その夜、紅に沈む

小野村雛子

序章 明夜

 環貴かんきの森は深い闇に沈み、獣の気配は一切感じられない。最も、森に熊や鹿が息づいていた時代は、とっくに時の流れの彼方に捨て去られているのだが。この森に今巣くっているのはばかりである。


 厚く重なり合った巨木の枝葉に遮られて月の光はほんの僅かしか届かない。

 ――この森に人の手が入らなくなってから、もう何十年経つのだろう。

 下草が密に生い茂り、異様な生命力を感じさせる節くれ立った巨木ばかりが、夜空を突き破らんばかりに聳え立つ。その景色が、波のようにどこまでもどこまでも続くのだ。


 こういう森は寒い。燈子とうこは白い息を吐きながら、背中の筒を背負いなおす。燈子は夜目が利く。僅かな月光や匂い、身体に触れる草や木の感覚だけで障害物を認識する術も骨身に刻まれている。深い闇の中でも、もはや恐怖はなかった。


 風もなく、虫の声一つしない森の中では、人間の一挙手一投足が非常に目立つということを忘れてはならない。同時に、こちら側からしても相手の動きはわかりやすいものになる。


 燈子は口から鼻を覆い隠していた布を指で降ろし、小さく匂いを嗅ぐ。冷たい空気の中に、鉄と腐臭の混ざった悪臭がかすかに混ざっている。燈子は背中の筒をそっと腕の方にずらした。筒を覆っていた襤褸布を剥がし、筒身を縛っていた細い麻糸を嚙み切る。白い息が漏れ、燈子は筒を抱き込むようにしてしゃがんだ姿勢をさらに低くした。


 腰に回した革紐に括りつけられているのは様々だ。火打石やら痛み止めの丸薬やら、そういった細々したものが入っているぼろぼろの袋に、紅妖石こうようせきを納める袋、そしてよく磨かれた短刀が一本。荷物はそれほど持たない。その身一つと、武器さえあれば済む。そういう仕事だ。


 足袋を履いた足に伝わるのは、割れて散らばった瓦としっとりとした夜露の冷たさである。背中を預けている朽ちかけた柱は、さとの入り口を示す社だったものだ。無残に打ち壊され、かつて見事な朱色に塗られていたであろう剥げた塗装の痕跡が寒々しく映る。


 ここにもかつて、一つのさとがあった。郷があって、その中にむらがあり、多くの人々が暮らしていた。名前すら残っていない小さなむらは、やがて妖魔に飲み込まれ、そして森に飲まれた。まるで蠟燭の火が吹き消されるように、あっけなく絶えてしまったのだろう。


 ここだけではない。この広い帝国中に散在する森の多くに同じものがある。第三次異能大戦から七十年が過ぎる間に、幾つもの郷が飲み込まれ、すり潰され、妖魔の根城となって森に沈んだ。


 生臭い風がさらに強く吹いた。燈子の敏感な鼻は僅かな気流の変化も逃さない。抱きしめた筒をさらに強く握ると、筒芯の奥で紅妖石こうようせきが微かに赤く脈打つ。まるで内側に生き物を飼っているかのように、心臓の鼓動のように石は光を放つ。


 冷たく膿んだ森は、妖魔の一挙手一投足を目立たせる。

 そして、それはこちらも同じであるということを忘れてはならない。


「……来た」


 つぶやいた直後、闇の奥で何かが蠢いた。


「――ァア、亜嗚」


 獣とも、人ともつかない低い唸り声が響き、冷たい空気を振るわせた。さらに腐臭が強くなる。しかし燈子は毛一筋ほどの感情も現すことなく、身を隠していた柱から僅かに顔を出し、迫ってくる相手を睨む。


 闇に四点、浮かび上がった血のような赤い目が二対。妖魔だ。


 四つ足の巨大な体躯は、かつて帝国全土に分布していたという「狼」を思わせる。絵画でしか見たことのないその姿が、燈子の脳裏にぼんやりと浮かんだ。

 頭部は二つ。身体は獣だが、その首は二つとも人間のものだった。男か女か定かではないが、長く伸びた髪が垂れ下がっている。だらしなく開いた薄い唇からぽたぽたと垂れる涎が、地面に滴り落ちる。腐乱臭を漂わせながら、一つの首が頭をもたげて燈子を見た。


「嗚呼アアアァ! アアアアァ亜亜亜!」


 開いた唇が歪み、そこから溢れ出す耳をつんざく叫びが森を震わせる。獣の足が地面を蹴る。しなやかな筋肉が躍動し、跳躍する。

 瞬間、燈子は地面を蹴って柱から飛び出す。流れるような動作で筒の先端を妖魔に向け、人差し指に掛けた引き金を引いた。


 対妖魔戦半生体武器、夜火式刃筒よびしきじんとう火叢ほむら


 燈子の為だけに造られた、燈子のみが扱える武器である。

 火叢は、一見すると細身の古式火筒に過ぎない。漆黒の筒身は余計な装飾をそぎ落とした実用本位の造りで、月明かりを受けてもほとんど光を返さない。表面には細かな傷が走り、この武器を使い続けた年月の長さと過酷さを物語っていた。


 発砲音が木霊し、鋭い直線を描いて走った弾丸が妖魔の胴に命中する。深く肉にめり込んだ弾丸。ぽっかりと空いた穴から黒い血がほとばしり、もだえ苦しむ声が鼓膜を破り裂かんばかりに響く。それでも妖魔は倒れなかった。もう一度引き金を引こうと指に力を込めた刹那、背後に感じた気配に、燈子のうなじが総毛立つ。


(新手か――)


 二首の妖魔が燈子の被攻撃圏内に入るまで、あと数秒。それよりも、背後のそれの方が速い。瞬間でそれを察知し、燈子は筒口を背後から近づいてくるモノに向ける。がさがさと乱暴に下草を踏みにじる音がする。巨木の幹に身体を擦り付けながら走ってきた姿を目視し、燈子は唇を噛みしめた。


 ぶらぶらと力なく揺れる両腕と、捻じれた間接。腐り落ち爛れた顔に原型はない。ほとんど裸の身体に纏う襤褸切れは、かつてそれが人間だったということを証明している。

 屍人しびと

 それは妖魔とは違い、かつて人として生きていた過去を持つ。呼吸も心音も止まり、死んでいることには間違いない。彼らの動きに自らの意思が介入しているのかどうかは依然として不明である。こうして森を徘徊していることがほとんどだが、ごくたまに人里に現れることがある。それ自体に戦闘能力はないが、傷を付けられれば屍人と同じ体になってしまう。

 

 もとは人間だった、という事実が燈子を苦しめる。それでも殺さなければ、燈子が殺されるというだけの話だ。ほんの一瞬の逡巡が生死を分ける世界。燈子は引き金を引き、飛び出した弾丸が屍人の眉間を貫くのを見た。


 すぐに意識を妖魔に戻し、燈子は引き金をかちりと手前にずらした。

 連射は不可能、そして一度に込められる弾数は二発まで。それ以降は筒を冷やす必要があるため、いつでも好きなように撃てるわけではないのだ。


 引き金の操作一つで、火叢ほむらは姿を変える。

 筒身の側面が音もなく割れ、内側から薄く鋭い刃が展開する。刃は虫の翅を思わせる曲線を描きながらせり出し、殺意をあらわにする。刃は薄くも頑丈で、振るえば空気を裂く高い音を立てた。


 ちなみに刃をたたんだ状態でも、火叢は鈍器として成立する。

 重量配分は絶妙で、分銅の仕込まれた筒そのものを叩きつければ骨を砕き、意識を失わせることが可能だ。発砲、斬撃、殴打――どれを選ぶかは、使い手の判断一つ。


 燈子は展開した刃を水平に滑らせ、近づいてくる妖魔の目を切り裂く。目にもとまらぬ速さで梢を掴んで身体を持ち上げると、妖魔の背後に降り立つ。持ち手を下に向け、妖魔の関節に振り下ろすと、バキリという乾いた音と同時に骨が砕かれた。


 悲鳴が上がり、力なく地面に頽れた妖魔の胸に、刃を突き立てれば血しぶきが上がり、弱々しく空中を四つ足で掻く動作もやがてなくなる。人形のように地面に倒れ伏したその身体を見下ろして、燈子は小さく息を吐いた。


 仕事はまだ終わらない。

 本当に肝心な作業はここからだ。


 燈子は口元を布で覆い隠すと、しゃがみ込んで火筒をそっと草地に寝かせる。腰から短刀を抜くと、鈍く光る刃を妖魔の胸に突き立てた。胸を縦に裂き、さらに力を込めて肋骨を切断する。ごりごりという音が鈍く響き、妖魔の二つの頭がぐらぐらと揺れる。やがて強靭な肋骨が外れると、燈子はその奥に手を差し込んだ。


 初めて父の仕事の見取稽古について行った夜、溢れ出る血から昇る蒸気や、開かれた胸から溢れる腐臭に嘔吐した記憶は生々しい。今ではもう慣れたものだ。


 血泡の奥に、赤い光が見える。心臓の代わりに、まだゆっくりと脈打つそれは、紅妖石こうようせきと呼ばれる。揺れる炎に似たそれを、人々は火の石とも呼ぶ。


 異能が消え去った帝国で、生き残った人類に希望を見せるもの。まだ生き永らえても良いのだと、実感することの出来るもの。燈子は血濡れたそれを両手に持って、そっと布で拭う。腰の袋に納めると、赤く照らされた森の闇はやがて元に戻っていく。


 燈子は火叢を持ち上げて背負う。心臓たる石を無くし、灰のように黒ずみ崩れていく妖魔を見守って、燈子はそっとその場を後にする。


 郷に帰ったら、湯あみをして早く寝よう。

 明日は都に行かなければならないのだから。それを想うと憂鬱だったが、仕事は仕事なのだから仕方がない。



 闇夜に乗じて動き出す妖魔の命を絶ち、その生命の源となる石を刈り取る者たちがいる。帝国を支える無くてはならない存在だが、同時に妖魔の穢れに触れ、その血を浴びて身体を濡らす、命を懸けた仕事をこなす者たちでもある。


 素性を明かさず、人里離れた森の奥にひっそりと郷を構えて暮らす者たち。独特の武器と術を持って魔を刈る。


 火刈ほかりである。

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その夜、紅に沈む 小野村雛子 @hinako1223

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