第3話 暖かさ/冷たさ

午後3時21分


警視庁本部庁舎の地下駐車場。

SITの隊員を乗せた特型警備車の重いドアが閉まると、外の喧騒が鈍い壁の向こうに遠ざかった。そこは、出撃前の静けさと、抑制された男性の汗の匂い、そして微かな嘔吐物の酸臭が混じり合う、鉄の棺桶だった。若い隊員の一人が、極度の緊張から戻してしまったのだ。誰も、それを責めなかった。


『―――全車に通達。これより現場映像を転送する』


モニターに映し出されたのは、地獄だった。報道ヘリからの映像が、怪物の腕の一振りで人間が文字通り破裂し、赤い飛沫と肉片に変わる瞬間を捉えていた。


「……これが、今回のマル被か」


誰かが呟いた声は、乾いていた。

黒岩は、その映像から目を逸らさずに言った。


「いいか、よく聞け。奴の詳細は不明だ。だが、分かっていることもある。奴は元々、人間だ。そして、奴の攻撃パターンは、恐慌状態に陥った獣そのものだ。威嚇し、排除する。極めて単純な行動原理だ」


黒岩は、一度言葉を切り、車内にいる部下全員の顔を一人ずつ見回した。帰りを待つ妻、子供がいる者と目があう。結婚を控える者と目があう。


「俺たちの仕事は、獣狩りじゃない。あくまで被疑者の制圧、すなわち『逮捕』だ。だが、今回は特例措置が許可されている。躊躇うな。市民の命、そして仲間の命を守るためなら、即時射殺もやむを得ん。目標は頭部。人間の名残がある、あの顔面だ。そこ以外に有効打はないと思え」


彼は淡々と、しかし重い事実を告げた。


「これは、俺たちが今まで経験した、どの現場とも違う。だから、一つだけ約束しろ。―――無駄死にするな。危険と判断したら退け。仲間を見殺しにするな。以上だ」


『……了解』


部下たちの短い返答が、狭い車内に響いた。


午後3-29分


新宿駅東口、アルタ前。

リアハッチが開かれた瞬間、熱風と共に鉄と臓物の匂いが流れ込んできた。

人々の絶叫。ガラスの割れる音。何かが叩き潰される湿った打撃音。そして、腹の底に響くような、獣の咆哮。

黒岩の目の前に転がっていたのは、人間の上半身だった。見慣れた制服を着た、新宿署の若い警官。その下半身はどこにも見当たらなかった。ひしゃげたパトカーの運転席では、上半身が潰れて原型を留めない同僚の亡骸が、だらりとシートベルトにぶら下がっている。


「降車! 展開しろ!」


黒岩の怒声が飛ぶ。隊員たちは、吐き気を押し殺し、血溜まりを避けながら飛び出していく。バスを盾に、半円形の包囲網を形成した。

黒岩が双眼鏡で捉えた『それ』は、生物と呼ぶのもおぞましい代物だった。黒光りする甲殻の隙間からは、絶えず粘液が滴り落ち、アスファルトをじゅうじゅうと溶かしている。関節が動くたびに、骨が無理に捻じ切れるような、鈍い音が響いた。そして、その顔の中心部で、絶望と苦痛に歪んだ若い男の顔が、まるで埋め込まれたオブジェのように、筋肉の繊維をむき出しにしながら固定されていた。


「狙撃班、ポイントへ向かえ! ルミネエスト屋上、Aポイントだ!」


無線に、訓練通りの冷静な声が飛び交う。だが、その声には誰もが隠しきれない恐怖が滲んでいた。

怪物は、新たな餌の出現に気づき、その禍々しい頭部をゆっくりとこちらに向けた。


「……構え」


黒岩が、低く命じる。

怪物が、咆哮を上げた。鼓膜が破れそうなほどの音圧と、腐臭を伴った呼気が隊員たちを襲う。


「撃てぇッ!」


黒岩の絶叫が、号令となった。

ダダダダダッ!!

十数丁のサブマシンガンから放たれた9mm弾が、怪物の甲殻に当たり、虚しく弾かれる。

怪物はその弾幕を嘲笑うかのように、巨体で突進してきた。

包囲網の最前列にいた、一番若い隊員、田代が標的となった。彼は、顔を引き攣らせながらも、分厚い防弾盾を構えて踏みとどまる。


「来るなァァッ!」


その絶叫は、巨大な腕の一薙ぎによってかき消された。

グシャッ! という音ではない。ゴキャリッ! という、硬いものと柔らかいものが同時に限界を超えて破壊される音だった。

怪物の爪は、特殊合金の盾をバターのように貫き、盾の裏側にいた田代の胸部を、ヘルメットごと抉り取った。

盾には、人間大の穴が空いた。その向こう側で、田代の上半身は存在しなかった。首から下、胸から腹にかけてがごっそりと消え失せ、残された両腕と下半身が、まるで出来の悪いマネキンのように崩れ落ちる。噴水のように鮮血が舞い、熱い臓物の破片が、隣にいた隊員のヘルメットのバイザーを汚した。


「た、田代ぉぉぉッ!」


仲間の悲鳴が響く。戦端が開かれて、わずか30秒。SIT最強の盾は、中にいた人間ごとミンチになった。

黒岩の脳裏に、先ほどの自分の言葉が蘇る。

―――無駄死にするな。

だが、どうやって。どうすれば、この悪夢を止められる。

焦りが、一瞬、黒岩の判断を鈍らせた。その隙を、怪物は見逃さなかった。

標的は、指揮官である黒岩。

巨大な爪が、黒岩の頭上から振り下ろされようとしていた。

万事休すか―――。

その時、無線が叫んだ。


『こちら狙撃班、Aポイントより、いつでも撃てます!』


天からの声だった。

黒岩は、迫りくる死の影の下で、最後の希望に全てを賭けた。


「撃てぇッ! 今だ、撃てぇぇぇッ!!」

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E.G.I.S @Kurosaki-Ryu3

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