Ep.2 —『選別者』の数式、釜山撤退戦の記録

クレー特別行政区・ニホ区 場所:公立老人ホーム 「夕凪の丘」

語り手:タカミネ・ゲン(92歳 / 元MC輸送管理官 / 日系ニホニーズ)


高度な空調システムによって管理されたこの施設は、清潔すぎて、どこか消毒用エタノールと死の匂いが混ざったような、奇妙な「無臭」の静けさに包まれている。 廊下ですれ違うのは、音もなく滑るアシスタント・ドロイドと、自分が今どの時代に生きているのかも忘れてしまったような入居者たちだけだ。


私がタカミネを訪ねたのは、彼がかつてMC(軍警)の輸送管理官として関わった、ある作戦について聞くためだ。


教科書では「極東のダンケルク」とされ、一部の歴史家からは「棄民の選別」と呼ばれる、1951年冬の釜山撤退戦(Operation Exodus)。 それは、現在のニホンという国家の骨格——治安機構の絶対的な権限と、NEXIS(国家拡張・統合戦略体系)の冷徹な合理性——が決定づけられた瞬間でもあった。


タカミネは窓辺の電動車椅子に深く沈み込み、眼下に広がるサカミナト・アークの巨大なガントリークレーンを眺めていた。 その指先は、関節炎で曲がりながらも、まるで目に見えないコンテナを数えるように、微かにリズムを刻んでいた。 彼の手元には、飲みかけの栄養ペーストのパウチと、すり減った古い計算尺が置かれている。


当時の立場はMCの臨時輸送管理官補。 聞こえのいい肩書きだが、要するに現場叩き上げの「荷役係」だよ。まだ二十歳そこそこの若造だった。


今の若い連中は、私のような老人がMCN(国内軍警)の顧問なんて肩書きを持っていると、さぞかし勇敢な武勇伝があるんだろうと期待する。 クリスマスの清川江(※1)で核の閃光を見たとか、対馬海峡で機雷を撒いたとかね。 あるいは、あの忌まわしいインドシナの英雄だと思っているのかもしれない。


(彼は震える手で湯呑みを持ち上げ、一口すすると、自嘲気味に笑った。その笑顔は、古びた革靴のひび割れのように乾いていた)


あいにくだが、私は英雄じゃない。引き金を引いた回数よりも、計算尺を弾いた回数の方が遥かに多い男だ。


1951年、あの冬の釜山で私が戦っていた相手は、共産軍の戦車でもなければ、PVA(中国人民志願軍)の人海戦術でもなかった。 私が戦っていたのはアルキメデスの原理だ。 浮力、排水量、そして積載限界。 もっと平たく言えば、鉄の箱にどれだけの肉を詰め込めるかという、極めて物理的で、吐き気がするほど単純な算数の問題さ。


君は「オペレーション・エクソダス」について聞きに来たんだろう? 教科書には「極東のダンケルク」なんて勇ましい名前で書かれているが、現場にいた人間は誰一人としてそんな呼び方はしなかった。


あれは撤退じゃない。「廃棄」だ。


沈みかけた船から、少しでも高価な荷物を守るために、安い荷物を海へ放り捨てる。あの時の釜山港第4桟橋は、世界で最も残酷な選別所だった。


私はそのゲートの前に立っていたんだ。 右手には乗船者リスト、左手にはコルト・ガバメント。 そして目の前には、凍てつく海と、生きることを懇願する10万人の「過積載分(バラスト)」がいた。


……いいだろう、お嬢さん。そのICレコーダーを回しなさい。 あの日、我々が何を積み込み、何を捨てて、どうやってこのニホンという国を作るための種銭を確保したか。その計算式の話をしよう。


時計の針を少し戻そう。 1950年の12月。私はまだMCですらなく、国連軍の後方支援部隊に属する一介のニホン人だった。場所は朝鮮半島北部、清川江の南岸だ。


当時の戦況は最悪だった。マッカーサーの仁川上陸作戦が機雷封鎖でポシャってからというもの、我々は北の山岳地帯でPVAの人海戦術に押されっぱなしだった。 「奴らは地面から湧いてくる」 前線の米兵はそう言っていた。実際、夜になると銅鑼とラッパの音が山々に響き渡り、何万という兵士が波のように押し寄せてきた。弾薬が尽きるまで撃っても、死体の山を乗り越えて次の波が来るんだ。


そして、あの夜が来た。12月24日、クリスマスイブだ。 米第8軍が包囲され、全滅の危機に瀕していた時、空が光った。


私は塹壕の中で震えていたが、突然、真昼よりも明るい閃光が視界を焼いた。音はなかった。ただ、世界が真っ白になった。 数秒後、地響きと共に熱風が来た。 トルーマンからのクリスマスプレゼント、マーク4戦術核爆弾だ。 ヨコハマやキョートのような都市破壊用じゃない。敵の主力部隊を物理的に蒸発させ、進撃を止めるための壁を作る兵器だ。


翌朝、私は偵察隊と共に爆心近くへ行った。 そこには何もなかった。文字通り、何もだ。 PVAの兵士も、戦車も、木々も、雪さえも消えていた。 ただ、ガラス状に溶けた地面が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。 美しかったよ。吐き気がするほどにね。


だが、恐怖はそこからだ。 放射能汚染地帯という「見えない壁」ができたことで、一時的に敵の足は止まった。しかし、奴らは数週間もしないうちに、その汚染地帯の上を歩いて南下を再開したんだ。 防護服もなしに、被曝しながら進軍してくる兵士たちを見て、国連軍の上層部は悟ったんだよ。


「この戦争に勝利はない。あるのは『撤退』か『共倒れ』かだ」とね。


そして1月、釜山港だ。 半島全土から、国連軍、韓国政府、そして共産軍の報復を恐れる数百万の難民が、南端の釜山へとなだれ込んだ。 私が配属された第4桟橋には、推定で10万人が詰めかけていた。 彼らは皆、凍傷で黒くなった手を伸ばし、何かを叫んでいた。金塊を見せる者、子供を高く掲げる者、英語で懇願する者。


当時の私に与えられた任務は、桟橋に係留されたリバティ船(※2)の船倉管理だ。 私の手元には、船の設計図と、喫水計算表、そして上層部から渡された「優先リスト」があった。


リストの最上位は国連軍兵士と装備。 次は「必須技術者」。医師、旋盤工、通信技師。 その次が政府要人。 一般市民? ……項目すらなかったよ。


船の積載限界は6,000トン。兵士と装備だけで4,500トンを使う。残りの余剰浮力は1,500トン。 人間一人の平均体重を60キロ、冬服と最低限の荷物を含めて75キロと仮定する。 1,500トン割る75キロ。答えは20,000人。 埠頭には10万人がいる。 単純な引き算だ。8万人は乗れない。


(タカミネは手元のタブレット端末——株価チャートが表示されている——を一瞥し、画面を消した。数字への執着は、90代になった今も変わらないようだ)


問題は、その8万人が「自分が乗れない」と理解した瞬間に発生するパニックだ。 群衆がタラップに殺到すれば、船は重心を失って転覆するか、あるいは出航が遅れてドックごと空爆される。 だから我々は「フィルター」を作った。 小隊がバリケードを築き、その前に機関銃座を据えた。


残酷だと思うか? だが、あの状況で船を出すためには、物理的に「人の流れ」を制御するしかなかったんだ。 水門を開け閉めするように、我々はリストにある人間だけを通し、それ以外が殺到しようとしたら……「水門」を閉じた。 閉じるために何を使ったかは、言わなくてもわかるだろう。銃声は波音にかき消されたよ。


ゲートでの選別は、極めて事務的に行われた。 「職業は?」「旋盤工です」「通れ」 「職業は?」「銀行員です」「列から出ろ」 「荷物の中身は?」「先祖の位牌です」「捨てろ」 ……と言った具合にね。


泣き叫ぶ声、怒号、祈り。それらは全て、私にとってはノイズでしかなかった。 私の脳内は、喫水線の計算だけで埋め尽くされていたからだ。あと何センチ沈められるか。あと何キロ積めるか。 もし感情を挟めば、計算が狂う。計算が狂えば、船が沈む。それだけだ。


出航時刻が迫っていた。 潮が引き始め、これ以上積載すれば船底が海底を擦るというギリギリのタイミングだった。 私はゲートの最前線に立ち、カウンターを握りしめていた。


その時だ。一人の兵士が私の前に立った。 韓国軍の軍曹だった。泥と血にまみれた軍服を着て、片目には包帯が巻かれていた。 彼は「優先リスト」にある正規兵だ。当然、乗船資格がある。 私は無言で顎をしゃくり、通れと合図した。


だが、彼は動かなかった。 彼の腕の中には、ボロ布に包まれた何かが抱えられていた。 赤ん坊だ。 生後数ヶ月にも満たないだろう。寒さで顔は紫色になり、泣き声すら上げていなかったが、微かに動いていた。


軍曹は私を見て、必死の形相で何かを叫んだ。 言葉は分からなかったが、意味は痛いほど分かった。 「この子を乗せてくれ」 彼は自分の認識票を指差し、次に赤ん坊を指差した。 「俺の席を譲る」という意味ではない。「俺たちはセットだ」という主張でもない。 その目は、もっと切実な取引を持ちかけていた。 『俺は戦う。ニホンに行っても、銃を持って戦う。だから、その報酬として、この命一つを運んでくれ』


私は計算した。 赤ん坊の体重は、衣服を含めてもせいぜい4キログラム。 船の積載量6,000トンに対して、4キログラム。 誤差の範囲だ。船のバランスには1ミリの影響もない。 物理学的には、乗せても何の問題もない。


だが、私の口から出た言葉は違った。


「ダメだ。リストにない」


軍曹は目を見開いた。そして、震える手でポケットから何かを取り出した。 金貨だった。あるいは、家族の指輪だったかもしれない。 彼はそれを私のポケットにねじ込もうとした。 私は彼の手を払いのけ、コルトの銃口を彼の胸に向けた。


「直ちに下がれ」


なぜだと思う? 4キログラムをケチったわけじゃない。 「例外」を作ることが怖かったんだ。 もし、この赤ん坊を通せば、後ろにいる10万人が見る。 「赤ん坊なら通れるのか?」「子供ならいいのか?」「俺の荷物も軽いぞ」 その瞬間にパニックが起き、バリケードが決壊する。 たった一つの「人情」が、システム全体を崩壊させるトリガーになる。 それが、極限状態における群衆制御の鉄則だ。


軍曹は、私の目を見た。 20歳の若造の、冷え切った瞳の奥にある拒絶の意志を読み取ったんだろう。 彼は数秒間、立ち尽くしていた。 そして、ゆっくりと頷いた。


彼は、赤ん坊を抱きしめた。 強く、優しく、壊れ物を扱うように丁寧に。 そして、自分の首に巻いていたマフラーを解くと、それを赤ん坊に何重にも巻き付けた。 自分自身が凍えることなど意に介さず、赤ん坊の頬に自分の頬を押し当て、何か子守唄のようなものを口ずさんだ。


そして彼は、桟橋の脇に、赤ん坊をそっと置いた。 さらに彼は、雑嚢の奥から大事に取っておいたであろう桃の缶詰を取り出した。 米軍のレーションだ。当時の戦場ではダイヤモンドより価値があった。 彼はその缶詰を、赤ん坊の小さな両手に握らせた。 「いい子にしてるんだぞ」とでも言うように、頭を撫でて。


赤ん坊は泣かなかった。もう泣く力もなかったのかもしれない。 軍曹は立ち上がり、私に向かって敬礼した。 涙は流していなかった。ただ、人間としての何かが死んだような、虚無の目をしていた。 彼はタラップを駆け上がり、船の中に消えていった。


残された赤ん坊? ……私は見なかったことにした。 私の仕事は積載だ。「廃棄物」の管理じゃない。 だが、あの時の、雪の上に置かれた小さな包みの重さだけは、今でも覚えている。 たった4キログラムが、6,000トンの船よりも重く感じられた瞬間だった。


30分後、出航の直前だ。 私は確認のために係留柱のそばを通った。 赤ん坊は、美しい彫像のようにカチカチに凍りついていた。 手には、高級な桃の缶詰がしっかりと握られたままだ。


缶切りがなければ開けられない、冷たい鉄の塊。 それを希望だと信じて託した軍曹と、それを抱いたまま凍りついた赤ん坊。 私はその光景を見て、ただ一つだけ思ったよ。


「ああ、もったいないな」と。


赤ん坊の命のことじゃない。 その手にある300キロカロリーの糖分が、誰の胃袋にも収まらずに廃棄されることが、ただただ非効率で、もったいないと感じたんだ。 それが、戦場における私のメンタリティの全てだ。


そして、九州が見えた。 だが、そこは約束の地ではなかった。 ハカタ湾の入り口には、すでに軍政庁とMCが築いた海上バリケードが待ち構えていた。 機雷原と、沈没船で作られた防波堤だ。


我々の船は、沖合での停船を命じられた。 理由は二つ。 一つは検疫。半島から持ち込まれる発疹チフスとコレラを防ぐためだ。 もう一つは……放射能だ。 対馬海峡で炸裂した戦術核の死の灰(※3)が、風に乗って我々の船にも降り注いでいたらしい。


米軍は日本の赤化を防ぐために、対馬海峡を物理的に遮断する作戦に出ていた。 海峡に機雷をばら撒き、さらに戦術核を9発も叩き込んだ。 海峡封鎖だ。 これにより、共産軍の渡海作戦は不可能になった。だが、その代償として、九州北部には「黒い雨」が降り注いだ。 我々の船も、その雨の中を航行してきたわけだ。


デッキに上がってきた人々は、黒い雨に濡れながら、陸地を見て泣いていた。 だが、陸からはボートが一艘も来ない。 代わりにやってきたのは、防護服に身を包んだMCの検疫官たちと、ガイガーカウンターを持った米軍の技術兵だ。 彼らはタラップを登ってくると、開口一番こう言った。 「汚染レベル計測。基準値を超える者は上陸を許可しない」


そこから先は、釜山の桟橋の再現だ。 ただし今度は、リストの代わりに「数値」が人間を選別した。 ガイガーカウンターがガリガリと鳴れば、その人間は隔離エリア行きだ。 親子だろうが、夫婦だろうが関係ない。 汚染物質を国内に入れるわけにはいかない。それが国家防衛の第一歩だからだ。


私はその選別作業を、ただクリップボードを持って記録していた。 甲板の隅で、あの軍曹を見かけたよ。 彼は、釜山で着ていた軍服のまま、ただ呆然と海を見ていた。 彼の手には、まだあの時の赤ん坊を抱いた感触が残っていたのかもしれない。


検疫官が彼に近づき、カウンターを当てた。 針が振り切れた。 釜山で、屋外で長時間並んでいたせいか、あるいは戦場で被曝していたのか。 彼は「汚染物質」と認定された。


軍曹は抵抗しなかった。 彼は私の方を見た。目が合った。 彼はニヤリと笑ったよ。


「あんたの計算、間違ってたな」


そう言いたげな顔だった。 彼は、自分が捨てた赤ん坊と同じ運命を辿ることを、どこかで納得しているようだった。 彼自身がシステムによって廃棄される側に回った瞬間だ。


彼は隔離エリアへと続くタグボートに乗せられていった。 その背中は、釜山で見た時よりも一回り小さく見えた。 彼が守りたかったのは命だったが、彼自身が守ったのはシステムの整合性だった。 そして最後には、そのシステムによって彼自身が排除されたわけだ。タグボートの上で見えなくなるまで私に敬礼をしていたよ。


上陸が許されたのは、2万人のうち1万4千人。 彼らが、今のニホンの官僚機構や、クレーの重工業を支える技術者たちの親や祖父母だ。 残りの6千人は? ……沖合に隔離船として係留され、そのまま歴史の闇に消えた。 あるいは、後のフォートラインの埋め立て地の人柱になったという噂もあるがね。


その後、北側は物理的な侵攻を諦め、難民爆弾戦術に切り替えた。 疫病——発疹チフス、コレラ、天然痘——を保菌した難民を小舟に乗せ、海流に乗せて日本側へ大量に漂着させる。 何百万人もの「生きた病原体」が、九州や山陰の美しい海岸線に、黒い海藻のように打ち上げられた。


軍政庁とMCが下した決断は、収容ではなかった。 水際での焼却だ。


我々は海岸線に有刺鉄線を張り巡らせ、火炎放射器とブルドーザーを配備した。 銃剣? ……いや、そんな個人的な武器は使わなかったよ。 近づけば感染するからな。それに、銃剣で突く感触は、兵士の精神をあまりに早く摩耗させる。


だから我々は、彼らを汚染物質として処理した。 波打ち際に漂着した小舟に、火炎放射器で火を放つ。 燃え盛る船から、火だるまになった人間が這い出してくる。 それを、待機していたブルドーザーが、砂ごと海へ押し戻すんだ。


叫び声? もちろん聞こえたさ。 だが、一番記憶に残っているのは音じゃない。匂いだ。 潮風と、ガソリンと、そしてタンパク質が焦げる甘ったるい匂い。 あの年、九州北部の海岸では、どこに行っても焼き肉のような匂いがした。 住民たちは窓を閉め切り、誰も魚を食べようとはしなかったよ。


そうしなければ、日本全体が疫病で全滅していた。 それは事実だ。疫学的な正解だ。 だが、あの光景は戦争じゃなかった。ただの廃棄物処理だ。 人間が人間を、病原菌が付着した可燃ゴミとして処理する。 そのためのマニュアルを書き、必要なガソリンの量を計算し、ブルドーザーの稼働率を管理していたのが、若き日の私だ。


これが「ニホン」の誕生だ。 感動的な独立宣言も、高らかな国歌斉唱もない。 あったのは、腐敗臭のする船倉と、ガイガーカウンターのノイズ、そして海岸線に打ち上げられた無数の死体だけだ。


タカミネはそこまで話すと、ストローでパウチ入りの栄養ペーストを吸った。 「味がしない」と彼は言った。


「私が今でも、こういう味気ないものを好む理由がわかるか? あれには『感情』がないからだ。 味がせず、必要な栄養だけが含まれている。 あの日、あの船倉で私が学んだ唯一の真理だよ。 『生き残るためには、余計な味付け(人間性)はいらない』とな」


彼はニヤリと笑った。入れ歯の隙間から、乾いた音が漏れた。


「今のニホンを見てみろ。NEXIS、PPH、CS²……すべてがあの桟橋の延長だ。 人間を数字として扱い、効率的に配置し、不要な部分は切り捨てる。 我々はあの時、釜山の桟橋で『人間性』という荷物を降ろして、代わりに『生存』という積荷を選んだんだ。 だから君たち若者は、美味しいハオシャオを食べられるし、こうして私の昔話を聞く余裕もある」


……そろそろ夕食の時間だ。 今日のメニューは完全栄養ペーストだといいんだがね。


タカミネは電動車椅子を回転させ、食卓の方へと向かった。 その背中は、かつて国家という巨大な機械を、その手で回し続けた男のそれらしく、小さくとも頑丈に見えた。 窓の外では、サカミナト・アークのクレーンが、今日も無言でコンテナを積み上げている。 その中身が何であるかなど、誰も気にしていないかのように。



(※1) 清川江(チョンチョンガン) 1950年末、朝鮮半島北部での戦い。国連軍と中国人民志願軍(PVA)が衝突し、国連軍が敗走した。撤退援護のためにキョートに続く史上5発目の核使用(戦術核3発)が行われたとされる。


(※2) リバティ船 第二次世界大戦中に米国が大量建造した規格型輸送船。戦後、余剰となった船がニホンや台湾への難民・物資輸送に転用され、「ニホンの血管」と呼ばれたが、その居住性は劣悪を極めた。


(※3) 対馬海峡の戦術核 1952年初頭、国連軍側が海上封鎖ライン防衛のために使用したとされる計9発の戦術核兵器。公式には「機雷の誤爆」と記録されているが、当時の周辺海域での放射線量上昇は公然の秘密となっており、九州北部には「黒い雨」が降った。


(※4) 難民爆弾 戦争後期、北側陣営が採用した非対称戦術。疫病(発疹チフス・コレラ)を保菌した難民や捕虜を意図的に日本側へ漂着させ、後方社会の崩壊を狙った。これに対処するため、MC(旧軍警)は防疫線の維持と、感染者の物理的排除を余儀なくされた。


プロフィール ナガセ・メイ (Mei Nagase) 台湾・高雄出身。国立成功大学社会科学部卒。日台言語・文化財保存協定(KIOKU)のアーカイブ調査員を経て、『Common Tide』編集デスク兼ライターに。ニッケイ3世の視点から、港湾都市の「隙間」にある生活と食文化を記録する。オールド・ヒロ在住。週3で屋台に通うハオシャオ愛好家。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る