第31話 「堀裏に待つ灯」
朝の白樺亭は、湯気が窓の曇りを押し広げていた。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を置く。粥は薄く、香草は少なめ。喉がすっと通る。
「昨夜は堰守詰所まで走り通しだったねえ。ほら、熱いの。猫さんは塩抜き」
「いただきます」
「のむ」クロは椅子にきちんと座り、湯気を見てこくり。前歯でパンをちぎると、鼻先に米粒を一つくっつけた。指で取ってやると、尻尾がむぎゅっと立つ。
粥を半分ほどで切り上げる。今日は重くしない。堀裏での張り込みは長くなる。
角の果物屋でフィオナから果実水を一本、海塩なしをクロ用にもう一本。瓶を鼻に寄せたクロが「すっぱい、すこし」と呟き、舌で一滴だけ掬う。目を細めた。
ギルド。ミレイユに蝋板の写しを渡すと、彼女はすぐ関所宛の封筒を二通用意した。
「セルジオに一本、堰守詰所のナディアに一本。刻は昼過ぎに“夜二・三・五”の線で共有する。——アキラ、脇の傷は?」
「浅い。セレナに貼り替えてもらいます」
「行っておいで。戻ったら地図室で堀裏の図を合わせよう」
医務室。セレナは手を洗い、包帯を外した。冷たい薬液の匂い。
「きれい。今日は貼り替えのみ。走らなければ開かない。猫さんは水を少しずつ」
「のむ」クロはまじめな顔で復唱し、セレナに撫でられて喉を鳴らした。
「……かわいい」
地図室では、ベンノが堀の図面の上に小石を三つ置いていた。舟溜まりからの流路、板橋、見張りの視界の死角。
「堀裏は二筋。曲がり角の影に一、葦場の内に一。衛兵はランベルトが四名。俺たちは屋根と板橋と裏戸で三点。合図は二度まで。深追いしない」
「了解」
昼までの時間、荷置き場で短い稽古を挟む。唐突な“修行”ではなく、張り込み前の点検の一環だ。
ハーゲンが槍の石突で床を軽く叩く。「足の置き方を二つ。板の縁と、砂利の縁。——板の縁は踏まない。縁をまたいで置く。砂利の縁は沈む。沈む分だけ軽く置いて離れる」
彼は言葉より先にやって見せる。音が静かだ。
真似る。板の縁をまたぐと、靴底に響く硬さが一瞬で消えて、体重が音へ落ちない。砂利は小石が逃げる方向へ軽く足を滑らせると、沈んだ分だけ戻りが柔らかい。
「もう一つ。投石は肩だけで投げるな。足から順に。浅く踏んで、腰を待たせて、最後に手」
石を渡される。クロが興味津々で近づいて、前足で石をちょいちょい。
「クロ、その石は——」「ころがす」
ころり、と石がひとつ、板の目地で止まった。
ハーゲンが笑う。「いい目だ。——アキラ、石を風で“押し足す”のは最後。先に石を“正しく投げる”。風は微調整だ」
三投。石は板目の向こう、藁束の手前に良い角度で落ちる。最後の一投だけ、指先で風をさわり、石の背中を一寸押した。藁束の端にかすり、ふっと音が変わる。
クロがぱちぱち、と前足で床を叩く。「すごい」
「ありがとう」
準備は整った。堀裏へ向かう前、鍛冶通りでフーゴに寄る。
「鞘の口、昨夜の水気は抜けたか」
「抜けた。布を一枚足してある。——それと、投石袋。布は柔らかめ。石が暴れにくい」
「助かります」
フーゴはいつもの調子で、言葉を短く切った。「結びは外へ」
午後、空の色がじわじわと薄く冷える。堀裏の土手に出ると、草の匂いに水の金属臭が混じった。
ランベルトが衛兵四名を二手に割り、短槍を低く構えさせる。
「合図は短く。騒ぎは広げない。押収を優先」
「了解」
サビーネは屋根へ。ベンノは裏戸。俺とクロは板橋の影へ入る。風は弱い。甘さの匂いはない。今夜は“黒◦×二”のはずだ。灯が二本、どこかで立つ。
待つ間、クロは板橋の脇の丸太に頬を押しつけた。「ひやい」
「冷たい?」
「すき」頬をひやして気持ちよさそうだ。前足で板をとんとん、小さくリズムを取る。
尻尾の先に、ぱち、と乾いた静電の音がした。
クロが自分でも驚いて尻尾を見つめる。「いま、なった」
「乾いてるからだよ。——いい合図になるかもな」
尻尾を立てたまま、クロは得意げだ。
刻が落ちる。
最初の“黒◦”は、板橋の向こうで立った。灯の覆いが黒く、芯が赤い。火を育てる音。
あえてすぐ消さない。甘さの線が引かれる前に、周りの空気だけ上へ抜く。匂いは散り、馬が鼻を上げる余地ができる。
灯の脇に二人。荷車の影がひとつ。弩は見えない。投げ棒が一本。
サビーネが屋根の縁で、矢を軽く鳴らした。ことり。
俺は指先で“風”を狭く絞り、覆いの吸いを逆へ押し返す。芯が細る。
「いま」
覆いが揺れた瞬間、クロが脚に飛びついて柱を一周。重心がずれて、俺の指が覆いの縁にかかる。
——じゅ。火が落ちた。
「誰だ!」
声と同時に投げ棒が飛んだ。板橋の梁に当たり、木目がはじける。
足を踏み込まず、棒で投げ棒の返りを払い落とし、板の上に転がして遠ざける。
ランベルトの衛兵が短く笛を鳴らす。二短。
燻る匂いだけが残って、黒い覆いはただのガラスに戻った。
荷車の男たちは顔を見合わせ、片方が逃げの体勢へ体を割る。そこでサビーネの矢が梶棒の先を板へ縫い止める。木が悲鳴をあげ、男の手から棒が離れた。
「押収だ」
声が落ちる。抵抗は長く続かなかった。
白い束と粉袋は布へ、蝋板は台座の裏。
《堀裏/夜二・五/狐印》
“二”は今。もう一本は“五”。まだ先がある。
押収の印を打ち、兵に荷を渡す。
ランベルトが短く頷き、二人を引いていく。
「次の“黒◦”まで間がある。水を一口。位置はそのまま」
口を湿らせ、指先の冷えが戻るのを待つ。
クロは板橋の影で丸くなり、尻尾を鼻先に寄せてくつ、と小さく鳴いた。「ちいさいねむい」
「少しだけ」額を撫でると、目を細めて喉を鳴らす。尻尾の先が、またぱちと小さく弾けた。
堀の闇が濃くなる。
“夜五”——二度目の“黒◦”は、板橋から見て斜め上、倉庫の裏戸脇で立った。覆いが小さく、灯の足は金具が緩い。倒しやすい。
覆いの前に、さっきとは違う匂いの男が立っていた。皮手袋の指先に、灰の印。〈灰指〉の一段上だ。視線の硬さが違う。
彼は灯に火を入れてから、周囲を一巡し、裏戸へ消える。袋の擦れる音。
合図を待つ間、倉庫の内で金具の擦れる小さな音が続いた。裏木戸の閂を外した音ではない。棚の足か、床板か——隠しの仕掛けを開けている。
サビーネが屋根の縁で弦を鳴らし、ことり。
俺は“風”を絞る。覆いの吸いが弱まり、火が揺れる。
——その瞬間、倉庫の内から別の音。弦の甘い震え。
弩だ。
矢の走る筋を、風が触る。わずかに脇へ撫で、板の柱にどすと刺さった。
暗がりの裏戸に、もう一つの影。
「二人」
ベンノが裏手で声を落とす。
サビーネの矢が返す。屋根の鼻先で火花が散り、覆いの縁がかんと鳴る。灯の芯が細り、黒が広がっていく。
倉庫の裏戸が開いた。
灰指の男が外へ出る。手には短槍に似た道具——先に”筒”がつき、導火線が細く垂れている。粉を吐く道具だ。
足が自然に前へ出る。走らない範囲で、間合いを詰める。
男の視線がこちらを切り、筒の口が板橋の影へ向いた。
導火線に火花。
クロが立ち上がり、尻尾をぴんと伸ばす。ぱち、と乾いた音。ほんの小さな火花が尻尾の先で弾け、導火線の火が一瞬揺れた。
「いまだ」
棒の先で筒の口をかすり上げる。火は空へ逃げ、粉の煙は上に散った。視界を奪わない。
男の手の内が崩れる。俺は手首を取らず、袖をひねって肩を壁へ押し付けた。骨に響かない角度。刃は出ない。
倉庫の中の二人目が弩を引き直す——その弦に、サビーネの矢が触れ、音だけで弦が戻った。弩は鳴かず、影は息をのむ。
黒い覆いはすでに冷えている。
灯は落ちた。
残るは、荷と、蝋板と、口の固さ。
ランベルトの短い笛が土手に響く。近い。
俺は灰指の男の肩から手を離し、視線だけで言った。
「ここで終わりにしよう」
男の目はまだ強かったが、顎が一つ落ちた。
押収、封印、引き渡し。
蝋板は二枚。
《堀裏/夜五/終》
《黒◦/次は市外》
最後の一枚は雑だが、要は街から出るつもりということだ。
ランベルトが蝋板を受け取り、歯の隙間から短く息を吐く。
「城壁の外は騎士団の線だ。夜明けに繋ぐ。君らはギルドで写しと報告、それから休め」
堀裏を離れる前、板橋の影でクロがあくびを一つ。
「おわり?」
「今夜は終わり」
額を撫でると、目を細めて喉を鳴らす。尻尾の先が、また小さくぱち、と弾けた。
「それ、あとでセレナに見てもらおう」
「ぴか、した」クロはどや顔だ。
街へ戻る道の途中、白い粉の線はなかった。甘さの匂いも薄い。
黒灯は二本とも消えた。
鈴は鳴らない。足は揃っている。
今夜の終いとして、それは十分だった。
◇
堀裏からギルドへ戻る道は、人通りが薄く、石畳に夜風の匂いが残っていた。クロは歩幅を合わせて右側を歩く。ときどき前足で俺の脛をとん、と触り、「いるよ」の合図をくれる。尻尾の先はさっきの火花の名残りか、毛が少しだけ逆立っていた。
扉を押すと、受付のミレイユが顔を上げた。読んでいた帳面をぱたんと閉じ、卓上の砂時計を逆さにする。
「おかえり。間に合った?」
「二本とも落としました。押収は衛兵へ。蝋板は写しあり」
「よし。写しをここへ」
サビーネが蝋板を渡し、俺は経路と人数、使われた道具の種類を短く並べる。粉を吐く筒、板橋側の影、弩の数。ミレイユは手を止めず、要点を拾って書き、最後に丸印を二つ打った。
「関所のセルジオにも同文で回す。堰守詰所には『外に流れる』という一行を足しておくね。川沿いは明朝、組合が見回るはず」
「助かります」
奥からセレナが現れて、俺の脇を指で示した。「見せて」
包帯を外すと、浅い擦りが一本。消毒は軽くで済んだ。セレナはほっと息を吐き、すぐクロへ視線を移す。
「尻尾、見せてくれる?」
クロは素直に座り、尻尾の先を彼女の手のひらへ。白い布の上で、毛先がぴり、と揺れた。微かな火花。セレナは目を丸くし、それから笑った。
「……きれいね。けど、人や自分に当てないように。乾いた夜は出やすい。革帯に小さな金具を付けて、放電を逃すといい」
「作れますか?」
「鍛冶通りのフーゴならすぐよ。金属は黄銅が柔らかくて安全。鎖は短く。猫さんの毛に引っかからないように薄布でくるむの」
「くるむ……」クロは自分の尻尾を見下ろして、真剣にうなずいた。「おしゃれ?」
「そう、おしゃれ。安全なおしゃれ」
消毒が終わると、セレナは小瓶を一つ渡した。
「喉は問題なし。粉の匂いを吸い込みたくない場面では、これを布に一滴。柑橘の匂いで鼻が落ち着く。——今夜は温かいものを飲んで、寝る前に水を一口だけ」
「了解」
報告の残りを済ませる間、クロは受付カウンターの影で腰を落ち着け、前足を重ねて番人みたいな顔をしていた。背筋がぴんと伸び、鈴は鳴らない。待っている間も静かにできるのが、この相棒の良さだと改めて思う。
帳面へ最後の一行を書き終えると、ミレイユは封筒を二通出した。
「セルジオ宛は夜番の兵へ渡してある。もう一通は堰守詰所へ。今夜は届け面子が足りないから、明朝の伝令に乗せるね。……ああ、それと」
彼女はもう一枚、薄紙を取り出した。「騎士団から回覧。“狐印の倉庫筋、明朝、城外で見張り強化。ギルドは補助二名まで随行可”。もし動けるなら、名前を入れる?」
「入れます。俺とサビーネで」
隣でサビーネが頷く。「弓が要る」
「登録しておく。集合は東外門、刻一」
ギルドを出ると、白樺亭の灯が見えた。夜は深いが、湯気の匂いはまだ残っている。扉を開けると、マルタが帳場から手を振った。
「遅かったね。薄粥、まだあるよ。猫さんのは塩抜き」
「お願いします」
小さなテーブルに座ると、リナが木椀を二つ置いた。クロの前には、割れ目の浅い器。彼は器の縁に鼻をかすめ、「いいにおい」と小さく言って舌で掬った。ひと口めのあと、必ず俺の顔を見る。うまい、という顔だ。
「うまい?」
「うまい」
テーブルの影で前足がくにゃ、と少し伸び、満足のしるしに尻尾がふんわり揺れた。火花は出ない。室内は湿りがある。
食べ終えると、マルタが包みを一つ渡してくれた。
「干し果皮。明日、外へ出るんだろう? 喉の友達さ」
「助かります」
「うちのお客なんだから、無事で帰っておいで」
その言葉は、頭より先に胸へ入った。大きくうなずく。クロも同じ動きでうなずいて、マルタに笑われた。
部屋へ戻り、道具を拭いた。棒の革キャップは乾いた。鞘の口に泥はない。投石袋に小粒を十。布を一枚、手前へ。
クロは寝床の布を前足でこねてから、くるりと丸くなった。鼻先に尻尾を寄せ、小さくふむふむ踏む。落ち着くと、黒い点のある左前足を俺の手首にそっと置いた。「ねる?」
「寝よう。明日は早い」
灯りを落とす前、窓を指一本だけ開ける。夜気がひやりと入ってきて、思わず肩がすくんだ。堀の方で笛が一度。交代の合図だろう。目を閉じると、暗闇がすっと輪郭を消していった。
——夜明け前、鳥の声で目が覚めた。短い睡眠でも、体は軽い。
白樺亭の台所はもう温かい。粥を急ぎで流し込み、クロの皿を空にして、外へ出る。空気は頼りなく冷たい。東外門へ向かう道で、鍛冶通りに寄り道した。
フーゴの店の火は低く、炉口に赤が覗くだけ。扉を叩くと、フーゴが革前掛けのまま出てきた。
「早いな」
「尻尾の金具をお願いできますか。放電の逃し用に」
「聞いている。セレナから使いが来た。もう作っておいた」
出てきたのは、小さな黄銅の輪に短い鎖と、薄い布で巻ける座。鎖の先は指の爪ほどの板金。軽い。
「布で巻いて尻尾の付け根側に。金具は下に。動くときに床へ触れる位置がいい。走る時、絡まない長さだ。試すか」
「お願いします」
クロを台の上に乗せる。彼は緊張すると耳がぴこぴこ動くのだが、今日は大人しく座っている。フーゴは手際よく布を巻き、輪を留めた。
「痛くないか」
「だいじょうぶ」クロは尻尾を一度だけ振って、座り直した。違和感はないらしい。
「よく似合う」フーゴは真顔で言った。「安全第一の飾りは、いい飾りだ」
「ありがとう」
「返すなよ。使い倒せ」
店を出るとき、いつもの合図は飲み込んだ。今朝はそれより、礼だけでいい気がした。
東外門は、騎士団の旗で色が増していた。青と銀。半鎧に外套の騎士が十人。槍と楯が朝日に細く光る。
指揮を執るのは、灰色の目をした女性騎士——ケストナー副長と名乗った。無駄のない目線だ。
「ギルド補助、二。名は」
「サビーネ、弓。アキラ、補助。猫はクロ。匂い取りと注意喚起ができます」
副長はクロを見下ろし、小さく頷いた。「吠えないのがいい。——作戦は単純だ。『狐印』筋から出る荷を城外で一度止める。灯の代わりに旗を使う。偽装の積み換えを確認したい。騒ぎは抑える。刃は最後」
旗の説明は短かった。青旗が注意、白旗が止まれ、赤旗は回収。昨夜までの“鈴”と同じで、音が色に変わっただけだ。
列は二手に分かれ、俺たちは前衛の影へ付く。サビーネは斜め後ろ、弓の視界が切れない位置。クロは俺の左で歩く。
門を抜けると、堀の外の風は少し強く、草の穂が一方向へ倒れていた。鼻に抜ける冷たさ。クロの黄銅の飾りが、歩くたびに小さく触れ、ちり、と乾いた音を出す。
城壁の影が切れると、土路に朝日が落ちる。人影の少ない時間帯だ。三つ先の曲がり角まで見通せる。
そこに、一台。荷車。梶棒を長く、帆布は薄い。御者が一人、後ろに二人。馬は二頭。鼻は上がっている。甘粉は使っていないようだ。
ケストナー副長が青旗を一度ゆっくり振る。歩度は保つ合図。隊列は広がらない。
荷車は俺たちの列を見て、ほんの少し速度を落とした。後ろの二人の視線が分かれる。左の男は脇の茂み、右の男は手前の小川。逃げ場の確認だ。
白旗が上がる。止まれ。
御者が梶棒を引く。対応は遅くない。
副長が前へ出る。「倉庫印を見せろ」
御者は眉を動かし、帆布の端を持ち上げた。袋が三段。印は——ない。
右の男が小声で何か言い、左の男が額の汗を拭った。どちらも、緊張のやり方を知っている。
副長が顎で合図すると、騎士の一人が車輪の脇に回り、槍の石突でそっと土を突いた。空洞の音が返る。車台の下に仕込みがある。
「アキラ」
「はい」
車台の下に身を落とし、棒で床板の継ぎ目を探る。二枚目の板だけ、釘の位置が違う。指で軽くこつ、と叩くと、内側で粉がわずかに落ちた音がした。
「ここです」
副長は短く頷く。「板を上げる」
釘抜きを使うのかと思った瞬間、彼女は手袋の指先で板を押し、逆手で軽く持ち上げた。見事な力の入れ方だった。板の下に、薄い箱。蝋で封じられた蓋。狐の印。
周囲の空気が少しだけざわつく。緊張ではなく、仕事が正しく進むときの空気。
赤旗が上がった。回収。
御者が抵抗の体勢を作りかけ、副長の視線だけで固まる。刃は出ない。
箱を持ち上げると、中身の匂いが漏れた。甘い。ただし強くない。粉そのものの匂いだ。
「積み替えはどこだ」
副長の問いに、御者は目を逸らす。「頼まれたんだ。中身は見てない」
「なら、ひとまず騎士団で預かる。——後で関所に来い」
淡々としたやり取りで、その場は片づいた。箱は布で包まれ、封印の刻印が押される。御者は身軽になった荷車を押しながら、小さく何度も頭を下げて去っていった。
副長は俺へ振り返る。「風と目の働き、助かった。猫も礼を言う。——その飾りは鍛冶屋の仕事か」
「はい。フーゴです」
「いい鍛冶屋だな」
城内へ戻る前、堀端で短い休憩になった。鎧の留め具を一つ緩める音、鞍革の鳴る音。各々が少しだけ呼吸を整える。
クロは草の上で前足を伸ばし、背中を丸くして伸びをした。黄銅の飾りが陽を受けて、麦色に光る。
「きらきら」
「似合ってる」
軽く撫でると、彼は鼻をくすぐるみたいに俺の指を舐めた。くすぐったい。サビーネが苦笑いする。
「緊張が少し解けるね」
城門をくぐる前に、関所の詰所へ一報を入れる。セルジオは書き物の手を止めずに話を聞き、最後にひと言だけ。
「黒灯は二本とも消えた。外の筋は騎士団が追う。こちらは街の粉を減らす。——昨夜、よくやった」
「ありがとうございます」
セルジオはそれ以上は言わず、押印だけを静かに増やしていった。あの人の「よくやった」は、長く効く。
ギルドに戻ると、ミレイユが掲示を差し替えていた。「黒灯」の欄に、×が二つ並ぶ。
「昼まで休んでいいよ。夜は未定。騎士団からの返事を見て決める」
「了解。……フーゴのところに礼だけ」
「いってらっしゃい。猫さん、昼寝したら?」
「ねる」
鍛冶通りでフーゴに報告すると、彼は無表情のまま、ほんの少しだけ頷いた。「役に立ったなら、作った甲斐がある」
「代金は——」
「今はいい。次に壊れて戻ってきたら、その時に取る」
「壊さないようにします」
「道具ってのは、壊れるように作るんだ。壊れないと、使う人が壊れる」
あの男の言い方はいつも極端だが、芯がまっすぐだ。礼を言って店を出る。
白樺亭に戻ると、昼前の静けさが落ちていた。客はまばら。クロは階段の踊り場で日向を見つけ、そこへ丸くなった。前足を顔の下にしまい、尻尾を鼻に寄せる。寝息はほとんど聞こえない。
俺も短く目を閉じる。今日の夜に備えて、体力は少しでも残しておく。
——浅い眠りを抜け、目を開けると、窓の色が少し黄に寄っていた。
ロビーへ降りると、客の背中越しに、知らない声が聞こえた。「その猫が、昨夜の——」
見ると、若い冒険者の一団がテーブルを囲んでいる。鉄色の札。彼らの視線がこちらへ集まる。
先頭の少年が立ち上がった。「あの、ギルドで噂を聞きました。猫が灯を——」
「消すのは俺の役目で、猫は手伝いです」
慎重に言う。過剰な期待も、軽いからかいも、クロには向けたくない。
少年は照れたように頷き、腰を下ろした。「すみません。俺たち、昼から初仕事なんです。掲示の“右寄せ歩き”の紙を見て……役立つこと、ほんとにあるんだなって」
「役に立つよ。短い言葉はすぐ動ける」
言いながら、自分にも言い聞かせる。
ギルドへ顔を出すと、ミレイユが手を振った。「返事。今夜は“黒◦”なし。代わりに倉庫内の棚崩しの手伝いが一件。それと、騎士団から補助への礼状。——君宛てにもう一つ」
差し出された封は質素で、封蝋の色は薄い青。開くと、短い文。
『見張りと風の使い方、助かった。外で剣を抜かずに済ませるやり方を、若い隊に見せたい。明日、刻三、訓練場で。——ケストナー』
サビーネが横から覗き込み、口の端を上げた。「いいじゃない。剣の練習も、矢の牽制も、相手が多いほど覚えやすい」
「行きます。クロも見学で」
「もちろん」
夕方までは、倉庫の棚崩しを手伝った。粉の袋を安全な高さへ移し、割れ目を布でくるみ、印を付ける。作業の間、クロは荷の匂いを一つずつ確かめ、変な甘さがないことを確認してくれた。
小休止に干し果皮を噛むと、喉が軽くなる。セレナの言う通りだった。
夜。街は静かだった。黒灯は立たない。鈴も鳴らない。
白樺亭の食堂で、マルタが眉尻を下げて笑った。「今夜はゆっくり食べな。猫さんには白身の魚を少し。塩なしでふっくら煮たよ」
「いいの?」クロは目を丸くし、ひと口舐めてから、こくこくと真面目に頷いた。「おいしい」
その真剣さに、周りの客がつられて笑う。緊張がほどけた夜は、こういう空気がうれしい。
部屋へ戻る前、窓辺で夜風を一回吸う。湿りは強くない。
明日は訓練場だ。騎士の若い隊に、刃以外のやり方を見せる。俺も、学ぶことが多いはずだ。
灯を落とすと、クロが布をこねて丸くなり、左前足の黒い点で俺の指をちょんと押した。「あした、がんばる」
「うん。一緒に」
◇
翌日。東の空が白くほどけるころ、訓練場は霜の気配を残した硬い土の色をしていた。城壁の陰が長く、風は乾いている。木人や丸太、砂で描いた細い線が幾筋も並び、青と白の旗が杭に結わえられていた。
ケストナー副長は半鎧の留め具を一つ確かめ、俺たちを見回した。
「見せてもらうのは三つだ。人を動かす声、足を乱さない誘導、そして火や粉の場面での対処。——刃は最後。いいな」
「はい」
「弓はサビーネ、牽制の距離を若い隊に示してくれ。猫は匂い取りと合図。危ないときだけ鳴け」
「にゃっ……いや、ぼく、いう」クロは真剣な顔で頷き、尻尾の黄銅が小さくちりと鳴った。
最初は「声」。若い騎士が三人、荷車に見立てた木ぞりを引く。俺は隊列の横に立ち、息を先に吐く。土の冷たさが靴裏から上がってくる。短く、同じ調子で。
「前、注意」「右へ寄って」「歩きのまま」
声の高さは上げない。騎士の耳は鍛えられている。怒鳴らず届く幅がある。ぞりは小さな段差で揺れたが、落ち着いたまま通り抜けた。
副長が横目で若いのに言う。「聞き取りやすい。言い切るまで動くな。合図の手は下から、刃の手は上げない」
次は「足」。砂で細い線を一本引いておく。ここを「道」に見立てる。線の内側は狭く、外側は余白が広い。混雑や焦りで足が線を跨げばぶつかる。俺は石をひとつ、親指と人差し指でつまみ、土の上を転がす距離を測る。サビーネが肩越しに小さく頷いた。合図を合わせる。
「右へ寄って」
石を先に転がし、目がそちらへ引かれた瞬間、線をほんの半歩内へ描き直す。ぞりは自然に狭い方へ流れ、若い騎士が「あ」と声を漏らした。
「今の、やりすぎないのが肝心だ」副長は指で短い幅を示す。「半歩で十分。大股は事故を呼ぶ」
最後は「粉」。試しの砂糖は使わない。代わりに乾いた柑橘の皮を砕き、匂いの筋にする。下手に甘さを撒けば、馬の癖がつくからだ。皮を砕くとき、クロが鼻をひくひくさせて顔を上げた。
「すっぱい」
「これで鼻が上がるか試す」俺は微笑んで、皮を風下に置いた。
指の関節を静かに曲げ、手のひらを返す。細い空気の流れを皮の周りへ沿わせて、匂いを地面に這わせず上へ逃がす。ぞりを引く騎士が足を止めずに通る。馬役の若い隊員は、自然に顎を上げた。
「頭が上がったな」サビーネが弦をはじく音で合図を重ねる。「匂いを“消す”じゃなく“通す”。覚えやすい」
見学の輪から一歩出てきたのは、栗毛の束髪を後ろでまとめた騎士——魔法担当のノラと名乗った。年は俺より上、でも若い。
「あなた、風の流し方、上手ね。溜めない。どこで習ったの」
「自己流です。動かしてから、どう動いたか紙に書いて覚えました」
「理屈があるのは強い。上手く胸で止まってる。——もしよければ、騎士団の練習に月一で顔を出して。風の“当て方”“外し方”、交換したい」
「お願いします」素直に頭が下がった。
ノラはクロの黄銅も見て、ほうと小さく息を漏らした。「それ、雷の逃がしにいいわ。今度、簡単な耐火の布も用意する。尻尾、可愛いものね」
「かわいい」クロは自分で言って胸を張り、尻尾をふわっと広げた。周りの若い隊員が笑いをこらえ、場が少し柔らかくなる。
午前の部が終わると、兵糧の鍋から温かいスープが配られた。香草が軽く効いている。クロの分は塩なしで小椀に。彼は鼻先を寄せる前に、きちんと「座れ」を自分に言い聞かせるようにお座りし、前足をそろえてから舌で掬った。飲み終わると、若い騎士たちの前でなぜか前足を額に当てて敬礼の真似をする。大きな笑いが起き、副長まで口元を緩めた。
「礼は、右手でいいぞ、猫殿」
「り、右……これ?」クロは前足を揃えたまま迷子になり、結局ふにゃっと両手でぺこり。二回目の笑いが起きた。
笑いが落ち着いたところで、関所からの伝令が駆け込んだ。埃を払いながらケストナー副長へ札を渡す。副長はさっと目を通し、短く俺たちを見る。
「『狐印』の筋が、堀の小舟に流れを移そうとしている。夕刻、北水門の外堀で「薄影」という舟の積み替えがあるらしい。——ギルドから二名、弓と補助で随行を依頼できるか」
「行けます」サビーネと同時に頷く。
副長はすぐ方針を手短に伝えた。「合図は旗のまま。舟の中身は騎士団が確保に回る。君たちは堀沿いから人の“足”を見て。粉を流される前に止める。刃は最後」
午後は軽く組み手の型を回し、若い隊員に「止める手」を伝えた。手首を固めるのでなく、張りを外して接点をずらす。骨に響かせず、勢いだけを拾って地面に落とす。サビーネは弓の引きで「目だけ止める」距離を見せた。矢は的の手前に落ちるだけ。それでも突進の角度がかすかに変わる。若い隊員の顔に「できるかもしれない」の色が増えたのが嬉しかった。
稽古の終いに、ノラが小石を三つ置いて、風の線の練習を一緒にした。石と石の間にだけ風を通す。はみ出せば砂が揺れるので、すぐ分かる。俺は石の間隔を狭くして遊びに誘い、ノラはその分だけ精度を上げて返してくる。
「楽しいわね、これ」
「はい」
砂に残る細い筋が、二人の呼吸の違いを可視化してくれる。勉強になる。
解散の合図で騎士たちは散り、俺たちは堀端へ向かう準備に入った。ギルドへ一度戻り、ミレイユに一声。彼女は短く段取りを切る。
「堀沿いは足場が悪い。縄と布、投石袋をもう一つ。薄影の船名、関所でも確認済み。合図の順も貼っておく。——帰ったら報告と温かいもの、忘れないで」
セレナは革の小包を握らせた。「傷薬と冷水布。今夜は冷える。猫さんは濡れたらすぐ拭くのよ」
「のむ?」クロが小首を傾げる。
「飲む。けど塩は入れないで」
「おしゃれ、くずれる」尻尾の黄銅をちょいと叩いて、彼は真面目な顔をした。セレナが笑い、俺もつられた。
北水門へ着くころ、空は赤から群青へ色を変え始めていた。堀の水は低く、ゆっくり。薄影と描かれた舟は、橋脚の影を縫って水門の外で待っている。細い船体、帆は畳まれ、棹の先に布が結わえられていた。舟縁には目印の無い木箱が四つ。舟頭の男は背が低く、帽子を深く。岸にいる二人が荷を受ける構え。粉の匂いは——まだない。ただ、箱の一つから、ごく軽い甘さが漏れた。鼻を上に誘うほどではないが、警戒の香りだ。
ケストナー副長は堀の上手側に青旗を一度振り、騎士を橋の両端へ散らす。俺とサビーネは水門の石段に位置を取った。石は冷たいが、風は堀壁で折れている。クロは俺の足下に座り、耳だけ上げて音を拾う。黄銅は鳴らない。静かなのは良い兆しだ。
舟の棹が水を押す音。岸の男が腕で合図。舟が寄ってくる。舟頭の帽子の影で、目が動く。落ち着いている。慣れた手だ。
箱をひとつ、岸へ渡しかけたとき、副長の白旗が上がった。止まれ。舟頭は動きを止める。岸の男の一人が肩をすくめ、笑って見せた。「見張りが増えたなあ、今日は」
副長は返事をしない。騎士の一人が箱へ手を伸ばし、蓋の縁を軽く叩く。空洞の音。二重底の気配がある。
「開ける」
短い言葉に、舟頭の口角がほんの少し下がった。
その瞬間、橋の上手側で瓦がころりと鳴った。小石か、靴か。視線が一瞬、上へ引かれる。岸の男が袖の陰から細い筒を抜いた。粉を吐く筒——昨夜、路地で見たやつだ。
「サビーネ」
言うより早く、弓の弦が鳴る。矢は男の足下へ先に落ち、土をはねた。足が止まる。副長の赤旗はまだ上がらない。場は保たれている。
だが別の影が、水門の縁から身を出した。濡れた板の上、箱を一つつかみ、上へ投げる。粉の線を堀へ流す気か——甘さで騎士の馬を足止めする手だ。
俺は石をひとつ、手の甲で弾くように空へ上げ、指先で風をほんの少しだけ捻る。落ち際に箱の角を叩ければ、軌道が鈍る。
小さな音。箱は空中で傾き、舟の縁にこつんと当たって戻った。舟頭が思わず片手を伸ばす。視線が外れる。
その隙に、ケストナー副長の白旗がすっと下がり、赤が立った。回収。
騎士が二人、水門の石段を滑るように降り、箱を抱える。岸の男は反射で弾いて逃げようとしたが、サビーネの二本目が弦の上で歌い、目だけが止まる。刃は出ない。副長が静かに言う。「やめろ」
舟頭は抵抗を捨てた。帽子の影から見えた目に、疲れが出た。箱はすべて布に包まれ、騎士団の封印が押される。粉は堀へ落ちていない。
安堵の息が背中でほどけた瞬間、クロの耳がぴん、と立った。「うえ」
橋の欄干の陰で、何かがきらりと光る。小さな金属の光。投げ棒か、短筒か。
俺が声を吸い込むより一瞬早く、黄銅がちりと鳴った。クロの尻尾が石に触れ、微かな火花が散る。空気がぴりと締まり、橋の上の影が反射で身を引いた。
サビーネはそこへ狙いを寄せる。矢は撃たない。狙っているという線を、堂々と見せる。
影は退いた。いたずらに火ぶたを切るつもりはないのだろう。けれど、上にいる。目は消えない。
箱の検めは続き、最後の一個から蝋板が出た。副長が開き、眉をわずかに寄せる。
——《薄影/完了後:北の畔/夜三/印:灰》
北の畔。夜三。終わりではない。今夜のうちに、もう一手。
副長は蝋板を布で包み、俺にだけ聞こえる声の大きさで言った。
「ひと息で休んでから、畔へ回る。歩きだ。猫も来られるか」
「行けます」
クロは胸を張り、小さく「いく」と答えた。黄銅が夜の色に溶け、ちいさな星みたいに光った。
堀の水面は静かだが、街の呼吸は少し速い。橋の向こうで、灯が二つ、三つ。
夜三まで、そう長くない。
◇
堀を離れて北の畔へ。空は群青の底。草いきれが冷えて、土手の土はしっとり重い。遠くで水門が一度だけ鳴った。夜三まで、もうすぐだ。
ケストナー副長は指で短く段取りを描く。
「畔道は狭い。騎士は水門側と上手(かみて)。サビーネは土手上で線を見る。少年は匂いと風。猫は近すぎたら鳴け」
「わかった」クロが喉の奥で小さく返事し、耳だけ前に出す。
畔の曲がり角。低い祠の陰に、黒い覆いの灯が一本。足元の石の目地に白い粉が細く寝ている。甘さは弱いのに、鼻の先で引っかかる。堀の流れへ線を伸ばすつもりだ。流れに乗れば、街の内側まで匂いが走る。
灯の脇に人が二。肩で背嚢。帽子を低く。ひとりは火打ちを握り、もうひとりは袋口を開けたまま、粉の筋を土に置いている。合図の刻に合わせて灯を立て、粉を流す——その手順が体に染みている手つき。
サビーネが土手上から矢筈を軽く鳴らす。位置が取れた合図。俺は祠の影に身を寄せ、手のひらを胸の前で返した。灯の覆いの内側にだけ、薄く風を入れる。吸いが浅くなれば、火は待つ。粉の匂いは、上へ逃げる。
火打ちの男が眉をひそめた瞬間、土手上で細い音。矢が灯の覆いの縁をかん、と叩く。視線が跳ねる。その隙に俺は覆いの下へ指先を滑り込ませ、吸気口の角度を少しだけ変えた。炎は芯だけ残して痩せる。灯はまだ“点かない”。刻をずらすだけで十分だ。
「誰だ」粉袋の男が腰を落とす。刃は見せない。足が半歩前。逃げる線が頭にある構え。
クロが祠と土手の間をするりと抜け、粉の筋の手前に座った。尻尾の黄銅が月の光を拾う。粉袋の男が思わず目で追う——その瞬間、サビーネが矢で地面を軽く叩く。音が粉の上で跳ね、男の足が止まった。
「粉は流さない」俺は祠から出て、言葉だけを先に置く。「ここで終わらせる」
火打ちの男が肩で笑い、指をこすった。火花。覆いの下に残っていた赤が、ちろ、と息を吸う。間に合わない距離——と思った瞬間、クロが尻尾を石にちょんと触れた。黄銅がかすかに鳴り、小さな火花が灯の縁で散る。熱は小さいが、風の向きがわずかに変わる。赤が外へ逃げ、芯が沈んだ。
「やめろ」土手上からサビーネ。矢が男の袖の布を掠め、袖は祠の板にぴたりと貼りつく。血はほとんど出ない。動きを止める深さだ。
袋の男が梶棒みたいに粉袋を振り、不意に俺の肩へ投げた。体に粉を浴びせれば、後が面倒だ。俺は棒で袋の底を下から“持ち上げる”。投げの角度が鈍り、袋は手前で落ちた。口が開いたまま。甘さがふわり……と上へ。
風を狭く絞る。匂いは祠の壁に沿って上へ逃げ、足下には降りてこない。男の顔に焦りが出た。
水門側から足音。騎士が二人、影から出てきて両側を押さえる。ケストナー副長は声を荒げない。
「粉を置くな。箱を置け。手を上げろ」
火打ちの男の顎が動いた。返事が遅れる。副長は足下の石を靴で軽く蹴っただけ。音に反応して、男が目を下に落とした。サビーネがそこへ狙いを寄せ、矢をつがえたまま動かない。線だけで十分だ。
遅れて、袋の男が両手を上げた。火打ちの男は一息、肩に力を入れたが、すぐ抜いた。腕輪が袖からのぞく。灰色の指の刻印。〈灰指〉の誓い輪。
「縛る」副長の一言で騎士が近づく。抵抗は弱い。袋と背嚢は布でくるみ、印を打つ。灯の覆いは外し、芯を指で潰して冷やした。煤は祠の板で拭う。黒い円は、ただの汚れになる。
祠の根元から、薄い蝋板が一枚出た。刻みは短い。
——《畔:終/次=門内・朝/印:灰》
今夜はこれで終い。次は朝の内側。粉を昼に動かすつもりだ。
副長は蝋板を衣嚢に仕舞い、男たちにだけ聞こえる声で言う。
「ここで止めた。次に灯を立てたら、腕輪は残らない」
袋の男は顔を背け、火打ちの男は祠を一度見上げて目を閉じた。肩の落ち方が、諦めの形だった。
騎士たちが連行に移る。サビーネは矢を外し、矢尻を布で拭う。クロは粉の筋をひと舐め……しない。鼻先を近づけただけで、ぷい、と顔を逸らして俺の膝に前足を置いた。
「これ、いや」
「触らないで正解」指先で頭を軽く撫でると、尻尾がふわっと広がって戻った。
点検。祠の裏、畔石の目地、低い草むら。粉の束はもう無い。黒灯も根こそぎ外した。匂いは薄い。風も弱い。
ケストナー副長は短く頷き、言葉を整えた。
「堀、畔、倉庫。三本、折れた。今夜はここまで。……少年、猫、弓の君。助かった。明日の朝、関所でひとまとめに報告する。騎士団としても、ギルドに正式の謝礼を出す」
「ありがとうございます」
クロは俺に合わせてぺこりと頭を下げ、なぜか前足で自分の胸をとん、と叩く。
「ぼくも、した」
副長が吹き出しかけて堪え、喉の奥で笑った。「確かに、した」
帰り道。土手の影は長く、街の灯が少しずつ増えていく。サビーネは弦を緩め、矢筒の口を結わえた。
「終わった気を出さないで、まっすぐ帰る。屋根の上、まだ目はある」
「分かってる」
クロは「こそこそ」を覚えたみたいに、足音を小さくして歩く。時々ふり返り、俺の靴の影に尾先を触れて位置を合わせる。尻尾の黄銅は鳴らない。よくできた。
関所手前の小橋で、ノラが待っていた。訓練場の束髪をほどいて、厚い外套。
「無事?」
「灯は落ちました。粉も流れていません」
「よかった」彼女は胸を撫で下ろし、クロを見ると目尻を下げた。「尻尾、今日も光ってる」
「おしゃれ」クロは誇らしげに尻尾を一周ふわり。
「明日、関所で報告の後、風の“線”をもう少し教えて。午前中だけでいいから」
「お願いします」
ノラはうんと頷いて、騎士団の隊列に戻っていった。
関所の灯の下で、セルジオが帳面を開く。ランベルトも隣に立っていた。
「堀、畔、倉庫、薄影——四件、受け」セルジオは短くまとめて印を打つ。「粉は押収、灯は回収、人は二+二。蝋板は朝、一括閲覧に回す」
「狐印の倉は封鎖に入る。お前らは休め」ランベルトが顎で街を指した。
ギルドへ戻ると、ミレイユが湯気の立つ壺を持って出てきた。「温かいの、すぐ」
セレナは医務の手前で待っていた。
「傷は?」
「擦り傷だけ。冷やせば平気です」
「なら温→冷を一回。猫さんは乾いた布でしっかり拭いて」
「のむ?」クロが小首。
「飲む。塩抜きで」セレナは笑って小椀を渡した。
スープで体が戻る。紙に一日の線を書き出しておく。灯の位置、風の向き、人の動き。クロは机の端でうとうとしながら、時々ぴく、と耳を立てる。誰かが椅子を引く音にも、ちゃんと反応するくせに、俺がページをめくる音には眠ったままだ。安心している音だけ、区別がつくのだろう。
外に出ると、白樺亭の灯がやさしい色をしている。マルタが器を置き、リナが笑う。
「おかえり。薄粥、今日も猫さんは塩抜きね」
「お願いします」
クロは席につく前に、台所の方をちらりと見てから、そっと俺の膝に前足を置いた。
「きょう、よくできた?」
「よくできた」頭を撫でると、喉がしあわせそうに鳴る。尻尾の黄銅が、満足の音で小さくちり、と鳴った。
食べ終わって部屋へ戻る。濡れた布を干し、粉の匂いのついた紐は別にまとめる。棒の革キャップを外して乾かし、鈴は引き出しの奥へ。明日の朝は関所で報告、その後は訓練場で風の線。昼は一息だけ休む。夜は街の灯を見回る。
窓を指一本だけ開けると、遠くで夜の鐘が三つ。今日の黒灯は、全部消えた。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をちょんと押す。
「あした、ねる?」
「半分はねる。半分は、強くなる練習」
「ぼくも、する」
「一緒に」
灯りを落とす。静かな呼吸が二つ。
匂いを流し、灯を落とし、人を止める。今日の学びは身体に入った。
次は、走らせない世界から、走らざるを得ない場所へ。準備は始める。——でも今夜は眠る。
街の屋根越しに、星が三つ。
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