第22話 「黒灯(こくとう)を落とせ」
暮色が石畳に沈んで、露店の声がひとつずつ引いていく。市場裏の細い抜け道を抜けると、染物小路の湿り気がふっと顔に触れた。藍の匂いの奥に、砂糖を湿らせたような甘さがうすく混じる。鼻の奥に刺さるほどではないのに、気づくと胸のどこかがざわつく。あの匂いは、馬を下へ引っ張る。
「ここだね」
クロが路地口で止まって、尻尾をぴんと立てた。前足の肉球で石の継ぎ目をちょん、と触れて、足裏で確かめる。鈴は鳴らない。肩が上がっていない。いい調子だ。
サビーネは屋根へ、俺はクロと地上から。ハーゲンが短くうなずいて、背に背負った槍を壁に沿わせる。乾燥塔は二層。上段に黒く煤けた明かり取りの覆い。昼はただの汚れに見えるのに、夜になると灯が腹の底で脈を打つみたいに浮いて見える。昨日落とした“黒灯”と造りが同じだ。ここが点(つ)いている間、街のどこかで“合図”が巡る。
扉に耳を当てると、中で道具が擦れる低い音が一度。ひとり。火の番だろう。クロが鼻先を扉の下に寄せて、かすかに声を落とした。
「すこし、あまい」
「分かってる。急ごう」
吸うより先に、息をわずかに吐いて、手のひらを胸の前で返す。空気の流れを灯の周りだけ細く曲げる。炎が吸い込む息を弱らせるための“風”。無理に吹き消さない。呼吸を乱して、芯の勢いを落とす。
——ぱち。灯の中で、小さな骨が折れるような音。吸いが浅くなった。
戸板が軋み、隙間から目だけがのぞく。「誰だ」
「染めの相談です。灯りが強すぎると色が転びます。少し落としてもらえますか」
曖昧に、けれど礼を欠かさず。間をつくるための言い方。屋根の縁で、ことり。サビーネの合図——上は取れている。
覗き目が動いた瞬間、布を挟んだ細い棒を鍵舌の根に差し込み、角度を半分だけねじる。かちり。音は僅かに鳴ったが、外のざわめきに紛れる。戸が開くのと同時に、クロが黒い影のように滑り込んだ。灯台の脚に身体を沿わせ、柱と柱の隙に身を薄くして止まる。番の男が振り向きかけるより早く、俺は棒で手首を払った。短剣が床で跳ねる。拾わない。足の甲で遠くへ蹴る。
「何者だ」
「灯の番、今夜は終わりだ」
男の足が半歩前へ出る。踏み込みの型を知っている。迷いがない。肩の起こりに合わせて、上からドン。乾いた音とともに矢が柱手前に突き、木屑が散った。サビーネの「そこで止まれ」の矢だ。男の視線が一瞬だけ上に跳ねて、俺は覆いの縁へ手を伸ばす。黒いガラスをそっとずらし、細い吸気の口に、あらためて“風”を滑らせる。炎の腹がしぼみ、赤が沈んでいく。
「クロ」
「うん」
猫の息は軽い。柱脚に前足をかけて、ふっと短く吹く。その息を俺の“風”が拾って、火芯に沿ってすべる。じゅ、と湿った音。暗さが塔の内側に落ちた。男の重心が揺れる。肩を棒の腹で受けて滑らせ、袖をひねって足の向きを外へずらす。床へ叩きつけない。ここで音を立てるのは下策だ。体勢を崩すだけで十分。
「外に出ろ」
屋根の上からサビーネの声。矢は二本目がいつでも降りる位置にある。男の喉仏が上下し、火打石を探していた指が止まった。火を守るのが仕事。目がそう言っている。
覆いを元に戻す。黒い指の輪がガラスに薄く残っていた。布で拭うと、輪の形はすぐ壊れて、ただの汚れになる。柱の根元に薄い蝋板が差し込まれているのを見つけて、引き抜いた。刻みは短い符丁で、刃物の先で急いで刻んだ字だ。
——《夜三/荷二/黒◦/南脇》
サビーネが屋根縁から身を屈め、蝋板を受け取って眉を寄せる。
「三本目。『南脇』は倉庫街の細い路。きっと、そこにもう一本」
「刻は?」
「詰まってる。でも先に灯を落としたのは大きい。合図の線が切れた」
男はまだ睨んでいる。ここで縛るか、見逃すか。ハーゲンが無言で首を横に振る。騒ぎを広げるな、の合図だ。今日は灯と荷の筋を絶つのが先だ。
「今夜はやめろ。家にいれば、命は残る」
俺が言うと、男の視線がわずかに下に落ちた。肩の力がほどける。火を守りたいだけの目だ。刃に執着はない。
外に出る。夜気が藍を薄め、甘さを和らげる。クロが石畳をとん、とんと踏んで、前足をぴたりと揃えた。
「おわり?」
「ひとつ終わり。もうひとつ」
「いく」
塔の上のガラスは、ただの黒い板に戻った。風が通るたび、煤の匂いが薄くなる。市場のざわめきは消え、路地の角ごとに夜の匂いが入れ替わっていく。布の湿り、古木の乾き、川風の冷え。クロは時々ふり返って、俺の歩幅に合わせた。尻尾がゆっくり左右に揺れる。鈴は鳴らない。
倉庫街へ向かう途中、路地の曲がり角でハーゲンが一度だけ立ち止まり、暗がりを横目で掃いた。気配が薄く動いたが、踏み込んでこない。狙いは灯と荷、正面の争いではないらしい。サビーネが屋根を移りながら手短に合図し、俺たちは歩調を緩めずに抜ける。
倉庫街の入口で、クロがふと足を止めた。前足を持ち上げて、空中でくるりとひと回し。小さな仕草だが、彼の中では「匂いが増えた」の合図だ。確かに、甘さが濃くなる。角を一つ曲がるごとに、舌の奥に鈍い刺激が残る。
「急ぐ」
言葉が短くなる。夜はまだ深くない。合図の刻に重なる前に、もう一本を落とす。黒い灯を、街から消す。クロが胸を張り、尻尾の先で「まえ」と書いたみたいに見えた。俺はその背を追って、歩幅を半歩だけ伸ばした。
◇
倉庫街の南端は、夜になると音が痩せる。昼間は樽と声でぎゅうぎゅうだった路地が、今は板壁の乾く音と、水路の細い流れだけになっていた。角をひとつ曲がるごとに、甘さが少しずつ厚くなる。舌の奥がうずうずする種類の匂いだ。
「南脇は、あの細道だ」
サビーネが屋根の縁から指先だけで示す。雨樋を踏む足が軽い。ハーゲンは壁際に影を落とし、通り過ぎる気配だけを細く残す。
行き止まりに見える短い路地の奥に、黒い覆いを被せた灯があった。昼間なら倉庫番でも見逃すような煤の塊が、夜だと喉の奥でひそひそしゃべるみたいに目を引く。灯の下には、祭壇めいた台。蝋で固めた白い束が三つずつ。指で触れれば崩れそうな粉——“甘粉”。線に伸ばせば馬の鼻は迷う。人の足も。
見張りは三。外套の袖口に短い鞘。荷車は一台。馬が鼻を低くして、前蹄をじり、と引いた。嫌な合図だ。匂いの向こう側に空気の抜け道があるのを感じる。ここで灯が唆(そそのか)せば、通りの流れがぐしゃりと崩れる。
「クロ、風の向き」
俺がささやくと、クロは路地の入口で小さくしゃがみ、石の目地に鼻を寄せて、すっと顔を上げた。
「むこう、うえ」
上へ逃げる流れ。なら、灯の腹で匂いを切ってやれば、馬の鼻先から甘さが遠のく。
息を短く吐いてから、手のひらを胸の前で返す。押し倒すんじゃない。灯の覆いに沿って薄く流れを作る。炎が吸う呼吸だけ、こっそり弱らせる。火の番が聞き取れないくらいの、静かな“風”。
馬の耳がぴくりと動く。鼻先が、紙一枚ぶん上がる。脚の芯に力が戻る合図だ。
屋根の縁で、ことり。サビーネの合図。見張りがそちらを見上げるほんの一瞬を、灯の側面に身体をすべらせて拾う。覆いの縁に指を差し込んで、吸気の口を半分だけ露わにして、そこへ“風”をすっと差し込む。炎の腹が、きゅっとしぼむ。
「いまだよ」
クロが灯台の脚に飛びつき、柱に身体を沿わせて、するりと半周。小さな体重でも重心がずれる。俺は覆いをひと息で引き上げ、芯の赤に“風”を細く撫でつける。じゅ、と小さな湿った音。
闇が、灯の内側からふっと落ちる。
「誰だ!」
荷車の男が短剣を抜いた。踏み込みが速い。間合いが短い。間に合わないものは、形で殺す。棒の腹を斜めに出して、手首の軌道を横に払う。刃が石に跳ねる音が、路地を黄色く揺らす。もう一人が背から小さな弩を引き抜く。サビーネの矢が先に行った。屋根の上から、地面にドンと警告。硬い板がべし、と鳴って、弩の手が半拍だけ遅れる。狙い直す余裕は与えない。
残った見張りが口笛を咥えようとした瞬間、黒い影がひらり。
「にゃっ」
クロが跳ねて帽子をぱし、と叩き落とす。笛が石で転がる。猫は前足で笛をちょん、と押さえ、きっぱり顔を上げた。小さな胸がふくらむ。本人は真剣なのに、可笑しさが喉に刺さるほど愛らしい。けれど、その一拍の緩みが、場をこちら側に傾けた。
「武器を地面」
言い切るより速く、サビーネの二本目が梶棒の先に突き立った。逃げの足を止めるための矢。深くは刺していない。けれど、意思は折れる。荷車の男の肩がふっと落ちた。
火は消え、黒い覆いはただの塊に戻った。俺は白い束を一つずつ布で包んで、袋へ。台座の裏に薄い蝋板。爪の先で仕上げた急ぎの刻み。
——《荷=砂・粉/狐印/北門三》
「狐印……北の並びの倉庫だな。『三』は番地か、三度目の合図か」
サビーネが屋根から降りて蝋板を受け取り、眉を寄せる。ハーゲンは黙って、外套の下から布紐を出した。俺は男たちの手首を確実に縛る。逃げ癖のある者は、結びの甘さで嘘をつく。余らせず、きつくもしない。抜けられない、けれど血が止まらない程度の手加減に、手が覚えた感覚で落としていく。
「……俺たちは運べと言われただけだ」
年かさの男が、縛られながら低く言う。袖口の革輪に灰色の指の刻印。〈灰指〉の下っ端に渡される誓い輪。目は刃より火を見てきた目だ。それでも、路に砂糖を置けば、馬も人も倒れる。
「路は誰のものでもない。粉は紙の上だけにしてくれ」
俺が言うと、男は目を伏せた。短い沈黙。サビーネが矢尻を布で拭って、矢筒に戻す。
「呼ぶわよ」
路地の角に埋められた鉄輪を、指先でかん、と叩く。二息も経たないうちに、短槍の光が角からのぞいた。ランベルトだ。副官と一緒に影を伸ばして、すぐ状況を飲み込む目をした。
「黒灯か」
「落とした。三人のうち二人は拘束。甘粉と蝋板は押収。『狐印』『北門三』」
俺が袋と蝋板を渡すと、ランベルトはすぐ副官に目で命じ、担架と袋を受け取らせた。
「受け取った。あとはこっちでやる。……猫、いい仕事だ」
クロは前足をそろえて、胸を張る。
「えっへん」
衛兵のひとりが笑いをこらえて、帽子のつばを人差し指でこつりと叩く。緊張がほどけすぎない、ちょうどいい緩み方。サビーネが屋根に視線を投げて、空の色を測る。
「刻、まだ動ける。『狐印』を見るなら今のうち」
荷車は押収。黒灯は覆いごと外され、衛兵が運ぶ。路地に残ったのは甘さの名残と、濡れた板の匂い。そして、灯のない夜の色。俺たちは路地を離れ、倉庫印の並ぶ北側へ向かった。
角をひとつ抜けるたび、クロが小走りで先に出て、振り返る。尻尾の先が星みたいにぴんと光って見える。段差の手前で必ず立ち止まって、俺が追いつくまで待つ癖を、もう覚えた。可愛い上に、助かる。
「寒くなる。川風が降りてくる」
ハーゲンが低く呟く。確かに、通りの匂いに水の気配が増えた。板壁の向こうで、樽が擦れる音。夜でも動く倉庫は少なくない。その中に、印が三つ並ぶ“狐”の一帯がある。
「見張りの輪、三つはあるはず。屋根、窓、裏手」
サビーネが歩きながら短く段取りを重ねる。
「正面は避ける。気配は薄く、騒ぎは小さく。荷と札を先に」
「了解」
声が短くなる。靴底が石の目地を拾う。北へ行くほど冷えが増す。クロがくしゃみをひとつ。鼻先を前足でこすって、また胸を張る。
「だいじょうぶ」
「頼もしい」
“狐印”の並びは、思ったより明るかった。入口の灯りじゃない。外壁の板が新しい箇所だけ、夜でも浮いて見えるのだ。今日、付け直したばかりの色。真ん中の棟の脇に、古い搬入口。戸口の桟だけ、木目が若い。
「真ん中だな」
屋根、窓、裏手。それぞれに薄い影。人は少ないが、動きは淀みがない。素人の寄せ集めではない。
俺たちは正面を外し、水路の板橋から裏へ回った。幅は猫二匹ぶん。クロは板の端に鼻をつけ、ぴょん、と軽く跳んで渡る。肉球が板に触れるたび、とん、とんと小さな音。可愛い音だが、夜は遠くまで響く。だから一度だけ。二度目は音を殺すみたいに、そっと。
裏戸の合わせ目から、粉の匂いがわずかに漏れる。袋の口を開けたままにしている匂いだ。中の足音は二つ。片方は若い。俺は戸の隙に棒の先を差し込んで、軽くこん、と叩いた。音が止まる。戸にかかった体重が動く。閂がある。
「火の見回りだ。戸を開けて」
返事はない。戸の内側で、息が浅くなる音。よし。俺は戸から半歩離れ、空気の流れを細く絞って、粉の匂いを部屋の奥へ押し返した。開ければ、匂いでむせる。火は起こしにくい。
内側で咳がふたつ。閂の鉄が鳴る。戸が開く瞬間、俺は扉に掌を添えて押し、相手の肩に身体を預ける。重くぶつからない。足を半歩引かせるだけの力加減。クロがするりと滑り込み、奥の足元に回り込んだ。
梁の上で、かすかに金具が鳴る。サビーネが上を取った。窓にはまだ気づかれていない。俺は視線だけで部屋の隅々を走らせた。粉袋の列、棚の足、柱の隙。蝋の光が床に薄く滲む。どこかに札がある。夜の合図は、文字で残す。
「火は使わないで」
言い終える前に、若い方の腰から短い刃が抜かれた。低い角度。床板すれすれ。ためらわない角度だ。棒を下から滑らせて刃の横腹に当て、上へ弾く。全部は殺せない。脇に熱い線。布の下でじわ、と湿る。痛みは浅い。クロが小さく唸って、若い男の足首に前足をかける。方向が半歩ずれて、踏み込みが空を切った。
梁から、弓弦の低い鳴り。
「次、動けば的になる」
サビーネの声は小さいが、部屋の温度を一段落ち着かせる力がある。年長の男の肩がわずかに下がった。若い方の歯がきしむ音。目だけはまだ燃えている。
俺は脇の布を押さえながら、粉袋の列を指さした。
「これは押収する。人に怪我はさせないで帰る。けれど次に“灯”を立てたら、腕輪ごと持っていかれる」
若い目が揺れる。年長の視線はすでに床へ落ちていた。ここで無理に全員縛るより、荷と札を押さえて、筋を切る。そういう夜だ。棚の足を指でこん、と叩く。空洞の鳴り。指の先が覚えている響き。棚を少し持ち上げると、柱と梁の隙間から、薄い蝋板がすべるように落ちた。
——《北門倉庫/狐印/次:夜五/合図:黒◦×二》
まだ続きがある。けれど、今夜はここまで止めるだけでも大きい。粉袋は紐で束ね、白い束は別に布で包む。押収の紙を一枚残す。裏戸の内側に貼れば、関所で話が速い。
「帰るぞ」
サビーネが矢を抜き、矢尻を布で拭う。ハーゲンは戸口に立って、気配を薄く広げる。クロは粉袋の匂いをもう一度嗅いで、鼻をしかめた。
「あまい。きらい」
「今日はきらいでいい」
板橋に戻る前、クロがぴたりと止まって、耳を前へ立てた。
「うえ」
屋根瓦が、ごくわずかに鳴る。走る影。追えば捕れる距離。けれど、荷と札が先だ。俺が首を横に振る前に、サビーネの顎が同じ方向へ動いた。
「追わない。線は切った。——次へ繋げる」
冷えた川風が、倉庫印の並びを一度撫でていった。甘さが薄らぐ。袋の重みは、街の重みだ。俺たちはそれを背負うみたいに、北門へ向き直った。
◇
北へ歩くほど川の冷えが強くなる。板壁の隙間から、樽が擦れる音がこぼれ、夜の匂いに木と麻の粉っぽさが混じった。クロは荷袋の口を前足でちょんと押さえ、「もつ」と言わんばかりに胸を張る。小さな番兵みたいで笑いそうになるが、助かる。袋は軽く見えて重い。
北門の灯の下で、ランベルトが待っていた。副官ふたり。受け渡しは手短に済む。蝋板は革表紙の帳面に挟み、粉袋は封を確認してから兵舎へ。
「『狐印』の三棟は俺が外側を押さえる。お前たちは中を軽く見るだけで戻れ。怪我は?」
「かすり」
脇の布を押さえる。ランベルトは一度だけ頷き、腰袋から細い包帯を出した。
「貼っとけ。冷える夜だ。……鐘が五つ鳴ったら合図が増える。札の“夜五”と噛み合うなら、二手に分かれる」
包帯を巻くのは一分で終わった。血は止まる。クロが顔をのぞき込んで、鼻先で布の端をつつく。
「いたい?」
「大丈夫」
「よかった」
彼は安心したように目を細め、また袋の番に戻った。
“狐印”へ引き返す。真ん中の棟——桟の新しい裏口だ。さっきの若者と年長は、もう静かだろう。裏の板橋は湿って滑りやすい。クロは一度だけ肉球で確かめてから、音を立てずに渡り切った。
中は薄暗い。粉袋が列で積まれ、脇に木箱。その一つに、狐の焼印。やはりここだ。サビーネが窓から身を入れ、梁に手を掛けたまま低く言う。
「火種の器具、見えてる?」
「火打ち石はない。……油壺がひとつ。蓋は閉まってる」
油は厄介だ。粉と油、灯りが揃えば、ただの粉が刃に変わる。ハーゲンが口を開く。
「油は兵舎へ渡す。粉は関所。木箱は印の写真を書き写してから封だ」
その時だ。表の通りで、車輪の軋みと短い掛け声。扉の向こう側に影が三つ。梶棒を押す音。戻り荷か、受け渡しを急いだか。サビーネが手で三と示し、矢を一本抜いた。俺は粉袋の列から離れ、扉の柱の影に身をすべらせる。クロは箱の陰で小さく丸くなり、尻尾だけぴんと立てた。
閂が外れる音。扉が少し開く。最初の影が中の匂いを嗅いだのか、足を止める。次の影が肩で押し、三人目が苛立った息を吐いた。
「急げ。『黒◦×二』は五つだ」
蝋板の刻みと同じ言葉。やはり今夜は段取りを詰めてきた。
扉が開き切る前に、サビーネの矢が上枠の梁にどすん、と刺さった。音で動きを止める。俺は柱から出て、掌で扉を押し戻すと同時に一歩踏み込む。ぶつからない。足の置き場だけを奪う。先頭の男の肩がぐらりと揺れ、梶棒がわずかに傾く。
「武器を置いて両手を見せろ」
ハーゲンの声は低いが遠くまで通る。二人目が腰に手をやる。短い刃の角度。床板沿い。さっきの若者と同じ癖。棒の腹で手首を打つ代わりに、今日は手首の上を叩き上げる。刃の背が梁に当たって跳ね、鈍い音を立てた。
三人目が火打ち袋を引き抜いた。火花だけでも厄介だ。粉の近くは禁物。咄嗟に、喉の奥で言葉を組み、指先に冷たい重みを引き寄せる。水をひと筋、糸の太さで落とす。火打ち石に触れる瞬間にだけ、ぴと、と濡らす。ぱち、と乾いた音が湿って消えた。
男の目が驚きに開く。その一拍で勝負はつく。サビーネの二本目が火打ち袋の口を射抜き、黒い小袋が床に落ちた。ハーゲンが梶棒を足で押し戻し、俺が三人の間に身体を入れて動線を切る。クロは箱の陰から飛び出し、ころころ転がる木の楔を前足で止め、胸をふくらませた。
「にゃっ(とめた)」
「助かる」
思わず笑いがこみ上げるが、表情は崩さない。三人は戦う気をすでに捨てていた。外に哨戒がいないのを知っているのだろう。兵が回っている。
荷の確認は短く。粉袋は封、木箱は印を写す。狐の刻印を炭筆で写し取る間、クロが箱の縁に前足をかけ、真面目な顔で見張りを続ける。尻尾の先がゆっくり左右に揺れる。落ち着いている証拠だ。
封印紙を貼り、蝋をひと粒溶かして印を押す。扉の外で槍の柄が石を叩く音。ランベルトの合図だ。受け渡しは二十数えるあいだに済んだ。兵が三人、縄と担架を持って入る。俺たちは極力言葉を減らし、兵に荷と人を渡した。
「『黒◦×二』に合わせて、北側と川端へ回す。……五つが鳴る」
ランベルトが空を見上げる。薄い雲が走って、月は細い。鐘の音が乾いて響く夜だ。
俺たちは兵舎脇の広場で息を整えた。水を回し、包帯をもう一度だけ締め直す。サビーネが矢羽の乱れを指で整え、ハーゲンは槍の石突を軽く布で拭う。クロは俺の膝に前足を置き、顔を覗き込む。
「まだ、いく?」
「もう少しだけ」
「うん」
彼は頬をこつんと当て、すぐに地面に下りた。
鐘が一つ。少し間をおいて二つ、三つ。空気がうすく張り詰める。四つ目の余韻が消えかけた時、ランベルトの副官が駆け戻ってきた。
「北の堀端と、川向こうの乾燥屋根。黒い覆い、二つ」
蝋板どおりだ。同時に立てる気だ。
「分かれる」
サビーネが短く言い、矢を二本抜いて腰へ差す。ハーゲンがうなずく。
「俺が堀端。お前らは乾燥屋根。猫はアキラの影」
「了解」
口の中が熱くなる。夜の仕事は、ここからが詰めだ。
ランベルトが手短に路順を示す。
「乾燥屋根は藍の工房の並び。塔の一つ南。上がり梁に人が張り付く。堀端は北の古い舟溜まり。馬が多い。——どっちも灯から先に手を付けろ。人は後」
「行くぞ」
地面を蹴る音が三つ。クロは軽い。サビーネは屋根へ、俺とクロは乾燥屋根の路地へ。藍の匂いが強くなる。昼の湿りがまだ板の裏に残っている。屋根の黒い覆いが見えた。塔ひとつ南。覆いの脇、梁に人影が貼り付いている。上で火を守るつもりか。
息を短く吐いて、掌を返す。灯の吸い口に“風”を薄く差し込む。匂いは上へ逃がす。炎の腹をなで、呼吸を弱くする。覆いの重心がわずかにずれる角度まで——そこで、屋根の上の影が火打ちの袋を出した。火花を落とす気だ。
クロがぴょん、と石台に跳び、前足で覆いの縁をちょい、と叩く。ほんの紙一枚。けれど、重心が変わる。火花は覆いの外へ、石の上へ。俺は指先に、さっきと同じだけの水を呼び、火打ちの金を濡らす。ぱち、と小さな音が湿って消えた。
上の影がこちらを見下ろす。ためらいを知らない目。刃物の音。飛ぶか、降りるか。どちらでも、灯が先だ。覆いの縁に指を差し込み、芯の赤を狙って“風”を細く押し込む。じゅ、と音。炎が落ちる。同時に、屋根の向こうで矢が鳴った。サビーネだ。上の男の足が揺れ、梁に手を掛けたまま座り込む。逃げ道は屋根の端だけ。そこにはハーゲンはいないが、衛兵の足音が近づいている。
「灯、落ちた」
「次いこう」
クロが尻尾で合図する。堀端の方角から、短く尖った金属音。槍の環が柱を叩いた音だろう。合図の時間だ。
鐘が五つ目を言い終える。同じ瞬間、川風が方向を変え、湿った藍の匂いが路地に広がった。包帯の下の皮膚が冷たくなる。深呼吸はしない。短く吸って、短く吐く。サビーネが屋根の縁から顔だけ出して、顎で北を示した。
「堀端は止まった。兵が入った。——戻るよ」
戻り道、クロがひとつだけ寄り道をした。灯台の脚に残った煤の丸を、前足の先でそっと撫で、すり、と匂いを嗅いでから、ぴっと尻尾で払った。仕事の締めのような、真似事のような仕草。思わず頭を撫でる。
「よく見てた」
「えっへん」
胸を張る姿が、夜の影の中でも頼もしい。
北門に着くと、兵舎の前は静かだった。押収の袋が三つ、封が二重。ランベルトが帳面に刻みを写している。俺たちは短く報告し、蝋板の“黒◦×二”に横線を引いた。
「まだ灯はあるかもしれんが、今夜はここまでだ。……少年、傷は」
「浅い」
「医務へ寄れ。猫は——」
「げんき」
クロが答える。ランベルトは思わず笑いをこらえ、帽子のつばを指で弾いた。
「よし。助かった」
関所を離れると、川の音が柔らかくなった。藍の工房の灯がひとつ、遅れて消える。市場のざわめきは戻らない。夜はもう深い。ギルドへ向かう角で、サビーネが少しだけ歩幅を緩めた。
「今日は、うまく切れた。明日に繋がる」
同じことを思う。けれど、終わりじゃない。〈灰指〉は街の縁でまだ息をしている。黒い覆いは、また別の屋根に上がる。だから——今夜は、ここまで。続きは明日。クロが俺の膝に前足をちょん、と置き、顔を上げる。
「ごはん?」
「帰ったら、な」
「やった」
ギルドの灯が見えてきた。扉を押すと、台所から湯気。ミレイユが気配でこちらを見、セレナが手を洗って待っていた。次の一息は、そこで整える。
◇
ギルドの扉を押すと、湯気と肉の香りが迎えた。受付前の卓には帳面が二冊。ミレイユが目だけで合図し、こちらの濡れた外套を椅子の背へ掛けさせる。
「戻ったね。蝋板は?」
「三枚。『南脇』『狐印』『黒◦×二』」
卓に並べると、ミレイユはひとつずつ薄紙で写し取り、副本の枠に差し込んだ。黒い刻みが紙に移るたび、街の地図の端が少しずつ太る。
「粉袋は兵舎経由で関所へ。……怪我」
「かすり」
言い終わるより早く、白衣の影が現れた。セレナだ。手を洗いながら、まっすぐこちらを見る。
「椅子に。深くはないけど、今なら痛まずに済む」
脇の布を外す。ひやりとした液が触れ、すぐ温かい布が重なる。糸でたぐったような痛みが一度だけ走り、消えた。
「はい、おしまい。今夜は熱い茶を少し、甘いものは控えめ。猫さんは水だけね」
「のむ」
クロが素直にうなずくと、セレナは目尻で笑ってから、包帯の端を丁寧に留めた。
奥の卓で、サビーネとハーゲンが簡潔にまとめる。倉庫の位置、合図の時刻、兵との連携。ミレイユが筆を止め、顔を上げた。
「黒灯は二本落とせた。『狐印』の倉庫は明朝、関所立会いで封鎖に移行。街側の掲示は“粉は路に置かない”を太字に差し替える。……夜五の後は?」
「堀端も乾燥屋根も、兵が回収を進めてる。逃げ足の影がひとつ、屋根伝いに北へ」
「追ってない。蝋板が先」
俺が言うと、ハーゲンが顎を引いた。
「明けで、北門裏の舟溜まりを見る。船で外へ出す線も捨てない」
話し合いが切れたところで、台所のリナが湯気の立つ小椀を二つ持ってきた。薄いスープは塩を控えてある。クロの分はさらに薄い。
「猫さんはこっち」
「ありがと」
クロは前足を揃えて礼をしてから、慎重にひと口。目を細める。
「おいしい」
疲れが少しほどけた。俺も喉を湿らせ、息が楽になるのを待つ。
その間に、ミレイユが写し終えた副本を細紐で束ね、俺に渡した。
「関所控え用。明朝一番でセルジオに。——あ、これ預かりね」
彼女が差し出したのは、黒い布袋。先刻クロが転がすのを止めた木の楔や、笛の欠片、灯の覆いから落ちた煤片が入っている。
「証拠じゃない。君の“働きの印”。台所の棚に並べると、猫さんの顔がさらにえらくなる」
クロは胸を張り、尻尾を高く上げた。
「えらい」
外に出ると、空気が柔らかかった。雨は来ない。白樺亭までの道を、クロが先に立ち、小さな横断歩道の石を一つずつ踏んでいく。踏むたび、とん、とんと軽い音。後ろを一度だけ振り返って俺の歩幅に合わせるのが、今夜も変わらない。
白樺亭の戸を開けると、マルタが顔を上げた。
「おかえり。遅かったね」
「少し、長引きました」
「その顔なら大丈夫。粥を少し温め直すよ。猫さんは塩抜き」
「のむ」
配膳を待つ間、帳場に紙を一枚借りて、今夜の要点を三行で落とした。——黒灯二/粉の押収/狐印の封。書くたびに、指の震えが収まる。
飯のあと、フーゴの店の前を通る。灯は落ちているが、奥から金属の乾いた音が漏れた。扉は叩かない。代わりに明朝の用を頭の中で揃える。包帯の替え、紐の予備、薄手の手袋。粉の封の補助に布も増やそう。
部屋に戻ると、クロが窓辺に飛び乗り、ガラス越しに夜を見た。街の灯は少し減って、暗さが戻っている。黒灯の覆いは、もうどこにも見えない。
「きょう、ひとつじゃなかった」
「三つ、だな」
「また、できる?」
「できる。——でも、走らないで」
「うん」
返事は短く、頼もしい。
床に横になる前に、蝋板の写しをもう一度だけ確かめる。《夜三/荷二/黒◦/南脇》《荷=砂・粉/狐印/北門三》《次:夜五/黒◦×二》。線で結ぶと、点が街道の手前で止まる。外へ出る道は、まだ隠れている。
枕元に副本の束を置き、灯を落とす。クロが胸元に丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をちょんと押した。
「アキラ。あした、はやい?」
「関所に寄ってから、北だ。川のそば」
「ぼく、みずのにおい、わかる」
「頼りにしてる」
返事の代わりに、喉の奥で小さく鳴いた。鼓動が落ち着き、目が重くなる。
市場のざわめきは遠い。今夜の街は、静かだ。黒い灯は消え、甘い匂いは薄くなった。——この静けさを続けるために、明日も動く。そう決めて、目を閉じた。
*
明け方、短い笛。交代の合図が通り過ぎ、床板がわずかに鳴る。クロの体温が腕に伝わって、心臓が静かに揃う。ほんの数息だけ目を閉じたまま、そのリズムを数えた。
起きれば、また街が待っている。狐の印の先、舟溜まり、川風。そこに、まだ消えていない“黒”が残っているはずだ。今度は灯の覆いではなく、運びの根っこに手をかける。
息を整え、体を起こす。今日も、足で確かめて進む。クロが「いく」と短く言い、尾を上に掲げた。
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