第32話 「風の線」

 朝の関所は、石が冷えていた。塔影の下で昨夜の押収品が並び、蝋板は紐で束ねられている。セルジオが帳面を開き、ケストナー副長が横に立った。


「堀、畔、倉庫、薄影――四件。君らの報告は一致している。狐印の三棟は封鎖にした。今朝は見届け人を一人、ギルドから立ててくれ」

「了解です」

 クロが俺に合わせて小さくうなずく。「みとどけ、する」

 副長が目を細めた。「猫殿は便利だな。……少年、昨夜の風の扱いは安定していた。午前のうちに訓練場で『線』をもう一段やる。弓の君とノラが待っている」


 関所の裏手、土塀に囲まれた訓練場。早い鐘の前、弓の弦音が一度だけして、ノラが手を振った。

「来たね。今日は“押し流す”じゃなくて“通り道を細く作る”をやる。煙と紐を使うよ」

 丸い火皿に乾いた草を少し、上に薄布。煙は弱い灰色。ノラが糸を一本、俺の指に掛ける。

「この糸を“風だと思って”動かす。手は小さく。声に頼らないで、息の向きだけ変える」

「やってみます」


 息を短く吐き、胸の前で手のひらを返す。煙が糸に沿って細く伸びる。三歩先の輪の中へ通すのが目標だ。最初の一本は途中で広がって輪から外れた。

「広いね。もう少し狭く」

 ノラは指で輪をほんの少し上に上げ、視線で軌道を指した。二度目。煙は輪の縁をかすめ、三度目でようやく真ん中を抜けた。

「通った」

 クロが尻尾で輪の下をくるんと回って、「とおった」と復唱する。鼻先に煙が触れて、くしゅん、と小さくくしゃみをした。

「ごめん」

「だいじょうぶ」彼は胸を張ったまま、今度は火皿の周りをぐるりと回って流れを見てくれる。


「次。落ちる板を止める」

 ノラが棒の先に浅い木板を掛け、合図で落とす。俺は風を薄く斜めに当て、“止める”ではなく“遅らせる”。板は土の上でぱたん、と軽く音を立てただけで、反動は出ない。

「今の角度、覚えておいて。突風は簡単だけど、街中では使えない。細いほうを育てな」

 素直に頷く。ノラは弓を半引きにして、細い煙の筋に矢を通した。

「弓も考え方は同じ。細い道を作る。――サビーネ、交代」

 屋根の陰からサビーネが降りてきて、短く口元を上げた。

「線は真ん中だけじゃない。端の“切り”も練習する」

 火皿を二つ並べ、片方の烟(けぶり)だけを薄く切り落として、もう片方には触れない。難しい。最初は両方消えかけた。息の当て方を変え、指の角度を狭めていく。四度目で片方だけが薄くなる。サビーネが顎を引いた。

「きれい。夜の灯の縁、これで落とせる」


 息を整える間に、ノラが手早く包帯を一周してくれる。

「脇腹の擦り傷は浅い。昼に一度だけ冷やして。……午後、狐印倉の封印に立ち会える?」

「行きます。ギルドで見届けに名を入れます」

「よし」


 訓練は刻ひとつで切り上げた。関所の表に戻ると、ランベルトが掲示札を持ってきた。

〈狐印三棟・本日封鎖/押収品搬出・見届け人:ギルド所属〉

 ミレイユの字だ。読みやすい。

「昼に一度、ギルドに顔を出せ。見届け名簿、出しておく」

「分かりました」


 午前の残りは街へ。鍛冶通りでフーゴに棒の革キャップを見せる。

「縁が柔らかくなってる。粉でこすれたな。縫い目を一段落としておいた。銅1」

「助かります」

 カウンターの上でクロが前足を揃え、「いいこ?」と目で聞く。フーゴは笑って、薄い革の輪を一つ出した。

「猫殿の首は細い。紐に通して尻尾の飾りの下に結べ。ちょっとだけ反射する素材、見張りの光で見える」

「ありがとう」

 クロはその場で身を伸ばして受け取り、尾の根元にちょこんと触れた。「ぴか、すこし」


 市場では、リネン屋の女将が声をかける。

「紐は足りてるかい。細いのは今朝また入ったよ」

「ください。二巻」

 ついでに薄いマフラーを一本。夜風で喉が痺れないように。クロは布の端を鼻で押して、気に入った色を選ぶ。藍に近い灰。「ちょうどいい」


 ギルドに戻ると、ミレイユが見届け名簿を出して待っていた。

「封鎖は刻四。見届けは四名まで。サビーネと君と……ケストナー副長が一人出すって」

「ノラは?」

「訓練があるそう。代わりにケストナーが来る。――あ、これ。昨夜の蝋板の写し。二枚目の“夜五”は、今夜の動きって見立てね」

「了解」

 紙束を受け取ると、クロが背伸びして覗いた。「よる、ご?」

「今夜は出ない。封印が先。休むのも仕事だ」

「うん」


 短い昼休み。白樺亭の奥で薄いスープを一杯。マルタが器を置きながら言う。

「封鎖の見届けなら、腹は軽くね。猫さんは塩抜き」

「いつもありがとう」

 クロは小皿の水を舐めて、尻尾の輪をちらりと見せる。「みえる?」

「見える。似合ってる」


 刻四前、北門側の倉へ。狐印の三棟は縄で囲われ、入口には封紙。騎士団と関所、それにギルドの見届け人が揃う。ケストナー副長が印を改め、セルジオが封紙に筆を入れた。

「封鎖を宣言する。押収品の搬出、順次開始。見届け人は手を出さないで目を使え」


 最初の扉が開く。粉袋が十、白い束が六。蝋板が棚の裏から二枚。書き付けの帳面も一冊。俺は距離を保って、匂いの向きを見続ける。風は内から外へ流れる。甘さは弱い。クロは尻尾を低くして、鼻だけを動かす。


 その時だ。倉列の一番奥、封を待つ棟の屋根で、瓦が一枚かすかに鳴った。サビーネが最初に気づいて目を上げ、俺と視線が合う。合図の言葉は要らない。ケストナー副長もすでに見ていた。屋根の端、黒い影がひとつ、ふっと消える。


「追う?」サビーネが短く。

「まだ封が残ってる。離れすぎないで見張る」

 副長の判断は早い。騎士が二人、棟の角へ回り込む。俺とクロは荷の列の端へ移動し、風の向きを変える準備だけしておく。甘さが外へ溢れないように。


 封紙が二枚目に掛かった瞬間、奥の細路から細い笛の音。夜の合図に使うあの音色が、昼の光に混じって薄く震えた。

 サビーネが眉を寄せる。「昼に笛、か」

 クロの耳がぴんと立って、尻尾の輪がちりと鳴る。俺は息を整え、視線で副長に問う。

 ケストナー副長は頷いた。「合図持ちを捕る。見届けは続ける。少年、風を用意」


 屋根の影が動いた。封鎖の現場に、昼の黒灯は要らない。――でも笛は鳴った。

 俺は手を胸の前で返し、細い道をもう一本、倉と倉の間に作った。音の流れを外へ逃がすために。



 細路の上で音がほどけた。細い笛は高く、耳に針の先を当てるみたいな高さ。

 俺は胸の前で手を返し、倉と倉の間に“道”を一本作る。さっき訓練場で繰り返した細い流れだ。音は風に弱い。通り道をずらせば、鳴りは角の外へ逃げる。


 実際、笛の鋭さがふっと遠のく。封鎖に立ち会う人の肩が一斉に下がった。サビーネが屋根の端に移り、影の動く向きを読む。ケストナー副長は指先だけで騎士二人を割り振った。


「角――左、回り込め。右は抑え。少年は線を維持」


 クロは俺の足首に尻尾を軽く触れ、「こっち」と細路の向きを示す。尾の小さな輪が、昼光にちいさく反射した。


 影は細い人影だった。外套の裾が短く、腰には小さな鞘、手には笛。走りは軽い。昼の騒ぎを大きくしたい顔だ。角でこちらを一瞥し、別の細路へ滑ろうとしたところへ、俺は“道”を半歩だけ横に倒した。落ち葉と埃がその線に沿ってひゅっと集まり、足先のリズムをほんの一拍だけ狂わせる。


 そこへクロが飛ぶ。音もなく、帽子のひさしを前足でぱしっと叩き落とし、笛の口先を土に押しつける。

「だめ」

 短い声。相手の肩が驚きで止まった瞬間、サビーネの“音”が上から落ちる。乾いた板を矢で打って生む、低い合図音。影の横顔がそちらに向き、視線が割れた。


 ケストナーの手が先に届いた。無駄のない動きで手首を捉え、ひねらず、返すだけ。笛が石に転がる。騎士が二人、左右から肩と肘を押さえた。

 外套の影から見えた腕輪は灰色。〈灰指〉の誓い輪だ。


「笛、押収」

 俺が拾い上げると、クロは前足でそっとつついて匂いを確かめた。「あまくない。すこし鉄」

「火打ちの粉だね」サビーネが細路の石目に目を落とす。「飛ばす火花用」


 笛の中に薄い粉が仕込まれていた。吹けば火花に粉が乗り、目を引く光になる仕掛け。昼にやる気配じゃない。夜のための道具を、焦って使った――そんな手触りだ。


 副長は短く頷くと、騎士に引き渡しの指示を出した。「連行。笛と粉は別袋。――封鎖、続行」


 視線を戻す。押収の列は乱れていない。粉袋は布で口が封じられ、白い束は紙で包まれて数が読める。蝋板は写しの台に置かれ、セルジオが印の具合を確かめていく。

 俺は“道”をほどき、風を街路の上へ薄く戻した。甘い匂いが残らないように。


「二棟目、完了。――三棟目、扉」

 ケストナーの声。封紙が一枚、さらりとめくられて鍵が回る。中は静かだ。粉袋が四、白束が八、帳面が二冊。柱の陰に薄い木箱が一つ。開けると、狐の小印が刻まれた鉛の留め具が十個。封印を偽装する部材だ。


 セルジオがひと目で眉を寄せた。「これはいただく。関所印の横に置くなよ」

 ケストナーは「当然だ」と短く返し、押収の列に加える。


 クロが白束の一つに鼻先を寄せ、ちょい、と前足を伸ばした。けれど触れる前に自分で引っ込める。

「ふれない。みるだけ」

「えらい」

 俺が頭を撫でると、彼は胸を張って尻尾の輪をちいさく揺らした。


 封鎖は刻の半ばで一段落した。写しに捺された二つの印――関所と騎士団――が紙の端で濃く並ぶ。ケストナーが場を見回した。

「狐印の三棟は本日より封鎖。立ち入りは関所許可が出た列のみ。……少年、見届けご苦労。ギルドへ控えを届けてくれ。弓の君は――」


「私は屋根で一巡してから行く。昼の笛は、上からもう一本鳴らせる。耳だけ拾っておく」

 サビーネは矢筒の金具を直し、瓦の段をぴょんと移って影に溶けた。


「行こう、クロ」

「いく」


 北門を離れると、風が川の匂いに少し冷えた。ギルドへ向かう途中、白樺亭の角でリナが干し布を取り込んでいる。

「封鎖、終わった?」

「終わった。笛が一人」

「それは大変。――猫さん、喉は乾いてない?」

「のむ」

 小椀でひと口。クロは丁寧に舌を丸めて水をすくい、前足で頬をすっと撫でた。小さなくせだ。リナが頬を緩める。


 ギルドに着くと、ミレイユが見届け控えの枠を用意していた。

「ありがと。狐印は当分閉じる。……で、午後の予定は?」

「関所に控えを返して、それから訓練場でもう一度“線”。夜に動きがなければ休む」

「休むのは大事。クロにも“ごほうび”ね」

「ごほうび?」クロの耳がぴくり。

「干し肉ひとかけ。猫さん用に塩抜き」

「……すき」

 正直な返事に周りが笑って、空気が和らいだ。


 控えの押印が済んだところで、受付横の柱に新しい紙が貼られた。

〈路上の甘粉・見つけたら紙で回収/道に置かない〉

 その下に小さな図。紙の上で丸印を描いて“捨てずに渡せ”とある。子どもにも読める図だ。

「ミレイユの字は助かる」

「伝わるのが一番だからね」


 関所へ戻る途中、鍛冶通りのフーゴが表に出ていた。

「おい、少年。棒の縫い目、違和感ないか」

「いい感じです」

 フーゴは満足げに顎を引き、クロを見る。

「その輪、目印になる。夜は反射で助かる。――ただし隠したい時は布を被せろ。二通り持っておけ」

「布、用意します」

 クロは「かしこく」と言いたげに尻尾を上げ、輪に自分で小布をかけてみせた。器用だ。

「天才」

「てんさい」小さく復唱して胸を張る。通りがちょっと和む。


 関所に控えを戻すと、セルジオが既に次の枠を開いていた。

「狐印の帳面――流し先の欄に“南港・黒羽”があった。港の見張りと照合する。今夜は動きを抑える。君らは休め」

「承知しました」


 外に出る。塔影は短い。日が傾く前に、もう一度だけ訓練場に寄る。ノラがまだ煙を細く出していた。

「戻ったね」

「もう一往復、できますか」

「もちろん。今日は“線を置いたまま動く”をやろう」


 火皿を二つ、距離を置いて並べる。途中に縄の輪。

「さっきは止まって通した。今度は歩きながら。線を切らないで輪も踏まない。サビーネ、合図だけ」

 屋根から乾いた“トン”。

 俺は一歩ずつ、息を先に置いてから足を出す。風の線が自分の前に細く伸び、煙がその中だけ高く立つ。輪は右へ。線は真ん中。足は左へ。三つを同時にこなすのは難しい。でも、朝より手ごたえがある。

 クロが横で並足。とん、とん、と石の目地を選ぶ小さな音。「ならんで」

「並ぶ」

 最後の輪を越えたところで、ノラが手を叩いた。

「今日の分はここまで。良い線だよ、アキラ」

「ありがとうございます」


 息を整えると、脇腹の包帯がほんの少し締め付けを思い出させる。無理はしない。

「夜は動かないの?」クロが覗き込む。

「動かない。今日は終わり。……白樺亭、寄ろう」

「うん」


 夕餉前の白樺亭。マルタが鍋を回し、香草の匂いが広がる。

「顔が軽いね。よく働いた顔だよ。――薄いスープと、猫さんは塩抜きの粥」

「お願いします」

 クロは椅子の上で正座みたいに前足を揃え、「ごほうび?」と小声。

「塩抜き干し肉、ひとかけ」

「やった」

 齧る時だけ、尻尾の輪がちりと鳴った。満足の音だ。


 台帳の端に今日の三行を書き足す。

 ――狐印三棟封鎖・押収完了/笛一・連行/“線”訓練・通過精度向上

 紙を折り、インベントリの一番前にしまう。明日読む自分が迷わないように。


 窓の外で、夕の鐘が一度。街は落ち着いている。

 ――今夜は鈴も笛も鳴らない。

 そうであればいい、と願いながら、器の湯気を吸い込んだ。

 クロは皿をきれいにして、前足で頬をぺしっと整えた。くせの仕上げだ。

「したく、ばっちり」

「うん。今日はもう、休もう」



 白樺亭で器を返したところで、戸口が軽く鳴った。階段下に立つのは渡し守の見習いの少年だ。肩で息をしながら、指で港のほうを指す。


「黒羽の小舟、動いた。倉庫は封鎖の札が掛かったままなのに、桟橋で箱を積んでる」


 マルタが眉をしかめる。「夜勤に回してあるはずだけどね……」


「セルジオに知らせる。クロ、行ける?」

「いける」


 俺は包帯の締め具合を確かめ、外へ出る。夕闇は深くなり、川筋の冷えが街の端から降りてきていた。ギルドを回って短い一声。ミレイユは紙を一枚用意してくれる。


「関所控え“港班へ転送”。――サビーネは屋根で合流するって。隊は軽く」


 北門の報せ枠に紙を差し込み、関所へ走らず駆け足。塔影の下でセルジオがすぐ反応した。


「黒羽の桟橋だな。港番にも流した。君らは“見て、数えて、指さない”。騎士が合図を打つまで手出しは最小で」


「了解」


 南へ回り、川の匂いに混じる古い樽の香りが強くなる。月は薄い。桟橋の板が湿りを含んで、足音を柔らかく飲む。


 黒羽の印は、川に張り出した細い桟橋の一番先。小さな松明が二つ、風のない空気にじっと立っている。箱を二つ、男が肩で担ぎ、艀に渡していた。封鎖札のはずの狐印の刻印が、箱の蓋に丁寧に押されている――なのに、留め具が黒羽式。偽造か、横流しか。


 クロが鼻を鳴らし、耳を前に向ける。「あまい。すこし粉」


 桟橋の根元から細路へ風を一本。松明の吸いをわずかに上へ逃がす。炎は弱くなり、光の輪が小さくなる。男たちの輪郭がくっきりする。船端には三人。桟橋に二人。見張りは一人――笛が腰。


 屋根の影から、ふっ、と短い吐息。サビーネが来た合図だ。俺とクロは根元、彼女は桟橋脇の屋根。港番の松明が遠くに一つ、波の向こうで揺れた。近づいてはいるが、少し距離がある。


 箱の一つがこつんと板に当たる。積み方が急いで雑だ。偽の封印でも、箱自体は重い。砂糖に甘粉を混ぜたやつなら、質量が合わないはず。俺は息を整え、風を狭く絞って箱周りの匂いを上へ上げる。甘さが薄れ、担ぐ男が一瞬だけ顔をしかめた。


「今」

 屋根からサビーネのひそ声。


 俺は桟橋の根元へ半歩出て、板のきしみをわざと一度だけ鳴らす。見張りの視線がこちらに滑る。笛に指がかかった、その瞬間――クロが闇からひょいと跳び、見張りの足元の濡れた縄に前足をそっと掛けた。

 小さなぱちり。空気が乾いていたせいか、ほんの一瞬、指先に微かな火花が走る。見張りは驚いて笛を口から外した。猫の輪が月明かりを拾って、ちいさく光る。


 上から“トン”。サビーネが桟橋の欄干に矢を打って、音で注意を固定する。男の肩が止まる。笛を咥え直す前に俺が声を載せる。


「封鎖札の箱は動かせない。港番が来る。置いて、離れて」


 正面で怒鳴らず、風の流れに沿って届く声で。桟橋の細い空気は真っすぐ通る。男の一人が反射で梶棒へ手を伸ばす。舷側の小舟を外して逃げるつもりだ。

 俺は拾った小石を指先で転がし、風で軌道を丸めて桟橋の金具にこつんと当てる。乾いた音が一つ。サビーネがその音に矢の音を重ね、欄干の外で水面が小さく跳ねた。“そっちは見ている”の合図になる。


 「動くな!」

 桟橋の向こうから港番が駆けてくる声。二人、短槍。俺は一歩だけ退き、風をほどいて匂いを散らす。クロは笛に前足を乗せたまま、見張りの手首をじっと見ていた。

「ふかない」

「吹かないでね」


 港番のセスが到着し、箱の留め具を見て舌を打った。

「黒羽の金具に狐印の蓋……悪い組み合わせだな。持ってけ」


 サビーネが屋根から降り、船端に目をやる。「積んだ箱は二。札の番号は……関所の控えと照合できる?」


「できる。あとでセルジオに回す」

 セスは素早く縄をかけ、艀の櫂を抜いた。逃げ足を封じる手つきだ。


 見張りが最後の抵抗に笛へ手を伸ばす。クロが先にちょい、と押さえた。小さな「だめ」。

 港番のもう一人が苦笑しながら、笛を布袋に収める。「頼もしい番猫だ」


 争いは広がらなかった。封鎖札のおかげで、周りの倉も口を閉ざしている。俺たちは押収の列に箱と笛を加え、港番の台帳に“黒羽—狐印混在”の一行を書き込む。セスは筆を走らせながら、短く問うた。


「お前さん、昼も狐印で動いたろ。夜も起きてて平気か?」


「今夜で切り上げます。明日は昼の確認に回る」


「そうしてくれ。……この混ざり方、上の合図が二手に割れてる。〈灰指〉の指示が利いてない」


 サビーネが頷く。「笛の粉、夜用。焦って昼に使った。足並みが乱れてる証拠」


 港番が箱を運び出すのを見届け、俺たちは桟橋を離れた。堤の石段を上がる途中で、クロがふと立ち止まって振り返る。耳を前に、尾の輪を小さく揺らして、甲板の上の月明かりを見た。


「つき、うつくしい」

「きれいだね。……帰ろう」


 白樺亭までの道は、夜気が軽かった。封鎖札の紙が風に鳴る音が遠くで一度。街は深く息をしている。


 戻ると、マルタがまだ台所に立っていた。「間に合った。温かいもの、少し残ってるよ」

「助かります」

 クロは椅子にちょこんと座り、前足で頬をすっと撫でるくせをしてから、小皿の水を一口。「ただいま」

「おかえり」


 器の湯気を吸い込みながら、今日の三行をもう一度だけ見直す。

 ――狐印封鎖/港で黒羽混在押収/夜の笛、未発

 紙を折り、枕元の袋に入れる。クロは丸くなり、輪のところへ自分で小布をかけた。光りすぎないように。

「かしこいね」

「かしこい」


 灯りを落とす。窓の外、川の音が低く続く。今日の風は、線を保てた。明日は、線を広げる。

 そう決めて、目を閉じた。

 鈴は鳴らない。静かな夜だ。



 朝の白樺亭は、湯気と焼きパンの匂い。マルタが鍋を回し、リナが皿を並べる。

「昨夜の港、聞いたよ。無茶はしてないね?」

「してません。押収は港番が」

 クロは椅子に座って前足をそろえ、湯気に鼻を向ける。

「きのう、ふえ、ふかなかった」

「えらいね」リナが笑って、猫用の薄い粥を置いた。クロはちょい、と舌で味見してから、満足げに尻尾を丸める。


 食べたらすぐ関所。塔影の下でセルジオが帳面を開く。

「港の“黒羽—狐印”混在、港番からも届いた。――昨夜の蝋板は?」

 出すと、彼は朱の印で端を軽く叩いた。

「“封鎖完了”“押収済”。ふたつ。狐印の帳主は昼に呼ぶ。君らは見分の証言を。匂いの向き、箱の留め具……短くでいい」

「わかりました」

 セルジオは赤チョークを一本、細い鈴札を一枚渡す。

「昼の市場が混む。鈴は“二→一”で人を歩かせろ。……黒灯は今夜、もう立たないはずだが、用心に越したことはない」


 港へ回って箱の写し番号を控え、セスに挨拶。

「猫さん、笛の番ありがとな」

 クロは胸を張って「にゃ」と短く返す。小舟の影で跳ねる波を、前足でちょん、と触って満足していた。


 ギルド。ミレイユは掲示板の端を指で叩く。

「“黒灯注意”は削除。“封鎖札は破らない”“砂糖は紙で”。文言は三つに絞った」

「短いほど届きます」

 彼女はうなずき、奥へ声を飛ばす。「セレナ、手当ひとつ」


 医務で脇腹のかすり傷をさっと洗われる。冷たい薬草液が沁みる。

「動かしていいけど、ひねらない。猫さんは……鼻は元気」

「げんき」

「よし」セレナは笑って、小瓶の栓を指先で弾いた。「帰りに温かいのを一口。声は短く」


 鍛冶通り。フーゴは棒の革キャップを指で弾き、口金の布を新しいのに替えた。

「昨夜、欄干に当てた石、いい音だったろ」

「矢の音と重ねました」

「そういうふうに、道具同士で助け合うのがいい。――はい、小鉤。箱の隙間に差す用だ。てこの角度だけ気をつけろ」

 クロが鼻を近づける。

「かぎ、ちいさい」

「猫の手でも持てる軽さだ」


 昼、関所の詰所で帳主の取り調べが始まった。俺たちは端で短く事実だけ話す。蓋は狐印、留め具は黒羽式。粉の匂いは新しめ。男は言い逃れを試みたが、封鎖札の筆跡照合で崩れた。

 セルジオが淡々と締める。

「倉庫組の一部と黒羽の舟、その間に“灰指”が立つ。線は見えた。今日はここまで」

 出るとき、彼は俺にもう一本細い札を渡した。

「今夜は【見張り札】をギルドに。港と市場角に一枚ずつ貼っておけ。短文で、誰でも読めるやつを」


 午後は街を薄く一周。市場角――白い指跡は出ていない。鍛冶通り――箱の紐、二結びのまま。倉庫街の南端――昨夜の灯台は取り外され、柱の根元に新しい楔が打ってある。

 裏手の水路で、クロがぴたりと止まった。

「におい、ちがうこすり」

 壁に小さな黒い印。炭で描いた爪形の「影」。指で強くなぞればすぐ消える程度。サビーネが屋根から降りてきて、眉をひそめた。

「手口を変える気配。黒灯が潰れたら、次は“影印”で人を集めるつもりかも」

「記録して、消す」

 布で拭い、薄紙に印の形を写す。においは新しい。今のうちに潰しておけば、夜の噂に育たない。


 夕方前、ギルドの前で鈴札の貼り出し。

〈鈴=二→一 走らない/歩く〉

〈封鎖札は破らない〉

〈砂糖は紙で〉

 文字は大きく、行は短く。子どもが声に出して読める長さにそろえる。クロは足元に座り、読んだ子の靴紐をじっと見ていた。

「ほどけてる」

「あ、本当だ。――ありがとう」

 小さな「いいこと」を積むのは、結局いちばん早い。


 白樺亭で一度だけ休む。マルタが台所から顔を出す。

「夜は締めたほうがいいよ。黒灯が消えても、人は流れるからね」

「今夜は見張り札の様子を見るだけにします」

 クロは自分の輪をちょいと撫でて、布を整える。「ひかり、しずかに」


 外に出ると、川の風が少し冷たかった。空は薄青から紺へ。市場角の札の前には、さっきの子どもたちが数人。

「二→一、はしらない」

「砂糖は紙で」

 声に出して笑い合っている。昨夜までのピリつきが、ほんの少し緩んでいるのが分かる。


 北門側へ向かう途中、ランベルトと擦れ違った。

「狐印の奥から、もう一枚出た。“夜五の黒◦×二”」

「灯はないはず」

「だが“影印”に置き換えるかもしれん。……今夜は騎士隊が回る。君らは目に入る範囲だけ。追わない」

「追わない」

 言いながら、サビーネと目で段取りを合わせる。屋根の線、曲がり角の死角、笛の位置。すべて短く。


 日が落ちきる前に、最後の一巡。港――封鎖の縄、締まり良し。市場角――札の結び、二結び良し。倉庫街――壁の「影」なし。

 クロがあくびをひとつ。牙がちょんと覗いて、すぐ口を閉じる。

「ねむくない」

「じゃあ、もう一歩だけ」


 そのとき、川のむこうでかすかな“影笛”が一度。低い音。夜警合図の試し打ちだ。騎士隊が持つ大笛。

 ランベルトの声が風に乗って届く。

「試し――二→一!」

 通りの足が、自然に歩きへ戻る。札の前で親が子に短く教える。鈴は鳴らない。いい流れだ。


 白樺亭へ戻ると、マルタが戸口で待っていた。

「顔色がいい。――薄粥、猫さんは塩抜き」

「お願いします」

 クロは椅子に前足をそろえ、湯気を見上げる。ひと口、ふた口。

「おいしい」

「よかった」


 食後、帳場で小さな紙片を受け取る。ミレイユが回してくれた伝言だ。

――堰守ナディアより:上流、袋流下の跡少々。夜の調整なしで様子見。

 短い。必要十分。セレナの紙も一枚添えてある。

――声は短く。温→冷は一回で終わり。


 部屋に戻り、今日の三行をまとめる。

 ――黒羽—狐印混在押収/影印ひとつ拭去/夜は騎士隊巡回

 紙を折って袋に入れ、棒の革キャップを外して乾かす。小鉤は枕元の袋へ。クロは胸の上で丸くなり、輪のところへ自分で布をかけた。

「アキラ。あした、やすむ?」

「午前は控えの写し返し、午後は堰の札を見てからだね。少し休もう」

「うん」


 灯りを落とす。外で笛が一度。交代の合図。

 街は静かに眠り、川は低く続く。

 風の線は切れていない。

 目を閉じる。呼吸が落ち、音が遠くなる。

 鈴は鳴らない。今夜も、いい夜だ。

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