第21話 「谷あいの黒い灯」
朝の門に、血の匂いが混じった。
関所アルダから駆け足で三人。荷籠を背負った若い女と、肩で息をする老人、腕に切り傷のある少年。門番ランベルトの顔つきが変わる。
「上流の谷――上畔(かみあぜ)村で火。夜明け前、黒い灯が転がってきて、柵が燃えました。子ども二人が行方不明です」
詰所のセルジオは机の角で指を二度だけ叩き、こちらを見る。
「ギルドに緊急要請。護衛班を一つ借りる。……アキラ、出せるか」
「出します」
ギルドに戻る途中、クロが足元で歩幅を合わせ、小さく鳴く。
「いそぐ?」「急ぐ。でも、落ち着いて行く」
扉を押すと、ミレイユが札束を脇へ寄せた。
「上畔村へ救援。編成は――槍ハーゲン、弓サビーネ、補助ミーナ、写しイリア、補助アキラ。医務からは止血と煙対策の布。報酬は関所立替、後日清算。出立は今」
白衣のセレナが駆けてくる。浅い箱に包帯と匂い袋、薄い酢を含ませた布。
「黒い灯って表現なら、油と樹脂の混ぜ物。煙が強いはず。布を濡らして口を覆って。猫さんは鼻先に水、無理はさせないで」
「のむ」クロが真顔で返事をして、セレナの指を一度だけ鼻でつついた。
鍛冶通りに寄る。フーゴが作業台の奥から小型の鉤棒を二本、素早く差し出した。
「倒れた柵を起こす用だ。軽い。持ってけ。代金は後だ」
「助かります」
門ではランベルトが外出簿に線を引き、短く道を告げる。
「川沿いを上へ。谷入口の吊り橋は板が古い。子どもが消えたなら、北の畦道と河岸のどちらか。……気をつけろ」
クロが尾を立て直し、俺の脛に額をこつん。
「いく」
◆
川は昨夜の雨で増水していた。草いきれの向こうに、薄い焦げの匂いが流れてくる。
道の脇に灰色の粒。甘さが微かに残る。ミーナが布で掬って瓶に落とし、イリアが薄紙に記す。
「“甘粉”の線、谷へ続く。匂いが薄い。昨夜のもの」
さらに上。吊り橋の手前の岩棚で、黒く煤けた跡を見つけた。小さい陶壺の破片が散っている。脂の膜がうっすら。
ハーゲンが跪き、指で円をなぞる。
「油壺を火で転がしたな。橋の手前で一つ割れて、残りは村側へ」
サビーネが川面を斜めに横切る風を読む。
「夜明け前なら、川霧が低く流れた。煙を押し込むのに向いている」
「誰が?」イリアが顔を上げる。
「〈灰指〉の“川筋班”。倉庫街で押さえた連中と手口が似てる」
俺が答えると、ミーナの視線が鋭くなる。
「村で何を狙うの」
「逃げ道を火で塞いでから、人を散らす。……子どもを連れていくなら、狭い方角だ」
クロが橋板の隙間に鼻を入れ、すぐ顔を上げた。
「こども、におい。ちいさい土と、甘いの、すこし。こっち」
「右の畦道か」
吊り橋を渡る。板は古いが、縄は生きている。対岸の斜面に、焼け落ちた柵と、まだ湿った灰。
上畔村は谷の片側に寄り、畑を階段状に重ねた小さな集落だ。柵の焼け跡は三か所。村の男が十人、女と老いた人が水桶を回している。
顔を上げた村長らしき男――短い灰色のあご髭――がこちらに駆け寄ってきた。
「来てくれたか。夜明け前に、黒い灯が三つ。柵が燃えて、畦道へ煙が降りた。子どもが二人、そこで見えなくなった。名はパオラとユト。片方は足が速くない」
ハーゲンが視線だけで役割を合図。
「サビーネは上から谷筋を見る。ミーナは負傷の手当て。イリアは記録。アキラは匂いと足跡」
「クロ、頼む」
黒土の畦道は雨で柔らかく、足の跡が残っていた。小さい裸足と、粗い靴底。靴は三、裸足は二。
土の横に白い粒が点々。甘い匂いは薄い。
俺は掌で土を押し、乾き具合を確かめる。昨夜から今朝にかけて。
斜面の途中で足跡がふっと途切れ、草が乱れている。低い背丈の誰かが抱えて動いた跡。
斜面の下に小さな転がり跡、さらに下の茂みで押し跡。
クロがそこで小声。
「した。ひと、ちいさい。ねたにおい」
「眠り草混ぜの甘粉だ。意識を落とされた」
サビーネが上から声を落とす。
「谷の出口、岩壁の下に黒い孔。獣穴じゃない。板で口を覆ってある。薄い煙」
「そこだ」
村長が口を固く結ぶ。
「子を返してくれ。村の男は手を貸す」
「正面で騒ぐと、穴の奥で人質を動かす。こちらで先に口を塞ぐ。……村の人は水桶を橋へ。火が来たら板を湿らせて道を切る」
ハーゲンがうなずく。
「谷の出口へ行く。サビーネは上。アキラ、風で煙を押し返せるか」
「やってみる」
◆
岩壁の黒い孔は、膝を折れば人が通れる幅。口は割板を重ねた簡易の扉。隙間から油の匂いと、甘い粉の残り香。
孔の右に細い溝。雨水が集まって、下の川へ落ちる筋。
ハーゲンが短く。
「中に弓がいたら厄介だ。サビーネ、上から口へ圧をかけろ。俺が板を外して突入。アキラは煙を押し返す。ミーナは布を配れ」
布を濡らして口を覆い、俺は割板の目に指先だけ入れて、風の形を試す。面で押すと、奥の気配まで動いてしまう。線で撫でるように、隙間だけをこじ開ける。
〈微風〉を細く、扇を畳むように。鼻先に煤と油の匂いが戻り、喉に来る前に布がそれを受け止めた。
「いける」
サビーネが上から「いい」と短く応じ、矢を二本、板の上辺に続けて当てる。音が内側へ響き、足音がばたつく。
ハーゲンが板を引き、身を低くして滑り込む。俺はすぐ後ろで風を押し、煙の舌を外へ押し返す。
薄暗い坑道。樹脂の松明が二本。奥に短弓が一、刃が一。
ハーゲンの石突が弓腕を払う音、短い呻き。俺は刃の男の膝へ低く体当たりし、小刀の“背”で手首を叩く。刃が落ちる。
左の小部屋に布の山。小さな靴。
ミーナが布を捲り、息を呑む。「ユト!」
眠り草の匂い。脈はある。
俺は残った松明の根本を鉤棒で倒して土に押し当て、クロが足で砂を掻いて火の小さな息を消した。
「ぱっ。……きえた」
奥の奥から、乾いた笑い声。
薄闇に、灰色の外套。肩口に小さな三角の刺繍。
「ようやく来たか。橋で火を見せれば、誰かは動くと思っていた」
声は若い。が、狂いはない。
ハーゲンが半歩前に出る。
「子を返せば楽になる」
「楽になりたいかどうかは自分で決める」
外套の男が手で合図を切ると、さらに奥の闇で小さな石が転がる音。油壺の擦れる音。
「村の上に、風向きはどうだったかな」
嫌な予感が背中を走る。俺は即座に布を濡らし直し、風を細い流路に変えて坑道の奥へ差し込む。
油の匂いが強くなり――次の瞬間、岩の外から空気が吸い込まれる音。
谷の上で、低い角笛。
サビーネの声が鋭く降りてきた。
「外――谷口から火壺、六!」
こちらの視界に、穴の外側の空が赤く跳ねた。
村の方角ではなく、橋の手前。帰路を焼き切る動き。
外套の男が口の端だけで笑う。
「道は、一つだけじゃない」
ハーゲンが俺を見た。
「橋へ――」
言い終える前に、小部屋の奥で子どもの声が一つ。
パオラだ。目を覚ました。
泣き声ではない。喉の奥で、短い呼吸。怖いときの音。
俺は頷き返した。
「二手に分かる。俺とミーナで子を出す。ハーゲンは外の火壺。サビーネ、上から焼き切りを止めて」
「了解」
クロが俺の足首に前足を置き、目を真っ直ぐこちらへ。
「こども、だいじ。いく」
外から風の唸り。火壺の割れる音。橋の板が鳴く。
時間は薄い。
俺は風を細く束ね、小部屋の奥の煙を押しやりながら、眠気の残る子どもの顔をのぞいた。
「パオラ、ここだ。目を開けて。外に出るよ」
――次の瞬間、坑道の外で乾いた爆ぜ音。
煙が逆流し、黒い舌が低く伸びてきた。
◇
煙が逆流した。喉に来る前に布で受け、息を整える。奥で油がはぜる音。パオラの目がかすかに開いて、涙で光る。
「起きられる? 腕を回すよ」
ミーナが手早く抱き上げ、俺は〈微風〉を細く束ねる。穴の右にあった流れ溝――そこへ風道を曲げて、煙を水筋へ落とす。湿った空気が黒い筋を薄め、吐く息が軽くなった。
外でサビーネの声。「壺二、割った。橋板は生きてる!」
ハーゲンの怒鳴り声が重なる。「残りは谷口側へ投げ返した。村の水、来い!」
坑道の奥、灰色の外套が一歩だけ踏み込み、床に丸いものを転がした。陶の小壺。嫌な匂い。
「眠り草はもう要らない。今度は目に来るやつだ」
壺が岩に当たる寸前、投石。指ほどの小石を風で押し、壺の側面を叩く。逸れた壺が壁で割れ、刺激臭が一瞬に満ちる。布越しでも目が刺さる。外套は舌打ちして退いた。
「ここで追う気はない。橋だけ落ちればいい」
外へ回って焼き切るつもりだ。そうはさせない。
「ミーナ、パオラとユトを外へ。クロ、前」
「いく」
クロが鼻先で風筋の先を指し示す。小さな獣道のような横穴が暗がりに開いている。湿り気の匂い。さっき見た水の抜け溝の続きだ。
「ここ、すこし風。みずのにおい」
「通れる」
パオラを抱えたミーナが先、俺がユトを背に、クロは足下を確認しながら進む。岩肌は冷たい。頭上で小さく岩が鳴る。外套が板を外しているのだろう。時間が削られていく。
膝でにじる横穴の先、微かな日差し。湿った苔の匂い。低い枝を押しのけると、沢の脇へ抜けた。川音が近い。ミーナが短く息を吐く。
「二人とも、目は動く。大丈夫」
子どもに水を一口ずつ。ユトの喉が上下して、声が戻る。「おうち、もどる……」
「戻る。まだやることがあるけど、必ず」
俺は沢沿いの斜面を見上げる。谷口の上、煙が薄く層になって流れている。橋の手前――火壺を投げる位置に人影が二。外套とは別だ。斥候役。
サビーネの矢が土にドンと刺さり、二つの影が腰を落として動きを止める。そこへ村人の水桶が列で来た。ハーゲンが間に入って火壺を蹴り落とし、板に水が走る。橋は持つ。
「アキラ、戻れるか!」ハーゲンの声。
「戻る。――外套は坑道の奥」
沢を回って坑口へ戻る。口の板は半分外れ、油の跡がべっとり。中は薄灯。外套が奥へ下がろうとしていた。肩の三角刺繍――〈灰指〉の印だ。
「待て」
男は止まらない。投げ縄を手に、奥の抜け穴へ向かう。ここで逃がせば、また別の谷で火が出る。追うべきだ。しかし、橋はまだ危うい。
サビーネが上から短く言う。「一手、貸す」
次の瞬間、坑口の上の枝がぱしりと弾け、細い縄が男の足首に絡んだ。サビーネの射ち落としだ。男の体が床に落ちる。投げ縄が空しく転がる。
俺は距離を詰め、刃を抜かせない角度で肩を押さえる。男は無理に体をひねらない。笑いもしない。ただ、ぼそりと吐く。
「村を守る。いいことだ。だが、川は下で合流する。そこに粉を置けば――」
外で角笛が長く鳴った。関所の合図。セルジオが手を回したのだろう。谷口側で別動の足音も近づく。男の視線が一瞬だけ揺れる。
「名前は?」
「名を教えるとでも」
「なら印だけ覚えておく。灰色の三角」
縄で手首を縛り、外へ引き出す。ハーゲンが橋から戻ってきて、男の顔を一度だけ見て、村長に渡した。
「関所へ。証言はまとまってから。――村の怪我人は?」
ミーナが即答する。「火傷が三、軽い吸い込みが五。水と布で足りる。子ども二、意識戻り」
村長の肩から力が抜けた。「助かった……」
サビーネが谷の出口を見張りながら言う。「下流の合流へも目を置く。粉で二の手を打つ気配がある」
「行く。クロ、匂いの線を拾えるか」
「いける。あまいにおい、すこし、ながれてる」
◆
谷を下ると、合流手前の河岸に白い点が拾えるほど残っていた。葉の裏、石の影。水に落ちかけた粉筋。ここで馬の鼻が下がれば、渡しが止まる。村は市場に出せない。狙いはそこだ。
関所から来た小隊が合流。先頭はセルジオ自身。濡れ布を口元に当て、短く状況を聞く。
「上は鎮火。下に残り香。外套は一人、捕縛」
「子と橋は?」
「子は無事、橋は持った」
セルジオは頷き、手を広げる。「流す」
川面の上流に、粗い袋をいくつも流し入れる。袋の中身は湿った木炭粉。水面に薄い黒が広がり、白い粉筋の“目”を奪う。これで鼻を下げにくい。渡しの親父が竿を使って黒を広げ、橋の下手に薄い幕を張った。
クロがくんくんと鼻を鳴らしてから、こちらを見上げる。「におい、きえる」
「上出来だ」
セルジオが捕えた外套へ視線だけ送る。「灰指の“川筋”。今回の線は、書き起こして残す。村長、火の保険は関所から半分持つ。――ギルドは救援の報酬を受け取れ」
村長が深く頭を下げる。背中が震えている。パオラとユトがその横で布に包まれ、母親の腕にしがみついた。
俺はしゃがんで目線を合わせた。「怖かったな。次に甘い匂いがしたら、紙に“にゃ”を書く。道には置かない」
パオラが小さく頷く。ユトが鼻をすすって、クロを指さした。「ねこ、つよい」
クロは胸を張る。「つよい。におい、わかる」
笑いが広がり、空気がやっと柔らかくなった。
◆
夕方、谷の鎮火が一段落。村人が炊き出しを始め、関所の小隊は詰めを残して戻る。セルジオがひとこと置いて去った。
「明朝、証言の写しと粉筋の図を。相手は引かない。次は川ではなく、道で来る」
ギルドに戻る前、吊り橋を渡り直す。板は濡れて重いが、縄はまだ強い。ミーナが子どもたちに布を配り終え、サビーネは橋の柱に新しい札を括りつけた。
〈甘い匂い=紙で遊ぶ/道に置かない〉
〈火の壺を見たら:水→板→道を開ける〉
ハーゲンが村長と固く握手し、顔をこちらへ。
「帰る。灯りが落ちる前に報告を落とす」
斜面を下る途中、クロが突然立ち止まって振り返る。尾がぴんと立って、耳がこちらを向いた。
「うえ。ひと、みてる」
谷の上縁、暗がりに一瞬、灰色の影。さっきの外套とは違う背格好。こちらを見るとすぐ引いた。ひとりではない。二、三。
「残りがいる」
サビーネが弦に触れたが、矢はつがえない。「今は下る。橋を渡し切るのが先」
ハーゲンが短く頷く。「夜に戻る場所があるなら、そこで手を合わせる時が来る」
俺は胸の内で一度だけ息を整え、谷に背を向けた。足下の石が湿っている。今日助けられた声の重みが、背中に乗っている。
ブライアへ。関所の塔が夕陽を受けて、赤く光った。
◇
関所の塔が近づくころには、谷の風も落ちた。詰所の前でセルジオが待っていた。俺たちの顔を一数えしてからうなずく。
「子は二人とも無事、橋は保全。外套一名確保。――続きはギルドでやろう。夜は川と街道、二手で張る」
ギルドへ戻ると、ミレイユが机を空け、イリアが地図を広げた。谷、合流、街道。三か所に印が置かれる。
「関所からの応援は川へ。うちは街道側を受けます」
ハーゲンが即答する。「俺、サビーネ、アキラ、ミーナ。クロは俺の影」
セレナが医務室から来て、短く俺の目を見た。「煙の刺激、残ってない? 水を少しずつ。夜番の前に喉当てを一枚」
「大丈夫。ありがとうございます」
クロは診察台の脚に前足をそっとかけ、瓶の匂いを確かめる。「いいにおい。のまない」
「えらい」とセレナが笑った。
鍛冶通りでフーゴに装備の確認。刃こぼれなし、鞘は乾いている。持たせてくれたのは、薄い鉄環の小鈴が二つ。
「合図用だ。暗い中で音を分けろ。短い一回は注意、二回は集まれ。――猫に触らせるなよ」
「ふるだけ。かまない」とクロが胸を張る。
角の果物屋では、フィオナが小瓶を二本渡してくれた。「薄い果実水と、蜂蜜を少し。夜は喉が冷えやすいから」
「助かります」
クロが瓶の栓を前足でつん、と叩く。「あとで」
◆
夜。街道のはずれ、古い粉挽き小屋の影に身を落ち着ける。月は雲間。風は上手から下手へ、弱い。サビーネが土手上、ミーナが少し後ろ。ハーゲンは街道の中央にしゃがみ、砂を指でつまんで落とした。音は軽い。乾いている。
「来るなら今夜中。川で止まった分、道を狙う」
クロが尾をゆっくり左右に振り、鼻先を持ち上げた。「あまい。すこし、まえ」
俺は〈微風〉をほんのわずかだけ前に送る。草の間をかすめて戻る匂いに、甘さが混じる。石の影を伝って、細い筋が近づいていた。
サビーネが弓を引き、矢尻を地面に落とす。土に低い音。合図。ハーゲンが鈴を一回鳴らす。集音ではなく、こちらの足元にだけ届く短い音だ。
暗がりから、三つの影が出た。全員フード。先頭は細身、後ろは荷を背負っている。片手に陶の壺がぶら下がっていた。
「壺持ちを止める。生け捕り優先」
ハーゲンの声に、体が勝手に動く。俺は先頭の左側面へ半歩。足をとられない速度で、石を一つ指ではじく。〈微風〉で軌道を浅く曲げ、壺の持ち手を叩く。ぶら下がっていた紐がほどけ、壺が草の上へ落ちた。その瞬間、サビーネの矢が地面にドン。三人の視線が下がる。
ハーゲンが前へ踏み込み、先頭の肩を掴む。無理に倒さず、首の向きを塞ぐ角度で固定。ミーナは荷を背負った男の背に回り、腕を絡めて手首を落とす。俺は最後尾の男の足もとを狙った。投げ縄。〈微風〉で輪の口を広げ、足首に掛かるよう誘導する。縄が締まり、男がひざまずく。砂埃がわずかに舞う。
「叫ぶな」
静かだが硬い声で言う。三人は抵抗を試みたが、武器に手は伸びない。練度は高くない。運び手の線だ。
その後ろ、遅れてもう一人。動きが違う。逃げに入らず、こちらを測る間合い。腰に短剣。灰色の外套、肩に三角の刺繍。先導役――さきほど坑道から逃げ損ねた男と同格か。
サビーネが矢をその足先の前に一つ。砂が跳ねる。男は止まらない。短剣を抜いた。まっすぐ、無駄のない持ち方。
ハーゲンが一歩出る。「俺が取る」
男が間を切る前に、俺は手をかざし、地表の砂を〈微風〉で薄くあおった。目くらましになるほどではない。足裏の感触だけを変える量。男の足が半拍だけ滑る。そこへハーゲンの柄が脇腹に入った。深追いせず、地面へ誘導。短剣が落ちる。
男は顔だけこちらを見た。睨むというより、覚えに来た目つき。息が荒い。「坊主、風の術か」
「やめたほうがいい」
「こちらの台詞だ」
ハーゲンが手早く縄をかける。反応は静かだが、指が硬い。訓練の跡がある。三角の刺繍は、昨日の男よりも糸が太い。手下ではなく、組の端持ちだ。
ミーナが壺の蓋を布越しに外し、においを確かめる。「同じ甘粉。混ぜ物は少し違う」
「回収。布二重にして関所へ」
足もとでクロが小さく鳴いた。「うしろ、まだ」
草の向こうで枯れ枝がかさり。数は少ない。見張りの置き石だ。サビーネが弦の張りを半分に緩め、耳だけ動かした。
「来ない。引いた」
捕らえた四人を街道脇の大木に縛り、口は塞がない。息の音が聞けるように。ハーゲンが鈴を二回鳴らす。セルジオの巡回に知らせる合図だ。
十分もしないうちに、関所の小隊が駆けつけた。セルジオが暗がりで姿勢を低くし、捕縛の手際を確認する。壺に目をやり、短く息を吐いた。
「同じ線だ。粉袋の混ぜ物、明朝に鑑定する。――お前たちは一度ギルドへ。写しと図を落とせ。今夜はここで締める」
安堵が胸に落ちたところで、クロが俺の足に額をすり寄せる。前足の黒い点でちょん、と合図を作る。「おわり?」
「ひとまずね。よく鼻で見つけた」
クロは尻尾をあげ、ミーナの膝に前足をかけて「ほめて」と顔を向ける。ミーナが思わず笑って、頭を軽く撫でた。「いちばんの鼻」
◆
ギルドに戻ると、ミレイユが湯気の立つ杯を並べて待っていた。薄いハーブ湯。セレナが喉当ての布をもう一枚渡してくれる。
「刺すにおいの後は、甘い湯で流すと楽よ」
「ありがとうございます」
イリアが机に地図を広げ、粉の運び経路を線でつなぎ始めた。谷、合流、街道、粉挽き小屋。四つが細い矢印で結ばれる。
「“灰指”の今夜の動き、こうね。川で止まったから道に出た。どちらも潰したけど、次は――」
「倉庫筋だ」とハーゲン。「街に入ってから混ぜる。明日、入荷の多い朝市を洗う」
ミレイユが頷く。「書き出す。“朝市/粉袋/外縫い確認”。門と市場角の掲示は私が差し替える。短く太く」
セルジオが夜の控えを持って入ってきた。「粉の混ぜ物は、麻糖に何か足している。眠り草と違って、鼻を下げるのが主。明朝、座で鑑定する。――良く動いた。今日はここまで」
椅子の足にクロが身体をこすりつけ、床の陽だまりを探すように丸くなった。前足で空気をこねる仕草を二度、三度。瞬きをゆっくりして、俺を見上げる。「ねむい」
「帰ろう。明日は朝市からだ」
夜の外気は冷たいが、街の灯りは落ち着いている。白樺亭に戻ると、マルタが台所から顔を出した。
「遅かったね。温かいスープがあるよ。猫さんは水ね」
「いただきます」
リナが器を運ぶ間、クロは椅子の上で前足をそろえ、香りだけ嗅いで満足げに目を細めた。舌は出さない。セレナに「香りだけ」と言われたのをちゃんと覚えている。
「えらい」と俺が言うと、クロは小さく胸を張って、「えらい」と復唱した。笑いがこぼれ、緊張が少しほどける。
部屋に戻る。縄、鈴、布を所定の場所に戻し、壺の写しをイリアに渡すための短いメモを作る。眠る前、明日の段取りを一行ずつ紙に落とした。
――朝市の粉袋確認/門の掲示差し替え/関所で鑑定立会い。
灯りを落とす。クロが胸の上に丸くなり、左前足の黒い点をそっと俺の腕に置く。小さく喉が鳴る音が、布越しに温かい。
「アキラ。あす、におい、みる」
「頼む。君の鼻が一番頼りだ」
目を閉じる。今日の川音と、壺が割れる音、子どもの声が遠くで混ざっていく。眠りは短くも深かった。明日は街の中で、同じ相手を追う。ここからが本番だ。
◇
夜が明けきる前、白樺亭の窓に薄い光がかかった。湯気の向こうでマルタが鍋を回し、リナが皿を置く。クロは椅子の上で前足をそろえ、湯気をちょんと鼻先で押した。
「あとでね」と言うと、尻尾が小さく上下した。
朝市のはじまる刻、俺たちは市場通りの入口に立った。粉袋の外縫い、封蝋、印字。ミーナが指で確かめ、イリアが写しに線を引く。ハーゲンは流れを見て、サビーネは屋根筋に視線を走らせる。
クロがひくく鳴いた。「あまい。すこし、ひだり」
果物屋台の陰、麻袋の束が二つ。表は穀粉、裏の印は薄い。すり替えの匂いがした。袋の裾がわずかに湿っている。鼻を寄せると、甘さに青草のような香りが混じっている。
「印が浅い。ここから抜かれてる」とミーナ。
屋台の裏で、黒い外套が袖を払った。昨夜の運び手より落ち着いた身のこなし。片手には小瓶。投げれば広がる煙の色だと、直感した。
「上に抜けるぞ」とハーゲンが言い、サビーネが先回りの位置へ走る。
外套の男が瓶を割った。白い煙が膨らむ。鼻に先に来る甘い匂い。肺が拒む。俺は半歩下がり、胸の前で手のひらを合わせる。
「風糸(ふうし)」
ひと筋だけ、上へ。煙の頭をつまむように引き上げる。濁りが屋根の縁へ逃げていく。男の足が動いた。路地の先へ抜けるつもりだ。
「逃げる」とクロが言って、石畳をひらりと飛ぶ。背の毛がふくらんで、ひげがぱち、と鳴った。空気が少し乾いた気がする。男の足元で火花が散る。驚きで一拍、動きが鈍る。
「雷……?」
クロが首をかしげた。「ぴか、でた」
「よくやった、あと少し」
俺は足もとに片手をつき、石の目地を指先でなぞる。
「土縛(どばく)」
石畳の砂が指の合図に沿って寄り、男の足首の周りで固まった。膝が折れる。サビーネの警告矢が男の耳の横で地面に刺さる。ハーゲンが肩まで抱えて倒し、短剣をはらって離した。
袋の束を確認していると、屋根の端から別の影が身を投げた。短い鉤爪。倉庫筋で見た三角の刺繍。まっすぐクロへ――。
「させない!」
投石。いつものように手を振るだけでは届かない距離だった。〈微風〉で弧を浅くし、屋根の縁で石が跳ねて角度を変える。鉤爪の手首を打つ。抜かれた爪が石畳に転がり、影が着地を崩した。ミーナが素早く脚を払う。クロは一歩も下がらず、耳だけ倒してこちらを見上げる。
「だいじょうぶ」
「大丈夫。偉い」
外套二名を拘束し、屋台裏を検める。粗末な木箱、粉袋の口、薄い布。底板の裏に、薄い石板が隠されていた。記号と線、日付。配り先の印に、街沿いの倉庫名が三つ。
「写しを取る」とイリア。小刀で石の擦れを写し紙に移す。
その時、通りの端から衛兵の笛。ランベルトが駆け、状況を見て頷く。「連行する。石板も預かろう。――子どもに粉袋を触らせるな、の張り紙はそのまま増やす」
「お願いします」
市場の空気が落ち着くと、荷馬車がゆっくり通り始めた。クロは袋の山を一つずつ嗅ぎ、異変のない袋には前足で「よし」の印をつけるみたいに軽くぽん、と触れた。見ていた子が真似をしかけて、ミーナの視線に気づき、手を引っ込める。クロはその子の足元に回り、尻尾を立てて「だめ」と小さく鳴いた。子はうなずいた。
◆
関所の鑑定座。セルジオと座付きの術師が石板と粉を調べる。薄い液をたらすと、粉の一部が紅色に染まった。
「麻糖に“下げ香”だな」と術師が言う。「鼻を地に引く。混ぜ物の比率が昨日と違う。……少年、お前の風は細かい。煙を持ち上げた線の細さ、見ていた」
俺は背筋を伸ばした。「教わりたいです。風以外も、使えるなら」
セルジオが術師に目で合図する。術師は小さな盆を出した。水珠、砂粒、草の穂、火打石の粉。ひとつずつ、触れずに動かしてみよ、という目。
水珠は、手のひらをかざすとゆっくり震え、数息で端へ寄った。砂は指の示す線に集まった。草の穂は風で揺れるだけで、まだ掴みが浅い。火打石の粉は……手が躊躇したところで、クロが盆の縁に上がり、ひげをすん、と当てた。
ぱち、と小さな火。驚くほど小さな、針の先ほどの電気。火花はすぐに消えたが、粉の上に円の跡が残る。
術師が笑う。「猫は、雷気を少し持っているようだ。気を荒らさぬよう、短く使え。お前は――風と土、水に適性がある。光は術符を介せば触れる。火はまだ触るな」
「わかりました」
「初歩は三つ。風は“糸”、土は“結い”、水は“寄せ”。光は“灯し紋”で合図だけ」
術師が小さな紙片を四枚渡した。簡易の術符だ。指先でなぞるべき線が記されている。クロには砂粒ほどの丸い金属。「静の鈴。落雷ではない、ごく弱い放電が先に出る。これを首輪につけておけ。音でわかる」
クロは鼻で鈴を押して、誇らしげに胸を張った。「ぴか、する」
「ほどほどにね」とセレナがいつの間にか背後に立っていて、笑った。「喉は大丈夫。昼は薄い茶を」
◆
ギルドへ戻ると、ミレイユが掲示の束を抱えていた。「朝市の張り紙、追記した。“袋の口を結び直すときは布越しに”。門にも貼る」
イリアは写しを広げ、石板の線を街の図に重ねる。「裏倉庫がもう一つある。ここ――市場裏の水路に近い角」
ハーゲンが短く息を吐いた。「昼の人混みが引く前に、行く」
「私も」と言いかけた時、クロの首輪の鈴がかすかに鳴った。誰も触れていない。尻尾がぴんと上がる。
「なにかくる」とクロ。
窓の外、曇り空の下で風向きが変わった。市場側から、薄い甘さがひと筋だけ。俺は術符の一枚を指でなぞり、胸の内側で言葉を整える。
「灯し紋」
人の背より高い場所に、指先ほどの白い光がぽっと灯り、すぐ消えた。サビーネがそれを見てうなずき、弓を取り、ミレイユが扉の鍵を回す。
「じゃあ、行こう」と俺はクロに目をやる。
「いく。ぴか、すこしだけ」
ひげがわずかに震え、鈴がほんの少し鳴った。心臓の鼓動と同じくらいの小さな音。俺は深く息を吸って吐き、術符を袖にしまう。
風、土、水。やれることは増えた。やることも増えた。街の中で戦うなら、刃だけじゃ追いつかない。俺たちは扉を開け、通りへ出た。
市場のざわめきの裏に、黒い灯がまだ燃えている。今日のうちに、もう一つ消す。そう決めて、歩幅を合わせた。クロの足音が、靴の音に重なって小さく弾む。鈴は鳴らない。いい兆しだ。
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