第2話

 例の病気は、およそ二十歳ごろから発症者が現れ始め、二十五歳以降では発症確率が年に約一%程度になっていた。しかも、悪いことに、この病気と遺伝子組み込みの関連性が認められた後も、その処置が減ることはなかった。

「頭を使いすぎなければ大丈夫」「このサプリメントが効くらしい」といったさまざまな噂が生まれ、消えていった。それは、遺伝子組み込み以外にこの病気の発症と関連づけられる要因はないと医学界が発表しても同じことだった。

 さらに悪いことに、その遺伝子が組み込まれた親同士から生まれた子供は、受精卵の時点でその遺伝子を持っているのだった。「有害遺伝子修復」に政府は補助金を出し、さらには報奨金まで設定したが、それでもそれを行う親はまれだった。そのころには、学校のカリキュラムも子供の平均レベルに合わせて高度になっていて、また社会が労働者に要求する知能レベルもそうだった。


                * * *


 伐採のジェームズは搬出地の下の退避所にトラックを停め、エンジンを切った。

 かつては、死傷者ゼロを達成するため、林業の完全な機械化が実現したこともあった。しかし、機械は人間の柔軟性を欠き、伐採できる条件に限りがあり、また何よりもコストが高かった。安全性の優先度が下がるにつれて、伐採の仕事はだんだんと人間の手に戻っていった。

 ジェームズはARグラスの指示する速成モミの一本に向かい、作業に取りかかる。

 退避路を確認し、最初の切り込みを入れ、切り口を確認し、次の切り込みを入れる。どこにどう斧を打ち込むべきかはARグラスに映るとはいえ、経験が必要な作業だ。モミはARグラスの予想通りの方向に正確に倒れた。問題なし。後は集材ドローンがやってくれる。


                * * *


 最初に危機感を覚えたのは超富裕層だった。いくら富を蓄えても、自分が発症したり、また子供が成人後に発症したりしては意味がない。

 一部の男性は、多くの女性に子供を産ませる方向に走った。また一部は、いつ死んでも悔いのないように、快楽主義的な生活を送った。しかしそこには、また別の選択を取るものたちもいた。

 その当時の生命科学は、例の病気の治療法をすぐに編み出せるほどではなかったが、クローン技術や成長加速技術は十分に成熟していた。それに目をつけた富裕層は、自分のクローンを作り、同じ年齢まで成長させたうえで、自分の知識を教え込み、いつでも代替可能なようにした。そうしておけば、その後自分が例の病気を発症しても、「自分」を維持できる、と考えたのだ。


                * * *


 午前の仕事は順調に終わった。昼食を取りながら、伐採のジェームズはチャットを確認する。オフィスのジェームズから事務的な結果報告があった。伐採のジェームズはそれを頭に入れておく。その分だけ夜のブリーフィングが楽になるからだ。

 自分同士のチャットを楽しむ人もいる。自分がこれまでに経験したどんなことでも伝わるのだから、それ以上いい話し相手はいない。そう考える人は多い。しかし、ジェームズはそうではなかった。自分との会話なら頭の中でやればいいじゃないか、と考えるタイプだった。

 そして昼休みが終わり、午後の作業に入る。午後の作業は改良カエデのエリアだ。指示された木を見つけたジェームズは、退避ルートを確認し、いつものように斧で最初の切り込みを入れた。


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 クローンのバックアップを作るという超富裕層の計画は順調とは言えなかった。一般常識などの基本的な教育はアウトソースできた。だが、個人が持つ経験や知識は、自分で教える必要があった。それは、口頭で伝えるにはあまりにも膨大だった。本人が例の病気で死に、クローンが後を継いだときに、周囲の人間にそのことを気づかれないようにするのはひと苦労だった。

 そこで、全世界の超富裕層たちは、彼らの資産を惜しみなく投入して、脳そのもののコピー技術の研究を進めさせた。そして、数多くの技術的な困難を乗り越えて開発されたのが、脳同期技術だった。

 脳の同期にあたっては、本人とクローンはどちらも手術を受け、皮質内ナノラティスを注入される。本人側のナノラティスから脳のシナプスが読み取られ、その情報は装着したヘッドギアに伝えられる。そして、クローン側のヘッドギアからナノラティスに指示が伝えられ、それに従ってシナプスが構成される。

 欠点は時間だった。人間の脳の持つ情報は膨大で、伝送速度向上の努力にもかかわらず、どうしても三か月ほどの時間がかかってしまうのだった。


                * * *


 木の幹の、ARグラスが示す位置に最後の切り込みを入れる。

 ここでふと、ジェームズは次の子供の予定について考える。うちもそろそろ、三人目を考えてもいいんじゃないだろうか。ローラに相談してみよう。


 突然、幹の裂ける乾いた音が響く。それと同時に、ARグラスがけたたましい音を立てた。ジェームズは我に返る。グラスには、大きな赤い字の警告メッセージと、ジェームズに向かって倒れる木の予測軌道と退避ルートが映っている。

 まずい。ジェームズは退避ルートに向かって走ろうとした。しかし、その余裕はなかった。幹が裂け上がり、中間で折れた上部が彼に襲いかかる。体をずらすのが精一杯だった。

 彼が避けきれないと判断したARグラスからの信号で、右脚に即効性の鎮痛薬が注入される。その一瞬後、彼の右脚は倒れてきた木と地面の間に挟まれた。

 痛みはない。しかし、潰れた右脚は見るに耐えない様相を呈していた。止血バンドが自動で締まる。

 辺りに鳴り響くアラート。ジェームズは目を閉じる。この体はもうだめだろうな。遠くから救護班が向かってくるのを、ジェームズはぼんやりと眺めていた。


 伐採のジェームズの体に取り付けられたセンサーから、オフィスのジェームズに自動的にメッセージが送られた。右脚に強い衝撃。

 オフィスのジェームズはそれを見て、伐採のほうの体に深刻なダメージがあったことを悟る。少しぐらいの傷では、そのようなメッセージは送られてこない。ジェームズは、五年前の事故のことを思い出す。跳ねた枝に右目を傷つけられ、視力回復の見込みがないということで体を交換したのだ。あのときは、下のベンは一歳で、物心がついていなかった。彼がショックを受けないように気をつけないとな。ジェームズはローラにメッセージを送る。「伐採で右脚をやられたらしい。ベンのサポートをお願い」

 その後、救護班からレポートが来た。「右脚切断。経過は良好です。新しい体が申請可能です」


                * * *


 欠点はあったが、超富裕層たちはそれでもクローンへのシナプス同期を行うようになった。言葉による不完全な伝達よりは、はるかにましだった。

 初期のうちは、クローンはバックアップとして、こっそりと寝室で待機していた。しかし、本体と同じ記憶を持つようになったそれをただ休ませておくのはもったいないと思う者も出てきた。

 最初は短時間の代役から始まった。だが、それがうまくいくとわかると、次第により重要な役目を代わりにやらせるようになった。その間本体は好きなだけ遊んだり休んだりできるのだから、その誘惑は強かった。クローンにやらせた分の仕事については、後から報告を受ければそれで済むという考えだった。


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 右脚切断とその後の処置を受けたジェームズは病院のベッドに横になっていた。

 電話は無事だった。不幸中の幸いだなと思いつつ、家族チャットルームにメッセージを送る。

「やっちまった。右脚切断だ」

 即座に、「間抜け」というメッセージと、そのすぐ後に、舌を出した鳥が左右に激しく動きながら嘲笑しているスタンプが送られてきた。

 ソフィアだ。まったくこいつは。五年前、片目を失って帰ったのを見て泣いていたのとは大違いだ。成長というのは往々にして純粋さを失わせるものだ。

「手順通りにやったんだ。後から知らされたんだが、今日担当したエリアの木は熱波の影響で乾燥していたんだとか」

 別のことを考えていて退避が遅れたことは言わなかった。どちらにしても、間に合っていたかはわからない。

「帰ってこれるの?」

「ああ、医者によると、六時には帰れるそうだ。ベンのことをよろしく」

 やる気のなさそうなパンダが「了解」というプラカードを持ったスタンプが送られてきた。


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 ある日、テレビ番組で、出演しているセレブリティーの一人がクローンであることが露見した。彼女の手の小さな火傷痕がないことに気づいた目敏い視聴者がいたのだ。あっという間に比較画像がソーシャルメディアにあふれ、彼女はクローン使用を公の場で認めることを余儀なくされた。

 超富裕層だけに許された、例の病気への対策。その存在を知った大衆の怒りは大きかった。脳同期技術のニュースは伝えられていたが、それがこのように使われているということは、超富裕層の狭いサークル内での秘密だったのだ。

 お金のあるものから順に、この技術を利用し始めた。誰もが、例の病気によって「自分」がこの世界から失われることを恐れていた。

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