第11話 「灰の小石」

 朝の白樺亭は、湯気とパンの香りが静かに広がっていた。

 クロは椅子の上で前足をそろえ、皿のふちに鼻先を寄せる。

「パン、すこし」

「熱いから待てよ」

 小さくちぎって皿に置くと、前歯でそっとかじった。舌がちょっとだけ出る。見ているリナが笑う。


 食後、昨夜の“灰色の線付きの小石”を布に包み、鍛冶通りへ。

 フーゴは砥石の水を替えながら石を受け取り、親指の腹で擦った。

「灰に油を混ぜて焼き付けてあるな。水じゃ落ちない。砂で軽くこすれば薄くはなるが、完全には消えにくい」

「印に使われている可能性は?」

「十分ある。石の平たい面に線を入れて、道端へ“落としておく”。合図になる」

 布袋に微粒の研ぎ砂を少量、分けてくれる。

「ただし、消すだけじゃ追いつかん。置かれる理由を先に切るほうが早い」

「札で流れを作る」

「それだ」


 角の果物屋。フィオナが小瓶を二つ差し出す。

「薄め一本。猫さんは塩なし。——昨日の矢印、評判いいよ。倉庫前で立ち止まる人が減った」

「小石の印を拾った。似たものを見たら教えてくれ」

「了解。露台の子らの目はよく利くから、声をかけておく」


 ギルドへ寄ると、ミレイユが地図台の上で札束を揃えていた。

「今日は“印の洗い出し”。門、倉庫前、市場裏を薄く回して、灰の小石を拾う。——写しはイリア」

 白衣のセレナが顔を出し、短く耳打ち。

「喉は問題なし。水はこまめに。猫さんは日向で長く座らせない」

「のらない」クロは胸を張る。


 門。水飲み場の桶の縁はきれいだが、柱の根元に小石が一つ。昨夜のと同じ、平たい面に灰の斜線。

 布で包んで拾う。イリアが薄紙に位置を書き込む。

「“門・柱根元・灰線石(一)”」

 見張り台からランベルトが声を落とす。

「朝、柱の前に数人立った。札を読んで流れたが、“目印”を探す目つきは残っていたな」

「札を一枚足す。柱の前で立ち止まらないように」

 矢印は短く、目線より低く。紙角は二結び。


 市場裏。露台の陰で、子どもが三人、平たい小石を指で弾いて遊んでいた。

 小石の面に、灰の線。

「それ、どこでもらった?」

「さっき、あっちの角で。おじさんが“これ投げると音が出る”って」

「音は出ないよ。紙に絵を描くほうが楽しい」

 イリアが白紙を配る。クロは子どもたちの正面にちょこんと座り、両前足で紙を押さえた。

「ここ。にゃ、かく」

 恥ずかしそうに笑いながら、子どもたちは“にゃ”と丸を書いた。

 もらった石は布に包んで回収。位置を薄紙へ。

「“市場裏・配布経路(角)・灰線石(三)”」


 倉庫前。扉の八歩手前、樽の影に二つ。

 昨夜見た灰外套の立ち位置と、石の並びが合う。

 ミーナがひざをついて樽の裏を覗く。

「新しい爪跡。指先に灰」

「貼り足した矢印の前に、印を置いて進路を戻そうとしている」

「なら、矢印をひとつ手前に引く。扉の前で決定させない」

 紙を一枚、足す。人の歩幅に合わせて、視線をずらす。


 昼。白樺亭で粥を少し。クロは塩抜きの皿で満足そうに目を細めた。

 マルタが帳場から顔を出す。

「札、評判いいよ。——灰の線石? 昔、港でも流行った。人を呼ぶのに便利だからね」

「今は呼ばせないように動きます」

「うちの前にも一つ置かれてたら言うよ」


 午後は地図を埋める番。門→市場→倉庫前→裏小路。

 拾った灰線石は計八つ。油混じりの灰は落ちにくいが、回収すればただの石だ。

 ミレイユの地図に、小さな×印が並ぶ。

「並びが“扉へ誘う斜め”になってる。——札で横へ折ると、列が自然にずれる。面白いくらい素直だね」

「石は夜に補充されるかもしれない」

「じゃあ、夜は“貼りの確認”。扉の前は見張り台から見える位置に矢印を一本」


 夕暮れ前、門の脇で旅支度の男が立ち止まった。

 足もとに、灰線石。

 拾い上げると、向こう側の人だかりの端に、灰外套が一瞬だけ立った。

 こちらを見ない。

 見ないまま、歩く人の流れに紛れて消えた。

 クロが袖をつつく。

「アキラ」

「見えた」

 石は布に包んで袋へ。軽いのに、袋の底へ沈む気がした。


 夜の前に、札をもう一枚。

 “扉の前で止まらない/矢印に沿って角を曲がる”

 字は太く、息を吐いてから一度で書く。

 ミーナが二結びを締めて、結び目を外へ倒す。

 矢印は短く、低い。立ち止まるより、歩くほうが楽になる高さだ。


 白樺亭へ戻ると、クロは箱に飛び乗って毛繕い。

 左前足の黒い点を舐めて、こちらを見上げる。

「きょう、いし、いっぱい」

「八つ。明日も拾う」

「ぼく、みる」

「頼む」

 灯りを落とす前、拾った石を机に並べて、線の向きを写し取っておく。

 斜めの角度が、どれも扉へ向いている。

 札は、それを手前で折り返すためにある。

 紙一枚で、人は流れを変える。

 明日はもっと手前で折る。

 そう決めて、目を閉じた。



 夜の手前、門の火皿に灯が入った。札の縁を指でなぞって、墨の乾きを確かめる。短い矢印は低い位置。読ませるより、見て歩かせる。


 ひと回りして戻る途中、倉庫街の小路に灯りが点のように並んだ。樽と樽の間を抜けると、乾いた石畳の上にまた“それ”があった。平たい面、灰の斜線。置かれたばかりの気配。


 クロが前に出て、鼻先を近づける。

「におい、あたらしい」

「触らないで見てて」


 布で包んで拾うと、樽の影がわずかに揺れた。逃げる足音。追うほどの速さじゃない、でも軽い。年のいかない足だ。


 角をひとつ曲がるまで歩幅は一定に。曲がりざま、肩越しにだけ視線を流す。暗がりの奥、小柄な影が壁に背を貼りつけていた。手の中の布袋が丸い。


「それ、誰にもらった?」

 影が一歩だけ下がった。声変わり前の高さ。

「……やさしいおじさん。石を置いたら、パンくれるって」

「どこで?」

 ためらい。袋を握る手がきゅっと小さくなる。


 クロが影と俺のあいだに座り、尻尾で床をちょんと叩いた。

「ここ、あんぜん」

 子どもがクロを見た。強張っていた目が少しだけ緩む。

「角の、あの扉。昼は閉まってる。夜、開く」


 礼を言い、袋を受け取った。中は同じ印の小石が十。重さより、数が胸に落ちる。


「パンは別にあげる。石は回収する。君は、もう置かないで」

「……うん」


 帰りがけ、ランベルトの詰所に立ち寄る。袋を見せると、彼は顔をしかめた。

「また子どもを使ったか。扉の番を増やす。札はこっちで一本足す。『立ち止まるな』をでかい字で」

「扉の前、夜だけ人が入るそうです」

「場所は?」

「倉庫通りの三番。昼は閉め。夜に開く」

「押さえる。……せっかくだ、見張り台からも見える場所に矢印を一本増やしてくれ」


 札を足して白樺亭へ戻ると、マルタが小袋を差し出した。

「干したパンの端。子の腹は、先に満たしたほうが話が早い」

「助かります」


 夜更け。窓を少しだけ開け、拾った小石を机に広げた。斜線の角度は同じ。扉の向きに合わせてある。紙に写し取り、位置の癖を描く。クロは机の端で丸くなり、時々鼻先で石を押して俺の方に寄せた。

「これ、にたにおい」

「同じ袋から出したんだろうね」


 明け方、白樺亭の台所から湯気が上がる。マルタが鍋を回し、リナが皿を並べる。

「顔が冴えてる。何か見えたね」

「夜だけ開く扉が一本。子どもに小石を渡してました」

「ふん、性根の悪い手口だ。——猫さん、塩抜き」

「のむ」


 角の果物屋で瓶を受け取ると、フィオナが声を潜める。

「倉庫通りの三番、昼は商品置き場。夜は人の出入りがあるって噂。——大人が見張るより、札で曲げたほうが早いよ」

「曲げます」


 鍛冶通り。フーゴは鞘の口を点検しながら、灰の小石を一つ転がして見た。

「子を使うなら、大人は遠くにいる。扉の“先”を見張れ。夜に火を使わない連中だと、靴底が軋む」

「音を拾います」

「拾って、伝えて、崩さない。——猫は靴音に強いぞ」

 クロは胸を張った。

「きく」


 ギルド。ミレイユは札束に赤い短線を足し、地図の扉に印を打つ。

「昼は地味に。夜は二手。門と倉庫の“曲がり角”だけ押さえる。イリアは札。アキラは空気。ミーナは足音」

 セレナが白い布を差し出した。

「喉と、耳の中。風で乾く。——息を吐いてから、短く伝える。それで十分」


 昼の回収は少なかった。石は門の柱根元に一と、市場裏で一。札の矢印が効いている。


 日が落ちきる前、倉庫通りの端に立つ。扉は閉じたまま。人の気配は薄い。

 クロが尾をまっすぐ上げる。

「ひと、すこし」

「どこから?」

 尻尾が右に傾いた。裏小路の奥。


 しばらくして、扉が音を立てずにわずかに開いた。中から大人の影がひとつ。外には出ない。目だけが道を探す。

 通りの角で、別の影が小石を一つ、指の中で転がした。置く寸前、足下の矢印が目に入る。

 ——その矢印は扉から半歩外へ曲がっている。

 影は、置かずに去った。


 こちらに勝ち誇る暇はない。

 扉の向こうの大人は、次の手を考える顔をしていた。矢印に合わせて人が流れるのを見て、戸をまたほんの少し閉める。

 視線が一度だけ斜め上に上がって、見張り台の方角に触れた。

 気づいている。札だけじゃ終わらせない相手だ。


 夜半、扉は静かに閉まった。小石は置かれなかった。

 撤収の前、札の結び目を確かめる。紙角は生きている。

 ランベルトが詰所から降りてきた。

「今夜は動きが軽かったな」

「“矢印の先にいる”と思ったはずです」

「思わせておけばいい。明日は逆をやる」

「逆?」

「矢印を一枚“わざと遅らせる”。夜明けに付け替える。——扉の中から出てくる癖が見える」


 白樺亭に戻ると、クロは足を洗うための桶に自分から前足を入れた。

「つめ、ちょっと」

「切るか?」

「すこしだけ」

 爪先を一枚だけ整えると、気持ちよさそうに目を細めた。

 灯りを落とす前に、扉の絵と矢印の位置を紙に描き直す。

 “遅らせる札”。動きが遅れる分、目は増える。

 引っかかるのは誰か。

 明け方が少し待ち遠しくなった。



 夜明け前。倉庫通りの三番に、わざと遅らせた矢印を結んでおいた。曲がり角の前で一度だけ迷わせる。開く扉の目線と、人の癖を拾うためだ。


 空が灰色から薄い桃色に変わるころ、俺とミーナは樽の影へ、ランベルトは見張り台、イリアは札の位置が見える距離で待った。サビーネは通りの外れ。弓は袋にしまったまま、視線だけ上げ下げする。


 クロは俺の膝に前足を乗せて、鼻を少し持ち上げた。

「くつのこすれる、おと」

「どっちから?」

 尻尾が左に傾く。裏小路の方だ。


 扉がほんの指一本ぶん開いて、内側から短い咳払い。外の曲がり角に、昨日と同じ年頃の影が現れた。袋が丸い。

 影は矢印を見て、一歩遅れた。その一拍の遅れで、扉の中の大人の目線がそちらへ吸い寄せられるのが分かった。


 ミーナが耳の後ろで指を鳴らす。合図は一度きり。

 俺は樽から出て、子どもの前で足を止めた。

「その袋、こっちで預かる。パンは別に出す」

 少年の肩が跳ねる。逃げるなら今、という間があった。

 クロが少年の前に座り、尻尾で床をひとなで。

「だいじょうぶ」

 その一言で、少年の目の色がほどけた。袋を差し出してくる手が小刻みに震える。

「……置けって。曲がり角に、まっすぐ」

「誰に言われた?」

「灰の指の人。手に灰がついてる。指、一本」

 言いながら、少年の視線が扉に吸い寄せられる。内側に、別の気配。


 ランベルトが見張り台から低く笛を一度。合図は扉へ向いた。

 扉がすっと閉まる。音がほとんどない。内側には、準備していた手だ。今日のところは出てこない。


「ここで終わり。中は追わない」

 俺は少年にパンの袋を渡して、目線を合わせた。

「次は来ない。来るなら、ここじゃなくて白樺亭においで。朝の粥は安い」

 少年は何度も頷き、パンを抱えて走った。走るのは止めない。あれは帰る足だ。


 袋の中には、小石と灰、紙片が二枚。紙の端に小さな印——指一本を斜めに刷いた黒。乾いた灰に混ぜると、指だけ灰色に見える。

 イリアが紙を一枚だけ写し、もう一枚はランベルトへ渡した。

「控えはギルドへ。現物は詰所に保管」

「受けた」


 札の矢印を本来の位置に戻す。わざとの“遅れ”は夜明けの一度きりでいい。

 ミーナが紙角を押さえ、結び目を外側に倒す。

「結び、生きてる」

 クロが横からのぞき込み、結び目に鼻先を寄せる。

「かまない」

「偉い」


 朝の人波が押し寄せる前に、ギルドで報せをまとめた。

 ミレイユは地図の倉庫通りに小さな指印を描き、赤鉛筆で丸を一つ。

「近ごろ“灰の指”って囁きが出てた。印が出たなら紙に残せる。——関所にも写しを回す」

 セレナが静かに俺の耳の中を見て、薄い布でそっと拭った。

「音を追いかけすぎないで。聞こえたら、短く伝えるだけ。——猫さん、鼻は大丈夫?」

 クロは真面目な顔で「だいじょうぶ」と言い、白い喉をひとつ上下させた。

「のむ」

「はいはい、塩なし」


 角の果物屋。フィオナに瓶をもらいながら、紙片の図柄を小声で伝える。

「指一本の刷き。灰色の染め」

「へえ。印を作るのは数を増やすためだ。札で返すなら“印の意味は一つじゃない”って街じゅうに広めるといい。子は、印が一つだと信じるからね」

「“矢印=動かすための合図、灰の指=止めさせるための印”。二つ並べて貼ります」

「それはいい。……猫さん、香りだけ」

 クロは瓶の口をくんくん嗅いで、目を細めた。

「すっぱい。すこし」

「ちょっとだけ舐めていいよ」


 鍛冶通り。フーゴは小刀の鞘を軽く弾いて、札の紙角を指でつまんだ。

「紙の角が柔らかい。昼に一枚だけ薄布を貼れ。雨に負けない」

「もらいます」

 クロは足元の麻紐を前足でちょん、と押してから、フーゴの顔を見上げた。

「かまない」

「分かってる。見るだけだな」

 クロは誇らしく鼻を鳴らす。


 昼の一巡。門内広場——白い指跡はなし。市場裏——粉袋の口、二結びで維持。鍛冶角——札は読める。

 短く記録して、倉庫通りへ戻る。扉は閉まったまま、矢印は動かさない。

 代わりに、別の札を一枚足した。

《印があっても、足はあなたのもの。——“止まらない”は、あなたの選び》

 読み上げる親がいれば十分だ。


 午後、関所アルダへ。ランベルトから預かった袋を持って、詰所の机に置く。

 セルジオは秤で重さを取り、匂いを嗅いで、紙片の印を目で追った。

「印は指一本。灰を混ぜると手だけが灰色になる。——“灰の指”で通りを曲げようとした、というわけだ」

「はい。子どもに小石を渡し、扉は夜だけ開きます」

「扉は見ておく。だが、扉より“足”のほうが数が多い。足を札で整えたのはいい手だ。——提出物は預かる。控えを持っていけ」

 赤チョークで小さな丸が紙の端に引かれた。印の隣に“了”の字も細く。


 戻る道すがら、クロが急に立ち止まって、横の樽の影をじっと見た。

「ちいさいこえ」

「どこ?」

 尻尾がぴんと立つ。樽の向こうで、小さなかすれ声。

 覗いてみると、朝の少年とは違う顔がいた。涙の跡が頬に残っている。

「パン、もらっていい?」

「もちろん。——話は、あとで」

 白樺亭まで一緒に歩くと、マルタが事情を聞くまえに皿を置いた。

「話は食べてから。猫さんは塩抜き」

 クロは少年の隣に座り、鼻を皿の縁にちょんとのせた。

「あついよ、すこし」

 少年が笑った。わずかでも、笑った。


 食後、少年はぽつぽつ話した。灰の指の人は、倉庫通りの奥の扉から出てくる。顔は隠さないが、指先だけ灰色。石とパンをやりとりして、置く場所も教える。

「お金は、家の人に渡すの?」

「ううん。ぼくは、パン。お金は、大人の人に……」

 そこで言葉が止まる。

 俺はそれ以上は聞かなかった。今日のところは、ここまでで十分だ。


 夕方、札の貼り替えにもう一度出た。

 “矢印=動かすための合図”“灰の指=止めさせるための印”。二枚を並べる。

 札の前で、親が声に出して読む。

「止まらないのは自分の選び……そうね」

 子どもがこくりと頷く。クロはその横で前足をそろえ、掲示をじっと見上げていた。

「よむ」

「そうだね。読むと強い」


 夜。倉庫通りの三番は静かだった。扉は開かなかった。

 矢印は低い位置で、紙角は生きている。

 ランベルトが見張り台から降りてきて、短く言った。

「今夜は動かない。——印が街に出回るまでに、言葉で上書きする」

「札、明朝もう一枚足します」

「頼む」


 白樺亭に戻ると、クロが自分から足洗いの桶に入って、前足をぴちゃぴちゃ動かした。水が指の間できらりと揺れる。

「きれいになった」

「えらい」

 タオルで拭くあいだ、クロは指の間をひらいたり閉じたりして、乾いた布の感触を楽しんでいる。鼻先がくすぐったそうに動く。

「くすぐったい」

「もうすぐ終わる」


 灯りを落とす前、机に新しい紙を一枚。

 “印の意味は一つじゃない”。

 灰で手を染めても、足は別の方へ進める。

 明日は、その言葉をもっと大きく掲げる。

 扉の中の相手は、札一枚で終わらない。けれど、札一枚で足は変わる。

 クロが胸の上で丸くなり、ひとつあくびをして、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。

「あしたも、よむ」

「一緒に、読む」



 翌朝。倉庫通りの三番に、人の波ができる前に着いた。貼り足す札は二枚。昨夜書いた言葉を太く清書してある。


 一枚目——

《矢印は“通す”ための合図。灰の指は“止める”ための印。——見分けて選べ》


 二枚目——

《印があっても、足はあなたのもの》


 ミーナが角を押さえ、俺が紐を結ぶ。結び目は外へ倒す。イリアは最後に縁を指でなぞって、にじみを拭った。クロは札の真下に座り、首を少し傾けて見上げている。

「ふたつ、ちがう」

「うん。見分けられたら、もう引っかからない」


 通りに朝の光が差し始めると、最初の親子が立ち止まった。母親が小声で読み、子どもが真似る。

「印があっても、足は——」

 言葉の尻で子どもがこちらをちらりと見て、クロの頭をそっと撫でた。

「ねこも、えらぶ?」

「もちろん。今日は“ここにいる”を選んでる」

 クロは満足そうに目を細め、「いる」と短く返事した。


 扉は閉じたまま。けれど、通りを横切る目線が昨日より落ち着いているのが分かった。矢印に吸い寄せられていた視線が、今朝は札に留まる。足が早まらない。


 関所へ写しを回したあと、ギルドの地図台で今朝の二枚を配置に描き足す。ミレイユが赤鉛筆で矢印の先に小さな丸を付けた。

「“選ぶ場所”の印。街じゅうに同じ形を広げよう」

「市場角と門の脇にも貼る」

「お願い。——セレナ、のど」

 医務の白衣がひょいと顔を出し、俺の声を一言だけ確認して「よし」と短くうなずく。

「猫さんは?」

「のむ」

「えらい」


 鍛冶通りで薄布を一枚ずつもらい、札の角に貼って回る。フーゴは針を俺の手に置きながら言った。

「言葉は刃物じゃないが、刃物より早く届く日がある。角はほつれさせるな」

「気を付けます」

 クロは針山をじっと見たあと、前足を引っ込めてから自分で胸を張った。

「さわらない」

「それで合ってる」


 昼前、倉庫通りに戻る。三番の扉の前を、荷車が二度通った。どちらも歩調は崩れない。札を見て目線を戻す人が増えた。

 そのとき、扉がほんの少しだけ開いた。指一本ぶん。内から顔の下半分だけが出て、こちらと札を交互に見る。指先は灰でくすんでいる。

 俺は何もしない。ミーナも合図を出さない。サビーネは路地の先で、ただ通りの線を見ているだけ。

 扉の向こうの視線が一度だけ揺れて、静かに閉まった。


 午後。ランベルトの見張り台で一息、状況を交わす。

「印の出所は追ってる。だが、今は“足”の数に勝たせるほうが早い」

「札で回します。——子どもへの声が先」

「それで行こう」


 市場角。札の前に小さな輪ができていた。露店の女将が声を出して読む。

「矢印は通す、灰の指は止める……なるほどね」

 隣の男が頷く。

「止められても、足は自分のだとよ。いいね」

 クロは露台の影からひょいと顔を出し、子どもたちに鼻先を寄せて挨拶する。嗅いで、すぐ引く。

「かまない」

「えらいな」子どもが笑う。笑い声が広がると、輪の硬さがゆるむ。


 夕刻。倉庫番が札の下に小さな木箱を置いた。

「“印に迷ったらここで深呼吸”って箱だ。中は何も入ってないけどな」

「それがいい」

 木箱に腰を下ろして、少年が二人で空の中身を眺める。クロは箱の陰に潜り込んで、前足をそろえて座った。

「なにも、はいってない」

「それで正解だよ。空っぽは、焦らない合図だ」

 少年が「ふんふん」と真似して頷き、深呼吸を二度してから走って帰った。帰る足は止めない。


 夜前。三番の扉が、今度ははっきりと開いた。中から背の高い男が一人。指先に灰。手袋はしていない。

 こちらを見て、札を見て、目だけで笑ってみせる。

「札を増やすのが早いな、ギルド」

「読める場所に置いているだけです」

「印は増えるよ。数字みたいなものだから。覚えさせるほど、よく効く」

「だから、“見分けて選べ”を並べました」

 男は肩をすくめた。

「賢い。——猫はそのままにしておけ」

 クロが一歩前に出て、俺の足首に尾をからめた。小さな背中は固くない。

 男はその様子を見て、興味を失ったように扉へ戻った。

「今日は何もしない。明日はどうだろうな」

 音を立てずに扉が閉まる。

 追わない。追っていい時間じゃない。


 夜。ギルドの円卓で、札の在庫と貼り場所を洗い直す。

 ——門内、水飲み場、広場の角、倉庫通り、鍛冶角、学校、御者宿。

 ミレイユが地図に赤い点を増やし、細い線で結ぶ。

「“読む場所”が線になった。次は、夜だけ人が集まるところ——酒場の出入り口にも一枚」

「白樺亭の玄関にも貼ります」

「女将が喜ぶよ。読み上げるから」


 セレナが茶器を置いて、俺の手首を軽く包帯で一周。

「昼と夜、違う声になる。それでいい。今日のは昼の声。——明日の朝は、短いほうで始めて」

「分かった」

 クロは茶器の香りに鼻を近づけて、すぐ引き、木皿の水に舌を落とした。

「のむ」


 白樺亭。玄関に一枚貼ると、マルタが両手を腰に当てて頷いた。

「“足はあなたのもの”、いい言葉だよ。旅の人にも効く」

 リナがクロの喉元を人差し指でそっと撫でる。

「クロ、今日も貼り紙の番したの?」

「した」

「えらい」


 部屋で灯りを落とす前、机に紙を一枚。今日の三行だけ、普段より少しゆっくり書いた。

 一、印の出所を追うのは関所に任せる。

 二、街の“読む場所”を増やす。

 三、子どもに先に届く言葉にする。

 紙を重ね、紐で軽く束ねる。クロが胸の上で丸くなり、あくびを一つ。前足の黒い点が、腕にちょんと触れる。

「きょう、えらんだ」

「うん。みんなが、自分で選べるようにする」

 窓の外に、夜の風。遠くで笛が一度。交代の合図。

 目を閉じる。明日は酒場の扉、それから学校。読む声が増えれば、印の効き目は薄くなる。

 扉の向こうの誰かが何を増やしても、こっちは“選ぶ”を増やすだけだ。

 そう決めて、眠った。

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