第3話 また日は登る

 祥太郎が松坂詩織と出会ったのは五年前の事である。その日は雲一つない晴天であり、心地よい風の吹いているような、春らしい陽気の日であった。


 病院内のエントランスにスタッフが全員集められている。


「朝礼を始める」


 齢五十は過ぎているであろう男性が前に出て話し始める。彼はこの病院の院長の山下純一(やました じゅんいち)である。


「今日から一緒に働く、研修医と看護師たちだ。一人ずつ自己紹介していってくれ。」


 一人ずつ自己紹介をしていく。皆、希望にあふれているような顔をしている。その中で一人、自信が無いような、緊張しているように見える女性が一歩前に出る。その女性は綺麗な黒髪をしており、顔もかわいらしく、皆の注目を浴びていた。


「ま、松坂詩織です。早く戦力になれるように頑張ります。よろしくお願いします・・・」


 松坂と名乗った女性はすぐに後ろの列に戻っていった。


朝礼も終わり、新しいスタッフを交えて、それぞれの科でのミーティングが始まった。小児科のミーティングに松坂の姿もあった。小児科の新人は看護師の松坂だけだった。ミーティングでの松坂は先ほどの自己紹介とは違い、ハキハキ喋り、活発な女性という感じだった。


 祥太郎と松坂が初めて話したのはミーティングが終わったすぐ後の事だった。松坂は祥太郎のサポートに入ることになった。


「松坂です。よろしくお願いしますっ!」


 勢いよく頭を下げる、まとめられていた綺麗な長い髪がほどける。慌ててまとめなおして顔を上げる。


「宮本祥太郎です。あんまり頑張りすぎると疲れるんでほどほどにしましょう」


「はぁ、そうですか」


 少し困惑したような表情をする松坂。周りの看護師連中はヒソヒソと「だいじょうぶなのかしら」「新人なのにあのちゃらんぽらんに付けられるなんてかわいそう」だの好き放題言っている。


 祥太郎がだらしないのは周知の事実だが、祥太郎は祥太郎で、後輩ができるのは初めてなので、どう対応したらいいのか分からないのである。


 そんな状況で数か月が経ち、分かったことは松坂はとても優秀であるということだった。一度教えれば覚えるし、ミスも少ない。医療の現場というのは一つのミスが命にかかわることも少なくない。そのため、ミスが少ないというのはとても良い事である。祥太郎の松坂に対する評価は、優秀、真面目、そして頭が固いである。逆に、松坂の祥太郎の評価は最低限はするがそれ以上はしないし、ふざけていてだらしがない。そんな評価だったのでよく二人はぶつかっていた。


「宮本先生。この書類今日のお昼までですよね?なんでまだ出てないんですか」


「わるい、忘れてた」


「宮本先生、お昼二分遅刻です」


「んな細かい事ばっか気にしてたら疲れるぞ」


 毎日のように言い合いをしていた。言い合いというには松坂が一方的にキレているだけなのだが、どちらが先輩なのか分からない。先輩看護師にいくら言ってもダメだから諦めなさいといつも言われている。だが、真面目な性格の松坂には耐えられないのである。


 そして半年もすればだんだん祥太郎のことが分かってくるのである。普段はだらし無いが、ここぞという時の祥太郎はしっかりしていることに気が付く。診察でのミスが無い。祥太郎を前に泣きわめく子供もすくない。他の医師と比べて仕事がやりやすい事が分かった。なぜやりやすいのかはその時は全く分からなかったが・・・


 冬、事件が起きる。

松坂の担当していた子供が亡くなったのだ。誰が悪いわけでもない、人が亡くなるのを初めてみるわけでもないが、人の命を預かる重圧、ストレス、真面目がゆえにため込んでしまっていたのである。


 松坂は当直室で動けずにいた。夜中で、幸いナースコールも鳴ってはいない。松坂は考え続ける。自分は命を預かるには未熟すぎるのではないか、実際一年目として優秀ではあるがまだまだ未熟である。そんな自分が仕事を続けられるのだろうか。気が付くと涙が出ていた。バタンッ、急に当直室のドアが開く。急いで涙を自分の袖で拭く。顔を上げるとそこには祥太郎が居た。


「宮本先生、今日は当直の日じゃないのでは?」


「あ、まぁ、そうだな」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長い無言の時間が流れる。


「まぁ、あれだ、気が向いたからたまには残業でもしようかなと」


「宮本先生がですか?」


 顔は見ていないがきっと怪訝な顔をしているのだろう。顔を見ることもなく、さらに無言の時間が流れる。祥太郎はこんなんだが面倒見がいいので、松坂をフォローしに来たのだが、不器用すぎて言葉もかけられなかった。


 重い空気が流れる中、俯きながら松坂が口を開いた。


「宮本先生はこの仕事辞めたくなったことはありますか?」


「何回もあるよ」


「それはどんな時ですか?」


「今日みたいに患者が亡くなったりしたときはやめようと思ったりするな」


「なんで辞めないんですか」


「医者以外の生き方を知らないからかな。辞めたところで何ができるか分からない」


「そうですか」


「松坂さんはやめたくなったのか?」


「わかりません」


「そうか。じゃあどうしてこの仕事をしようと思ったんだ?」


「母親が看護師で憧れていたんです。毎日遅くまで働いてあんまり家には居なかったですが、たまに家に感謝の手紙が届くんです。それですごいなぁって、私も母みたいになりたいと思ったんです」


「立派な理由じゃないか」


「母も、こんな気持ちだったんでしょうか」


松坂の母親がどんな気持ちだったのかは祥太郎には分からない


「宮本先生はどうやって乗り越えましたか」


「いまだに乗り越えることなんて出来てないよ。今でも亡くなった人の名前と顔は鮮明に思い出せる」


「乗り越えることは出来ないのですね」


「初めて人の死を見たとき、俺は家に帰って何回も吐いた。力不足を嘆いて泣きじゃくったよ。そして次の日院長のところに辞めますって言いに行ったんだよ」


「言いに行ったんですか」


「そう、そしたら院長にぶん殴られた」


「えっ」


 俯いていた松坂が目を丸くしながらこっちを見ていた。今の時代、職場で暴力を受けることはほぼないだろう。


「まぁ、院長とは昔からの知り合いだったからね。それはいいんだ。そしたら院長は何のために十数年努力したんだ?って聞いてきたんだ。ほとんど松坂さんと理由は同じだけど、父親を尊敬していたから耐えていたことを思い出して、もう一度だけ頑張ってみますって答えたよ」


「難しいかもしれないが、救ったいいのちのことも思い出してあげなさい、あなただから救えた命もあったはずだよって言われたよ。あのハゲもなかなかいいこというだろ?」


「そうですね、良い話なんですが宮本先生が殴られた話が強烈すぎて全然入ってきませんでした…」


「なっ…」


 良い事言えたと思ったのに、殴られた話はしない方がよかったなと思いつつ、松坂の顔が少し明るくなったのを見て、まぁこれでもいいかと祥太郎は少し安堵したのだった。


「あれ、すごい痛かった」


「そうでしょうね、院長先生ムキムキですからね」


「まぁ、あれだ。俺もまだまだだけど少しずつ前を向いているんだ。松坂さんもちょっとずつできることを増やしていけばお母さんみたいな看護師になれるんじゃないかな」


「そうですね。まだ受け止めきれませんがもう少しだけ頑張ってみようと思います」


「おう。あとはがんばりすぎるところがあるから少し抜くとこは抜いていった方がいいぞー」


「宮本先生は抜きすぎです。反省してください」


 怒られてしまった。先輩面しに来たのに逆に後輩にしかられるとは…


「ふふっ、ふふふ」


「何がおかしいんだよ」


「あまりにも先生がしょんぼりするのでつい」


 まぁ、笑ってくれたので今日はこれで良しとするか。


「あ、あれだ、今日は当直代わってやるから今日は帰れな」


「もう終電がありません」


 しまった。あまりにも自分が話しかけるのが遅すぎてとっくに電車がなくなってしまっていた。こうなったら仕方ない…


「これ使ってタクシーで帰れ」


 震える手で一万円札を差し出す。さらば明日のパチンコ代。


「手、震えてますよ」


「気にするな」


「宮本先生、明日休みですよね」


「休みだが」


「私、当直明け休みなので、朝ごはん食べに行きませんか?」


「まぁ、いいけど」


「先生、今のうちに仕事を終わらせますよ!」


「仕方ねぇな。ちょっと本気出しますかね」


「毎日出してくださいよ」


 かわいい後輩に小言を言われながら、夜は更けていく。


「先生…」


「なんだ?」


「松坂って呼ぶの、距離を感じて嫌なので、下の名前で呼んでくれませんか?」


 突然の提案だった。


「まぁ、詩織っていい名前だし、松坂さんがそれでいいなら…」


「はい」


・・・・・・・


「早く呼んでみてくださいよ」


 ぐいぐい来るな。


「し、詩織ちゃん」


 あんまり異性を下の名前で呼ぶことが無いので少し照れてしまう。


「はい。よくできました」


 なぜか上から褒められたが、仲良くなれた気がするのでこれでいいのだろう。


 病院にまた日は登る。


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ダメドクター、明日から本気出すかも 五十嵐 @igarashirai

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