第20話 「観音橋・二日目の影」

 朝の白樺亭は、湯気とパンの香りでしっとりしていた。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。


「昨日の“旅の人へ”の欄、評判よ。今日は天気がもつといいね」

「昼まではいけそうです」


 クロは椅子の上で前足をそろえ、湯気にむけて鼻をぴくぴく。

「すこし、あつい」

「冷ましてからな」

 小さくちぎったパンを皿に置くと、前歯でちょんちょん齧って、満足した顔をした。


 角の果物屋。フィオナが瓶の口を布で拭き、光に透かす。

「薄め一本。猫さんは塩なし。――門の横、『夜は橋をいじらない』の札、今朝も目立ってた」

「助かります。今日、橋の欄にもう一行足します。『屋根は石工の許可』」

「いいね。干し果皮はおまけ」


 ギルド。ミレイユが札束を指で揃えた。

「観音橋は二日目。午前は屋根二か所の再見と、橋裏の見回り。午後、往来が増える時間に“鐘の説明”の簡易版を出す。――写しはイリア」

 白衣のセレナが喉の色を見て、短く頷く。

「息を先に吐いてから声。今日は粉が少ない日、でも水はこまめに。指の包帯は外側結びで一周」

「はい」

 クロの椀に水が注がれる。

「のむ」


 観音橋詰所。レオンが帳面を開いて待っていた。

「夜の間は静か。巡回の衛兵が屋根の影を二度見てる。……午前は市場角の屋根から」

 石工の親方が短い梯子を肩にのせて現れる。

「昨日の位置、踏む順で上がってくれな」

「了解」


 市場角の屋根。瓦は乾いて軽い。庇の奥、昨日の手鐘があった場所は空だ。

 目を細めると、棟木の影に細い糸。指先ほどの薄い灰が付いている。

「糸引きか……」

 つまもうとして、やめた。

 布を広げて糸の下にそっと差し入れ、片方の端を切る。灰がふわりと揺れ、屋根の外へ流れそうになった。

 手のひらを前に出し、短い息で空気を滑らせる。灰は布の上に戻り、静かに落ちた。

「回収できました」

 下からクロが目だけ出して見上げる。

「おちない。えらい」

「ありがとう」


 倉庫並びの屋根。昨日の三角木片の差し込みは抜いたはずだが、今日は棟の際に小さな紙切れが張ってある。

 指でめくると、子どもの字で《ならす》と走り書き。

 イリアが下から顔を上げる。

「“鐘をならす”って意味でしょうね。……札の『小さな鐘は使わない』、位置を上に上げます」

「頼む」


 橋裏へ降りる。水面は穏やか。

 橋脚の間に、小舟が一艘、帆布をかぶせて停まっていた。持ち主は釣り人の格好だが、視線は上ばかり見ている。

 レオンが近づいて声を落とす。

「橋の下での長居は今日から禁止。掲示も出した」

 男は肩をすくめ、小舟を綱一本分だけ流して柱影から外れた。

 そのとき、柱の付け根、石と石の継ぎ目に灰色の筋。昨日はなかった。

 濡れ布で触れると、甘い匂い。

「粉です。少し」

 ミーナが布で拭き取り、イリアが欄外に小さく「橋脚粉・拭去」と走らせる。

 サビーネは肩越しに橋上を見ている。目だけで、二度、三度。矢は抜かない。


 午前のまとめを詰所で短く落としたあと、レオンが指先で机を叩いた。

「偽の“二連”の件、今日も来るだろう。実物は“三”。違いを見えるようにする」

「展示しますか?」

「そう。紙に丸を三つ描いて、間を少し開ける。横には『三。歩く』と太字。隣りに“二”の紙も置く。そこには『二だけはない』」

 イリアが笑った。「子にも伝わる」

 クロは机の下で、丸を前足でとんとん数えている。

「いち、に、さん。――さん!」


 昼前、最初の“二連”がどこかで鳴った。

 橋の上がざわつく前に、俺は掲示の前に立つ。

「三です。歩きます」

 続けて、観音橋の鐘が三つ、澄んで落ちる。

 人の足がすっと揃い、さっきのざわつきは砂の上に吸い込まれていく。

 偽の音は風に消えた。

 近くにいた荷馬車の御者が、掲示を指で叩く。

「これだと分かる。二じゃ止まらん」

「ありがとうございます。午後にも同じ紙を広場側に足します」


 午後の準備。

 石工の親方が屋根の踏み順の印を、瓦の目立たない位置に小さく付けた。

「ここから上がれば、割れない。――それと、棟の上は絶対に歩くな」

「徹底します」

 クロは下で、親方の指示に合わせて首をこくこく。

「あるくの、そこ」

「そこ」


 広場側の欄に紙を一枚足した。《屋根は石工の許可》の行は太字、紐は二結び。

 紙の端を押さえるクロの前足が、ちょっとだけ誇らしげに見えた。

「ぼく、てつだった」

「助かった」


 橋の上に、昼の往来が戻る。

 子どもが二人、欄干の影で手のひらをすり合わせている。白い粉は持っていない。

「紙のほうで遊ぼう」

 イリアが小さい紙片を渡すと、二人は嬉しそうに「にゃ」と書き、欄干には触らずに戻っていった。

 クロはそっとついていって、振り返りざまに小さく「さん」と言う。

 子どもがまねをして「さん!」。橋の空気が少しだけ柔らかくなる。


 その柔らかさを切るように、倉庫の上で乾いた金属音が一度。

 小さな手鐘だ。

 俺は顔を上げ、音の方向を指で示すだけで、声は出さない。

 レオンが衛兵二人を連れて屋根の裏梯子へ回る。

 石工の親方が「踏むなよ」と一言。

 数息のあと、屋根の端から青い上衣の男が引きずり出され、手のひらに粉袋。

 鐘は親方の手の中で静かになった。

「粉袋は布ごと預かります。鐘は石工の道具じゃない」

 レオンが無言でうなずき、男を橋の下手へ連れていく。

 人の流れは止まらない。掲示の前で「三」を確認する人が増える。


 夕方の近く、川面の風が少し変わった。

 橋脚の影に、小舟がもう一艘。さっきの釣り人と違い、帆布の色が灰。

 レオンが目だけで合図した。

「近づくな。……関所へ回す」

 俺は一息だけで控えを取る。

「橋脚下、小舟二。灰布あり。静観」

 サビーネは肩越しに空を通し、矢は抜かない。

 クロが足もとで尾を立てる。

「だいじょうぶ?」

「大丈夫。橋の上は落ち着いてる」


 鐘が三つ、いつもどおりに落ちる。

 観音橋二日目の午後が、ゆっくりと夕暮れに滑り込んでいく。

 次の鐘まで、呼吸を合わせる時間はまだある。



 昼下がり。観音橋の欄の前に人だかりができ、三つ並んだ丸を子どもが指でなぞって数えていた。

「いち、に、さん」

 クロがそっと近づいて、同じテンポで前足をちょんちょん、と板に置く。

「さん」

 母親が笑って頭を下げる。「これなら間違えないね」


 レオンが巡回から戻り、帳面を閉じた。

「橋脚下の灰布の小舟は、詰所から目を付ける。昼は近寄らない」

「展示の紙は、このまま残します。風が上がったら縁を一度なぞり直します」

「頼む」


 関所への小走りの使いが来る。青い札ひと枚。

――偽の二連は城下北筋でも確認。観音橋は三連のみ。鐘紐の交換は衛兵立ち会いで

 イリアが読み上げ、紙端に控えを写す。

「“立ち会い”の四文字、太くしておきます」

「お願い」


 橋の下から、水を撫でるような音。川面に灰布の小舟がひとつ、位置を変えた。

 帆布の隙間から伸びた細い竿の先に、糸。狙いは橋裏の梁だ。

 俺は欄干から身をかがめ、竿先の真下に棒を差し込んで、糸が梁にかからないように支える。

「ミーナ、ここ。剪(き)るなら今」

 ミーナが小さな刃を取り出し、糸をつまむ。

 サビーネが肩越しに川筋へ視線だけ流し、矢は抜かない。

 糸が切れ、竿の先から何かがぱしゃ、と落ちた。金具の小片。

 クロが素早く欄の下に顔を入れ、鼻先で転がして止める。

「とまった」

 拾い上げると、小さな鐘の舌(クラッパー)だった。布で包んで袋へ。

 小舟は何事もない顔で流れに任せ、少し離れたところで帆布をかけ直す。

 レオンが詰所に向かって手だけ上げた。見張りが動く。

「橋上は続行。……今のは“足りない鐘”を作るつもりだろうな」

「二に聞こえるように?」

「だろう」

 イリアが薄紙に小さく「橋裏・金具(舌)一・回収」と書き添える。


 広場側で紙を一枚足す。《鐘紐の交換は衛兵立ち会い》――太字、二結び。

 風が頬を撫でる。紙の角がわずかに揺れた。

 クロが前足で端を押さえる。肉球が半月みたいに見える。

「クロ、助かる」

「おさえるの、うまい」


 橋を渡る行商の列がゆるやかに続く。

 荷車の御者が首を伸ばした。「どっちが“三」だ」

 俺は掲示を指で示す。「こちらです。間を開けて三つ。……あちらの“二”は“ない音”」

「分かった。歩くよ」

 御者は手綱を上げ、馬の鼻先も自然と持ち上がる。人の流れがぶれない。


 倉庫の屋根で、石工の親方が一歩ごとに印を踏み、棟木の影を道に沿って指した。

「ここまで。そこから上へは上がるな。――昨日の鐘の紐、片付けは全部済んでる」

「ありがとうございます」

 親方はクロを見つけ、にやりとした。

「お前さん、さっき“紙押さえ”してただろ。いい足だ」

「いいあし」

 前足をぴょこ、と上げて得意顔。親方が笑う。


 午後の半ば、橋脚陰の小舟がひとつ減っていた。灰布の舟だけが残る。

 レオンが詰所に戻りながら、低く言う。

「夕方にもう一度来る。……“見ている”と知らせるだけでいい」

「はい」


 いったんギルドへ顔を出す。

 ミレイユが札束を束ねながら、こちらの様子を一瞥で測った。

「顔色はいい。午後は“鐘の説明”を門側にも貼ってって。――いま、関所から“偽二連注意”の写しが回ってきた」

 紙には太い字で〈二だけはない〉。

「……強い言い方ですね」とイリア。

「耳が疲れてる人にほど効く。短い言葉は良薬だよ」

 セレナが奥から出てきて、水の小瓶を差し出す。

「一口ずつ。猫さんは塩なし」

「のむ」

 クロは鼻をしかめ、ぺろりと舐めて満足げに頷いた。


 門へ戻ると、ランベルトが見張り台から軽く手を上げた。

「“二”が昼前に一回。橋は冷静だった。――お前たちの紙、うちにも一枚くれ」

「用意しました」

 門の柱に《三=歩く/二だけはない》の紙を一枚。紐は二結び。

 ランベルトが声に出して読み上げる。

「“二だけはない”。――覚えがいい」

「口でも流してください」

「任せろ」


 観音橋へ戻る途中、角の果物屋。フィオナが新しい瓶の封を結びながら、気配だけでこちらを見た。

「鐘の紙、わかりやすい。子どもが“二はない”を面白がって覚える」

「語尾を短くしたのが効いたのかもしれません」

「そう。短いのは強い。猫さん、ほらご褒美。干し果皮の一欠片だけだよ」

 クロは真剣な顔で小さく齧って、尻尾をぴんと立てる。

「すっぱい。すき」


 橋に戻ると、夕方の風が川上から吹きおろしてきた。布が鳴る。

 掲示の角が一枚、ふわりと浮く。

「クロ」

 呼ぶより早く、クロがぴょん、と腰を入れて角に前足。

 その上から、俺が結び目をいったん外して締め直す。

「いい相棒だ」

「ぼく、しごと」


 と、そのとき。二度、乾いた金属音。倉庫の影、屋根ではない。

 音の出所は地上――小さな手鐘を箱に当てて鳴らしている。

 人が振り向くには弱く、でも耳の端をくすぐる程度には響く高さ。

 箱の持ち主は、行商の恰好をして橋のたもとを横切り、肩でこちらを盗み見た。

 レオンが動く。俺とミーナは橋上の人の流れを切らないよう、片側に誘導する。

 箱の男は気づいていないふうで歩を速め……曲がり角で足を滑らせ、箱の蓋が開いた。

 中身は薄い金属片と紐、そして小さな鐘の舌が二つ。

 男は拾い上げようとするが、サビーネの視線が先に箱へ落ち、レオンの手が男の手首をとめた。

「作りかけの“音”だな。関所まで来い」

 男は無理に暴れない。ただ、奥歯で何かを噛んだ気配。

 レオンは静かに、でもはっきりと首を振る。「口の中のそれは、出せ」

 ためらいののち、男は小さな針金を舌で押し出した。

 イリアが小声で言う。「雑だ……急いで作ってる」

 箱は布で包まれ、詰所へ運ばれる。人の流れは途切れない。掲示の前に立ち止まった親子が、丸を三つ声に出して数える。

「いち、に、さん」

 クロがこっそり後ろで前足を三回、とんとん。

 子が気づいて笑い、空気が戻る。


 日が傾いた。川面の銀が黄味を帯びる。

 橋脚の陰――灰布の小舟が、今度は流れに逆らうように綱を張っている。

 目を細めると、綱の先に薄い袋。

「粉だ」

 俺は欄干から身を伸ばし、棒の先で袋の結び目を下からそっと押し上げた。水が入り、袋は重くなる。

 ミーナが長柄の鉤に布を巻き、表面だけを掬う。

 袋は水を吸って沈み、綱はたわんだ。

 小舟の中の影が、舵を切る。灰布の色が夕陽の赤を受ける。

 レオンが詰所に向けて短く笛を鳴らし、橋脚上で衛兵が綱の固定を解いた。

 袋は川へ落ち、遠くで泡になって散る。

「上は静かに――続けよう」

 レオンの声で、橋の上の会話がまた息を吹き返した。


 夕刻の短い点検。

 屋根の踏み順印は生きている。掲示の角は全部締まった。

 広場側の紙に、子どもが小さい字で「三」。イリアが笑って、横にそっと薄く「ありがとう」と添える。

 クロは欄干の影に丸くなり、前足を顔の下に揃えてうとうと。

 その前足の黒い点が、夕陽を受けて小さな星みたいに光って見えた。


 詰所でまとめ。

 レオンが帳面に線を引く。

「橋裏の金具ひとつ回収。灰布の小舟は袋を流した。倉庫前で“箱鳴らし”の男を拘束。――三の掲示は効いている」

「門にも同じ紙を足しました。『立ち会い』の行は太字です」

「よし。夜は衛兵が回す。君らは掲示の上塗りを一巡して上がれ」


 橋を離れる前、欄干に手を置いた。

 明日は三日目。音は落ち着かせるためにある。

 短い言葉も、同じだ。

 クロがあくびをひとつして、顔を上げる。

「きょう、さん。あしたも、さん」

「明日も、三つ」

 川風が背中を押した。広場の灯がひとつ、またひとつ灯りはじめる。



 昼下がり。観音橋の欄の前に人だかりができ、三つ並んだ丸を子どもが指でなぞって数えていた。

「いち、に、さん」

 クロがそっと近づいて、同じテンポで前足をちょんちょん、と板に置く。

「さん」

 母親が笑って頭を下げる。「これなら間違えないね」


 レオンが巡回から戻り、帳面を閉じた。

「橋脚下の灰布の小舟は、詰所から目を付ける。昼は近寄らない」

「展示の紙は、このまま残します。風が上がったら縁を一度なぞり直します」

「頼む」


 関所への小走りの使いが来る。青い札ひと枚。

――偽の二連は城下北筋でも確認。観音橋は三連のみ。鐘紐の交換は衛兵立ち会いで

 イリアが読み上げ、紙端に控えを写す。

「“立ち会い”の四文字、太くしておきます」

「お願い」


 橋の下から、水を撫でるような音。川面に灰布の小舟がひとつ、位置を変えた。

 帆布の隙間から伸びた細い竿の先に、糸。狙いは橋裏の梁だ。

 俺は欄干から身をかがめ、竿先の真下に棒を差し込んで、糸が梁にかからないように支える。

「ミーナ、ここ。剪(き)るなら今」

 ミーナが小さな刃を取り出し、糸をつまむ。

 サビーネが肩越しに川筋へ視線だけ流し、矢は抜かない。

 糸が切れ、竿の先から何かがぱしゃ、と落ちた。金具の小片。

 クロが素早く欄の下に顔を入れ、鼻先で転がして止める。

「とまった」

 拾い上げると、小さな鐘の舌(クラッパー)だった。布で包んで袋へ。

 小舟は何事もない顔で流れに任せ、少し離れたところで帆布をかけ直す。

 レオンが詰所に向かって手だけ上げた。見張りが動く。

「橋上は続行。……今のは“足りない鐘”を作るつもりだろうな」

「二に聞こえるように?」

「だろう」

 イリアが薄紙に小さく「橋裏・金具(舌)一・回収」と書き添える。


 広場側で紙を一枚足す。《鐘紐の交換は衛兵立ち会い》――太字、二結び。

 風が頬を撫でる。紙の角がわずかに揺れた。

 クロが前足で端を押さえる。肉球が半月みたいに見える。

「クロ、助かる」

「おさえるの、うまい」


 橋を渡る行商の列がゆるやかに続く。

 荷車の御者が首を伸ばした。「どっちが“三」だ」

 俺は掲示を指で示す。「こちらです。間を開けて三つ。……あちらの“二”は“ない音”」

「分かった。歩くよ」

 御者は手綱を上げ、馬の鼻先も自然と持ち上がる。人の流れがぶれない。


 倉庫の屋根で、石工の親方が一歩ごとに印を踏み、棟木の影を道に沿って指した。

「ここまで。そこから上へは上がるな。――昨日の鐘の紐、片付けは全部済んでる」

「ありがとうございます」

 親方はクロを見つけ、にやりとした。

「お前さん、さっき“紙押さえ”してただろ。いい足だ」

「いいあし」

 前足をぴょこ、と上げて得意顔。親方が笑う。


 午後の半ば、橋脚陰の小舟がひとつ減っていた。灰布の舟だけが残る。

 レオンが詰所に戻りながら、低く言う。

「夕方にもう一度来る。……“見ている”と知らせるだけでいい」

「はい」


 いったんギルドへ顔を出す。

 ミレイユが札束を束ねながら、こちらの様子を一瞥で測った。

「顔色はいい。午後は“鐘の説明”を門側にも貼ってって。――いま、関所から“偽二連注意”の写しが回ってきた」

 紙には太い字で〈二だけはない〉。

「……強い言い方ですね」とイリア。

「耳が疲れてる人にほど効く。短い言葉は良薬だよ」

 セレナが奥から出てきて、水の小瓶を差し出す。

「一口ずつ。猫さんは塩なし」

「のむ」

 クロは鼻をしかめ、ぺろりと舐めて満足げに頷いた。


 門へ戻ると、ランベルトが見張り台から軽く手を上げた。

「“二”が昼前に一回。橋は冷静だった。――お前たちの紙、うちにも一枚くれ」

「用意しました」

 門の柱に《三=歩く/二だけはない》の紙を一枚。紐は二結び。

 ランベルトが声に出して読み上げる。

「“二だけはない”。――覚えがいい」

「口でも流してください」

「任せろ」


 観音橋へ戻る途中、角の果物屋。フィオナが新しい瓶の封を結びながら、気配だけでこちらを見た。

「鐘の紙、わかりやすい。子どもが“二はない”を面白がって覚える」

「語尾を短くしたのが効いたのかもしれません」

「そう。短いのは強い。猫さん、ほらご褒美。干し果皮の一欠片だけだよ」

 クロは真剣な顔で小さく齧って、尻尾をぴんと立てる。

「すっぱい。すき」


 橋に戻ると、夕方の風が川上から吹きおろしてきた。布が鳴る。

 掲示の角が一枚、ふわりと浮く。

「クロ」

 呼ぶより早く、クロがぴょん、と腰を入れて角に前足。

 その上から、俺が結び目をいったん外して締め直す。

「いい相棒だ」

「ぼく、しごと」


 と、そのとき。二度、乾いた金属音。倉庫の影、屋根ではない。

 音の出所は地上――小さな手鐘を箱に当てて鳴らしている。

 人が振り向くには弱く、でも耳の端をくすぐる程度には響く高さ。

 箱の持ち主は、行商の恰好をして橋のたもとを横切り、肩でこちらを盗み見た。

 レオンが動く。俺とミーナは橋上の人の流れを切らないよう、片側に誘導する。

 箱の男は気づいていないふうで歩を速め……曲がり角で足を滑らせ、箱の蓋が開いた。

 中身は薄い金属片と紐、そして小さな鐘の舌が二つ。

 男は拾い上げようとするが、サビーネの視線が先に箱へ落ち、レオンの手が男の手首をとめた。

「作りかけの“音”だな。関所まで来い」

 男は無理に暴れない。ただ、奥歯で何かを噛んだ気配。

 レオンは静かに、でもはっきりと首を振る。「口の中のそれは、出せ」

 ためらいののち、男は小さな針金を舌で押し出した。

 イリアが小声で言う。「雑だ……急いで作ってる」

 箱は布で包まれ、詰所へ運ばれる。人の流れは途切れない。掲示の前に立ち止まった親子が、丸を三つ声に出して数える。

「いち、に、さん」

 クロがこっそり後ろで前足を三回、とんとん。

 子が気づいて笑い、空気が戻る。


 日が傾いた。川面の銀が黄味を帯びる。

 橋脚の陰――灰布の小舟が、今度は流れに逆らうように綱を張っている。

 目を細めると、綱の先に薄い袋。

「粉だ」

 俺は欄干から身を伸ばし、棒の先で袋の結び目を下からそっと押し上げた。水が入り、袋は重くなる。

 ミーナが長柄の鉤に布を巻き、表面だけを掬う。

 袋は水を吸って沈み、綱はたわんだ。

 小舟の中の影が、舵を切る。灰布の色が夕陽の赤を受ける。

 レオンが詰所に向けて短く笛を鳴らし、橋脚上で衛兵が綱の固定を解いた。

 袋は川へ落ち、遠くで泡になって散る。

「上は静かに――続けよう」

 レオンの声で、橋の上の会話がまた息を吹き返した。


 夕刻の短い点検。

 屋根の踏み順印は生きている。掲示の角は全部締まった。

 広場側の紙に、子どもが小さい字で「三」。イリアが笑って、横にそっと薄く「ありがとう」と添える。

 クロは欄干の影に丸くなり、前足を顔の下に揃えてうとうと。

 その前足の黒い点が、夕陽を受けて小さな星みたいに光って見えた。


 詰所でまとめ。

 レオンが帳面に線を引く。

「橋裏の金具ひとつ回収。灰布の小舟は袋を流した。倉庫前で“箱鳴らし”の男を拘束。――三の掲示は効いている」

「門にも同じ紙を足しました。『立ち会い』の行は太字です」

「よし。夜は衛兵が回す。君らは掲示の上塗りを一巡して上がれ」


 橋を離れる前、欄干に手を置いた。

 明日は三日目。音は落ち着かせるためにある。

 短い言葉も、同じだ。

 クロがあくびをひとつして、顔を上げる。

「きょう、さん。あしたも、さん」

「明日も、三つ」

 川風が背中を押した。広場の灯がひとつ、またひとつ灯りはじめる。



 明け方。川霧が薄く流れて、橋板はしっとり暗い。

 広場側の掲示をもう一度なぞると、隣でクロが背伸びをして前足を伸ばした。肉球が紙の端にふにっと触れる。

「もういっかい、しっかり」

「うん、しっかり」


 最初の荷車が橋にかかるころ、倉庫通りの端から若い運び人が小走りで現れた。肩の袋が裂けて、白い粉が線になって残る。

 俺は駆け寄らず、視線を合わせて手を挙げる。

「歩いて。袋、こちらへ」

 男は息を呑み、足を落とす。クロが粉の筋に鼻先を寄せ、耳を伏せた。

「すこし、あまい」

 袋口を布で覆って縛り直すと、手の中に残った粉は粒が細かい。甘さはあるが、舌先がきゅっと縮むような苦み。砂糖だけではない。

「どこで受け取った?」

「……市場裏の路地です。『匂いが立つから、橋で振ってこい』って」

 声が震えていた。

 サビーネが橋上を見張りながら淡々と告げる。「名前は詰所で。荷は清算して返す。二度と路地で受け取らないこと」

 男は何度も頭を下げた。クロは裂け目の周りだけを丁寧にペロリと拭って、粉が風に舞わないようにしてくれる。

「これで、とばない」

「助かった」


 詰所へ戻り、袋と、昨夜回収した金具をレオンに渡す。

 レオンは粉の匂いを確かめ、短くまとめた。

「甘味に砥ぎ粉を混ぜて鼻を引きずらせる、か。鳴り板で耳も奪う。二つ合わせれば橋は乱れる――筋が通った」

 奥から顔を出したランベルトが、門の掲示を指さす。「『二だけはない』、門でも繰り返す。鐘が揺れても、歩くのは三だ」

「頼む」


 朝の通勤の波がいちど落ち着いたところで、子どもが二人、掲示の前に立った。

「三つなら歩く、だって」

「二はない、だって」

 クロがそばに並んで、足でとん、とん、とん、と三回小さく床を押す。

 子どもはくすっと笑い、同じように三回、靴の先でとん、とん、とん。

 橋の上は自然に歩きに揃っていく。音は散らない。


 午前の締め、関所アルダ。

 塔影の下でセルジオが帳面を開き、提出物の袋を秤に載せる。金具、針金、粉の包み。

「鳴らしの仕掛けは二種。箱と板。粉は砂糖に砥ぎ粉の混ぜ物――料理人に嗅いでもらう。橋裏の焼け跡は『糸焼き落とし』の痕だな」

 イリアが清書した控えを差し出す。「夜の巡回増し、朝の袋一件、掲示周知は『三=歩く』が浸透」

「十分だ。午后からは“倉庫裏の路地”を衛兵と回す。ギルドは橋の巡回を維持、紙はそのまま。――粉の筋が出たら、まず結ぶ。次に運ぶ。走らない」

 セルジオは小札を二枚、俺たちに渡した。

「回収協力分と、鳴り板の現物提出分。少しだが受け取れ」

「ありがとうございます」


 観音橋へ戻ると、風が少し変わっていた。

 イリアが紙の角を押さえながら言う。「午後は『三』を声に乗せる回数を増やそう。紙は読まれるけど、耳に残すのが早い」

「分かった」

 クロは欄干の下をちらりと覗いてから、俺の足に額をこつんと当てた。

「きょう、みず、つめたい」

「終わったら、あったかいのを少し」


 昼下がり、広場の噴水の縁で軽く休む。

 フィオナの瓶を一口。クロには温めた水を少し。舌の動きがゆっくりになって、目が細くなる。

「おいしい」

 イリアが紙束を整え、ミーナは結び紐の残りを数える。

 サビーネは橋の上に視線を置いたまま、低く言った。「今夜は“二の音”を増やせないだろう。板は回収した。箱も塞いだ。……だから、代わりに“人”を使う」

「叫ばせるってこと?」

「そう。だからこそ、こっちは落ち着いた声で同じ言葉を流す。乱れに乗らない」


 夕方の一山。

 広場側が混み始める直前、詰所に詰めていたレオンが走らずに歩いてきて、耳打ちした。

「倉庫裏、路地の粉撒きは衛兵が押さえた。黒布の連中は散った。――“三の合図”は続けろ」

 橋の上で、御者たちが互いに合図を交わす。「三で歩く、三で歩く」

 鐘がわずかに揺れて、短く二度鳴っても、列は崩れない。

 クロが胸を張るように座り、尻尾をぴん、と立てた。

「さん、できた」


 宵のあと、紙の角を一度なでて、観音橋の二日目を閉じた。

 詰所に戻ると、レオンが紙片を一枚、俺の手に滑り込ませる。

「明日の朝、関所で“路地の始末”の結果が出る。橋は同じ段取りで三日目へ。――君らの掲示は効いたよ。三が街に染みた」

「ありがとうございます」


 白樺亭に帰ると、湯気とパンの匂い。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を置いた。

「橋の紙、うちの前にも一枚ちょうだい。旅の人が読めるように」

「明日、持ってきます」

 クロの椀には、塩抜きの薄い粥。湯気を鼻で押してから、そっと舌を入れる。

「あったかい。すき」

「がんばったからね」

 前足の黒い点が俺の袖をちょんとつつく。

「また、さん」

「また三。明日も」


 部屋に戻って、結び紐の残りを確認し、紙束を乾いた袋に移す。

 道具は壁際に揃え、靴を拭き、鞘の口を軽く磨く。

 紙の片隅に、今日の一言だけを書いて閉じた。

 ――二は揺れる。三は歩く。


 窓を少し開けると、川の音が遠くでやわらいだ。

 クロは胸の上で丸くなり、目を細める。

 深く息を吐いて、目を閉じる。

 明日も、同じ言葉で人を落ち着かせる。

 それが、いちばん効く。

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