったら、今ごろ左右にぶんぶんと振ってるに違いない。


 そんな姿を想像したら、頬が自然に緩んでしまった。


「……なにか可笑しいですか?」


「ううん、なんでもないわ」


 気づけば、さっきまで「宿泊費を請求する」なんて考えていたはずなのに、空気がずいぶんやわらかくなっていた。カーテンの隙間から差す朝の光の中、名刺と万札を手にしたまま、私はベッドから降りて立ち上がった。


「それじゃ、そろそろ帰りましょうか――――っ」


 そう言った瞬間、腰と足に鈍い痛みが走った。


「……いったたた」


 思った以上に無理をしていたらしい。小さく呻きながら体を伸ばす。ついでに背筋がポキポキ鳴って、思わず苦笑が漏れた。


 慣れないラブホのベッドで寝たからというより、単純に体力の問題だ。年齢には勝てない。


「だ、大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫よ。いつもよりちょっと酷いってだけだから」


 ふらつかないよう慎重に歩き出すと、すぐ後ろから小さな足音がついてきた。彼女はまだ酔いが抜けきっていないのか寝起きだからなのか、ほんの少しだけ足取りが頼りなかった。


 そうして歩いていると、背後からぼそぼそとした声が聞こえてきた。


「え……待って、わたし桜井さんに今まで自己紹介してなかった? あれだけ通ってたのに? 何してるのわたし……もうっ、バカ!」


「? 今呼んだ?」


「い、いえ! 呼んでません!」


 慌てて首を横に振るその仕草が、なんだか可笑しくて小さく笑ってしまった。どうやら独り言らしい。歳のせいで耳まで衰えてきたのかと思ったけれど……まぁ、気にするほどのことでもないだろう。


 そんなやりとりを交わしながら、二人でホテルを出る。朝の日差しが思いのほかまぶしい。派手なネオンの下をくぐり抜けて外に出ると、まるで現実に帰ってきたような気分になった。


 そうして通りを少し歩けば駅が見えてきた。けれど、到着して電光掲示板を見上げた瞬間――私は思わず顔をしかめた。


「ちょっと待ってよ……」


 無情にも表示された文字は「運転見合わせ継続中」。小さく「昼すぎに再開の見込み」とも書かれている。つまり、あと数時間はどこにも行けないってことだ。


 参った。ファミレスで粘るか、それともタクシーを捕まえるか……。この足の状態で立ちっぱなしは無理だし、かといって歩いて帰る気力もない。


 タクシー代を別途請求しようか、なんて考えが頭をよぎる。まぁ、筋肉痛の慰謝料って理由なら許される気もする。


 そんな算段を頭の中で繰り広げていると、不意に咲良さんが声を張った。


「あの!」


 その声があまりに真剣で、思わず背筋が伸びた。


「どうしたの?」


「その……わたしの家に来ますか? すぐそこなので!」


「すぐそこ……?」


 彼女が指差す方向を見て、思わず目を見開く。その先には、ガラス張りで高級感の漂う高層マンションがそびえ立っていた。


 ……まさか、あんなところに住んでいるのか。若いのに大したものだ。完全に勝ち組じゃないか。


「桜井さんの足腰、かなり疲れてそうですし……わたしの家にマッサージチェアとかあるので使ってください! それに、時間も潰せますから!」


 真剣な表情で差し伸べられたその言葉に、私は無意識のうちに足を見下ろした。


 ふくらはぎが重い。腰も痛い。正直、今ここで倒れ込めるなら倒れ込みたい。だからこそ、マッサージは受けたいと思っていた。こんな機会そうそうない。


 ……それに、マッサージチェア。


 その単語に、心の中の天秤があっさり傾いた。


「……じゃあ、お言葉に甘えようかしら」


 そう告げると、咲良さんの顔がぱっと明るくなった。


「ほ、本当ですか!? よかったぁ……! じゃあ、こっちです!」


 勢いよく前を歩き出す彼女の後ろ姿を見ながら、私は苦笑した。


 なんだか不思議だ。たった一晩のドタバタで、今までよりもずっと距離が近くなった気がする。


 彼女の背中を追いながら、私はゆっくりと歩き出す。


 筋肉痛は相変わらずだけど――その足取りは、少しだけ軽かった。

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