第2話 崩れる未来
午後3時15分
警視庁本部庁舎、12階。刑事部捜査第一課のフロアは、澱んだ空気と微かなタバコの匂い、そして常に鳴り続ける電話の着信音に満たされている。殺人や強盗といった、人の醜悪な部分を日々扱うこの場所では、それが日常だった。
特殊犯捜査係(SIT)の指揮官、黒岩警部は、山積みになった報告書を片付けていた。数日前に解決した人質立てこもり事件の事後処理だ。部下たちの顔に疲労の色は濃いが、事件がないだけましだった。
その、ありふれた日常を切り裂いたのは、一本の内線電話だった。
「管理官! 110番の受理件数が異常です! 新宿東口周辺から、内容の錯綜した通報が数十件!」
フロアの隅にある通信モニター室から、若い巡査部長が叫んだ。捜査第一課の管理官である田中が、険しい顔で受話器を取る。
「落ち着いて報告しろ。錯綜とはどういう意味だ」
「はっ! 『爆発音がした』『男が暴れている』『トラックが突っ込んだ』…ダメです、内容に一貫性がありません! ただ…」
言葉を濁す部下に、田中は声を荒らげた。
「ただ、何だ!」
「…『人が投げ飛ばされた』『銃声が聞こえる』といった通報が複数。それと…『人が化け物に』という、信憑性の低い通報も…」
「馬鹿なことを言うな」
田中は一蹴したが、胸騒ぎがした。ほぼ同時に、管轄である新宿署の無線が悲鳴を上げた。最初に現場に駆け付けた地域課の警察官からの、パニックに満ちた音声だった。
『こちら新宿3! アルタ前で応援求む! マル被(被疑者)は…巨大! 人間じゃない!繰り返す、人間じゃ…』
『発砲! 発砲! 効かない! 拳銃じゃダメだ! うわぁっ!』
音声が、耳を裂くような破壊音と絶叫と共に途切れた。
フロアの空気が、凍り付く。
「管理官!」
「…Nシステム! 新宿東口のカメラ映像をメインモニターに回せ!」
田中の指示で、壁一面の巨大モニターの映像が切り替わる。そこには、地獄が映し出されていた。
カメラは、逃げ惑う人々の波を捉えている。画面の端で、パトカーがひしゃげ、黒煙を上げていた。そして、その中心に『それ』はいた。監視カメラの粗い画質でも分かる、明らかに常軌を逸した巨体。腕のようなものを一振りするだけで、人間が木の葉のように舞う。
「…なんだ、これは…」
誰もが言葉を失った。テロか? それにしては声明がない。新種の兵器か?
これは、捜査第一課が扱うべき「刑事事件」の範疇なのか?
「管理官! 新宿署からの報告! 先着した警官隊、接触からわずか2分で4名が殉職、もしくは連絡不能!」
「警備部には連絡は!?」
「既に! ですが、機動隊(ライオットポリス)が到着するまで最低でも15分はかかります!」
15分。その間に、被害はどこまで拡大するのか。田中は奥歯を噛みしめた。
機動隊は、暴動鎮圧や警備の専門家だ。単一の、圧倒的な破壊力を持つ目標に対する制圧戦は想定されていない。
警備部に所属する対テロ部隊、SATか? だが、SATの出動には厳格なプロトコルがある。これは、まだテロ事件と断定されていない。手続きだけで時間を浪費する。
ならば、誰が行く。
田中の視線が、部屋の隅で静かに戦闘準備を始めている男たちに向けられた。
SIT。
人質立てこもり事件や誘拐など、凶悪な「人間」を相手にする部隊。彼らの装備も、あくまで対人用のものだ。
だが、彼らは刑事部の所属であり、管理官である自分の指揮下にある。そして何より、突入と制圧のプロフェッショナルだ。今この瞬間、最も迅速に、そして最も高い戦闘能力を持って現場に投入できるのは、彼らしかいなかった。
田中は、既にプロテクターを装着し、静かな目で自分を見つめている黒岩に視線を合わせた。
部下を死地に送る。それも、勝てる見込みの極めて薄い、未知の脅威の元へ。
管理官の肩に、部下たちの命と、この決断がもたらすであろう全ての責任が、重くのしかかる。数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
「…黒岩」
田中は、腹の底から声を絞り出した。
「マル被の正体は不明。既存の兵器は一切通用しないと思え。だが、これ以上の被害拡大は、1秒たりとも許せん」
「……」
「SIT(お前たち)を出す。これは、凶悪犯による特殊な大量殺人事件と認定する」
「…了解」
黒岩は、短く応えた。その声に、恐怖も動揺もなかった。
田中は受話器を取り、上層部への報告と許可を、半ば一方的に告げた。
「―――以上の状況により、管理官判断として、特殊犯捜査係を現場に投入します」
電話を切ると、田中は黒岩に向き直った。
「現場の指揮は、全てお前に一任する。…必ず、生きて帰れ」
「はっ」
黒岩は力強く敬礼すると、部下たちに鋭く命じた。
「SIT、全隊員、出動!」
重装備に身を固めた男たちが、一斉に駆け出していく。その背中を見送りながら、田中は、自分の下した決断が、最善であったことを祈るしかなかった。
モニターの中では、今この瞬間も、東京が未知の悪夢に喰い荒らされていた。
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