第9話 「倉庫街の灰」
朝の鐘が一度。白樺亭の一階は、パンと薄いスープの匂いであたたかい。
マルタが鍋を回し、リナが皿を並べる。カウンターの足元には、昨夜から置いてある小さな木箱——〈猫休み処〉の札付き。クロはそこに丸く収まり、ふちに顎をのせてこちらを見上げた。
「今日は広場の読み合わせ、それから倉庫街の見回りだろ?」
「はい。札を一枚増やします」
「水は多めに。猫さんは塩なし」
「のむ」
クロは真面目にうなずき、粥の湯気を鼻で確かめてから、慎重に舌を使った。食べ終えると、箱のふちに前足を揃えて座り、出陣の顔つきになる。ちょっと背伸びしているのが可愛い。
角の果物屋で薄めの果実水を受け取る。フィオナが札を指で叩いた。
「“動く矢は見ない”、子どもでも言えるのがいいね。——倉庫の通り、昨日から匂いが薄いけど、人の出入りが急に増えたよ」
「気をつけます。午後に回ります」
クロが瓶の口をくんくん嗅ぎ、片目を細めた。
「すっぱい。すこし」
「効く味だ」
ギルド。ミレイユが新しい札を一束出してくる。
「読み合わせは広場と門の二回。倉庫街には“蓋ずれ注意”の小札も持っていって。——セレナ?」
白ローブのセレナが奥から出てきて、俺の喉と指先を見てうなずいた。
「良好。声は短めで十分通る。猫さんは前足きれい、よく拭けてるね」
クロは胸を張って「にゃ」とひと声。褒められると、尾の先が小さく跳ねる。
広場。掲示板の前に子どもが三人、昨日覚えた文句を並んで読む。
「白は紙で」「矢は札で」
「よし」
紙を配ると、子らは地面ではなく紙に字を書いた。粉の指跡は出ない。井戸の列は細く、歩きは静かだ。
門の横では、ランベルトが外出簿に記入しながらこちらを見た。
「倉庫街、今朝は荷車が多い。見張り台から、同じ色の外套が三度通ったのが見えた。灰色だ」
「灰……」
昨日回収した糸と粉を思い出す。胸の奥が少し固くなる。
「追いかけはしない。通りを広く使わせろ。札は三か所、結び目は外側。——猫さん、今日も車輪の内側に入らないようにな」
「はい」とクロが答え、きっぱりと一歩さがった。周囲の衛兵が笑い、空気が和む。
昼前、鍛冶通りでフーゴに挨拶をしてから倉庫街へ降りる。石畳の隙間に、乾いた粉の筋が細く続いていた。白というより灰がまざった薄い帯。
クロが鼻先を近づけて、すぐ顔を上げる。
「すこし、あまい」
棒の先でふれずにかすめ、匂いを拾う。確かに甘い。だが前に嗅いだものより浅い。混ぜ物か、古い粉だ。
そのとき、路地の影から荷車が一台。帆布は新しいが、結び目が妙に固い。御者の肩口には、灰の粉が指のあとみたいについている。
番の男に声をかける。
「通路は右寄せで。狭い角は歩き通過」
御者はうなずいたが、目線は札ではなく俺の手首を見ていた。短い間。
荷車が通り過ぎると、粉の帯が角で途切れ、倉庫の裏手へ回り込んでいるのがわかった。
倉庫番詰所の前で足を止める。番頭は昼の帳面に目を落としたまま、顎で合図した。
「裏に寄せる荷車が増えたろ。札は効くが、匂いが変わった。——灰っぽい甘さだ」
「こちらでも拾いました。札を一枚追加して、角の導線を白矢印で細く引きます。番頭さん、蓋の座も見ます」
「頼む。……それと、昨日、夜更けに“紙を借りたい”って若いのが来た。灰色の外套。ことわったら、すぐ引いた」
紙を、夜に? 読み合わせ札なら昼間に取りに来る。別の目的だ。目の端でクロを見ると、猫は路地の先をじっと見つめていた。箱がないのが不満らしく、ふとん代わりに自分の尻尾を足に巻きつける。可愛くて笑いそうになるが、今はやめておく。
路地の角に札を一枚。〈甘い匂いに注意/右寄せで歩く/紙で遊ぶ〉
白矢印を細く引き、縁だけ赤でなぞる。結び目は外側。
札を張り終えて立ち上がると、背後から低い声。
「札、増えたね」
振り向くと、灰色の外套が一人。帽子のつばを深く落としている。手袋は薄く、指先に白っぽい粉がついていた。
「読みやすい文字だ。子どもでもわかる。——だから、街が遅くなる」
嫌味ではない調子だった。観察のような、独り言のような。
「遅くなって困る人がいる?」
「いるとも。急がせると、見落とす。見落とすと、拾える」
男は札を斜めに一瞥し、肩をすくめて去ろうとする。
クロが一歩前に出て、箱がない代わりに俺の靴の先に顎をのせた。止めて、という合図。
俺は一歩、路地をふさいだだけで、追いはしない。
「倉庫番に話を通します。通りを広く使ってください」
男は片手をひらひら振って、狭い隙間に自分の体を細く滑り込ませた。足取りは速くない。音も立てない。
クロが小さく「ふぅ」と鼻で息を吐く。少しだけ緊張が抜けた合図だ。
午後の鐘が鳴る。札は三枚増やし、角の導線は二本細く引き直した。
粉の帯は、裏川沿いの荷溜まりで消えている。水に流したのだろう。
戻る前に、倉庫の蓋座を一つ確認し、欠けを布で養生。番頭に控えを渡す。
「夜に紙を貸せと言われても、貸さないでください」
「もちろんだ。——猫さん、箱が要るか?」
クロが真顔でこくりとしたので、番頭は笑いながら荷台の板で簡易の箱を作ってくれた。
クロはさっそく入り、縁に顎をのせて周囲を見張る。ふと、前足で箱のふちをとん、と叩く。
「はこ、よし」
「よし」
関所アルダへ短報。セルジオは粉の匂いを嗅いでから、倉庫街の地図を机に広げた。
「裏川沿いに帯が消える、か。水で流す。——札は増やせ。通りの速度を落とせれば、十分だ」
「追いません」
「それでいい」
彼は灰色の外套の話に眉を寄せ、ひと呼吸おいてから短くうなずいた。
「紙を欲しがる者は、紙で困る。次は“紙でしか通れない”通路を作れ」
「白矢印の細道を増やします」
夕方、ギルドでまとめ。ミレイユが掲示台の隅に小さな欄を作る。〈倉庫街・灰の帯〉
「“紙でしか通れない”——いい言い方だ。白矢印の細道、明日から一本ずつ増やそう」
セレナが喉の茶を差し出し、クロの皿に水を足してくれる。
クロは小さく舌を出して一口、また箱の縁に顎をのせた。眠いけれど、まだ見張っている顔。前足の黒い点が、ふちから少しはみ出している。
白樺亭に戻ると、マルタが帳場で紙片を渡してくれた。
「倉庫番から。『猫の箱、貸し出し可』だってさ」
「ありがたい」
リナが笑って箱を指でとんと叩く。
「クロ、明日も箱番?」
「はこばん」
得意げな顔で言うから、こちらまで笑ってしまう。
夜は静かに落ちた。
窓際に札束を置き、紐の結び目を外側に揃える。
紙は街を遅くする。遅くなれば、見落としが減る。
今日、灰色の外套がそれを証明してくれた。
明日は矢印をもう一本。箱ももう一つ。
そう決めて、灯りを落とした。クロの寝息は箱の中で、規則正しく続いていた。
◇
翌朝。広場の札を一枚増やしたあと、俺たちは倉庫街の裏筋に回った。
昨日、帯が消えた地点より、さらに川寄り。湿りの残る石畳に、白とも灰ともつかない粉が薄く散っている。
クロが箱から身を半分乗り出し、前足でふちをとん、と叩いた。
「みぎ」
示す先、壁の下端に細い擦れ。手袋の指で触れると、粉が糸目に残っている。布を当ててすくい取り、紙包みに収めた。
「番頭さん、ここ。夜に荷を回した跡がある」
詰所から出てきた番頭は、目を細めて石畳の角を見た。
「確かに。昼の帳面にはない台数だ」
「札をもう一枚。導線は白矢印で“L字”。箱は角ごとに二つ、貸してください」
「いいとも。昨日の猫の箱、評判だよ」
番頭は笑って板箱を二つ抱えてきた。クロは真剣な顔で片方に飛び込み、くるりと向きを変えて縁に顎をのせる。ふちの角に前足の黒い点をぴたり。——“ここ基準”の合図。可愛いのに仕事が早い。
札を張り、矢印を引く。赤の縁は細く一筆。結び目は外側。
通りかかった荷車の若い御者が足を止めた。
「“紙でしか通れない”って、どういう意味だ」
「矢印に沿って、歩きで角を抜ける。そうすれば荷車がぶつからない。紙が道になる」
「なるほど」
彼は小声で復唱し、荷を進めた。矢印の通りに曲がると、帆布が鳴らない。周囲の視線がふっと柔らぐ。
昼過ぎ、灰の帯は薄くなり、匂いも遠のいた。
そのとき、向かいの倉の引き戸が少しだけ開き、灰色の外套が一人、肩をすぼめて外を窺った。帽子のつばは深い。
視線が札へ流れ、次に路地の奥へ。
俺は近寄らない。かわりに、札の前でクロの箱を指でとん、と叩いた。
クロが顎を上げる。外套の男と視線がかち合った。猫の目は丸くも細くもならず、ただ真ん中だけを細い線にして、じっと見る。
男は口角だけで笑い、扉を閉めた。音は軽い。
中に人がいるのは確かだ。だが、ここで扉を叩けば、札はただの紙に戻る。紙を生かすには、街の足並みが先だ。
関所アルダで短報。セルジオは紙包みを開け、指で粉の縁を鳴らすように払って香りを取った。
「甘さは浅い。灰を混ぜて、匂いをぼかしている。——川筋へ流す先回りをしろ。水車小屋の守に声を」
「了解。矢印は増やします」
「増やせ。紙で動かせ」
水車小屋。古株の親父が目を細めて、粉の紙包みに鼻を寄せた。
「この灰っぽいの、夜明けに一度流れたな。泡の立ち上がりが変だった。ほら、あの角だ」
指さす先、川の壁に薄い筋。
「今夜は見張ります。小屋の灯りを一つ貸してください。札にも“川筋注意”を足します」
「貸すとも。猫さんは小屋の中に入っていい」
クロは得意そうに小屋の縁を一周して、回し車の音に合わせて尾をゆっくり振った。回転に合わせてぴょこん、ぴょこんと跳ねる尾先が、妙に可笑しい。
夕暮れ。倉庫街の人出は少し増え、灰色の外套が二、三。
札の前で小競り合いが起きかけた。瓶を抱えた若者が「急いでるんだ」と肩をいからせ、矢印を無視して突っ切ろうとする。
俺は前へ回り込み、手のひらを見せて静かに言った。
「矢印に沿って。角は歩きで」
「紙一枚で偉そうに」
「紙一枚で利がある。ぶつからない」
若者は舌打ちし、周囲を見る。番頭と数人の荷運びが黙って矢印の先に立った。
若者は肩を落とし、結局、矢印のとおり歩いた。通りは詰まらず、瓶は割れない。
過ぎざま、彼は振り向きざまに小さく言った。
「……わかったよ」
クロが箱の縁で小さくあくびをし、片方の前足をちょいと上げて「通過」を示す。見ていた子どもが真似をして笑った。
日が沈みきる前に、門へ。ランベルトが外出簿に線を引きながら、倉庫街の欄へ短い注記を足す。
「“川筋注意”は門でも言う。夜は小隊を一つ回す」
「水車小屋にも灯りを置きます」
夜。水車小屋の二階の桁に身を潜め、川面を見張る。
クロは膝の上で丸くなり、時々だけ顔を上げて匂いを嗅ぐ。鼻先がひくひく動くと、耳もいっしょに小さく揺れる。
川は音を変えない。ただ、時おり、上流から薄い物影が滑ってくる。
最初の影は藁束。水にふやけ、壁に当たって沈んだ。
二つ目は板切れ。
三つ目が、問題だった。
白い紙片がいくつも結ばれた細い紐が、浮きながら流れてくる。紙には丸と細い線が刷ってある——〈白◦〉の偽印。
壁に近づくたび、紙が石に擦れ、粉のようなものがじわりと溶け出す。甘い匂いは薄い。だが十分だ。これを川で溶かせば、下手の通りに“匂いの筋”がつく。
桁から降りる。靴の底で板を踏んで音を作り、灯りを少し明るくした。
小屋の親父が気づき、竿を持って飛び出す。
俺は川縁の梯子を二段降り、柄の長い鉤を伸ばした。紙紐を傷つけないよう、結び目だけ引っかけて岸へ寄せる。
親父が竿で支え、ふたりで引き上げた。濡れた紙から、灰っぽい粉が手に移る。
クロは梯子の上でじっと見て、鼻をひくつかせるだけで決して近づかない。賢い。
紙紐の結びは粗い。刷りは雑だが、型は“本物”を真似ている。
俺は紙包みに切れ端を収め、水を切って麻紐で束ねた。
「関所へ持っていきます。今夜はこれで終い。流し元の合図は見えない位置にあるはず。追わずに、紙を増やします」
親父は深く息を吐き、頷いた。
「門の側にも言っておく。猫さん、今夜はここで温かい板の上に乗っていきな」
クロは素直に板の上に乗り、前足をそろえて座り直す。板がほんのり温かいのが気に入ったらしく、喉の奥で小さく鳴った。
関所。夜番のセルジオは灯りの下で紙紐を受け取り、刷りの癖を確かめた。
「型を盗んでいる。だが雑だ。急いで刷った手だな」
「水で溶かして“匂いの筋”を作るつもりでしょう」
「だろうな。明朝、川沿いの札を一段増やす。“紙でしか通れない”線を水にも延ばせ。橋桁の手前と後ろ、二か所だ」
「わかりました」
「——それから」
彼は紙紐の結び目を指先でほどき、結び直して見せた。
「結びが甘い。こうすれば、流れで勝手に解けて粉が早く散る。雑だが、考えてはいる」
「覚えます」
「覚えたら、相手の手も読める」
ギルドで短いまとめ。ミレイユは掲示台の地図に川沿いの赤い点を二つ足し、札の束を用意した。
「明日の朝一で貼ろう。“橋と水の手前後に白矢印”。——セレナ、消毒を」
セレナが手を洗い、俺の指と掌を拭き、薄く油を伸ばす。
「匂いに当てられていないね。よし。猫さんは鼻が利くから近づきすぎないように」
「ちかづかない」とクロ。胸を張ると、尾の先が自慢げに左右へ小さく揺れた。
白樺亭に戻る。マルタが湯気の立つ粥をよそい、リナがクロの箱に薄い布を敷いてくれる。
「箱番さん、おつかれ」
クロは布の感触を前足でこしょこしょ確かめ、満足の顔で丸くなった。布の端をちょっとくわえて引き、枕みたいにして顎を置く。
——可愛い。けれど、明日は箱がもうひとつ要る。
灯りを落とす前、紙に三行だけ記した。
・川沿い二か所に矢印(橋の手前後)
・水車小屋に札を置く
・偽刷りの紙紐、提出継続
紙を束に戻すと、クロが小さく目を開け、前足の黒い点で俺の指をちょんと突いた。
「アキラ。あした、はやい?」
「少し早い。箱を運んで、札を増やす」
「はこ、ぼくがみる」
「頼んだ」
その一言に、箱の中の猫は満足そうに目を閉じた。夜は静かだった。
◇
夜が明ける前に白樺亭を出た。広場の息は冷たく、石畳が薄く濡れている。
クロは肩箱の縁にあごをのせ、目だけであたりを見回した。眠そうなのに、耳はよく動く。
まず橋。城下へ渡る小橋の手前と向こう側、二か所に札を増やす。
ミレイユが用意した厚紙は、川のしぶきにも負けない硬さだ。矢印は白、縁だけ赤。文句は短く——「橋前後は歩き」「紙の線で曲がる」。
「箱、ここに置こう」
橋詰の欄干に板箱を一つ。クロは跳び乗ると、前足で縁をちょいちょい。箱の角が人の目の高さになる位置を確認して、きゅっと座り直した。
通りかかった子どもが指を伸ばす。
「触っていい?」
「いまお仕事中。見るだけな」
子は頷き、札を追って声に出して読んだ。「橋は歩き」。クロは満足げに目を細める。
川下の水車小屋にも札。親父が灯りを低くして待っていた。
「昨夜の紙紐、あの棚に広げてある。乾けば匂いも切れる」
棚の上で乾く偽刷りは、やはり雑だ。白丸の位置が微妙にずれている。
「このズレ、型の角が欠けてるのかも」
「そこまで分かれば、刷り場を絞れるな」親父は鼻を鳴らす。「川沿いに奥まった作り小屋が三つ。昼にあたりを見てくる」
倉庫街へ戻ると、昨夜見かけた灰の外套が増えていた。肩の合わせ目が同じつくり——どこかでまとめて仕立てている。
番頭は札の前で腕を組み、路地へ人を誘導している。
「昨夜は静かだった。朝一番の荷も、矢印どおりに回る。紙が道になる、ってのは本当だな」
「紙を育ててるのは、ここで働く人たちです」
番頭は笑って、クロに小さく礼を言った。「箱番さん、ご苦労」
川際に近い倉の裏で、クロが急に尻尾をぴんと立てた。
「した」
欄干の陰、石の継ぎ目に細い藺(い)草のひも。先に小さな葦(あし)の筒が結わえてある。
そっと引き上げると、湿りを逃すための穴を穿った薄木箱が出てきた。中には昨夜と同じ偽刷りが十数枚と、灰を混ぜた粉袋がひとつ。袋口の結びは皮紐。解きやすい浅結びの癖。
ふと背中に視線の気配。
振り向くと、灰の外套が一人、倉の角に立っていた。まだ若い。こちらと木箱を見比べて、顎を少し上げる。
「それは、うちのだ」
声は平らだが、手が落ち着かない。指先に灰がこびりつき、爪の間まで薄く白い。
「関所で確認する。返すかはそのあとだ」
男は鼻で笑い、近づいてきた。
「紙一枚で、何が変わる」
近寄りすぎた。
俺は一歩だけ下がり、皮紐の袋を左手で高く。右手は腰の布へ。
「触らないで」
男の視線が袋の口に吸い寄せられた瞬間、クロが箱からすべり降り、男の足もとへすっと入り込んだ。
踏ませない、という距離。黒い点のついた前足が、石畳をぴ、と軽く叩く。
男は反射で足を止める。ほんの一拍。十分だった。
俺は布を指先でひねり、男の手首にふわりとかけて軽く引いた。痛みは出さない。ただ、前に踏み込めない角度にする。
「渡せ」
「関所だ」
路地の入り口で呼子が鳴った。番頭の合図だ。衛兵が二人、小走りで来る。
男は舌打ちして布を外そうとしたが、灰の粉で指がすべり、結び目に爪が立たない。
ランベルトが間に入り、短く押さえた。
「言い分は詰所で聞く。手は見せろ」
男は抵抗をやめ、両手を開いた。爪の間に灰。袖口に白い点。
連れて行かれながら、こちらへ目だけ戻して言う。
「紙で街は守れない」
俺は返さない。札を指さし、通りの流れを見る。矢印の通りに曲がる荷車。箱の前で足を止める子ども。怒鳴り声がない朝。
紙は生きものだ。貼っただけではただの板切れ。けれど、人がそれに合わせて動いたら、紙は道になる。
クロが戻ってきて、足もとに体をすりよせた。鼻先を上げ、誇らしげに喉を鳴らす。よくやった、という顔だ。
関所アルダ。紙紐と粉袋、葦筒、藺草のひも、全部を提出する。
セルジオは粉袋の縫い目を指先で撫で、葦筒の穴の大きさを測った。
「投げ込むより、流すための工夫だな。夜明けに仕込んで、昼の混み始めに薄く香るように」
「橋前後の札は増やしました」
「加えて、川の縁に“紙の曲がり”を二つ。水音で人は気が散る。印で目を戻せ」
彼は偽刷りの白丸を一枚つまみ、太陽に透かして見た。
「刷りのズレは一定。型の角がかけている。木口の癖も出ている。……この手だな」
短い図を紙に描き、矢印を付けて俺に渡す。
「倉庫街の川側で、この角度の小屋板を探せ。角が欠けた型は打つたびに同じ欠けが出る。刷り台の高さも均一だ。手先が早い、だが丁寧ではない」
「了解。番頭に声をかけます」
倉庫街に戻ると、番頭は扉の鍵の束を持って待っていた。
「灰の外套は詰所行きだってな。川側の小屋、片っ端から見るぞ」
鍵が回る音。小屋の奥は、古い木の匂いと薄い湿り。
一軒目は乾いた板と麻袋だけ。
二軒目の棚に、紙屑がわずか。白、灰、白。
三軒目で、クロが鼻をひくつかせて立ち止まった。
棚の下段。布にくるまれた木片。取り出すと、片角がほんの少し、猫の歯形みたいに欠けている。
白丸の枠が彫られた木口だ。刷毛の毛が三本、乾いて固まって添えてある。
番頭が息をのむ。
「それだ」
「型は関所へ。ここは封をして札を」
扉に紙を貼って紐で留める。文句は短く——「確認中」。
通りがかりの若い衆が立ち止まり、札を見て頷く。
「紙があると、揉めずに済む」
昼過ぎ、空気が少し乾いた。川面の光が白から銀に変わる。
水車小屋の親父が早足でやってきた。
「上流の渡し守が、夜明け前に“白い紙を流す影”を見たそうだ。二人。背が低いのと、太いの」
「明け方に動くのは、夜の足跡を消すため」
番頭が唇を結ぶ。
「明日、朝いちで倉口を一度閉めよう。札で回せば、揉めない」
「協力します。門にも回します」
午後の人出が増える前に、札をさらに二枚。川沿いの曲がり角に「歩き、右寄せ」。倉の角には「箱の前は一列」。
クロは新しい箱に慎重に入り、前足の黒い点で縁をつん、と叩いて“ここ通る”を示す。
子どもが真似して、自分の紙片に小さな丸を書いた。
「ぼく、紙で遊ぶ」
「それが一番いい」
夕刻。ランベルトが小隊を連れて様子見に来た。
「札の数、増えてるな」
「明日の朝、倉の開け方を変えます。札で回せるように」
「了解。衛兵も列に入って歩く。声は短く」
日が落ちる前、ギルドで報告。ミレイユは地図に赤点を増やし、封じた小屋の位置に小さな×を打った。
「“確認中”の紙、もう五枚刷るね。——セレナ、指」
セレナは手を洗い、俺の指先を点検して薄く油をのせた。
「粉の仕事は、指先から疲れる。湯で温めてから寝ること。猫さんは……」
クロは診察台の端で香りを嗅ぎ、ぱたぱたと尾を振った。
「いいこだね。近づきすぎないの、守れてる」
「まもる」クロは胸を張る。ちいさな胸がふくらんで、すぐに元に戻る。その動きが可笑しくて、セレナが笑った。
白樺亭。マルタが粥の鍋を回し、リナがクロの皿を先に置く。
「箱番さん、大人気だね。今日もご苦労」
クロは前足で皿の縁を押さえ、こくこくと上手に飲む。髭に一滴だけ水がついて、ぶるっと震わせて飛ばした。
「明日は朝から倉の回し方が変わる。——紙で揉めないように、先に貼って、先に言う」
「うん」リナが頷く。「言い方は短くね」
灯りを落とす前、紙に明日の手順を三つ書く。
・倉口一斉の前に札を開く
・川沿いの曲がりで箱を先に置く
・封じた小屋は関所と一緒に再確認
紙を重ねると、クロが布団の足もとにころんと転がり、前足で布の端をよいしょと引っぱった。
「アキラ。あした、はこ、ふたつ?」
「ふたつ」
「ぼく、みぎ」
「頼んだ」
小さく鳴いて、クロは目を閉じた。
外は静かだ。川の音が遠くで続いている。明け方が、少し楽しみになった。
◇
翌朝は薄曇り。倉庫街の石畳は夜露で鈍く光っていた。
番頭の掛け声で木戸が一斉に半分だけ持ち上がる。開け放つのは人の流れが整ってから——今日はそのための札と箱を、先に道筋へ置いていく。
川沿いの曲がり角に、白い矢印の札を二枚。矢は人の背より少しだけ高い位置に掲げると目に入りやすい。箱を一つすえて、クロがするりと跳び乗った。前足の黒い点で縁を小さく叩くと、並びの先頭にいた荷運びの男が苦笑して列を詰める。
「箱番さん、きょうも頼むよ」
クロは胸を張って「にゃ」と短く返した。尾がぴんと上がっている。
封をした小屋の前に来る。昨日の紙はしっかり残っていた。番頭が鍵を抜き差しし、文句を指差して周りの若い衆へ言う。
「ここは関所の立ち会い待ち。中は触らない」
若い衆は素直に頷き、通りかかりの子どもが札を声に出して読む。「さわらない」。その様子を見て、クロが満足そうに目を細めた。
木戸をさらに持ち上げ、帆布の荷車が最初の路地へ入る。札が効いて、人の向きが滑らかだ。乱暴な声はひとつも出ない。
と、箱の陰でクロがぴたりと止まった。鼻先をひくつかせ、右前足で石の継ぎ目をちょん、と示す。
「そこ、匂うのか?」
しゃがんで見ると、薄い粉が指先にまとわりつく。甘いけれど、ごく弱い。昨日の粉袋と同じ癖。袖の中に隠したまま、少しずつ零すにはこの目地が都合がいい。
視線を上げると、灰の外套が二人、曲がり角の手前で立ち止まっていた。背の低いのと、肩幅のあるの。親父が伝えてきた目撃と一致する。どちらも袖口が少し濡れており、灰が筋になっている。
「おはよう」
こちらから先に声をかける。二人は目だけ動かし、足はその場。俺が粉を布で拭いながら続ける。
「これは関所で話す。きのうの仲間の件も含めて」
肩幅のあるほうの顎がわずかに上がり、低い声が返った。
「紙と箱で道が守れると思うな」
「紙は目印だよ。守るのは、人の手と、決めた順番だ」
背の低いほうの肩がぴくりと震えた。袖の内側に指が潜る。
クロがすかさず箱から飛び出して二人の間に入った。真正面ではなく、ちょうど踏み出したい足の前——邪魔にならず、でも踏めない距離。
「動かないで」
俺は布を広げ、指だけで軽く合図を送る。番頭が即座に呼子を鳴らした。路地の奥で衛兵が返事の笛を二度。
肩幅のある男が舌を打ち、袖の中の指がもぞりと動く。俺は布の端を手首にひらりとかけ、〈引かせない〉角度に手の甲を返す。痛みはない。ただ、近づけない。
背の低いほうが反射で下がり、箱の前でつまずきそうになった。クロがすっと退いてスペースを作る。踏ませない、でも転ばせない——箱番の采配は完璧だ。
ランベルトが到着するまで、ほんの数呼吸。二人の外套は詰所へ向かい、路地の空気はすぐ平らに戻った。
整列が乱れなかったのは札の位置と箱の高さ、それからクロの目の速さのおかげだ。
「……ありがとな」
番頭が小声で言う。クロは得意そうに鼻を鳴らした。箱の上で前足をそろえ、まるで「仕事です」とでも言うように姿勢を正す。通りすがりの子が拍手を送ると、耳をぱたぱた動かした。
昼前、関所で短い聞き取り。
セルジオは押収した型の欠け目と、偽刷りの白丸を合わせてみせる。ずれ方が同じだった。
「刷り台と版の角癖が一致。二人の袖口の粉は昨日の袋と同質だ。川沿いの小屋板にはさらに古い粉の跡。……“灰指(はいゆび)”と呼ばれる連中の末端かもしれん」
「灰の外套の縫い目も似ていました」
「同じ仕立て屋だろう。上は別にいる。急ぐな。今日みたいに整えて、崩させないことだ」
提出物の控えを受け取ると、セルジオは最後に紙を一枚差し出した。
「札の文句、今朝の並びが良かった。これを街側にも回してくれ」
書かれていたのは、迷いなく短い三行。
——橋は歩き
——曲がりは右
——箱の前は一列
たったそれだけでも、人の足は十分に揃う。
午後の倉庫街は穏やかだった。封をした小屋は関所の印で正式に封鎖され、目立つ揉め事は起きない。
水車小屋の親父が汗を拭きながらやってくる。
「上流の粉屋に話を通した。朝方に水車を一枚止めるなら、合図をくれってさ。札も貼ってくれと言うから、板を用意しとく」
「ありがとうございます」
親父はクロの頭をくしゃ、と撫でた。
「箱番殿にも礼を」
クロは撫でられながら、空を見上げて気持ちよさそうに目を細める。気の抜けた顔が可笑しくて、周りが少し笑った。
「確認中」の札を貼った小屋の前を、夕暮れ前にもう一度回る。札の縁を指でなぞり、紐の緩みを確かめる。
番頭が隣に立ち、深く息を吐いた。
「紙に勝てるやつはいない、って言った職人がいたよ。正確には“紙と数”にな」
「札と人手、ですね」
「そう。お前さんの“先に置く”やり方は、ここの癖に合う。明日も頼む」
「はい。箱はもう一つ増やします」
「箱番さんの分も?」
クロがこちらを向き、「ふたつ」と鳴いた。番頭が肩を震わせて笑う。
「二番もいるか。贅沢だ」
ギルドでは、ミレイユが倉庫街の地図に薄い赤の環を描き、今日の出来事を短く記した。
「“矢印の高さが揃うと、目が揃う”。覚え書きに残しておく」
セレナは診療室で俺の指のひらを見て、薄い擦れを丁寧に油で消していく。
「粉と紙は指先にくるからね。今夜は温い湯に一度手をつけてから寝なさい」
「はい。クロは——」
「塩なしのお水と、撫でられ過ぎないこと」
「まもる」クロは真面目な顔で答える。そう言いながら、診療台の端に顎をのせて、撫でてほしいのが丸わかりだ。セレナが苦笑して、そっと一回だけ額を撫でた。
鍛冶通り。フーゴは口金布のストックを一包み渡してくれた。
「札を増やすなら、紐穴の端が擦れて切れやすくなる。紙の角に薄革を挟め。見栄えも持ちも良くなる」
「学びます」
クロが「かまない」と勝手に宣言し、フーゴは大きくうなずいた。
「一番大事な約束だ」
白樺亭に戻ると、マルタが帳場から顔を上げた。
「今日は声が荒れなかった。台所にまで分かるよ、そういうのは。——薄粥、猫さんは塩抜き」
「お願いします」
リナが運んできた木椀の縁に、クロが前足をちょこんと乗せる。
「ちょっとだけ、ふー」
「ふー」
俺が息を吹く真似をすると、クロは真剣に見つめ、ほんの少しだけ舌を出して粥を舐めた。温度を確かめる仕草が妙に人間じみていて、リナが笑いをこらえて肩を震わせる。
食後、部屋で紙の束を整える。今日使った札の予備と新しく貼る分を分け、封鎖小屋の控えに関所印を写す。
クロは布団の上で転がり、前足で布端を引っぱっては、上手くいかないとこちらを見る。
「手伝う?」
「てつだう」
俺が布端を少し持ち上げると、クロは得意げに潜り込み、鼻先だけ出して「にゃ」と鳴いた。布の山が小さく動くたび、隠れた尾がぴょこんと跳ねる。
こんな時のクロは、とても可愛い。
灯りを落とす前、明日の紙に一行だけ書き足す。
——朝、箱を先に置く(ふたつ)
明け方、川の音がまた少しだけ近くに感じられた。
札は軽い。箱も軽い。けれど、人と一緒なら重しになる。今日、倉庫街はそれを覚え始めた。
目を閉じる。呼吸はすぐ穏やかになる。
クロが胸の上で丸くなり、黒い点のある前足をそっと俺の腕にのせた。
「アキラ。あした、はこ、さき?」
「先に置く」
「わかった」
短い返事のあと、ちいさないびき。
倉庫街の夜は、静かに更けていった。
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