第30話 「蔵の奥」

 夜二度目の鐘が過ぎた。川霧は薄く、蔵の壁は濡れた布みたいに黒い。

 詰所の裏庭で最後の確認をして、俺たちは二手に分かれた。


 正面はハーゲンとベンノ。扉の閂に石工の当て木が入っている。ぐらつきはない。

 屋根はサビーネと若い弓手(エメ)。樋に沿って静かに張り付く。

 裏の水路は俺とミーナ、それにクロ。イリアは曲がり角の陰で板と炭、見落としが出たらその場でまとめる。


「床の継ぎ目、今日は全部洗い上げてある。もし白が上がってきたら、上から封じるより下を吸い上げるほうが速い」

 ベンノが囁く。

「了解」俺は風の感覚を掌に集める。指先に“薄い膜”を感じておけば、抜き上げやすい。


 クロは背中にぴたりと張り付いて、耳だけ前。前足が肩に触れると合図の代わりになる。

 その前足がちょんと動いた。「うえ」

 上流。蔵の角の向こうに、灯が一つ。少し間を置いて、もう一つ。さらに短く三つ目。昨夜と同じ合図だ。


 正面の陰から二つの灯が返る。

 扉の閂が外れる鈍い音。

 同時に、屋根の樋がごくわずかに鳴った。エメが身じろぎ、狙いを取った合図。


 扉の隙間から、粉袋を抱えた影と、吹き筒を肩にかけた影。奥に、昨夜の輪の男。中指の銀の輪が薄い光を飲む。

 サビーネの矢が粉袋の口を摘まむようにとらえ、布が鳴るだけで開かない。

 エメの矢が吹き筒の金具をたんと弾き、筒は床に転がった。

 正面はハーゲンの肩で止まる。刃は出ない。力の向きを変えるだけで、膝が抜けたみたいに影が座り込む。


 裏の水路に舟が滑り込む気配。

「クロ」

 小さく呼ぶと、クロは舳先に飛び移り、金具に前足を載せる。

 ぱち。指先から細い火花。濡れた金具を驚かすには足りる。

 漕ぎ手が体勢を崩した瞬間、ミーナの輪紐がオールの根元をからりと縛った。舟は自分で岸に寄り、動きが止まる。


 そのときだった。

 蔵の奥から、ごく低い息の音。昨夜と同じ、拍を刻む音。

 床の継ぎ目に白がすっと滲む。

 俺は踏み出し、風を下から上に抜き上げる。白は細い筋にまとまり、天井近くで散った。

 続いて、左右の継ぎ目からも白。今日は数が多い。

「ミーナ、楔!」

「ある!」

 ミーナが膝で滑り込み、仕切り板の端に楔を押し込む。床の鳴りが止まる。


 輪の男はまだ何も言わない。目だけが細く笑ったように見えた。

 扉脇の柱に、灰色の紐が一本、巻きついている。

 イリアが角の陰から板を持って出て、指先で素早く書く。

《紐=合図?》

 ベンノが柱を手で押し、紐の遊びを詰める。「引かせない」

 男は動じず、袖の中から薄い紙を一枚。

《“輪”は声を借りる。声は合図、合図は物。物が切れれば、声が切れる》

 イリアが一瞬だけ目を見開く。

(喋らない代わりに、書いて挑発してくる……)


 奥の戸がかすかに揺れた。中にもう一枚、部屋がある。

 サビーネが屋根から短く。「奥に二。動かない」

 ベンノが決める。「正面はハーゲンで抑え、裏から入る。粉は吸い、紐は切らない。奥を開けて人数を確認したら、一度外で段取りを合わせ直す」


「アキラ、風を一枚、低く置け」

「置いた」

 床と足の間に薄い風の層を作る。軽い粉なら浮かずにすべる。

 ミーナが頷き、扉の落とし桟に手を伸ばす。

 その瞬間、輪の男が袖口をぴくと動かす。

 かすかな音。金属同士が触れた音。

 天井の梁から、細い鈴が二つ、同時に下りた。糸は灰色。


 サビーネが即座に矢で糸を切る。

 落ちた鈴は床に転がるだけ。音は立たない。

 輪の男の口角が、ほんの少しだけ上がった。

 ――合図を潰されたのに、笑うのか。

 彼は袖からもう一枚、紙。

《“声の主”は奥》

 短い文。こちらを奥へ誘うような言い回し。


 ベンノは誘いに乗らない。「一度外で合わせ直す。――退く」

 扉をそっと閉める。閂を戻す。

 輪の男は追ってこない。奥の戸の向こうで、再び息の拍だけが続いた。



 蔵の裏手に回って、川縁の影で輪をつくる。

 イリアが板に手順を書き、俺とミーナは風と楔の在庫を確認する。

 サビーネは屋根から降りず、視界だけを斜めに流している。エメは樋のところで弦を撫でた。

「奥の部屋、二。動きは鈍い。粉袋は見えない。……音はある。息」

 ハーゲンが短く。「奥を開け、息の主を止める。輪の男は――」

「“声を借りる”と言った。合図が切れれば弱るはず」ベンノ。「合図の物を先に落とす。鈴は切った。次は柱の紐。奥に似た仕掛けがあるだろう。糸、鈴、板。目につくものから静かに止める」


「クロ、光は控えめで頼む。火花は一回でいい」

「うん」クロは尻尾をくいっと立て、爪をしまった。「ちいさいので、がんばる」

 俺はクロの額を一度だけ指で撫で、息を整える。


「行く。――奥の戸は、俺とミーナで押し、アキラは風、サビーネは合図の糸。エメは吹き筒が出たら金具だけ狙え。ハーゲンは踏み止め、ベンノは紙を回収」

 ベンノの声は低いけど、よく通る。

 俺たちは同時に頷いた。



 もう一度、扉の前。

 閂を静かに上げ、わずかに隙間を作る。

 湿った木の匂い。粉の甘さは薄い。

 輪の男は柱の影に立っている。まだ微笑んでいるように見えた。

 俺たちは正面を横目に、奥の戸へ寄る。

 戸の横に、灰色の糸。梁へ続いている。

 サビーネの矢が糸をすっと切る。音は出ない。

 ミーナが鍵金具に布を挟み、軋みを殺して押す。

 風を低く置いたまま、戸が開いた。


 奥の部屋は狭い。

 小机と椅子が二セット。座っているのは二人。

 白い面布。胸元に輪はない。だが、喉に巻いた布の下で、息の拍が明確だ。

 ふたりとも、手を机の下に置いている。

 机の下――合図の物が隠れている。


 サビーネが低く言う。「机の下、鈴」

 俺は一歩で間合いを詰め、風を真横に通す。

 机の下からころりと鈴が二つ転がり出る。

 面布の二人が目だけで驚く。

 ハーゲンが肩で押し、椅子ごと壁に寄せた。

 ベンノは机の中を開け、紙片をまとめて布袋に落とす。

 ミーナは床の継ぎ目に楔、俺は白の気配を吸い上げる。

 埃が一枚ずつ剥がれ、部屋の空気が少し軽くなる。


 その時、背中がぴり、とした。

 クロが肩でかすかに鳴く。「うしろ」

 振り向くと、輪の男が奥の戸の敷居に立っていた。

 中指の輪が、今度は薄い影を作っている。

 彼は紙をこちらへ放る。

 落ちてきた紙には、たった一行。

《“声”が消えたなら、輪は用がない》

 男は袖を払って、己の輪を指から抜いた。

 床に落ちる前、サビーネの矢が輪の下を叩く。

 輪は床の外へ弾かれ、ミーナの布袋にころんと入った。


 輪の男の表情が、そこで初めて変わる。

 笑いが消え、目が細くなる。

 彼は一歩、前。

 喉で短い拍を打つ。

 ――呼び声。

 外、川のほうでぽつと灯が一点。次に、ぽつ、ぽつと二点。

 昨夜の三灯ではない。間隔が乱れている。

 この灯は合図ではなく、逃げの段取りだ。


 ベンノが即座に指示。「外を抑える。――サビーネ!」

「渡し場に一本!」サビーネの矢が外へ飛び、木の杭にとんと刺さる合図。

 詰所の渡し守が笛を短く鳴らした。舟は動けない。


 輪の男はもう一度だけ拍を打ち、それでも退かない。

 ハーゲンが前、俺は低く風を敷く。

 男は初めて声を出した。

「言葉を持つ者は、言葉で縛られる。紙は便利だ。だが、紙でしか動けなくなる」

 声は低い。騒がないのに、よく通る。

「なら、お前は何で動く」ベンノ。

「手順だ。息だ。輪だ」

「輪はここにある」ミーナが布袋を掲げる。

 男は目だけで、それを追った。ほんの一瞬。

 ハーゲンが踏み込む。

 肩、胸、腰。

 男は受け身を取るのが速い。刃は出さない戦い方に慣れている。

 でも、床に風を敷いたこの部屋では、踏ん張りが効かない。

 膝が滑り、壁に背が当たる。

 俺は風を上からかぶせて重しにし、ベンノが紐で男の手首をまとめる。

 中指に輪はない。紐は素直に締まった。


 面布の二人は息の拍を止められ、椅子に縛られた。

 机の内側から出てきた紙片には、短い言葉がいくつも並んでいる。

 ――“三灯で開、二灯で返。外→舟。床→粉。柱→紐”

 昨夜から俺たちが見たものが、全部“物として”書いてある。

 イリアが板に写し、端に一行を足した。

《“主の声”は物で再現可。輪=補助具。》

 ベンノがうなずく。「紙で縛れる相手だ」


 外の笛が二度。詰所の合図。

 ベンノは輪の男を立たせ、正面の扉へ促した。

「歩け。紙があるあいだは、嘘は長く続かない」

 男は一言も返さない。

 かわりに、室内の鈴がかすかに鳴った。転がった鈴が、壁に当たっただけだ。

 クロがそれを猫パンチで止め、上目遣いでこちらを見る。

「とまった」

「ありがと」俺は笑ってしまった。緊張の余韻が、少しほどける。


 外へ出ると、川霧はさらに薄くなっていた。

 渡し場には詰所の兵が二人、舟を押さえている。

 セルジオが塔影から現れ、俺たちの列を無言で数え、粉袋と紙袋の数も目で数えた。

「三人、押収物多数。――明け方までに写しを一本」

「イリアがやる」ベンノ。

 セルジオは輪の男の手首の紐を見て、短く呟く。

「中指の輪。……指輪は道具だ。癖にまで頼ると、癖ごと剥がされる。覚えておけ」

 ハーゲンが応じた。「覚えた」


 クロがあくびを一つ。小さな舌がちらりと出て、すぐに引っ込む。

「ねむい」

「帰ったら、魚のスープ」

「のむ」尾がぴんと立つ。切り替えが早い。


 詰所への帰路、イリアは歩きながらまとめを書いた。

《蔵奥:輪の男拘束。面布二拘束。粉仕掛け除去。合図物(鈴・紐)押収。紙片多数。――声=息拍・物の手順。輪=補助。》

 文字は少ないが、十分だ。

 川は静かだ。

 黒い灯は、ひとつ、消えた。

 まだ残っている灯が、どこにいくつあるのか。

 それを数える夜は続く。

 でも今夜は、蔵の奥で“声”を止めた。

 帰ろう。温かいものを少し飲んで、明け方の写しを手伝って、それから眠る。

 クロが足元でとととと歩き、俺の靴に鼻先をちょんと当てた。

「アキラ、えらい」

「クロが一番、仕事したよ」

「えらい」

 自分で言って、胸を張る。小さな相棒は、今日も頼もしい。



 明け方。詰所の灯が一つ、静かに増える。

 机の上に押収した紙束、輪、鈴、灰色の紐。イリアは紙端をそろえ、写し用の薄紙を重ねていく。クロはその角に前足を載せて、ふにと控えめに重しになった。


「紙は俺へ」セルジオが手袋をはめる。「粉の痕は薄い、匂いは弱い。……イリア、読み筋は立つか」

「“合図=物で代替”が核です。灯、鈴、紐、板。息拍はその補強」

「つまり、代わりが利く。人を替えても動く段取りだ」

 セルジオは輪の内側を灯に翳す。薄く刻みがある。短い線が三つ、間を置いて二つ、そして長い線が一本。

「印だな」

「合図の並びと一致します」とイリア。「三・二・長。昨夜の灯の順です」

 彼女が薄紙に簡単な図を取ると、クロが「にゃ」と小さく相槌を打ち、尻尾で三回、二回、最後に長く振った。

「……覚えるのが早いな、相棒」ベンノが笑う。


 面布の二人は別室。輪の男は表の机で座らされ、指だけ自由だ。

 筆と板を置くと、彼は迷わず書いた。

《蔵は手。舟は足。輪は喉。どれが欠けても、声は届く》

「“声”とは誰だ」セルジオ。

 男は首を振り、さらに書く。

《“声”は顔でなく、拍で覚える》

「場所はどこだ」

 沈黙。筆先が止まる。

 彼は視線だけで窓の外、川下のほうを一度見た。

 ベンノが即座に詰所脇の兵へ合図する。門下、川筋の見張りを厚く――。


 そのとき、外で笛が短く二度。

 続けて、乾いたぱきという音。木杭に何かが当たった音だ。

 ランベルトが戸を開ける。「門の下手、葦の陰。火を点けようとしたやつが一人」

 ハーゲンとサビーネが飛び出し、ほどなく戻る。男は手首を布で縛られていた。葦の先に油を塗った小枝。合図の煙を上げるつもりだったのだろう。

 セルジオが輪の男へ視線だけ送る。「仲間が雑だ」

 男は初めて目を伏せ、筆で点を一つだけ打った。それ以上は書かない。


「“声”はこの街にいる。輪の段取りが街中仕様だ」イリアが写しと照らす。「蔵と川、橋と門。全部、街の骨格です」

 セルジオは頷き、短く段取りを切る。「午前のうちに、蔵の周囲を掃く。午後、紙から次点を割る。――ベンノ、ハーゲン、アキラは蔵の二度目。ミーナは写し持ち。サビーネとエメは外輪。イリアはここで読み解き。医務はセレナに回す」


 セレナが湯気の立つ小鍋を持って入ってくる。

「喉、吸い込んでるわね。薄いお茶を口に含んで吐いてから、一口飲む。猫さんは水だけ」

「のむ」クロは小皿に顔を寄せ、舌をぺちぺちと素早く動かした。耳が気持ちよさそうに寝る。



 蔵に戻ると、夜の湿気は消えて木が少し軽い音を返す。

 床の楔は生きている。鈴は袋に入れたまま。柱の紐も切った。

 残るは、奥の部屋の拍だ。

 机の下、椅子の脚、壁の裏――耳を当て、掌に風を薄く流すと、木の中の空気がさやさや動く。


「ここ」ミーナが壁際を指で弾いた。

 叩き音が一カ所だけ鈍い。

 板の継ぎ目に紙一枚ほどの隙。差し金を入れてゆっくり起こすと、浅い箱が出てきた。

 中には短い木片が十本。どれも側面に刻みがある。三、二、長――輪の内側の印と同じ並びだ。

「持ち歩かなくても“声”が出せるように、ここにも合図の部品を置いてたんだ」

 ベンノは箱を布で包み、イリア宛ての短紙に一行書く。

《合図木十、印一致。粉なし》


 裏手の水路に降りる。舟は押収済みで空だ。

 岸の葦を刈ってみると、根っこに黒い煤。火を着けて合図の柱にするつもりだった。

 クロが葦の根元をちょいちょいと引っかいて、鼻をひくひく。

「くさい、すこし」

「油だな。昨日の残りじゃない。今朝、誰かが持ってきた」

 土を布に取り、袋へ。匂いは関所の記録に残しておく。


 蔵の外回りをひとめぐり。

 北側の壁の下だけ、泥が薄く盛られている。雨が降っていないのに湿り色。

 棒でそっと切ると、小さな瓶が横たわっていた。薄茶色の粉、口は布で塞いである。

「畑の甘粉じゃない。色が違う」

 ハーゲンが布だけぬると剥がし、匂いをかいで眉を寄せる。

「甘さに、苦みが混じる。喉が痺れる系だ」

「紙用じゃないってことか」

 ベンノが瓶を密封して、イリアへ回す。「中身の判別は後。今は置き場所を写す」


 詰所へ戻ると、イリアは紙束の並びを地図に変えていた。

 蔵、橋、門、川筋。そこに、押収した「物」の種類を記号で置いていく。鈴=●、紐=―、板=□、輪=◯。

「見て。――“◯”(輪)は三枚とも“●”(鈴)と重なっている。蔵、橋の下、そして……鐘楼の物置」

「鐘楼?」ハーゲンが身を乗り出す。

「音の合図と相性がいい。輪の“拍”を鐘で隠せる。物置なら人の出入りも紛れる」

 セルジオは即決した。「午後、鐘楼を当たる。――蔵組は書付を渡して鐘楼へ。イリアは残りを読み、合図の“抜け”を探しておけ」


 クロは地図の**◯を指でなぞるように前足で撫で、耳をぴくと立てる。

「かね、なる?」

「鳴らさないで済むといいな」

 クロは分かったのか分かってないのか、にゃと返事をして、イリアの膝にとすん**と収まった。イリアは困った顔で笑い、猫の背に紙を滑らせようとしながら「動かないで」を三回やさしく言った。



 鐘楼の物置は、昼の鐘の後で人が少ない。

 階段は石、途中から木。音が響くので、足の置き方を一段ずつ合わせる。

 ベンノが先、俺とミーナが続き、サビーネとエメが後ろ。ハーゲンは一階で入口を見張る。


 物置の扉は無施錠だった。

 中は古い鐘紐、油、布、割れた鐘の飾り、祭の旗。

 甘い匂いはしない。

 ただ、窓に近い棚だけ、埃が薄い。最近人が触った跡だ。

 棚板の下を見ると、細い金具が横に通してある。

 ベンノが顎を引く。「サビーネ」

 彼女は矢を抜かず、指先で金具を押し、戻す。もう一度押し、戻す。間を一定に。

 階下で鐘の芯がわずかに鳴った。人には分からないほどの微音。

「拍を隠せる」ミーナが小声。

「でも、隠すならもう一段階あるはずだ」俺は棚の裏木を指でたたく。

 音が変わる一角。紙一枚ぶんの隙。差し金を入れると、薄い板がすっと外れた。

 中に、小さな箱。蔵のと同じ「合図木」が五本。そして、灰指の印――灰で描いた指先の跡が三つ、箱の蓋にぺたりと押されていた。


「〈灰指〉の確度が上がったな」ベンノ。

 箱の底から紙切れが二枚出てくる。

 一枚目。《三・二・長=開。二・二・長=返》

 二枚目。《“輪”は声を借りる。声は鐘に隠す。鐘は物に隠す》

「同じ言葉回しだ」ミーナが箱を持つ手を固くする。「蔵の男の書き癖」

「写して戻ろう。――長居はしない」ベンノの声に、全員で頷いた。


 階段を下りる前、クロが物置の敷居でぴたりと止まった。

 耳が前に倒れ、鼻が微かに動く。

「どうした」

 クロは棚の脇をちょいと引っかき、上を見上げる。

 そこに、細い糸。今にも誰かが引きたいと手が伸びそうな高さ。

 エメが小さく息を呑む。「私、見落とした」

 サビーネが腰の短刀で糸を切る。音は出ない。

 扉の外の通路で、誰かの足音が一拍、止まった。

 ベンノが指を二本、下に。全員が影に寄る。

 通路を、書記の外套を羽織った男が素通りする。目は泳いでいない。鐘楼の仕事人に紛れるのが上手い。

 こちらは追わない。段取りを完了して下へ降りる。

 クロは階段の途中で一度だけこちらを振り返り、こくんと頷いた。猫なのに、頷いた。



 詰所。

 紙と箱を並べると、セルジオは短く「よし」。

「鐘楼に“物”あり。合図木、糸。灰の印。……“声”は鐘楼の内か外か、どちらにしても近い」

 イリアは地図の鐘楼に□と◯を重ねる。「“輪”が無くても動かせる仕掛けが二つ、街の中央にある。これは――夜に使う手だと思う」

「灯に頼らないからだ」ベンノ。

「夜は鐘だ」とセルジオ。「今夜、鐘は鳴らない。鐘楼の番と相談した。――代わりに詰所から短い鐘を二度だけ鳴らす。こちらの印だ」


 輪の男は、相変わらず口を閉ざしたまま。

 セルジオは彼の前に鐘楼の箱を置く。

「見覚えがあるか」

 男は視線だけで箱の蓋の灰指を見た。ほんの僅かに、目が細くなる。

「“声”は鐘楼の内か」

 沈黙。

 男はやがて筆を取り、短く書いた。

《“声”は、近い》

 それだけ。

「今夜拾う」セルジオは立ち上がる。「日暮れ前に一度街を回って、掲示を増やしておけ。鐘が鳴らないことの知らせと、夜の渡りの足を狭める線だ」


 ギルドに寄る。

 ミレイユが掲示の枠を空けて待っていた。「“今夜、鐘は鳴りません”の札、太字で三枚。門と広場と市場角。――“夜の川渡りは詰所指示”も足す」

「お願いします」

 フィオナの店で薄めの果実水を受け取り、海塩は俺だけひとつまみ。クロは塩抜き。

「猫さん、えらい顔してるね」フィオナが笑う。

 クロは真面目に「にゃ」と返事して、瓶の栓をぺしと前足で叩いた。


 鍛冶通り。フーゴは革の指当てを新調してくれた。

「糸を切るにせよ、板を起こすにせよ、指先は保て。――棒先は今日いらなかったか」

「風で賄えました」

「なら良し。……紐は」

「噛まない」クロが先に言って、胸を張る。

「はいはい、よくできました」フーゴは肩を震わせて笑い、指当てを俺の手にすっと差し込んだ。


 夕方。

 掲示三枚を増やし、鐘の知らせを回す。

 広場の子どもが札を指でなぞって読み上げる。「“よる、かね、ならない”」

「今夜だけね」とミーナが膝を折って目線を合わせる。「音がないほうが、いい夜があるの」

 子どもは不思議そうに頷き、札の角をつんと触って走り去った。


 詰所の塔影が長く伸びる。

 セルジオが短く全員を見る。「今夜は“声”を拾う。鐘楼は静か。蔵も静か。……静かなうちに終わらせる」

 ハーゲンは槍の穂先に布をかぶせ、サビーネは矢筒を半分だけ空け、音が鳴らないように仕切りを調整する。

 イリアは紙束を抱え、簡易の印章と墨を腰に下げる。

 クロは背伸びをして、しっぽをぱたんと落とした。「いく」

「行こう」俺は頷く。喉に薄いお茶を一口。温度がちょうどいい。


 街の音が少しずつ薄くなる。

 鐘は――鳴らない。

 その静けさの中で、鐘楼へ向かう石段の上に、誰かの影が一つ、長く伸びた。

 “声”なら、来る。

 こちらは、待つ。

 猫の耳がすっと前へ傾いた。

「くる」

 小さな声に、全員の呼吸がそろう。




 明け方。詰所の灯が一つ、静かに増える。

 机の上に押収した紙束、輪、鈴、灰色の紐。イリアは紙端をそろえ、写し用の薄紙を重ねていく。クロはその角に前足を載せて、ふにと控えめに重しになった。


「紙は俺へ」セルジオが手袋をはめる。「粉の痕は薄い、匂いは弱い。……イリア、読み筋は立つか」

「“合図=物で代替”が核です。灯、鈴、紐、板。息拍はその補強」

「つまり、代わりが利く。人を替えても動く段取りだ」

 セルジオは輪の内側を灯に翳す。薄く刻みがある。短い線が三つ、間を置いて二つ、そして長い線が一本。

「印だな」

「合図の並びと一致します」とイリア。「三・二・長。昨夜の灯の順です」

 彼女が薄紙に簡単な図を取ると、クロが「にゃ」と小さく相槌を打ち、尻尾で三回、二回、最後に長く振った。

「……覚えるのが早いな、相棒」ベンノが笑う。


 面布の二人は別室。輪の男は表の机で座らされ、指だけ自由だ。

 筆と板を置くと、彼は迷わず書いた。

《蔵は手。舟は足。輪は喉。どれが欠けても、声は届く》

「“声”とは誰だ」セルジオ。

 男は首を振り、さらに書く。

《“声”は顔でなく、拍で覚える》

「場所はどこだ」

 沈黙。筆先が止まる。

 彼は視線だけで窓の外、川下のほうを一度見た。

 ベンノが即座に詰所脇の兵へ合図する。門下、川筋の見張りを厚く――。


 そのとき、外で笛が短く二度。

 続けて、乾いたぱきという音。木杭に何かが当たった音だ。

 ランベルトが戸を開ける。「門の下手、葦の陰。火を点けようとしたやつが一人」

 ハーゲンとサビーネが飛び出し、ほどなく戻る。男は手首を布で縛られていた。葦の先に油を塗った小枝。合図の煙を上げるつもりだったのだろう。

 セルジオが輪の男へ視線だけ送る。「仲間が雑だ」

 男は初めて目を伏せ、筆で点を一つだけ打った。それ以上は書かない。


「“声”はこの街にいる。輪の段取りが街中仕様だ」イリアが写しと照らす。「蔵と川、橋と門。全部、街の骨格です」

 セルジオは頷き、短く段取りを切る。「午前のうちに、蔵の周囲を掃く。午後、紙から次点を割る。――ベンノ、ハーゲン、アキラは蔵の二度目。ミーナは写し持ち。サビーネとエメは外輪。イリアはここで読み解き。医務はセレナに回す」


 セレナが湯気の立つ小鍋を持って入ってくる。

「喉、吸い込んでるわね。薄いお茶を口に含んで吐いてから、一口飲む。猫さんは水だけ」

「のむ」クロは小皿に顔を寄せ、舌をぺちぺちと素早く動かした。耳が気持ちよさそうに寝る。



 蔵に戻ると、夜の湿気は消えて木が少し軽い音を返す。

 床の楔は生きている。鈴は袋に入れたまま。柱の紐も切った。

 残るは、奥の部屋の拍だ。

 机の下、椅子の脚、壁の裏――耳を当て、掌に風を薄く流すと、木の中の空気がさやさや動く。


「ここ」ミーナが壁際を指で弾いた。

 叩き音が一カ所だけ鈍い。

 板の継ぎ目に紙一枚ほどの隙。差し金を入れてゆっくり起こすと、浅い箱が出てきた。

 中には短い木片が十本。どれも側面に刻みがある。三、二、長――輪の内側の印と同じ並びだ。

「持ち歩かなくても“声”が出せるように、ここにも合図の部品を置いてたんだ」

 ベンノは箱を布で包み、イリア宛ての短紙に一行書く。

《合図木十、印一致。粉なし》


 裏手の水路に降りる。舟は押収済みで空だ。

 岸の葦を刈ってみると、根っこに黒い煤。火を着けて合図の柱にするつもりだった。

 クロが葦の根元をちょいちょいと引っかいて、鼻をひくひく。

「くさい、すこし」

「油だな。昨日の残りじゃない。今朝、誰かが持ってきた」

 土を布に取り、袋へ。匂いは関所の記録に残しておく。


 蔵の外回りをひとめぐり。

 北側の壁の下だけ、泥が薄く盛られている。雨が降っていないのに湿り色。

 棒でそっと切ると、小さな瓶が横たわっていた。薄茶色の粉、口は布で塞いである。

「畑の甘粉じゃない。色が違う」

 ハーゲンが布だけぬると剥がし、匂いをかいで眉を寄せる。

「甘さに、苦みが混じる。喉が痺れる系だ」

「紙用じゃないってことか」

 ベンノが瓶を密封して、イリアへ回す。「中身の判別は後。今は置き場所を写す」


 詰所へ戻ると、イリアは紙束の並びを地図に変えていた。

 蔵、橋、門、川筋。そこに、押収した「物」の種類を記号で置いていく。鈴=●、紐=―、板=□、輪=◯。

「見て。――“◯”(輪)は三枚とも“●”(鈴)と重なっている。蔵、橋の下、そして……鐘楼の物置」

「鐘楼?」ハーゲンが身を乗り出す。

「音の合図と相性がいい。輪の“拍”を鐘で隠せる。物置なら人の出入りも紛れる」

 セルジオは即決した。「午後、鐘楼を当たる。――蔵組は書付を渡して鐘楼へ。イリアは残りを読み、合図の“抜け”を探しておけ」


 クロは地図の**◯を指でなぞるように前足で撫で、耳をぴくと立てる。

「かね、なる?」

「鳴らさないで済むといいな」

 クロは分かったのか分かってないのか、にゃと返事をして、イリアの膝にとすん**と収まった。イリアは困った顔で笑い、猫の背に紙を滑らせようとしながら「動かないで」を三回やさしく言った。



 鐘楼の物置は、昼の鐘の後で人が少ない。

 階段は石、途中から木。音が響くので、足の置き方を一段ずつ合わせる。

 ベンノが先、俺とミーナが続き、サビーネとエメが後ろ。ハーゲンは一階で入口を見張る。


 物置の扉は無施錠だった。

 中は古い鐘紐、油、布、割れた鐘の飾り、祭の旗。

 甘い匂いはしない。

 ただ、窓に近い棚だけ、埃が薄い。最近人が触った跡だ。

 棚板の下を見ると、細い金具が横に通してある。

 ベンノが顎を引く。「サビーネ」

 彼女は矢を抜かず、指先で金具を押し、戻す。もう一度押し、戻す。間を一定に。

 階下で鐘の芯がわずかに鳴った。人には分からないほどの微音。

「拍を隠せる」ミーナが小声。

「でも、隠すならもう一段階あるはずだ」俺は棚の裏木を指でたたく。

 音が変わる一角。紙一枚ぶんの隙。差し金を入れると、薄い板がすっと外れた。

 中に、小さな箱。蔵のと同じ「合図木」が五本。そして、灰指の印――灰で描いた指先の跡が三つ、箱の蓋にぺたりと押されていた。


「〈灰指〉の確度が上がったな」ベンノ。

 箱の底から紙切れが二枚出てくる。

 一枚目。《三・二・長=開。二・二・長=返》

 二枚目。《“輪”は声を借りる。声は鐘に隠す。鐘は物に隠す》

「同じ言葉回しだ」ミーナが箱を持つ手を固くする。「蔵の男の書き癖」

「写して戻ろう。――長居はしない」ベンノの声に、全員で頷いた。


 階段を下りる前、クロが物置の敷居でぴたりと止まった。

 耳が前に倒れ、鼻が微かに動く。

「どうした」

 クロは棚の脇をちょいと引っかき、上を見上げる。

 そこに、細い糸。今にも誰かが引きたいと手が伸びそうな高さ。

 エメが小さく息を呑む。「私、見落とした」

 サビーネが腰の短刀で糸を切る。音は出ない。

 扉の外の通路で、誰かの足音が一拍、止まった。

 ベンノが指を二本、下に。全員が影に寄る。

 通路を、書記の外套を羽織った男が素通りする。目は泳いでいない。鐘楼の仕事人に紛れるのが上手い。

 こちらは追わない。段取りを完了して下へ降りる。

 クロは階段の途中で一度だけこちらを振り返り、こくんと頷いた。猫なのに、頷いた。



 詰所。

 紙と箱を並べると、セルジオは短く「よし」。

「鐘楼に“物”あり。合図木、糸。灰の印。……“声”は鐘楼の内か外か、どちらにしても近い」

 イリアは地図の鐘楼に□と◯を重ねる。「“輪”が無くても動かせる仕掛けが二つ、街の中央にある。これは――夜に使う手だと思う」

「灯に頼らないからだ」ベンノ。

「夜は鐘だ」とセルジオ。「今夜、鐘は鳴らない。鐘楼の番と相談した。――代わりに詰所から短い鐘を二度だけ鳴らす。こちらの印だ」


 輪の男は、相変わらず口を閉ざしたまま。

 セルジオは彼の前に鐘楼の箱を置く。

「見覚えがあるか」

 男は視線だけで箱の蓋の灰指を見た。ほんの僅かに、目が細くなる。

「“声”は鐘楼の内か」

 沈黙。

 男はやがて筆を取り、短く書いた。

《“声”は、近い》

 それだけ。

「今夜拾う」セルジオは立ち上がる。「日暮れ前に一度街を回って、掲示を増やしておけ。鐘が鳴らないことの知らせと、夜の渡りの足を狭める線だ」


 ギルドに寄る。

 ミレイユが掲示の枠を空けて待っていた。「“今夜、鐘は鳴りません”の札、太字で三枚。門と広場と市場角。――“夜の川渡りは詰所指示”も足す」

「お願いします」

 フィオナの店で薄めの果実水を受け取り、海塩は俺だけひとつまみ。クロは塩抜き。

「猫さん、えらい顔してるね」フィオナが笑う。

 クロは真面目に「にゃ」と返事して、瓶の栓をぺしと前足で叩いた。


 鍛冶通り。フーゴは革の指当てを新調してくれた。

「糸を切るにせよ、板を起こすにせよ、指先は保て。――棒先は今日いらなかったか」

「風で賄えました」

「なら良し。……紐は」

「噛まない」クロが先に言って、胸を張る。

「はいはい、よくできました」フーゴは肩を震わせて笑い、指当てを俺の手にすっと差し込んだ。


 夕方。

 掲示三枚を増やし、鐘の知らせを回す。

 広場の子どもが札を指でなぞって読み上げる。「“よる、かね、ならない”」

「今夜だけね」とミーナが膝を折って目線を合わせる。「音がないほうが、いい夜があるの」

 子どもは不思議そうに頷き、札の角をつんと触って走り去った。


 詰所の塔影が長く伸びる。

 セルジオが短く全員を見る。「今夜は“声”を拾う。鐘楼は静か。蔵も静か。……静かなうちに終わらせる」

 ハーゲンは槍の穂先に布をかぶせ、サビーネは矢筒を半分だけ空け、音が鳴らないように仕切りを調整する。

 イリアは紙束を抱え、簡易の印章と墨を腰に下げる。

 クロは背伸びをして、しっぽをぱたんと落とした。「いく」

「行こう」俺は頷く。喉に薄いお茶を一口。温度がちょうどいい。


 街の音が少しずつ薄くなる。

 鐘は――鳴らない。

 その静けさの中で、鐘楼へ向かう石段の上に、誰かの影が一つ、長く伸びた。

 “声”なら、来る。

 こちらは、待つ。

 猫の耳がすっと前へ傾いた。

「くる」

 小さな声に、全員の呼吸がそろう。



 古市場の納屋は、昼間は空っぽだが夜は別だ。壁に寄せた古い箱、売れ残った麻袋、梁から下がる壊れた看板。物陰が多い。

 扉は表から鍵が掛かっているのに、土間の隅にだけ湿った土が覗く。誰かが出入りしている。


「正面は開けない。裏へ回る」ベンノが囁く。

 ミーナは小さな鉄針で裏板の釘を一つだけ浮かせ、空気の通りを作った。中の匂いが抜ける。油、粉、鉄。甘い匂いは薄いが確かにある。

 クロが鼻をくんと鳴らし、俺の肩から降りた。土間と板の隙に前足を差し込み、きゅっと引く。細い糸が一本、光って切れた。


「鳴子、ひとつ」

「助かる」


 裏板を指幅だけ押し、隙間から中を覗く。灯は落ちているのに、闇が均一じゃない。梁の上に薄い布、床の中央に低い台。台の上で金属が小さくちりと触れ合った。


 サビーネが視線だけで右上を示す。梁の影に、短い弩(クロスボウ)。張りっぱなし。射線は扉の真正面。

 ベンノが口の形で「迂回」。

 裏板を外すタイミングを合わせ、俺は左、ミーナは右、ベンノはまっすぐ。サビーネは外から斜めの射線を確保。


 合図もなく、一緒に入る。床が鳴らないよう、つま先から。

 最初の影は台の向こう、腰を落とした背中。もう一人は梁の上。

 梁の男が気づくより早く、俺は指先から風を送った。狙いは弩の弦。ぐっと張力が緩むほどの力は出せない。でも、僅かな揺れで照準は動く。

 びゅっと短い音。放たれた矢は外れ、扉の板をばつんと穿った。


「今だ!」


 ベンノが台を回り込み、下の男を押さえ込む。

 梁の男は弩を放り、柱を滑り降りる。ハーゲンが入口から入って肩を当て、壁へ叩きつけた。

 逃げ道は一つ、床下の隙間――と、その縁に、じわと火が走る。遅火の導火線だ。粉袋に向かっている。


「ミーナ、火!」

 俺は手のひらを合わせ、短いウォーターを一滴だけ絞る。夜の枯れた空気に、薄い水の匂い。導火線の火がじゅと消え、煙だけが残った。

 クロがそこへ走り、前足で煙をぱたぱたと散らす。目がしみないように片目をぎゅっとつむっている。

「えらい」


 縄で縛ると、梁から降りた男が口の端を持ち上げた。

「市の子どもが、ふたつも魔法を使うのか。器用だな」

「火と水を止めるくらい、誰でもやる」

「そうだといいな」

 冗談に聞こえない声だった。


 台の上の金属は、輪。鐘楼のと似ているが刻みが違う。短・短・長。隣には薄い木札。

 ミーナが触れずに読む。「“声は顔じゃない/指は灰に隠す”。……好きな言い回し」

 イリアが地図に印を足し、木札の文字を写す。手が少し震えている。緊張ではなく、怒りだ。

「紙で人を動かす人間は、紙で首を絞められるべき」


 床を調べると、台の下から浅い引き出し。中に粉袋、小瓶、短い鈴、糸巻き。

 粉袋は白、甘い匂い。小瓶は油。鈴は小さいのが二。糸は綿と麻。

 ベンノが数を出し、セルジオへの目録を書かせる。

「証拠はこれで足りる。――あとは“声”の口を塞ぐ」


 そのとき、外で靴音。ひとり分。躊躇のない歩幅。

 扉が外からこんと二度叩かれ、短い声がした。

「開けろ。遅い」

 ベンノが顎で合図。俺は台の陰、サビーネは梁の影に戻る。

 ミーナが鍵を外し、扉を少しだけ開けた。


 入ってきたのは、紺の外套。背が高く、帽子の庇が深い。

 顔は縦長で、目が笑っていない。

 梁の矢穴、台の跡、縛られた二人――ひと目で把握して、扉へ戻ろうとした。

 サビーネの矢がその前に床へドン。

「止まって。二歩」


 紺外套は足を止める。視線だけがこちらを舐める。

「声を出すな」

「声は顔じゃない」

 彼は静かに帽子を取った。灰色の粉が庇の内側に指三本分だけこすりつけられている。

 “灰指”の小頭。

 ベンノが一歩出て、真正面から短く言う。

「鐘も橋も切れた。合図木も輪も無効。――投降すれば、紙と証言で終わる」

「紙は風で飛ぶ」

 紺外套は片手を上げ、指を鳴らした。

 部屋の角でぱちと火が跳ねる。

 導火線はもう一本、梁の裏だ。

 同時に、彼の指先から白い粉がひと掬い、床へ撒かれる。甘い匂いが立つ。呼吸が浅くなる。


 迷う時間はない。

 俺はクロを抱えて転がり、梁の裏へ手を伸ばしてもう一本の火をぬると潰す。

 ベンノは紺外套の手首を掴もうとして、逆に手の甲を打たれた。音は小さいのに、力が乗っている。

 サビーネが矢を一つ、紺外套の足元へ撃ち込む。跳ねた粉が舞い、視界が濁る。

 ハーゲンが突っ込む。槍は構えず、肩でぶつかる。

 紺外套は狭い足さばきでひらりと抜け、扉へ滑る。

 クロがそこへばっと飛び、扉の間に身体を差し込む。

「にゃ!」

 猫の身体は小さいが、扉はそれ以上に小さい。紺外套の足が一瞬止まる。

 俺は床の粉を抑えるように手を広げ、風を横に押した。舞い上がる方向を変える。

 鼻に入る甘さが薄れ、視界に輪郭が戻る。

 ベンノの掌が紺外套の胸へ入る。

 次の瞬間、ミーナの膝が相手の脛を折る角度で当たり、紺外套の体勢が崩れた。

 サビーネの矢が木の柱にたんと刺さり、逃げ道の線を切る。

 ハーゲンが背中から抱え込み、床へ落とす。

 紺外套はそれでも笑っていた。

「鐘は鳴らない夜が一番うるさい。紙に書いた声は、覚える者がいれば消えない」

「だから紙は増やす。覚える者も増やす」

 イリアが地図の端を押さえた手をぎゅっと握り直す。震えはもうない。

「あなたの“声”より、街の声のほうが大きい」


 縄を二重にかけ、粉袋と鈴、小瓶、輪をすべて袋へ。木札も。

 外に出ると、夜はすでに白んでいた。

 詰所へ向かう道、クロは俺の肩に乗り、尻尾で俺の頬をちょんと突く。

「アキラ、あまいにおい、きらい」

「俺もだ。もう少し我慢して。終わらせる」


 関所アルダ。

 セルジオは机を片づけ、押収品を一つずつ確かめる。

 輪――三種。鈴――二。粉袋――五。導火線、油、小瓶。木札。

 紺外套の顔を見ると、彼はまた笑った。

「紙は風で飛ぶ」

 セルジオは静かに返す。

「ならば、石に刻む。橋に、門に、学校に。短い言葉で」


 ベンノが短くまとめる。

「鐘楼、蔵、橋、納屋。四点を押さえた。粉線は剥がし、輪は回収。合図の“拍”は切れた」

 セルジオは印を打ち、札を二枚渡す。

「一枚は“灰指”の線切断。もう一枚は“街の言葉の統一”。これで一章だ」


 詰所を出ると、日は昇り始めていた。

 鐘はまだ沈黙している。けれど街は静かすぎない。人の声、荷車の音、子どもの笑い。

 クロが肩の上で、大きくのびをした。

「おひさま」

「ああ。帰ろう。寝ないと、セレナに叱られる」

「のむ」

「水もね」


 ギルドに戻ると、ミレイユが掲示板の前で待っていた。

「“灰指”の線、切ったんだってね。――短い札を用意したよ。『夜は鐘楼に近づかない』『白い粉は紙で遊べ』」

「頼む。みんなが同じ言葉で言えるように」

「任せて」


 医務室でセレナに指を見せ、喉を見せる。

「傷はない。眠ること。猫さんは水」

「のむ」クロが胸を張る。

 セレナは笑って、俺の額に冷たい布を一枚。

「朝の一口。起きたらまた来て」


 白樺亭。

 マルタが器を並べ、リナが笑って粥をよそう。

「猫さんは塩抜き」

「のむ」

 クロは真剣な顔で、舌をぺろと一度だけ出し、ゆっくり食べた。

 俺も、ゆっくり食べる。体の奥の緊張がほどけていく。


 部屋に戻る。窓を少し開けると、朝の風が入ってきた。

 薄紙を三枚だけ出して、今日の終わりを書いておく。

 ――鐘は鳴らなかったが、街の声は消えなかった。

 ――“声”は形を失った。あとは目に見えるほうへ出てくる。

 ――次に備える。


 クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。

「アキラ、ねる?」

「ねる」

 目を閉じる直前、外で鳥が一声鳴いた。

 次に目を開けるとき、街はまた別の顔を見せる。それでも、歩く。

 短く、まっすぐ。

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