第10話 「門外朝市の印」

 朝の鐘がひとつ。白樺亭の窓に、雲を透かしたやわい光が入っていた。

 マルタが鍋を回し、湯気が棚の角を丸く撫でていく。リナは皿を並べながら、足音をできるだけ小さくしている。店の猫が食べ物の音だけは絶対に聞き逃さないのを、よく知っているのだ。


「今日は朝市の見回りだって?」

「はい。組合の札が出てました」

「なら腹は軽く。猫さんは塩抜きの粥ね」

「のむ」

 クロは背筋をのばして椅子に座り、尾を椅子の脚に引っかけて固定すると、前歯で粥をすこしずつ舐めた。熱いかどうか確かめる顔が、真剣すぎて可笑しい。

「ふー、してからね」

「ふー」

 俺が息を吹く真似をすると、クロは満足そうに目を細めた。


 通りへ出ると、門外の空は白く低かった。

 角の果物屋の前では、フィオナが籠を肩で担ぎ、台の高さを指先で測っている。

「おはよう、アキラ。朝市は人が早いよ。果実水、一本?」

「ください。今日は組合の札の確認も」

「なら喉は薄めでいい。……あ、クロ。今日の箱は高いから、飛ぶ前に見てね」

「みる」

 クロは台の端へ前足をのせ、顎を少し出して高さを測る。そのまま、す……と飛び乗り、ちょうど良い位置で止まった。

「上手」

 フィオナが笑って、果実水の口を布で拭きながら、声を落とす。

「昨夜のうちに灰がひと筋、ここから門の方へ。甘い匂いはしないけど、指先が少しザラつく。落ち粉じゃない」

「見て回ります。何か見たら、すぐ言ってください」

「了解」


 ギルドの掲示板には、新しい薄紙が一枚貼られていた。

〈門外朝市・導線見回り/札の整え/灰印の報告〉

 受付のミレイユは、朝から三つくらい仕事を同時に進めているような手つきで、札束を揃えながらこちらを見た。

「組合から正式依頼。『通り道の札を増やしてほしい』って。今日は都市の外からも荷が入る。人が多いときに印を残す連中が出るの、嫌だからね」

「灰の筋の話、フィオナからも聞きました」

「うん。甘い匂いはなくても、誘導の目印になる。……セレナ、喉をひと目」

 医務室から白ローブが出てきて、いつものように短く笑う。

「今日は声より目を使う日。水は一口ずつ、猫さんは木陰で」

「のむ」

 クロはとても真面目にうなずく。セレナは指先で包帯と小瓶を渡した。

「指の油。紙と札を触る前に薄く。剥がし跡がきれいになる」


 鍛冶通りでは、フーゴが紙札用の薄い角革を切っていた。

「札の角、これ貼っとけ。風が出ても裂けにくい。銅1で十枚」

「お願いします。今日の箱、高いです」

「猫は飛べる。お前は脚立を使え」

「使います」

 クロが「かまない」といつもの約束を口にすると、フーゴは指でこつんと額に触れた。


 門の手前から、朝市の気配が押し寄せてくる。声が重なり、車輪の油が新しい匂いを放つ。

 門番のランベルトは、外出簿に線を引きながら、目は群衆の肩の向こうを見ていた。

「導線の札は、先に置いてくれ。灰の筋、今朝も一本あった。甘くはない。けど——」

「足が寄ります」

「そう。『道がある』と思わせる。こっちは『通す道』を先に見せる」

 短いやりとりで合意がとれた。ランベルトは若い衛兵に向き直り、声を張る。

「台の角で立ち止まらせるな。止めるときは短く。手は高く、声は低く」

 衛兵たちの返事が揃う。


 市の入口に、矢印の札を二枚。人の肩より指一本分だけ高く掲げると、目は素直に拾ってくれた。

 クロは空いた木箱へぴょんと飛び、前足の黒い点で箱の縁をとん、と叩く。

 それだけで列の先頭がじわりと詰まる。箱番の仕事は、今日も有能だ。


 細い路地を一本ずつ、端から見ていく。

 干し肉の屋台と香草の台の間に、指でなぞったような灰の帯。甘さはない。

 布を湿らせ、すくっては拭い、すくっては拭う。

 印自体は無害でも、人の足と荷車の向きが、意図した方へ寄っていく。そこに甘い粉が重なれば、きっと混乱の芯になる。

「——見てる」

 ミーナが目だけで示した先、荷車の陰に灰色の外套が一つ。目が合うと、そらすのが早い。

 追わない。視線を切り、手だけを動かす。

 クロが鼻先を上げ、空気を嗅いでから、木箱の縁で小さく「にゃ」と鳴いた。合図は一回。それだけで十分だ。


 果物台の角で、荷車の片輪が浅い継ぎ目に落ちた。帆布が波打つ。

「止めます」

 声が先。走らず、板を一枚取り出して継ぎ目に差し、御者に目で合図。

「上げるときはゆっくりで」

 御者が頷き、車輪が板の上を静かに越える。帆布は鳴らない。

「助かった」

 御者は胸で息を吐き、帽子のつばをさげた。

 クロは板の端を前足でぽん、と叩き、いかにも今の動きを確認している顔をした。

「見てたの?」

「みてた」

 とても誇らしげで、笑ってしまう。


 魚の台の裏に回ると、灰ではなく、細い金属片が二つ落ちていた。

 薄く曲げた留め具。紐の端に挟むやつだ。

 拾い上げると、指先に油の薄い膜が残る。

「新しい。誰かが、さっき」

 台の下に紙切れが見えた。爪の先で引き出す。

 小さな紙に、刻(とき)の記号と、矢印が三本。

 矢印は、門から川沿いへ、川沿いから倉庫へ、倉庫から朝市の外へ。簡単な誘導。

「関所へ回します」

 ミーナが頷き、紙を薄紙に挟んだ。


 午前の半ばを過ぎると、朝市は一段落した。

 俺は札の結び目を一通り触って緩みを確かめ、角革の端を押さえ直す。

 フィオナが瓶の口を拭きながら、肩をすくめた。

「きょうは殴り合いが一つもない。いい日だよ」

「札が先にあると、人の顔が無駄に熱くならないんです」

「そうだね。……ところでクロ、台秤に乗らないでね。針が動く」

「のる」

「のらない」

 クロは身を低くして台秤をぐるっと回り、針の影を狙って前足でちょい、と触る。針が嬉しそうに震え、フィオナが「あーっ」と声を上げた。

 すぐに俺の腕に抱え上げると、クロは観念して喉を鳴らす。

「いたずらは一日一回まで」

「いっかい」

 まるで約束のように復唱するのが、妙に可愛い。


 正午前、関所アルダへ短い報告に出る。

 塔の影はひんやりしている。セルジオは帳面を開いたまま、こちらの顔を見てから紙を見る。

「朝市、導線は整ったか」

「はい。灰の印を数本。甘い匂いはなし。魚台裏から紙切れが一枚」

 紙を渡すと、セルジオは記号だけを追う目で、すぐに一枚の地図の端に置いた。

「門—川沿い—倉庫の順。札を先に置いたのは正解だ。人は『見えた線』に従う。悪い線より先に、ましな線を見せる」

「留め具が二つ。新しい油でした」

「回しておく。……猫は働いたか」

「働きました」

 俺が振り返ると、クロは胸を張って「にゃ」と返した。セルジオは口の端だけで笑い、赤い小さな印を紙の隅に押す。

「働いた猫へ。『箱番印』だ」

 クロは印をじっと見つめ、それから俺の肩に前足をかけて、得意げに目を細めた。


 戻り道、門のそばで小さな揉め事。

 遠来の旅人の一団が、札を見上げながら立ち止まっている。文字が読めないのだろう。

 俺は手で道を描く。

「こちらから入って、台の角はよけてください。歩いて通れば早く抜けられます」

 言葉は通じなくても、指の動きで分かる。旅人たちは素直に頷き、歩きに戻った。

 クロはその横を歩きながら、尾で小さく合図を送る。まるで一人前の案内役だ。


 午後は、札の位置を半歩ずつ直す作業にかけた。

 太陽の角度、影の伸び、荷車の背丈。

 札の高さは、ほんの少し変えるだけで目の入りかたが違う。

 角の果物台に戻って最後の一本を貼り直すと、フィオナが指で丸をつくって見せた。

「効いてる。人の肩が、箱にぶつからなくなった」

「明日、もう一枚。箱を増やします。クロの席も」

「たすかる」クロが即答した。

「……自分で言うんだ、それ」


 日が傾く前に、ギルドの掲示台へ薄紙を一枚。

 ——朝市:灰の筋、拭去。魚台裏から小紙一。

 ——札:高さ、肩より一指上が良。角革有効。

 ミレイユが目を走らせ、うなずく。

「言い方が揃ってる。次の隊もそのとおりに動ける」

 セレナは医務室から顔を出し、クロの背をやさしく撫でた。

「今日の猫さんは働いたね。ごほうびは水。舐めてから寝る」

「のむ」

 クロは約束を守る時だけ、ほんとうに良い返事をする。


 白樺亭に戻ると、リナが扉を半歩押さえて待っていた。

「クロの箱、作っていい?」

「作る」

 クロが胸を張って答える。

 リナは笑いをこらえきれず、台所へ走っていった。木箱のふちを少し削って、足に布を巻くだけの簡単な仕事だが、明日の朝にはきっと用意されている。

 マルタは帳場の羽根ペンを置き、こちらを見た。

「朝市が静かなら、街も静かだ。よくやったよ」

「札が効きました」

「札が効くのは、貼る人間がいるからさ」

 粥は薄く、温かかった。クロは自分の皿の前で、前足をちょんと重ねる。

「いっかい」

「何が?」

「いたずら」

「もうしたからね」

 尾が、椅子の脚で小さく揺れた。


 部屋で札と角革を揃え、油の小瓶を袋の浅いところに入れる。

 明日は箱が一つ増える。紙も一本増える。

 灯りを落とす前、薄紙の端に短く書く。

 ——魚台裏、小紙。明朝、セルジオへ続報。

 クロが胸の上で丸くなり、黒い点のある前足をそっと俺の腕に当てる。

「アキラ。あした、はこ、ふたつ」

「ふたつ」

「にゃ」

 小さな返事が腹に響いて、眠気が静かにやって来た。



 翌朝、白樺亭の玄関に木箱が増えていた。角は丸く削られ、縁に薄い布が巻いてある。

「クロ専用ね」

 リナが胸を張ると、クロは一度だけ箱の前で屈み、距離を測ってから、音を立てずに飛び乗った。前足で縁をぽん、と二度叩き、満足した顔でこちらを見る。

「いい?」

「似合ってる」

 尾が箱の外で小さく揺れた。


 果物屋の角は、朝の光で籠の影がくっきり落ちている。フィオナは台秤の針を覗いてから、小声で告げた。

「また灰。今朝は三本。一本は門へ、一本は川沿い、もう一本は倉庫へ。昨日の紙切れどおりだよ」

「匂いは?」

「甘さはない。けど、人の目が吸い寄せられる線だね」

 クロが台に顎を出して空気を嗅ぐ。耳がわずかに前へ傾く。

「さっき、灰色の外套。はしっこ」

「見たんだね。ありがとう」

 尾が得意げに立った。


 ギルドで報せると、ミレイユは札束を胸に抱えたまま、迷いのない声で段取りを返してきた。

「門と川沿いと倉庫の“手前”に先回りで札を足そう。『ここを通る』ほうを先に見せる。朝市の混みが始まるまでにやっちゃおう」

「人手は?」

「私とアキラ、そしてランベルトが門。フィオナは角で目印役。ミーナは倉庫前で待機」

「了解」

 白いローブのセレナが顔を出し、「今日は喉より目」とだけ念押しする。クロには木陰で水を、と指で示す仕草つきだ。

「のむ」

 返事だけは完璧だ。


 門の前。ランベルトは外出簿を指で叩き、若い衛兵に視線で道筋を教えている。

「札は肩よりちょっと上。字は太く、矢印は短く。『歩き』を先に言え」

 彼は人の肩と車輪の隙間を見慣れている。こちらが札の位置を決め、結びを締める間に、衛兵が声で隙間を作ってくれた。

 札が一枚増えるだけで、人の顔つきがわずかに落ち着く。列は歩きに戻り、怒鳴り声が消える。

 クロは門柱の根本に座り、通る足の高さに目を合わせていた。彼が動かないだけで、子どもは走りづらくなる。猫が道具になるなんて、ここへ来る前は考えもしなかった。


 川沿い。朝の光が水を薄く光らせる。

 札を一枚貼り終えたところで、細い影が石垣の影にすべり込むのが見えた。灰色の外套。年は——俺と同じくらいか、もう少し幼い。右手の先で袋が揺れ、口が黒く開いている。

「クロ」

 声を低く呼ぶと、クロは石垣の上にぴょんと移動した。影の進行方向に先回りして、しっぽでそっと石の角を叩く。

 影が止まる。こちらも走らない。

「道の真ん中に置くのは、やめよう」

 なるべく普通の声で言う。外套のフードの奥から、迷いと計算が混じったような目がこっちを見た。

「別に危ないものじゃない」

「危なくなくても、人は寄る。荷車も寄る。ぶつかる」

「……札を増やしただろ」

「見てた?」

 外套の裾がゆっくり揺れる。袋の口が、わずかに閉じた。

「それでも、線を置けば、そっちを見ちゃう」

「『見てほしいほう』に先に線を置くのが仕事だ」

 言いながら、自分でも妙な気分になる。俺はただの子どもで、彼もただの子どもだ。だけど、どちらの線を先に置くかで、街の一日が変わる。


 影の後ろで、短い口笛がひとつ。

 外套の肩がぴくりと震えた。

 石垣の上のクロが、その音の方向を一度だけ見る。

「誰?」

 問いは外套の子に向けたが、答えは石垣の奥から返ってきた。

 ふさがれた声。年上の男。

「仕事が遅い」

 外套の子の喉が上下する。袋を持つ手に力が入る。

 無理に奪えば、ばらまかれる。かといって、放っておけば、また一本線が増える。

 俺は板を一枚、静かに取り出して、石畳と石垣の隙間に立てかけた。そこは影の子が抜けようとした狭い道。板があるだけで、自然と足が止まる。

「ごめん。ここは通さない」

 外套の子が俺を見上げる。目が子どもで、手だけが大人の真似をしている。

 石垣の向こうの男が苛立ちを隠さず舌打ちをした。

「やめとけ。猫が見てる」

 その言い草に、喉で笑いそうになる。クロは何もしていない。ただ座って、目を細めているだけだ。けれど、人は見られていると感じると動きが変わる。

 外套の子は、袋の口をきゅっとねじって結び、俺の前に差し出した。

「じゃあ、これ、渡す」

「ありがとう」

 受けとる手を意識して、わざとゆっくり動かす。彼の肩が、少し下がった。


「代わりに、どこで渡されたかだけ教えて。ここじゃない場所で」

 外套の子は迷って、それから門のほうを一度見て、川沿いの倉庫街を指でなぞった。

「古い扉の、鍵穴がふさがってるところ。昼どき。袋は箱の下にある」

「店の人は?」

「知らない顔。荷の人じゃない。指輪してた」

 指輪。灰の筋。倉庫。

 クロが石の上から小さく「にゃ」。

「ありがとう。名前は?」

「言わない」

「言わなくていい。水、飲む?」

 差し出すと、子はほんの少しだけ口をつけ、顔をしかめた。

「すっぱい」

「薄い果実水。喉が落ち着くよ」

 彼はこくりと一度だけ頷き、石垣の影に細く消えた。口笛の主はいない。空気は、さっきより軽い。


 袋の中身は、粉というより、細かく砕いた灰と砂の混ざり。甘さはない。

 ミーナが合流し、手袋の上から袋を受け取る。

「ギルドへ回す。……子、逃げた?」

「走らずに帰した。『線』の元だけ聞いた」

「十分。名前は?」

「言わなかった」

「それも十分」

 彼女は薄紙に短く記し、俺の肩をとん、と叩いた。

「次は倉庫。古い扉、鍵穴がふさがってるところ」

「行こう」

 クロが石垣からふわりと降り、俺の足の影に収まる。

「いく」


 倉庫街は、昼前の匂いで満ちていた。縄の匂い、乾いた木、遠くで熱した鉄。

 古い扉はすぐ見つかった。鍵穴が錆で塞がれ、その上から薄く灰がこすりつけられている。

 扉の前に箱が一つ。四角い木の箱。底の板をめくると、細い袋が二つ。

 クロが鼻を寄せ、すぐに顔を引っ込める。

「すな。からい」

 甘くない。視線だけの罠。

 ミーナは袋を布ごと包み、俺は箱を元の位置に戻した。

「昼、誰が来るか見る?」

「見よう。走らないで、見るだけ」

 影の位置を決め、出入り口を二つ確認。逃げ道を塞がないようにする。

 クロは箱の影にすこし顔を出し、尻だけ隠して伏せた。耳がアンテナみたいに動く。


 昼前、人の波が緩む一瞬。

 扉の陰に、一人の男が現れた。灰色の外套。指に黒い石の指輪。

 周囲に目をやる動きは、驚くほど浅い。見せかけの確認。見られるつもりがない目。

 男は箱の位置を足で少しずらし、底板へ手を伸ばした。

「今」

 ミーナが頷く。俺は板を抱えたまま一歩だけ前に出て、通路の端に立つ。塞がない。けれど、急ぎ足では曲がりにくい角度。

「その袋、置いたままで。話を聞きたい」

 男は一拍止まり、笑った。

「市の子どもが、倉庫の前で“話”ね」

「あなたの印は、街で邪魔になる」

「邪魔? 目印だよ。人は印が好きだ」

「その印の先に、何を置くの?」

 指輪の指が、ほんの少し止まった。

「さあね。人が『こっちだ』と思うなら、どっちでもいいさ」

 返事は軽い。けれど目の奥に、薄い苛立ちが走ったのを見逃さない。

 クロが箱の影から顔を出し、男をじっと見た。

 男は猫と目が合うと、あからさまに視線をそらした。

 その仕草に、こちらの腹の緊張が少しほどける。

「関所で話を続けよう。袋はギルドに渡す。あなたは、何も持たずに来て」

「そんな暇はない」

 男が一歩、速く動いた。

 塞ぎはしない。ただ角度をきつくする。板の端を足で押さえ、通路の内側に半歩寄る。

 男は肩で俺の脇を抜けようとした。

 クロが箱から飛び、男の裾に前足をそっと当てる。引っかかない。止めるだけ。

 男の足が半歩遅れ、そこでランベルトの声が飛んだ。

「止まれ」

 衛兵が二人、倉庫の角から現れる。フィオナが遠目でこちらに手を上げ、合図を返している。いつの間にか、皆がちゃんと見ていた。

 男は肩を落とし、笑いをやめた。

「……話は、関所で、ね」

「うん」

 返事は短くて十分だった。


 詰所の部屋は狭いが、風通しがよかった。

 セルジオは帳面を開き、指で余白の位置を示す。

「袋の中身は後で。まず、どこで渡した、誰が運んだ、どういう合図を使ったか。順序だ」

 男は最初、ふざけた声を続けた。けれど、ミーナが袋の口を開け、指で砂の混ざり具合を見せ、クロが椅子の足元で静かに座り続ける間に、声の芯が少しずつ変わった。

「合図は笛。一本は“遅い”、二本は“早く”、長いのは“やめろ”。……袋は箱の下。昼と夕。子どもに渡して、路地の角で見てるだけ」

「『見てるだけ』で、何が置かれた?」

「白い粉さ。……俺じゃない。俺は線だけ」

 セルジオが目を細めた。

「線は誰に頼まれた」

「指輪をした女。顔は見せない。羽織は灰色」

 灰の指。

 男の視線が床を泳ぐ。

「……金は少ない。けど、楽だ」

「楽な仕事は、誰かの面倒を増やす」

 そう言ったのはセルジオで、声は静かだった。

 報せと袋は預け、男は詰所に残ることになった。

 クロは帰り際、椅子の脚に前足をちょん、と当てた。

「いく?」

「帰ろう」

 外は昼過ぎの風。朝より少しだけ、街が軽く見えた。


 ギルドへ戻ると、ミレイユが台の上に新しい札の束を置いた。

「『印を見たら、札を見る』——これを大きくして、門と川沿いと倉庫に足そう。『印』は線でも粉でも、子どもの指でもいい」

「言い方が揃うね」

「揃える。揃え続ける」

 セレナが背後でうなずき、クロの水椀を差し出した。

「猫さんは、よく見た。ごほうび」

「のむ」

 クロは一口だけ飲むと、鼻をちいさく鳴らして、木箱の話を思い出したように玄関のほうを見た。

「帰ったら、のる」

「うん。今日は二回まで」

「にかい」

 彼は真剣に復唱してから、そっと前足で俺の袖を押した。


 夕方、朝市の札をもう一度見回る。

 果物台の角では、フィオナが台秤の針を指で軽く止め、笑った。

「針は、今日は動かない」

「えらいね」

「えらい」

 クロが自分で自分を褒めた。ほんとうにえらいかどうかはともかく、こうして“良かった”を積み重ねるのは嫌いじゃない。

 門の前では、ランベルトが掲示を指で叩き、旅の人に短く説明していた。

「『印を見たら、札を見る』。これで通せる」

 彼の声は無駄がない。札の文字と同じだ。


 白樺亭へ戻ると、箱は玄関の一番いい位置に置かれていた。

 クロはためらいなく飛び乗り、縁を一周歩いて、どこが一番景色がいいか確かめてから、ふわりと座った。

「どう?」

「いい」

 彼は前足の黒い点を俺の手にそっと当て、箱の角をぽんぽんと叩いた。

 マルタが粥を持ってきて、笑う。

「箱番さんがいると、扉の開け閉めで人がぶつからない。……よく働くね」

「働く」

 クロの返事は、今日一番の“仕事の声”だった。


 夜、札と袋の控えを重ね、角革の残りを数える。

 灰の線は、まだ終わらない。

 でも今日は、先に「通る線」を置けた。

 眠りに落ちる前、クロが箱からそっと降り、胸の上に乗ってくる。

 左前足の黒い点が、腕の内側に触れる。

「アキラ。あしたも、みる」

「一緒に見る」

 目を閉じると、箱の縁を叩く小さな音が、まだ耳のどこかに残っていた。



 昼下がり。札の増設は一巡したはずなのに、人の気配は落ちつかない。川沿いの風が、朝より少し重い。


 ギルドの奥で、ミレイユが地図の上に赤小石を置いた。

「夕方、倉庫の裏路地に一回。そこから門に抜ける細い抜け道が一本。——見張りを分けよう。衛兵は正面、私たちは“抜け道の口”」

「通れなくはしない、だね」

「そう。道は塞がない。『あっちへどうぞ』を増やすだけ」


 俺は板を二枚、腰に縛り直し、薄紙の端に小さく〈倉庫裏→門〉と書いた。クロは受付台の角で前足を揃え、耳だけ動かして話を聴いている。

「クロは?」

「門の石段がちょうどいい。高いところから見てて」

「わかった」

 彼は跳ねるみたいに降り、扉の前で一度だけ振り返る。尻尾が言葉の代わりにぴんと伸びた。


 倉庫街。裏手の通りは細く、樽と木箱が影を作る。

 ミーナが麻ひもで“通りの癖”を測り、俺は樽の足元に短い矢印を引いた。白い粉じゃない。紙に印を描いて、樽の側板に貼る。

「ここで一呼吸置かせたい」

「貼る位置は低めに。荷車より、足で歩く人の目線に合わせる」

 腕が慣れてきたのか、手が迷わない。貼るたび、通りすぎる人の視線が、一瞬だけ止まる。止まれば、歩調は乱れない。


 角の先の抜け道に、靴音が二つ。

 灰の外套と、薄い色の羽織。指に黒い石。昼の男と、別の影。

 俺たちは走らない。ただ立ち位置を変える。

 ミーナが樽の向こうで瓶を拭くふりをして、通路の奥まで見通す。俺は角に板の端を立てて、曲がり角の内側を小さく狭めた。

 灰外套の男が気づく。眉がわずかに動くだけ。

「今日は仕事が早いじゃないか」

「こっちは朝から起きてるので」

 羽織の人物は最後まで顔を見せない。足が止まらず、通り過ぎる“つもり”の歩幅。

「倉庫の扉は、昼で終わりだ」

「君たちが決めること?」

「札が決める。街で決める」

 返事の代わりに、羽織は肩をすくめた。灰外套の男の口の端が、ほんの少しだけ吊り上がる。

 行き止まりではない。ただ、ここで速くは動けない。板一枚の角度と、紙切れ二枚の矢印で、足の向きは自然に変わる。

 ふたりは肩を寄せて通り抜け、門の方向へ消えた。後ろ姿のまま、何も落とさない。今日のところはそれでいい。


 門の石段にクロ。石の温度を確かめるみたいに、前足でちょんと叩いてから腰を落とし、人の流れを見ていた。

 ランベルトが見張り台から降りてきて、俺たちと視線を合わせる。

「裏は?」

「入れ替えだけ。袋は持ち歩かない」

「性分の悪い連中ほど、楽をしたがる」

 門の掲示に目をやる旅人が増えている。文字の大きさ、矢印の短さ、太い縁。声を出さなくても伝わる瞬間が、今日は何度かあった。

 クロは小さくあくびをして、鼻先を掲示の紙に向ける。あくびの終わりに「ふにゃ」と声が漏れ、子どもが笑った。笑いが一度起きると、足音は自然に落ちる。不思議だ。


 夕方、川沿いの屋台で短い休憩。

 フィオナが瓶の栓を指で弾き、俺たちに渡す。

「昼の子、見たよ」

「どっちの?」

「灰の。『楽』って言ってた顔」

「楽は長持ちしない」

「長持ちさせないのが、こっちの仕事だね」

 クロは水皿に鼻先をつけ、上を向いて飲む。ヒゲの先に一滴だけ残る。

 ミーナが布でそっと拭いた。

「濡れると寒いよ」

「うん」

 返事の短さが、妙に人間くさい。


 夜。倉庫街の見回りは衛兵に引き継いで、俺たちはギルドに戻る。

 ミレイユが掲示板の上段に新しい小紙を差し込む。

〈印を見たら、札を見る〉

〈札の言葉は、街の言葉〉

 台の向こうで、セレナが湯気の立つ茶を二つ。

「今日は喉より足だね。冷える前に温めて」

 カップを受け取ると、クロが椅子の足元に座って、前足をそろえたまま俺の顔を見上げる。

「のむ?」

「少しだけ嗅いでいいよ」

「くさ」

「草だもん」

 鼻をひくひくさせたあと、彼は自分の水皿へ戻った。自分の番が分かっている。


 白樺亭。マルタは粥鍋を一度混ぜ、客の顔ぶれを眺めてから俺に声をかける。

「箱、もう少し高くしようか」

「クロ、どうする?」

 彼は箱の縁を二周歩いて、開きかけの扉を見た。通りから風が入る。

「たかいと、みえる。ねこ、みる」

「じゃ、明日板を足すね」

 リナが笑う。

 粥は薄い塩と香草。喉が落ち着く。


 食後、帳場で短い紙片が渡された。果物屋のフィオナから。

〈倉庫の鍵穴、もう一つ。通り二つ先。昼の倍の人出〉

 すぐ紙の端に三本線を引いて、明日の順番を決める。

 一、朝いちで確認。

 二、抜け道に矢印を増やす。

 三、扉前で止めずに“逸らす”。

「止めるより、逸らす」

 声に出すと、自分にもよく入った。クロが箱の上からこちらを見て、ほそい声でまねをする。

「そらす」


 灯りを落とす前、窓の桟に白い粉の帯が細く浮かんでいるのに気づいた。誰かの指が通った跡。

 手で拭かず、布でそっと取る。窓の外、路地の石段に薄い灰色の矢印が一本。ギルドの扉のほうへ向いている。

 誰かが、ここへ“印”を置いた。

 クロが箱から飛び降り、石段の縁に鼻を寄せた。

「におい、ない。あしあと、ちいさい」

「大人じゃない」

 指先に残った粉は、昼の袋よりも細かい。粉の目的は、目を引くことだけ。

 扉を閉め、札の束を引き寄せる。

 “印を見たら、札を見る”。

 その札は、明日の分まで刷ってある。

 箱の上に戻ったクロが前足をそろえ、小さくうなずいた。

「ねる。あした、はやい」

「うん。明日はもう一段、先回りしよう」

 呼吸が静かになっていく。外は遠いざわめき。

 眠りに落ちる前、灰の矢印がゆっくりと消えていくのを、頭の中で何度も確かめた。



 昼下がり。札の増設は一巡したはずなのに、人の気配は落ちつかない。川沿いの風が、朝より少し重い。


 ギルドの奥で、ミレイユが地図の上に赤小石を置いた。

「夕方、倉庫の裏路地に一回。そこから門に抜ける細い抜け道が一本。——見張りを分けよう。衛兵は正面、私たちは“抜け道の口”」

「通れなくはしない、だね」

「そう。道は塞がない。『あっちへどうぞ』を増やすだけ」


 俺は板を二枚、腰に縛り直し、薄紙の端に小さく〈倉庫裏→門〉と書いた。クロは受付台の角で前足を揃え、耳だけ動かして話を聴いている。

「クロは?」

「門の石段がちょうどいい。高いところから見てて」

「わかった」

 彼は跳ねるみたいに降り、扉の前で一度だけ振り返る。尻尾が言葉の代わりにぴんと伸びた。


 倉庫街。裏手の通りは細く、樽と木箱が影を作る。

 ミーナが麻ひもで“通りの癖”を測り、俺は樽の足元に短い矢印を引いた。白い粉じゃない。紙に印を描いて、樽の側板に貼る。

「ここで一呼吸置かせたい」

「貼る位置は低めに。荷車より、足で歩く人の目線に合わせる」

 腕が慣れてきたのか、手が迷わない。貼るたび、通りすぎる人の視線が、一瞬だけ止まる。止まれば、歩調は乱れない。


 角の先の抜け道に、靴音が二つ。

 灰の外套と、薄い色の羽織。指に黒い石。昼の男と、別の影。

 俺たちは走らない。ただ立ち位置を変える。

 ミーナが樽の向こうで瓶を拭くふりをして、通路の奥まで見通す。俺は角に板の端を立てて、曲がり角の内側を小さく狭めた。

 灰外套の男が気づく。眉がわずかに動くだけ。

「今日は仕事が早いじゃないか」

「こっちは朝から起きてるので」

 羽織の人物は最後まで顔を見せない。足が止まらず、通り過ぎる“つもり”の歩幅。

「倉庫の扉は、昼で終わりだ」

「君たちが決めること?」

「札が決める。街で決める」

 返事の代わりに、羽織は肩をすくめた。灰外套の男の口の端が、ほんの少しだけ吊り上がる。

 行き止まりではない。ただ、ここで速くは動けない。板一枚の角度と、紙切れ二枚の矢印で、足の向きは自然に変わる。

 ふたりは肩を寄せて通り抜け、門の方向へ消えた。後ろ姿のまま、何も落とさない。今日のところはそれでいい。


 門の石段にクロ。石の温度を確かめるみたいに、前足でちょんと叩いてから腰を落とし、人の流れを見ていた。

 ランベルトが見張り台から降りてきて、俺たちと視線を合わせる。

「裏は?」

「入れ替えだけ。袋は持ち歩かない」

「性分の悪い連中ほど、楽をしたがる」

 門の掲示に目をやる旅人が増えている。文字の大きさ、矢印の短さ、太い縁。声を出さなくても伝わる瞬間が、今日は何度かあった。

 クロは小さくあくびをして、鼻先を掲示の紙に向ける。あくびの終わりに「ふにゃ」と声が漏れ、子どもが笑った。笑いが一度起きると、足音は自然に落ちる。不思議だ。


 夕方、川沿いの屋台で短い休憩。

 フィオナが瓶の栓を指で弾き、俺たちに渡す。

「昼の子、見たよ」

「どっちの?」

「灰の。『楽』って言ってた顔」

「楽は長持ちしない」

「長持ちさせないのが、こっちの仕事だね」

 クロは水皿に鼻先をつけ、上を向いて飲む。ヒゲの先に一滴だけ残る。

 ミーナが布でそっと拭いた。

「濡れると寒いよ」

「うん」

 返事の短さが、妙に人間くさい。


 夜。倉庫街の見回りは衛兵に引き継いで、俺たちはギルドに戻る。

 ミレイユが掲示板の上段に新しい小紙を差し込む。

〈印を見たら、札を見る〉

〈札の言葉は、街の言葉〉

 台の向こうで、セレナが湯気の立つ茶を二つ。

「今日は喉より足だね。冷える前に温めて」

 カップを受け取ると、クロが椅子の足元に座って、前足をそろえたまま俺の顔を見上げる。

「のむ?」

「少しだけ嗅いでいいよ」

「くさ」

「草だもん」

 鼻をひくひくさせたあと、彼は自分の水皿へ戻った。自分の番が分かっている。


 白樺亭。マルタは粥鍋を一度混ぜ、客の顔ぶれを眺めてから俺に声をかける。

「箱、もう少し高くしようか」

「クロ、どうする?」

 彼は箱の縁を二周歩いて、開きかけの扉を見た。通りから風が入る。

「たかいと、みえる。ねこ、みる」

「じゃ、明日板を足すね」

 リナが笑う。

 粥は薄い塩と香草。喉が落ち着く。


 食後、帳場で短い紙片が渡された。果物屋のフィオナから。

〈倉庫の鍵穴、もう一つ。通り二つ先。昼の倍の人出〉

 すぐ紙の端に三本線を引いて、明日の順番を決める。

 一、朝いちで確認。

 二、抜け道に矢印を増やす。

 三、扉前で止めずに“逸らす”。

「止めるより、逸らす」

 声に出すと、自分にもよく入った。クロが箱の上からこちらを見て、ほそい声でまねをする。

「そらす」


 灯りを落とす前、窓の桟に白い粉の帯が細く浮かんでいるのに気づいた。誰かの指が通った跡。

 手で拭かず、布でそっと取る。窓の外、路地の石段に薄い灰色の矢印が一本。ギルドの扉のほうへ向いている。

 誰かが、ここへ“印”を置いた。

 クロが箱から飛び降り、石段の縁に鼻を寄せた。

「におい、ない。あしあと、ちいさい」

「大人じゃない」

 指先に残った粉は、昼の袋よりも細かい。粉の目的は、目を引くことだけ。

 扉を閉め、札の束を引き寄せる。

 “印を見たら、札を見る”。

 その札は、明日の分まで刷ってある。

 箱の上に戻ったクロが前足をそろえ、小さくうなずいた。

「ねる。あした、はやい」

「うん。明日はもう一段、先回りしよう」

 呼吸が静かになっていく。外は遠いざわめき。

 眠りに落ちる前、灰の矢印がゆっくりと消えていくのを、頭の中で何度も確かめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る