第5話 誓って何もしていない

 朝に目が覚めた瞬間、まず視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。


 「……ここどこ?」


 一瞬どこにいるのか分からず、頭が真っ白になる。けれど次の瞬間、昨夜の記憶が断片的に蘇ってきた。


 ――酔いつぶれた彼女を背負って、駅まで歩いて、電車が止まっていて……ホテルを探して……。


 そして、たどり着いた先がまさかのラブホ。


 あぁ……そうだった、と思い出した瞬間、顔から血の気が引いた。


 けれどそれ以上に今、私を支配しているのは――


「……いった……」


 筋肉痛だった。


 首から背中にかけて、じわじわと広がる鈍い痛み。さらに腰、太もも、ふくらはぎまで、全身が軋むように重い。完全に昨日のことが原因だった。


「あー……歳は取りたくない……」


 つい声が漏れる。


 二十代のころは、多少無茶しても翌日にはケロッとしていた。多少の筋肉痛や疲労感なんて、「あー頑張ったなー」って思える程度で済んだものだ。


 でも三十半ばにもなると、もう駄目だ。無理をした翌日には、ちゃんとツケがくる。痛いし重いしだるいしの三重苦だ。


 歩くのが仕事みたいな居酒屋店員でこんな目に遭っている。もし事務仕事で一日中座りっぱなしの生活とかだったら、起き上がるどころか救急車で搬送される羽目になってたかもしれない。


 ……いや、さすがにそれは大げさかもしれないけど。


 でも、少なくとも「ラブホで筋肉痛が原因で動けません」なんて状況を救急隊員に説明して助けてもらうのだけは絶対に嫌だ。新聞の片隅にでも書かれたら人生が終わる。


 私は布団の中で呻きながら、とりあえず痛む箇所を両手でさすってみた。揉むのは逆効果だってどこかで聞いたことがあるし、セルフケアくらいは一応心得ている。


 少しずつさすって、痛みが落ち着くのを待ちながら、ぼんやりと呼吸を整えていると――。


「……すぅ、すぅ……」


 寝息が聞こえた。


 そうだ、隣には彼女がいるんだった。昨日はすっかり頭がいっぱいで、今の今まで忘れていた。


 そっと視線を横に向けると、彼女はシーツに半分顔を埋めるようにして眠っていた。


「何も知らずに気持ちよさそうに寝てるわね……」


 昨日カウンターで酔っぱらいながら愚痴をこぼしていた姿とは、まるで別人みたいだ。髪は肩にかからないくらいの長さで、昨夜は整っていたけれど、今はところどころ寝癖ではねている。


 薄い唇がほんの少しだけ開いて、かすかな寝息がリズムを刻んでいる。まつげが長くて、肌は驚くほど綺麗。化粧が乱れているようにも見えない。


「もしかして、すっぴんだったりする?」


 てっきり会社員らしく、いつも完璧なメイクで出社してるタイプかと思っていたけど、地の顔が整っているのか。


「というか……改めて見ると普通に可愛いわよね、この子」


 ぽつりと独り言が漏れた。


 そしてふと、昨日のことが脳裏をよぎる。


 もし彼女がうちではなく別の店で飲み潰れていたら、酔った男性客に絡まれたり、最悪……危ない目に遭っていたかもしれない。


 考えるだけでゾッとした。


 「まぁ、結果的にうちで潰れてくれてよかった……かも?」


 代わりにこっちは筋肉痛とラブホ泊まりというおまけを背負わされたけど。


 そんなことを考えつつ、そろそろ起こした方がいいかなと身を乗り出す。布団の上から軽く肩を揺すろうと手を伸ばした、その瞬間――。


 彼女のまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。焦点の合わない瞳が、ぼんやりとこちらを見つめてくる。


「……」


 一秒、二秒――静かな時間が流れたあと、彼女は左右に視線を泳がせて――。

 次の瞬間、バネ仕掛けみたいに跳ね起きた。枕を両腕で抱きしめて、じりじりと後ずさる。


「さ、桜井……さん……!? ここって、え……ま、まさか……」


 その顔は一瞬で真っ赤に染まっていた。


 ……うん、これは完全に勘違いしてるわね。


 しかも抱きしめてるのが、よりにもよって両面YES枕。昨日私が部屋の隅に投げ飛ばしたやつじゃなかったっけ……と思ったけど、どうやら二つあったらしい。まぁラブホだし、あっても不思議じゃないか。


 でもお願いだから、その枕を必死に抱きしめないでほしい。なんか余計に誤解を招く。


「はいはい、説明するから大人しく聞いて。ね?」


 私は手をひらひらさせて、彼女の暴走しそうな想像をストップさせた。そして昨夜から今朝にかけての経緯を、一つ一つ順番に説明した。


 彼女が酔い潰れたこと。人身事故やらなんやらでホテルを探すも見間違い、ラブホに泊まるしかなかったこと。誓って何もしていないこと。……余計な話――枕を投げ飛ばしたとか、ガラス張りの風呂に驚いたとかは省いて。


 一通り話している最中、彼女はこくこくと頷いて聞いていた。


 安心したかな、と思ったのも束の間。彼女の表情が一瞬――ほんの一瞬だけ、残念そうに曇ったように見えた。


「……」


「……?」


 見間違いか? と思わず目をこすった。けれど、まばたきをして見直したときには、そこにはもう真面目な顔しかなかった。私の見間違いか、あるいはまだ寝起きで頭がぼんやりしてるだけかもしれない。


「ご迷惑をお掛けし、大変失礼いたしました」


 彼女はきっちりと背筋を伸ばし、所作や言葉も丁寧に、社会人らしい謝罪をした。


 ――が、それがベッドの上で土下座というのは、さすがに吹き出しそうになった。ラブホのベッドの上で、正座からの土下座。シーツがしわくちゃになって、妙にシュールな光景になっている。


(……いや、真剣に謝ってるんだから笑ったらダメ)


 私は必死で口元を押さえて笑いを堪えた。


 そう思っていると、彼女は顔をあげ、口角をかすかに揺らしていた。


 ――笑ったのか、困惑したのか、どっちともつかない表情。でも、それが不思議と可愛く見えて、私は思わず視線を逸らした。


(……ほんと、この子、表情豊かね)


 彼女が真面目すぎるのか、それとも場がふざけすぎてるのか。


 どちらにせよ、ラブホのベッドで笑いをこらえながら向かい合う朝というのは、どこか現実味が薄くて、妙に穏やかで――それでも、少しだけ胸の奥がくすぐったかった。

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