ソースと港の国〜もう一つのニホンが歩んだ戦後の世界〜
@robi_eva
Ep.1 —ニッケイ台湾人記者の、ニホンという国の歩きかた
文・ナガセ・メイ (Common Tide)
はじめに、とるに足らない言い訳から始めさせてください。
いま、この原稿を書いている私の机の端には、さっきまで食べていたハオシャオ(Haoshao)の皿が置きっぱなしになっています。 ソースの乾いた茶色い筋と、最後にヘラでこそげ取ったキャベツの破片だけがへばりついた残骸です。洗うタイミングを完全に見失ったそれが、たぶん今の私の原稿の速度を決めています。
窓を開けると、オータ川の湿ったドブ川のような匂いと、どこかの屋台で大量に焼かれているソースの焦げる匂い、そしてダンチ(※1)のベランダから漂う安っぽい洗濯洗剤の匂いが、いっしょくたになって部屋になだれ込んでくる。 だいたい私は、いつもこの三つが混ざった空気の中で文字を書いています。
ここはクレー特別行政区。 かつて広島と呼ばれていたデルタ地帯の中で、再開発から取り残された、あるいは意図的に見捨てられたオールド・ヒロという街です。 川まで歩いて三分。築四十年の、軋む木造アパートがいまの私の巣になっています。
これから始めるこの連載『ソースと港の国』は、この国「ニホン」の話であり、そこで暮らす人々の話であり、そして時々、ハオシャオの話です。 普段は『Common Tide』というメディアで記事を書いている私ですが、ここではひとりのニッケイ台湾人として、私のまなざしからの記事を主にインタビューなどを含めて書いていきたいと思います。
先に断っておくと、私はかなり重度のハオシャオびいきなので、今後もけっこうな頻度で鉄板とソースの話が出てきます。どうか、それもこの街を構成する不可欠な成分だと思って諦めてください。
まずは、書き手である私自身について少し自己紹介を。 ナガセ・メイと名乗ると、だいたい三段階の反応が返ってきます。
最初は「ああ、ニッケイなんだ」という、仲間を見つけたような安心した顔。 次に、私の訛りを聞いて、「あれ、こいつどこ育ちだ?」と怪訝に眉を寄せる顔。 そして最後に、「高雄(カオション)生まれのニッケイ台湾人です」と明かすと、「じゃあ、どっち側の人なんだ?」と、分類に困った顔。
みんな、人間をどこかの「箱」に入れたがるんですよね。 ニホニーズ(※2)なのか、外国人なのか。 内側なのか、外側なのか。 NEXIS(※3)のデータベースなら、私は「区分C:準永住・国外出自」というコードで処理されて終わりです。でも、現実の生活はそんなデジタルな0か1かじゃ割り切れません。
私の言語環境は、ちょっとしたモザイク画のようなものです。 家の中では日本語。路地と市場では台湾語(台湾の公用語)。 こんなふうに言葉を切り替えながら育ってきたので、「母語は何ですか」と聞かれると、いまだに少し悩みます。
最近はとりあえず、こう答えることにしています。 「家の言葉は日本語、近社会の言葉は華語、仕事のインフラが英語とチャンポン語(※4)」
言っているそばからややこしくなるのですが、たぶん私の頭の中も似たような状態なので、仕方がないということにしています。
故郷の高雄では、私はごく普通の「ニッケイ」でした。 1947年終戦時、本土へに帰ることができず島に残った人たちの子孫。 私の住んでいたアパートは港の近くにあって、夕方になると祖母が日本語で古いラジオ歌謡を口ずさみ、父が台湾語でテレビのニュースにツッコミを入れる。それが私の日常でした。
高校時代は夜市の屋台を手伝ったり、旗津近くのカフェで船員たちのコーヒーを運んだりしていました。 そこで時々耳にするニホンの話。 祖父が酔って語る「美しい広島」の思い出と、ニュースで流れる「暴動と移民だらけのごちゃ混ぜの国」の映像。 そのギャップが、私をこの街へと引き寄せた最初の引力だったのかもしれません。
私がライターをしている『Common Tide(コモン・タイド)』というメディアについても触れておこうと思います。 私たちは、どこの国で誰がどんな場所に住んで、どこで働いて、どこでハオシャオを食べているのかを、旅しながらのぞきに行くオンライン雑誌を作っています。
名前は、編集会議という名の雑談の中で決まりました。 「港町って、偉い人も夜勤明けの港湾労働者も、同じ潮の満ち引きの上で暮らしてるよね」 そんな話になって、「じゃあ私たちは、その“同じ潮(Tide)”の下で生きているふつうの人たち(Common)のほうを見に行く雑誌でいよう」と。 もっと正直に言うと、「短くて覚えやすくて、波と港の匂いがする名前がよかった」。その条件を、かろうじて全部クリアしたのがこの名前でした。
いわゆる絶景ポスターのような観光地ではなく、フェリー乗り場の待合室、ダンチの踊り場、夜勤明けのコンビニ、ハオシャオ屋台の鉄板まわり。 そういう場所を大切にして、そこにいる人たちの暮らしを紹介するのが私たちの仕事です。
編集部はだいたいクレー育ちのニホニーズで占められていて、外国人枠は今のところ私だけです。 オフィスをぐるっと一周すると、誰かの席の窓の外にはダンチの窓がみっしり並び、別の席の隙間からはフェリーの汽笛が聞こえ、どこかの机の端っこには必ずハオシャオのランチボックスが置きっぱなしになっています。
その中での私の役割は、だいたい四つ。
ニッケイ台湾人として、移民・街・食・言葉・家族史の境目を歩き回るライター。
家の中の日本語で育った世代として、「日本語が家のことばだった人たち」の話を、台湾語と英語に訳して、また日本語に戻してくる係。
高雄とクレーを行き来しながら、「タイワンから見たニホン」と「ニホンからは見えにくいタイワン」を編集部に持ち込む係。
そして、打ち合わせのたびに「またハオシャオか」と言われる、半分ネタで半分本気のハオシャオ外交担当。
内部チャットでは「ハオシャオ目線でしか街を評価しない担当」とからかわれます。実際、ロケハンでもまずその街で一番「らしい」ハオシャオ屋を探してしまうところがあります。
私は、取材対象の言葉を勝手にきれいにまとめてしまうのがあまり好きではありません。 録音に残っている言い淀みや沈黙を、もう一度拾い直すほうを選びます。 「かわいそうな移民」ラベルも、「頑張る若者」ラベルも、正直そんなに得意ではない。 そのかわりに惹かれるのは、ハオシャオを焼きながら、大家への家賃の愚痴と、子どもの成績と、宗教行事の日程を同時にしゃべっている人のほうです。 そういう会話の中にある、白でも黒でもない部分を、そのまま書いておきたい。
鉄板の前は、人の本音がいちばんこぼれやすい場所だと思うからです。
初めてクレーを訪れたときのこと、今でも覚えています。 大学時代、「KIOKUプログラム」という旧日本語アーカイブの仕事で派遣されたのがきっかけでした。
おじいちゃんは旧広島の出身で、木造の家と路面電車と、近所づきあいがやたら濃い商店街の話をよくしていました。私の頭の中の「日本」は、だいたいそのへんのセピア色のイメージでできていました。 そこに、ニュースで流れてくる「暴動の多い多民族国家ニホン」の映像が重なる。デモ隊、逃げる人波、焼け落ちたダンチの一部。 クレーに向かう飛行機の中では、「まあ、おじいちゃんの故郷がちょっとハードモードになったくらいかな」と、かなり甘い見積もりをしていました。
実物のクレーは、そのどれとも違いました。
空港から市街地に入ると、高架が何層にも重なり、人工地盤の隙間からドブ川が覗きます。ハオシャオのソースとディーゼルと潮の匂いが、足元から同時に立ち上ってくる。 看板の文字は英語とチャンポン語ばかりで、祖母が話していた日本語は、テンプルの片隅や、ひび割れた石碑の上にだけ、かろうじて残っている化石のような言語でした。
「懐かしさを感じる街」でも、「祖父母のふるさと」でもなくて、ニュースで見ていた「暴動と移民だらけのごちゃ混ぜの国」の、いちばん濃い部分をそのまま固めたような街。 それが、最初に私がクレーに対して抱いた印象でした。
その日、人生で初めて本場のクレー式ハオシャオを食べて、「これはいけないやつだ」と思いました。 六合夜市の油っぽさと、日本の粉もの文化と、ニホンの戦後史と、その場で焼いてくれたおばちゃんの愚痴と人生相談が、全部一枚の鉄板の上でごちゃっと混ざったような食べ物。 一口食べた瞬間、私はこの街に捕まってしまったんです。
決定打になったのは、ある夜、オールド・ヒロのハオシャオ屋で、祖父の世代に近いニホニーズの老人に言われた一言でした。
「おまえの日本語は懐かしいねえ。でも、うちの孫はもう、この字読めないんだよ」
焼き上がったばかりのハオシャオから湯気が立って、鉄板の端でソースが小さく焦げました。 川のほうから湿った風が入ってきて、洗剤の匂いが一瞬だけ強くなる。 その一言が、変にその匂いの中に残りました。
それ以来、私はここで書いています。 オールド・ヒロで暮らしている人たちの話。 NDF(ニホン国防軍)の兵士や帰還兵が、鉄板の前やバーの隅でこぼす本音。 川べりのテンプルと市場のあいだで揺れている家族の話。 そして、「台湾人でもありニッケイでもあり、いまはオールド・ヒロの住人でもある」私自身の話。
最後に、私の平凡な日常のタイムテーブルを晒しておきましょうか。 取材がない日はだいたいこんな感じです。
朝: 川沿いを散歩しながら屋台コーヒーを買う。帰って華語ニュースとニホン国内の英語ニュースをざっとチェック。
午前: 前日の取材ノートや録音を整理して、日本語か台湾語でメモを書く。
昼: 市場で便當か麺を買い、洗濯屋の前のベンチで食べながら人の流れを眺める。
午後: 原稿を書く。どこかのハオシャオ屋からいい匂いが漂ってくると、集中力が目に見えて落ちる。
夜: ハオシャオ屋か小さなバーで一杯だけ飲み、タイワンの家族と短くビデオ通話をして、古いドラマかドキュメンタリーを見ながら寝落ちする。
「集中力が落ちる」と書きましたが、実際には原稿の進捗と空腹とハオシャオ欲の三者会談が始まります。 締切が近いときは、「この段落を書き終えたら一枚だけ」「今日は取材でだいぶ歩いたから麺ダブルでOK」などと、自分との交渉ごとになります。だいたい、甘い方の私が勝ちますけどね。
食べ物に関しては、高雄でもクレーでも「夜中に食べる油っぽいもの」に弱いです。 クレー式ハオシャオは、キャベツ多め・麺固め・卵ダブル派。ソースは甘すぎないやつ。マヨネーズは気分次第。
ニッケイらしく味噌汁と漬物にはうるさくて、タイワンから味噌と梅干しを送ってもらっています。朝に米を食べないと、「今日はまだ始まっていない感じがする」と本気で思っているタイプです。
私の部屋からは、オータ川が見えます。 川の向こうには、最新鋭のサカミナト・アークの光が見える。あそこは「未来」の匂いがする場所です。 でも、私が好きなのはこっち側。 ソースと洗剤と、古い木材の匂いがするオールド・ヒロ側です。
この連載では、Common Tide本誌より少し力を抜いたテンポで、次のものをゆっくり並べていけたらと思っています。
オールド・ヒロで暮らしている人たちの話。
NDFの兵士や帰還兵が、鉄板の前やバーの隅でこぼす本音。
川べりのテンプルと市場のあいだで揺れている家族の話。
そして、私自身の話。
たぶん、どの話にも少しずつハオシャオが顔を出します。 鉄板の前は、人の本音がいちばんこぼれやすい場所なので。
世界中の在外ニッケイの家にも、それぞれ違うバージョンの「家の言葉」「近所の言葉」「社会の言葉」があって、きっとそれぞれ違う形のハオシャオや味噌汁や、全然別の料理が、同じような役割を果たしているのだろうと思います。
この連載が、そんなあちこちの台所や夜道と、少しでもゆるくつながっていけばいいなと思いながら、まずはここまでを自己紹介の代わりにしておきます。
そろそろ食べないと。 冷めたハオシャオは、この街の悲しみそのものみたいな味がしますからね。 熱いうちに、ソースの味が濃いうちに飲み込む。 それが、ここで生きていくための唯一の作法なんですよ。
(※1) ダンチ(DANCH) 正式名称は「District-based Adaptive Neighborhood Complex for Habitation(地区基盤型・適応近隣居住複合体)」。単なる集合住宅ではなく、学校・診療所・商店街・治安維持機能(交番)を内包した自律的な生活ユニット。初期のものは1960年代に建設され、現在は老朽化が進んでいるが、依然として市民生活の基盤となっている。
(※2) ニホニーズ(Nihonese) 特定のエスニシティを指す語ではなく、ニホン共和国の市民権(NRN)を持つ全ての者を指す包括的な呼称。血統主義ではなく、国家への帰属意識と法的地位に基づく定義。
(※3) NEXIS(国家拡張・統合戦略体系) Nihon EXpansion & Integration System。ニホンの国家運営を支える基幹システム(国家OS)。人口動態、物流、治安、雇用データを一元管理し、リソースの最適配分を行う。72時間以内にあらゆる障害から復旧することを前提に設計されている。
(※4) チャンポン語(Champong) ニホン国内で広く話されるクレオール言語。英語の文法構造をベースに、日本語、中国語、朝鮮語、マレー語、南洋などの語彙が混在する。公用語の一つとして認められている。
プロフィール ナガセ・メイ (Mei Nagase) 台湾・高雄出身。国立成功大学社会科学部卒。日台言語・文化財保存協定(KIOKU)のアーカイブ調査員を経て、『Common Tide』編集デスク兼ライターに。ニッケイ3世の視点から、港湾都市の「隙間」にある生活と食文化を記録する。オールド・ヒロ在住。週3で屋台に通うハオシャオ愛好家。
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